古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「難波津」について

2020年04月30日 | 古代史
 『延喜式』の中に「諸国運漕雑物功賃」つまり「諸国」より物資を運ぶ際の料金を設定した記事があります。それを見ると「山陽道」「南海道」の諸国は「海路」による「与等津」までの運賃が記載されており、これらの国は「与等津」へ運ぶように決められていたと思われます。
いくつか例を挙げてみます。

山陽道
播磨国陸路。駄別稲十五束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別稲一束。挾杪十八束。水手十二束。自与等津運京車賃。石別米五升。但挾杪一人。水手二人漕米
長門国陸路。六十三束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別一束五把。挾杪卌束。水手三十束。自余准播磨国。

南海道
紀伊国陸路。駄別稲十二束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別一束。挾杪十二束。水手十束。自余准播磨国。
土佐国陸路。百五束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別二束。挾杪五十束。水手三十束。但挾杪。水手各漕米八斛。自余准播磨国。

 この「与等津」については詳細不明ながら現在の「淀川」の河口付近にあった「津」と思われ、そこからやはり「水運」で「京」まで運んでいたようです。
ところで「大宰府」については「与等津」ではなく「難波津」に運ぶこととなっていたようです。

大宰府海路。自愽多津漕『難波津』船賃。石別五束。挾杪六十束。水手卌束。自余准播磨国。…

 「南海道」の諸国の中には「与等津」へ運ぶより「難波津」の方が近い国もあったはずであり、また逆に「博多」からであれば「与等津」の方が近いような気もしますが、当時は現実として「大宰府」は「難波津」へ運ぶとされていたのです。
 ところで「難波津」は歴史的に見て非常に重要な港であったと思われます。そもそも「難波」には迎賓館ともいうべき「難波館」が置かれたとされますし、その後「新羅」「唐」などの使者も皆「難波津」に入っています。(以下の例など)

(六三二年)四年秋八月。大唐遣高表仁送三田耜。共泊干對馬。是時學問僧靈雲。僧旻。及勝鳥養。新羅送使等從之。
冬十月辛亥朔甲寅。唐國使人高表仁等到干『難波津』。則遣大伴連馬養迎於江口。船卅二艘及鼓吹旗幟皆具整餝。

(六四二年)元年
二月丁亥朔…
壬辰。高麗使人泊『難波津』。

(五月)乙卯朔己未。於河内國依網屯倉前。召翹岐等。令觀射獵。
庚午。百濟國調使船與吉士船。倶泊于『難波津』。盖吉士前奉使於百濟乎。

 また以下では「新羅」に対する威嚇の方法として以下のように「難波津」から「筑紫の海の裏」まで船を並べるとされ、それを新羅人が目にすることを前提としていますから、「筑紫の海の裏」から「難波津」までが「新羅」からの使者の航行ルートであったことが推定できます。

(六五一年)白雉二年…
是歳。新羅貢調使知万沙餐等。著唐國服泊于筑紫。朝庭惡恣移俗。訶嘖追還。于時巨勢大臣奏請之曰。方今不伐新羅。於後必當有悔。其伐之状不須擧力。自『難波津』至于筑紫海裏。相接浮盈艫舳。召新羅問其罪者。可易得焉。
 また「遣唐使」の出発基地としての機能も「難波津」にあったと見られます。

(六五九年)五年
秋七月丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自『難波三津之浦』。

 このように「難波」「難波津」は外交の拠点ともいうべき場所であったものと思われ、「外交」が「諸国」つまり「附庸国」ではなく「本国」つまり「宗主国」の専権事項であったことを含んで考えると、上の記事の時代に「難波」に拠点を持っていた「王権」は「倭国王」そのものであったと考えられ、「難波」が「倭王権」の本拠地(直轄地)であったことが知られます。 
 また「西国」に対してもいわば「窓口」としての機能が「難波」にあったものと思われ、「近畿」から見て「西国」が唐や半島の諸国に準ずる立場にいたことが知られます。それを示すのが「壬申の乱」の際の以下の記述です。
 ここでは「倭地」を制圧した後「難波」にやってきた大伴将軍が「(難波)以西の国司」達から「官鑰騨鈴傳印」つまり「税倉」等の鍵や「官道」使用に必要な「鈴」や「印」などを押収しています。

「辛亥。將軍吹負既定倭地。便越大坂往難波。以餘別將軍等各自三道。進至于山前屯河南。即將軍吹負留難波小郡。而仰以西諸國司等。令進官鑰騨鈴傳印。」(天武紀)壬申(六七二年)の条

 ここで彼ら「西国」の国司達が「難波小郡」におり、その彼らが「官鑰騨鈴傳印」を持っていたということは、彼らが何らかの理由で「難波以西」の地から派遣されてきていたものか、あるいは「難波小郡」から西国へ派遣されていたものが帰国した時点のことであったという可能性もあります。
 「難波」には「小郡」と呼ばれる施設があったことが『書紀』に書かれており、またそこに「律令」で規定される「官道」使用に関する統制機構の存在やそこで発揮される権能の所在が看取でき、「難波」の西方の諸国の「税」に関するものや「屯倉」に保管されている物品の所有についてもこの「難波小郡」を設置した権力者に帰するものと判断されますが、それはこれが「倭王権」の直轄地であったとすると整合的です。
 つまり、上の記事からは「難波以西」の諸国にとって「租」や「調」など国家に納入すべきものの集約場所として「難波小郡」があったことが推定出来るわけであり、そして彼等が「上京」する際に必要だったものが「税倉」(屯倉)の「鍵」(鑰)であり、「官道」使用に必要な「騨鈴」であったというわけです。
 またこの時は「天智」が亡くなり、「山陵」の造営中とされていますから、彼らがこの「難波」にいた理由として「天智」の葬儀への出席と「新倭国王」への祝意を表する「表敬訪問」を兼ねたものとも考えられます。その場合「鍵」等を所有していたのはこれを新王権に献上することで忠誠と服従を誓う儀式様なものがあったことが推定出来ますが、このときの彼等は当然「難波津」まで「海路」により来たものと理解するべきでしょう。
 また「無文銀銭」も「難波」から大量に出土しておりここに「鋳銭司」あるいはその上部組織である「大蔵省」があったことが推定され、そのこともここに「王権」の中央組織があったことが推定できます。
 関連するものとして「筑紫傀儡(くぐつ)」が現代に伝えた「筑紫舞」というものがあります。この舞の主要なレパートリーに「各地の翁」が「都」に集まり舞う、という趣向の「翁舞」があります。舞う翁の数で何種類かありますが、頻度が多いのは「五人」から「七人」であり、「七人立」の場合「七人の翁」とは「肥後の翁」「加賀の翁」「都の翁」「難波津より上りし翁」「尾張の翁」「出雲の翁」「夷の翁」とされています。
 この舞はかなり淵源として古いことが推定でき「倭王権」により征服、統合された地域を表すと思われますが、その中に「難波津より上りし」という表現がされている地域があります。
 上に見たように「難波津」は「外国」等「西方に存在する」重要な地域との交渉時出発あるいは到着するという目的で使用されていた「港」であったと思われ、この「舞」における場所(地域)として考えられるのは「近畿王権」であったものと推定できます。(該当するのは「河内」か「明日香」だと思われます。)
 また「難波」には古代官道が存在していたと思われますが、それを示唆する記事が以下のものです。

「(推古)廿一年(六一三年)冬十一月。作掖上池。畝傍池。和珥池。又自難波至京置大道。」

 この「自難波至京「に置かれたという「大道」を「通例」では「難波津から竹内街道を経て横大路につながる東西幹線道路のこと」と理解されているようです。その場合「京」とは「明日香」の地を指して言うとする訳ですが、この「推古」の時代には「飛鳥」はまだ「京」(都)ではありません。「推古」の都は「小墾田宮」ですが、それは「飛鳥」の地名をかぶせられずに呼称されています。つまり「飛鳥」はこの時点では「京」でないわけですが、また「小墾田宮」のある地は「京」とされていたという訳でもないと思われます。そこには「条坊制」が施行されていませんし、何より「天子」がいません。
 そもそも「推古」は「天子」を自称したという記録はありませんし、それに見合う強い権力を行使した形跡もありません。
 「京」(京師)は「天子」の存在と不可分ですから、「天子」がいない状態では「京」は存在していないとするよりありません。このことからこの「京」については「小墾田宮」を指すとは考えられず、「本来」は(位置関係から見て)「難波京」を指すものと考えるべきでしょう。つまり「文章中」の「難波」とは「難波津」を意味するものであり「京」とは(いわゆる)「前期難波京」を指すと考えられます。
 これらはいずれも「難波」と「難波津」が当時「王権」にとって最重要地域であったことを示すと同時に、新日本王権に取って代わった後でも同様に重要な地域として残ったものであり、「倭王権」時代の慣例がそのまま残り「王権」として重要な地域である「筑紫」からの受け入れ先として「難波津」が設定されていたのではないかと推察されます。
 その後十世紀に書かれたと考えられている「竹取の翁の物語」の中で、「かぐや姫」に求婚した際に条件として「優曇華の花」を取りに行ってくるように言われた「車持皇子」は「筑紫」に行くと称して「難波」から出港していますが、これも「筑紫」と行き来するための港が「難波」と決まっていたことを推察させるものであり、それは古代から伝統となっていたものではなかったでしょうか。
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石田泉城氏の論に対する反論

2020年04月25日 | 古代史
 少々前になりますが石田泉城氏のブログ(https://ameblo.jp/furutashigaku-tokai/entry-12579995137.html )で「投馬国」の位置について私が書いた論(これは「水行」したからそこが「島」であるという氏の論に対する反論)(https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/5150f760a16329178983ad792739ed94 )に対する再反論が書かれていました。
 詳しくは氏のブログをご覧いただくことして、韓半島の移動ルートについては以前ブログに以下のような文章を書いています。

「…ここで半島全体を水行していないのは、「済州島」近辺の海域については小島が多く海流が複雑でありまた水深が浅い場所があるなど座礁の危険などのリスクを伴うからと思われます。このため途中から陸路により「半島南岸」まで移動すると言うこととなったものではないでしょうか。
 また逆に半島内全部を陸行しないのは「韓国」が混乱の後やっと制圧されたのが「張政」来倭の直前であり、その時点であれば「全陸行」も可能かも知れませんが、それ以前の「正始元年」付近に倭国を訪れた「魏使」はまだ「不穏」な情勢があり、完全には「帯方郡」の治世下に入っていなかった「半島内」は部分的にしか陸行できなかったのではないでしょうか。その際はまだしも「帯方郡」の統治力が強い地域を限定して通過したものであり、その意味で「洛東江周辺」地域は安全地帯であったと思われます。それに対し「帯方」「楽浪」二郡と主に戦火を交えたのが郡治のすぐ南にあったと思われる「馬韓」であり、「魏使」はこの地を迂回して進んだとすると部分的に「水行」している理由として理解しやすいものです。
 また「陸行」は道路整備が進んでいない段階では正しい方向に進んでいるのかがかなり判りにくいことと、山賊や野犬(半島であればまだ虎もいたはずです)などの動物の脅威などもあり、長距離移動はかなり危険を伴ったと思われ、しかもその割りに「馬」でも使用しなければ非常に日数を要するものであったらしいことも不利な条件です。そう考えると長距離移動は「水行」(ただし「沿岸航法」による)が基本であったと思われます。…」

 上に書いたことは現時点でも変わらず有効と思います。
 道路を整備するというのは、その地域全体を完全に統治下に置くことが可能な政治力があればこそであり、この時点では「魏」の権力が半島全体を覆っていたとは言えないことからも道路整備が不十分であったことは想像しやすく、その意味でそもそも「全陸行」できる条件はなかったと言っていいでしょう。

 また氏は「魏使」が倭国に到着後「伊都国」まで「水行」していない理由を挙げるよう要求していますが、これはそれほど難しいものではないと思います。(というよりこれを要求するのであれば「半島」において一部「水行」している理由についても氏は述べなければなりません。氏の論にはそれが書かれていません。)それは『倭人伝』にあるように「末盧国」が外交の窓口であったからであり、そこで外交文書などの検閲等行い、その後「一大率」の治するという「伊都国」まで「陸上を引率する」という目的あるいは考え方が倭王権にあったからではないかと推察します。
 そもそも「末盧国」に外交港を設定しているのは「倭王権」の中心領域近くの港への進入を抑制する意図があったと見られ、「末盧国」へ入港後は「陸上」を移動させることで「安全」を確保する目的ではなかったでしょうか。つまり「魏使」(彼らだけが対象ではないでしょうが)の「行動の自由」を奪うという「一大率」の基本的な目的があったと思われ、彼等を自らの管理下に置くために「倭王権」側に案内される以外に進む方法がないという状態に置かれることとなったものと推量します。これらは多分に軍事的な側面からの移動法の選択であり、その目的のためには「行くに前を見ず」というルートも積極的に選んだものと思われるのです。
 つまり「投馬国」への行程が「水行」なのは、そこ(「投馬国」)が「島」だからではなく、上に行った推論から、単に「遠距離」であったからと見るのが相当でしょう。(「島」であれば「水行」は当然ですが逆に「水行」だから「島」とは限らないということであり、逆必ずしも真ならずということです。)
 後の『筑後国正税帳』(天平十年)によれば得度僧の「多褹」(種子島)への帰途の食料として「二十五日分」を支給しており、これはその経路が「水行」であったことを示しています。この時点では「陸上」の移動もかなり安全と思われ、そうであれば隣の国府(肥後)までの食料を支給してしかるべきですが、実際には「多褹」までの全食料を一括で支給しているとみられ、この時点においても「陸路」よりも「水行」を選んでいます。
 「陸路」でも「薩摩」まで行くことは可能なわけであり、そこから「船」に乗るという方法もあったと思われますが、そうしなかったのはこの「水行」というルート(移動方法)が、そこが「島」だからという理由で選ばれたというより、「遠距離移動」は「水行がメイン」という考え方があったからと考えるべきであり、それは古代においても普遍的な考え方ではなかったかと推察されます。
 ちなみに支給された食料が「二十五日分」というのも示唆的であり、「多褹」までと「薩摩」までの実距離が近似していることを考えると、倭人伝の「水行二十日」の対象である「投馬国」が「薩摩」であったとすると無理なく理解できると思われます。
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「筑紫大宰」としての「天智」

2020年04月19日 | 古代史
ところでこの時点での「唐使」との対応は「津守連吉祥」と「伊岐史博徳」が主に担当しているようですが、この時点での「筑紫大宰」は『書紀』では不明です。
たとえば『続日本紀』の記事からは「阿部比羅夫」が「斉明」の時代に「筑紫大宰帥」であったという記事があります。

(養老)四年(七二〇年)春正月甲寅朔…
庚辰。始置授刀舍人寮醫師一人。大納言正三位阿倍朝臣宿奈麻呂薨。後岡本朝筑紫大宰帥大錦上比羅夫之子也。

 このように「後岡本朝」つまり「斉明」の時に「筑紫大宰帥」であったとされています。しかし 彼は斉明四年段階では「越国守」とされていますし、翌年も「粛慎」との戦闘に出陣しています。ただし「斉明末年」は「筑紫」の「朝倉」に移動しており、この時「筑紫大宰」であったという可能性はありますが、「天智称制」期間には「百済を救う役」に出征しています。このままでは「筑紫大宰」が不在となってしまいます。その後については「栗前王」(これは「栗隈王」と同一人物というのが定評)及び「蘇我赤兄」が「筑紫大宰」であったことが判明していますが、その以前が『書紀』の上では不明となっています。そのように考えてくると「阿倍比羅夫』の出征後に『筑紫大宰』の地位にいたのは「天智」自身ではなかったでしょうか。
 彼が「筑紫大宰」として後事を託され、その後国内に発生した軍事的空白を利用し「日本国天皇」の地位に即いたとすると『善隣国宝記』に「称筑紫太宰辞、実是勅旨」という文章があることも理解できることとなります。
 『善隣国宝記』によれば「天智」「天武」に対して「唐皇帝」の使者として「郭務悰等」が「国書」を持参したとされています。

『善隣国宝記』
鳥羽ノ院ノ元永元年
…、天智天皇ノ十年、唐ノ客郭務悰等来聘、書曰、大唐ノ帝敬問日本國ノ天皇、云云、天武天皇ノ元年郭務悰等来、安置大津館、客上書ノ函、題曰、大唐皇帝敬問倭王書、…
(ただし訓読のための「返り点」などは(記載があったものの)省略しています)

 上に見るように「天智十年」の国書と「天武元年」の国書の二つが存在しています。「天智十年」の方には「日本国天皇」とあるのに対して「天武元年」には「倭王」とあります。
 また『書紀』では「天智十年」に「郭務悰」が「国書」を提出したとは書かれていません。但し『書紀』の記事配列を見ると「郭務悰」が「対馬」に到着したという記事以降に何らかの記事の脱落があるように思います。少なくとも「対馬国司」からの報告の後彼らを「筑紫」に送った記事が見あたりません。
 この『善隣国宝記』の記事は「宋」の皇帝からの書が旧例に適っているか調べよという「鳥羽院」からの指示に対し「式部大輔」の役職にあった「菅原在良」が答えたものですが、彼がこの時の国書の文面について述べているからには確かに国書がもたらされ、それは「天智」が受け取ったことを示しますから、そのような重要な記事が『書紀』にないということは、「脱落」あるいは「隠蔽」が行われたことを示します。
 この「天智十年」の「国書」が「天智」に渡っていたとするとそれは当然「筑紫」においてであることとなります。「天武元年」の際には「郭務悰等」は「大津の館」に「安置」とされていますから、それ以前に彼らがここから「近江」まで移動していたという可能性はほぼないものと思われます。やはり「郭務悰等」の来倭には「天智」自身が「筑紫」に出向く必要があったと考えられることとなります。
 「白村江の戦い」を含む「百済を救う役」における敗北という状況は「唐使」に対する応対も丁寧を極める必要があったはずであり、さらに「筑紫君薩夜麻」の帰還という重要事項があったなら「筑紫」で儀典が行われたはずですから「天智」自身が直接彼らと応対をする必要があったでしょう。そうであれば「天智」は「筑紫」において「国書」を受け取ったはずであり、その翌年のことと思われる「天武元年」の国書も「筑紫」において提出されて当然といえます。
 この時の「天智」への国書と「天武」への国書持参は同時期の訪問であり、このことは双方への国書は当初から用意していたことを示唆させるものです。
 「天智」が国書を受け取った子細が記事として書かれていないこと(「脱落」ないし「隠蔽」されるに至った理由等)については不明ではあるものの、推測を逞しくすると、暗に「退位」をするようほのめかす(あるいは恫喝する)文面ではなかったかと思われるわけです。
 「唐」は「百済」や「高句麗」に対してはかなりきつい内容の文面を送ったこともあり、それと同趣旨、同傾向の内容であったという可能性も考えられるでしょう。
 これに応じ「天智」は退位するに至ったと考えられるわけですが、その「天智」に対して「日本国天皇」と呼びかけていることに注目です。この「天智十年」という年次は「天智」が「近江朝廷」を開き「天皇」を自称し始めたという年次の翌年ですから、それと整合しているようにも見えます。そしてその後「天武元年」になると「倭王」という呼称に変わるわけですから「天智」の退位と共に「日本国」が終焉したこと及び「天皇」呼称の停止が行われたらしいこととなりますが、それが「唐」の意志であったということ思われる訳です。
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「鎮将」と「都督」

2020年04月19日 | 古代史
 すでに「新日本王権」に至る経過として当初「倭王権」であったものが「日本国」となった後いったん「倭王権」に戻り、その後再度「日本王権」が復活する形で「新日本王権」となったと推定しました。この流れに深く関係しているのが「唐・新羅」と戦いとなった「百済を救う役」であり「白村江の戦い」です。この戦いでは「倭国側」の全面的敗北となったものですが、それは「高句麗」「新羅」の敗北とつながっています。それに関連して「百済鎮将」という名称が『書紀』に見えます。

「(六六七年)六年…
十一月丁巳朔乙丑。『百濟鎭將』劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。」

 この「鎮将」については通常「占領軍司令官」という通称的なとらえ方がされているようですが、「鎮」とは「隋」の高祖の時代に制定された「鎮―防―戍」という辺境防備の軍組織の名称の一つであり、規定によれば「鎮」には「将」が置かれたとされます。また「百済」制圧後は「熊津」に置かれた「都督府」が旧「百済」の地域全体を総管したものであることから考えても「百済鎮将」の「鎮」とは具体的には「都督府」を示す意義であり(「安西四鎮」など他の使用例も同様)、このことから「百済鎮将」とは「熊津都督」を意味する正式な用語であることがわかります。
 この「鎮」「将軍」という語に関して、類似の呼称と思われるのが『善隣国宝記』に見える「郭務悰」に与えたという「日本鎮西筑紫大将軍」という署名です。

(『善隣国宝記』上巻 (天智天皇)同三年条」「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務悰等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物悰看而不将也。
 九月、大山中津守連吉祥・大乙中伊岐史博徳・僧智弁等、称筑紫太宰辞、実是勅旨、告客等。今見客等来状者、非是天子使人、百済鎮将私使。亦復所賚文牒、送上執事私辞。是以使人(不)得入国、書亦不上朝廷。故客等自事者、略以言辞奏上耳。
 一二月、博徳授客等牒書一函。函上著鎮西将軍。日本鎮西筑紫大将軍牒在百済国大唐行軍總管。使人朝散大夫郭務悰等至。披覧来牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書。唯是總管使、乃為執事牒。牒又私意、唯須口奏、人非公使、不令入京云々。」

 ここに現れる「鎮西」という用語を後代のものと見る立場もあるようですが、上のような「隋」「唐」の用語使用法との関連で考えるとこれはこの時点で使用されていたと見るのが実際には相当と思われることとなります。その意味でこの「鎮西筑紫大将軍」という記事は「筑紫都督府」の存在とつながるものとも言えます。つまり「筑紫」に「大鎮」が置かれ、「都督」として「大将軍」が任命されていたとすると整合するとも言えそうだからです。もっともそのようなことは想定できません。もし「大鎮」が「筑紫」に置かれたとすると当然「鎮将」たる「都督」が任命され、その役職として「将軍号」を持った人物が配置されると共に「都督府」に詰めるその他の官人も全て任命したこととなるはずです。しかし「唐側史料」にはそのような記事が一切見当たりません。また国内史料も同様であり、それらは推測の域を出ないというべきでしょう。
 確かに「熊津都督」には帰順した「扶余隆」が任命されており、もし「倭国」にも「都督府」がおかれたとすると帰順した「薩夜麻」が適任であるようには思われます。しかし、私見ではそうとは考えられません。
 「唐」が「都督府」を設置する場合には一定の条件があったものとみられます。それは第一に危急の場合に援軍が容易に増派、救援可能な距離であることです。その意味で「倭国」は「遠絶」の地であって設置するのに適地とは言えません。間に「大海」をはさんであり、この状態では軍を派遣するといっても「万余」という数量は困難でしょう。「熊津」でも「鬼室福信」など旧百済軍が周囲を取り囲んで「劉仁願」は窮地に陥っています。ましてや「大海」をはさんだ遠絶の地で孤立した場合を考えると、そのような地に「鎮」つまり「都督府」を設けることはほぼ考えられないというべきです。
 また通常「都督府」がおかれる場所はそれが戦争により帰順させた地域であり、その後の政治的安定を図るために設置するものですから「百済」や「高句麗」の地への設置は当然と思われるものの、「倭国」は(「倭王」が降伏したとしても)その地が戦場になったわけではなく、その意味で設置する条件を満たしていないと思われます。
 そもそも「唐」は「高句麗」については「隋」以来いつかは制圧するつもりでいたものの、常にその背後にいる「百済」の影がちらついており、そのためまず「百済」を討つのが先決と考えていたわけです。その意味で「百済」と「高句麗」については征討の対象であったわけであり、征討後はいわゆる「羈縻政策」(つまり都護府や都督府を置きそれらにより支配する)を行う予定であったものとみられますが、元々「倭」は討伐の対象ではなかったと思えます。
 彼らと「唐軍」はたまたま戦場で出くわしたというだけであり、戦火を交えたものの「倭国」と正面切った戦争を行ったわけではなかったものです。このように「唐」が「倭」と戦闘することはない、つまり彼らの作戦遂行の支障とならないというように見込んでいたのは、「伊吉博徳」たち遣唐使団を質に取っていたことからもうかがえます。
 この人質を取る作戦が功を奏して当初の戦いでは倭国と唐が直接戦闘を交えることはなかったわけですが、それは「倭国」がその「唐」の意図を察知して作戦を変更し直接「新羅」をたたくこととしたことからでしょう。しかし「新羅」と戦闘になることは、以前に「高宗」から「璽書」を下され「危急の際には「新羅」に助力せよ」と指示されたことに反するものであり、その段階以降「唐」からは「朝敵」とみなされていたこともまた確かと思われます。
 しかしいずれにしても「倭」は当面の敵ではなかったものであり、当初から「倭」を征服しようとは思わず、また征服したとも思っていなかったと思われ、「璽書」に反する行動をとったことは確かではあるものの、そのことで「倭国」と戦争をする、あるいは滅ぼすというようなことを考えていたわけではなかったと思われます。そうであれば「倭国」に「都督府」を設置する意義が認められず(ということは「都督」を任命する意義も認められないということになります)、それが「唐側史料」に「筑紫都督府」関連の記事が見られないという事実に現れていると思われるのです。
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「評督」と「国造」

2020年04月18日 | 古代史
 『常陸国風土記』には「地名」を改めたという記事があります。

『常陸国風土記』「久慈郡の条」
自此艮二十里 助川駅家 昔号遇鹿 古老曰 倭武天皇至於此時 皇后参遇因名矣 至国宰久米大夫之時 為河取鮭 改名助川 俗語謂鮭祖為須介

 この記事を見ると倭武天皇時につけられた地名を「国宰」が変更しているようです。ここでは「国宰」の権威が倭武天皇を上回るものであることを示しており、またその権威は今に通じているようです。つまり「国宰」は地名変更の権利を有しており、倭武天皇の「権威」を犯しているということとなります。
 倭武天皇が関東王朝の象徴的人物と理解できることを踏まえると、この時点で倭国の権威が関東に及び「国宰」が倭王権を代表して関東王権に優越的立場に立ったことがうかがえます。
 ところで関東の前方後円墳の消長を見ると七世紀前半という時点で「一斉に」途絶するのが判ります。すでにそれ以前に西日本の前方後円墳の築造が停止されていることを考えると、この政策の執行主体が西日本側にあったことは疑えません。
このような「地名」変更政策は、「中央」が決めた制度や規格以外のものを許容しないという意思の表れであり、権威を透徹させようとする王権の意志の表れと思われます。その意味で非常に強い権力者の存在を措定する必要があるでしょう。
 この『常陸国風土記』の記事と「前方後円墳」の廃絶時期からは、広域行政体としての「国」が成立しその責任者として「国宰」が任命派遣されるという政策が行われたのは「七世紀初め」ではなかったかということが強く推測できるわけであり、『隋書』に書かれた「阿毎多利思北孤」とその太子とされる「利歌彌多仏利」の政策であった可能性が大きいと思われます。

 それ以前(つまり七世紀初め)からあった「小領域」の責任者としては「造」「別」がいたとされますが、一部には「評督」もいたと思われます。そしてそこには「官道」が通じていて「直轄地」としての扱いを受けていたものと思われるものです。つまり「造」には「国造」と「評造」がいたものであり、それは「官道」の有無の違いではなかったかと推察されます。
 「官道」が通じていた場合「屯倉」があり、その「屯倉」とそれを取り巻くその周辺の生産地域を「評」と称し、そこを統括する「評督」あるいは「評造」が配されていたと思われますが、他方「官道」が未整備の地域には「屯倉」がなくその結果「評」も設置されなかったものであり、そこには単に「国造」だけがいたものでしょう。つまり「評」の責任者としての「評督」あるいは「評造」の方が「国造」よりランクが上であると思われることとなります。なぜなら「評」は「直轄地」であり、そこで生産・収穫されたものは基本的に「王権」に官道を通じて「直送」されるものであったわけであって、そのような地域を監督している役職も「王権」との関係がより密であったとみられるからです。逆に言うとそれほど地方との関係が濃密な王権がこのとき発生していたこととなり、そのように地方の末端まで権威を及ぼすことが可能なほどその王権の行政組織が階層性を持っていたことの表れと思われ、「官僚制」が整備されたことやその根底に「法」があり、また「律令」があったことを推定させるものです。
 また、このことは「評」の発生が「七世紀初め」をかなり遡上する時期を措定すべきことを示すものですが、それは「隋」には「評」という制度がなかったことでも判ります。「隋」の制度や組織などを学ぶために大量の「学生」「僧」などを派遣したことは即座に持ち帰った知識を国内政治に応用したと見るべきことを示しますが、「評」という制度は「隋」にもその後の「唐」にもなく、その意味で「遣隋使」「遣唐使」が持ち帰ったとは考えられないこととなるでしょう。そう考えれば「評」という制度については「半島」の諸国からの知識であり、情報であったと思われますから、六世紀代のことと見るべきこととなりますが、それを示唆するのが『筑後風土記』(『釈日本紀』に引用された逸文)に記された「磐井」の墓の様子を示す描写です。そこには「猪」を盗んだものに対する裁判の様子が石人により表現されていました。
 「猪」は当時「王権」が独占していた「食肉」に供される動物であり、「飼育」されていたと思われます。これは時に応じ「王権」に「生きたまま」運ばれ、「王権」の元で捌かれることとなっていたものであり、そのような「高貴」の人の元に行くはずの「猪」を盗んだということで彼は捕らえられ裁判を受けていると見られるわけです。
 このような重要な「食物」の輸送に使用されていたのが「官道」であり、その「猪」の飼育も含め食糧の供給基地として「屯倉」があったと見られますが、その責任者が「評督」あるいは「評造」であり、この「磐井」の墓の様子から彼の時代にすでに「評」があったと見て間違いないものと思われるわけです。
 このように「七世紀初め」以前から一部には通じていたと思われる「官道」も改めて規格を大幅に拡大して延伸することとなったものであり、その官道整備のある程度の進捗を契機として「広域行政体」の設置が行われたとみられます。その際に「国宰」が配置されたわけですが、そのような場合「大夫」(五位以上)が任命され、派遣されたものと思われるわけです。
 この「大夫」と称する役職の階級は後世においても宮殿内に上がることのできる最低の位階であり、ある意味一般の人々から見ると「雲の上の人」であったはずですから、そのような人物を配することにより王権の意思を直接伝えるという意図があったものと推量されます。
 この時点で以前の「国」状態の際の小領域の責任者である「国造」は廃されたはずですが、あらたに造られた「広域行政体」の中にはその国内に権威が行き届かない地域が残った場合もあったとみられ、カバーする「権威」の網の「密度」の違いによっては「国造」がそのまま残った場合もあったとみられます。その典型的な例が「下毛野」の一端である「那須」という地域であったものであり、ここは「蝦夷」との境界であって、明らかに「関東王権」としても「倭国王権」としても「末端」という場所でしたから、「官道」がこの段階では開通しておらず「評」が設置されていなかったため「国造」を自称していた人物(勢力)がそのまま後代まで遺存し続けたということが考えられるでしょう。
 上に見たように「国造」に比べ「評督」の方が権威が高かったという可能性がありますが、そうであれば「那須直韋提」の場合以前「評督」であったとした場合その後「国造」を授与されたとしても、死後子供達が石碑を建てるほどの「栄誉」とはいえないと思われますから、その意味でも「国造」であったものが「評督」を拝したとする方が合理的と思われます。
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