「皇祖大兄」と称される「押坂彦人大兄」が「阿毎多利思北孤」の投影ならば、その弟王と目されるのは「難波皇子」ではなかったかと推定したわけです。それは彼の「子供達」(「栗隈王」「石川王」「高坂王」「稚狭王」「大宅王」)の存在が高い重要性を持っていたらしいことが『書紀』から窺えるためです。
例えば「栗隈王」は「筑紫大宰」という地位にありましたが、「壬申の乱」の際に「近江朝廷」からの「援軍」要請を拒否しています。このとき「彼」は「筑紫の城は「外敵」に対するものであって内乱には与しない」としていますから、この「大宰」時点で既に「軍事」に関する権能を有していたこととなるでしょう。また後には「兵政官長」をも兼務しています。この「兵政官長」は後の「兵部卿」に相当する役職であり、国内全体の「軍事部門」のトップとも言うべき存在です。
「(天武)五年(六七五年)三月庚申(十六日)諸王四位栗隈王爲兵政官長。小錦上大伴連御行爲大輔。」
「栗隈王」はこの人事時点で既に「筑紫」における民生部門のトップと軍事部門のトップを兼ねていたわけですが、さらにここで「兵政官長」という国内全体の軍事部門のトップを兼ねるという相当強い権力を保有することとなったものです。
またその時点は「新羅」から「王子」とされる「忠元」という人物一行が来倭した時期でもありますが、彼が引率してきたのは「大監」等軍事部門の責任者であったと見られ、ここで両国軍事トップによる会合が行われたものと考えられます。
「(天武)四年(六七五年)二月是月条」「新羅遣王子忠元。大監級飡金比蘇。大監奈末金天冲。弟監大麻朴武麻。弟監大舎金洛水等。進調。其送使奈末金風那。奈末金孝福。送王子忠元於筑紫。」
このことから、「栗隈王」と「忠元」とは同等の立場で会談に臨んでいたことが推定され、「忠元」が「新羅王」の「皇子」であり、また「新羅王」の代理であるわけですから、それに対応する「倭国側」も同様の布陣であったと考えると、この「栗隈王」が「倭国王」の代理であり、また「王子」(皇子)の位に相当する可能性が考えられることとなるでしょう。(でなければ「外交上の非礼」に当たる可能性さえあります。)
また、「石川王」については「吉備惣領」であったという記事や「吉備大宰」であったという記事があります。
(『備前国風土記』揖保郡の条。)「広山里旧名握村 土中上 所以名都可者 石竜比売命立於泉里波多為社而射之 到此処 箭尽入地 唯出握許 故号都可村 以後 石川王為総領之時 改為広山里…」
(天武紀)「天武八年(六七九年)己丑条」「吉備大宰石川王病之。薨於吉備。天皇聞之大哀。則降大恩云々。贈諸王二位。」
つまり「難波王」の子供達のうち(少なくとも)二人までが「大宰」となっているわけです。
さらに「高坂王」は「壬申の乱」の描写中で「倭京」の「留守司」とされています。
「六月辛酉朔…
甲申。將入東。時有一臣奏曰。近江群臣元有謀心。必造天下。則道路難通。何無一人兵。徒手入東。臣恐事不就矣。天皇從之。思欲返召男依等。即遣大分君惠尺。黄書造大伴。逢臣志摩于『留守司高坂王』。而令乞騨鈴。因以謂惠尺等曰。若不得鈴。廼志摩還而復奏。惠尺馳之往於近江。喚高市皇子。大津皇子逢於伊勢。既而惠尺等至『留守司』。擧東宮之命乞騨鈴於『高坂王』。然不聽矣。」
「己丑。…是日。大伴連吹負密與留守司坂上直熊毛議之。謂一二漢直等曰。我詐稱高市皇子。率數十騎自飛鳥寺北路出之臨營。乃汝内應之。既而繕兵於百濟家。自南門出之。先秦造熊令犢鼻。而乘馬馳之。俾唱於寺西營中曰。高市皇子自不破至。軍衆多從。爰『留守司高坂王』及興兵使者穗積臣百足等。據飛鳥寺西槻下爲營。唯百足居小墾田兵庫運兵於近江。時營中軍衆聞熊叺聲悉散走。仍大伴連吹負率數十騎劇來。則熊毛及諸直等共與連和。軍士亦從乃擧高市皇子之命喚穗積臣百足於小墾田兵庫。爰百足乘馬緩來。逮于飛鳥寺西槻下。有人曰。下馬也。時百足下馬遲之。便取其襟以引墮。射中一箭。因拔刀斬而殺之。乃禁穗積臣五百枝。物部首日向。俄而赦之置軍中。且喚『高坂王。稚狹王』而令從軍焉。」
上に見たように「高坂王」は「留守司」とされているわけですが、通常「留守司」とは「天子」が行幸している間「京師」に残る、文字通り「留守」を預かる職掌です。しかも後の例から見ると、多くの場合「兵部卿」など「軍事関係」の重要人物がその任に当たっています。(危機管理という観点で考えると、当然とも言えますが)
彼の場合も「駅鈴」を管理しているわけであり、このことは「官道」の管理を行っていたと推測され、その「官道」が後の「養老令」では「兵部省」の管轄下にあったことから「軍用」であったものと推定されますから、それを考えると、彼は「軍事」部門の高位にあったという可能性が高いと思われます。また、これについては後の「養老令」においても「留守官」には「駅鈴」がいつもより臨時に多く支給されるとしていますから、「留守官」はそもそも「兵部省」と深い関係にあったことが判ります。
「公式令 車駕巡幸条 凡車駕巡幸。京師留守官。給鈴契多少臨時量給。」
上に見たように「栗隈王」は、「近江朝」からの「援軍」要請を拒絶しており、これは彼の協力がなければ「反乱」を制することはできないことの裏返しとも言えます。つまり、「栗隈王」が(留守司である「高坂王」も含め)「倭国王権」全体の軍事的方向性を決めていたと言っても過言ではないと言えるでしょう。
また、それについては「近江朝廷」としては制御できていなかったことを示します。それは彼等「栗隈王」等「難波皇子」の子供達の専管事項であり、「近江朝廷」側には何も指示・命令する権限がなかったことを示すものです。
また、この時「栗隈王」の身辺は彼の子息である二人の「王」が守護していました。(「三野王」(美奴王)と「武家王」)彼らについては詳細は書かれていないものの、既にこの段階で「成年」に達していたという可能性が高いと思料されます。(でなければ「護衛」の役は難しいでしょう)つまり、この時点で彼には成年に達するような子供が二人いることとなります。
「栗隈王」が「筑紫」へ「近畿」から「派遣」されている人間であるとすると、彼の周囲に「成人」に達するような子供が一緒にいるというのは不思議ではないでしょうか。
例えば後の「大伴旅人」は「筑紫大宰率」として赴任する際に、子供である「家持」と「書持」を「妻」である「大伴郎女」と共に「筑紫」へ同行していますが、それは子供がまだ幼かったからという事情があったというべきでしょう。しかし、彼ら「成人男子」の場合は別行動が基本であり、また彼等は既に「冠位」を持っていたという可能性もありますから、その場合は「父」と連動して「筑紫」へ派遣されたこととなりますが、それもまた他に例がなく、考えられないと思われます。
つまり、この時の情景から考えて、彼は「赴任」しているというわけではなく、「地場」の勢力としてこの「筑紫」に存在していたと考えられ、この「筑紫」という場所は彼の「本拠地」ともいうべきものであったと考えられることとなるでしょう。
また、「難波王」の子供の一人である「稚狭王」は「留守司」である「高坂王」と行動を共にしており、「高坂王」と共に「大海人軍」に帰順しています。
この部分の描写は「微妙」であり、「大海人」側は「高坂王」には「駅鈴」を「乞」とされており、「敬意」を以て臨んでいるようです。これを「高坂王」は拒否している訳ですが、断られても、これに対し攻撃を加える風ではありません。それに対し「近江側」は「栗隈王」に対する使者に、「栗隈王」が「援軍」に対して断るようなら「殺す」ように指示しています。(吉備の「当麻臣広島」に対しても同様の指示を出しています)
これらのことから「倭京」の「高坂王」や「筑紫」の「栗隈王」は、少なくとも元々「近江方」ではなかったということがわかります。彼らは「近江朝廷」からみて「利用」するに値する人物であり、兄弟であったと言うこととなるものと思われることとなります。
「近江朝廷」側は、彼等のようなある種「高貴」で、また「権威」と「権力」を有している勢力を傘下に入れることで、他の勢力に対する「牽制」ともなると考えたものでしょう。当然、彼等を「正面切って「敵」とはしたくなかったものと考えられます。
逆に言うと、「大海人」側からはそもそも「敵」とは見なされていないこととなり、また「栗隈王」達も「大海人」という人物を「敵」とは認識していなかったという可能性があるでしょう。(彼らは「元々親しかった」という意味の記事があります)そのことから、彼らないし彼等の「父」である「難波王」と「大海人」という人物についても「近しい」関係にあったことが想定されることとなります。
また、「大宅王」については情報がなく消息不明ですが、その死去記事において「薨」という用語が使用されていますから、(下記の記事)「三位」以上の高位にあったことが推定できます。
「天武八年(六七九年)己酉朔癸酉条」「大宅王薨。」
ここでは「冠位」は書かれていないものの、「三位以上」でなければ使用されない「薨」の字が使用されていますから、(四位以下は「卒」で表記される)かなり有力な人物であったことが推定できます。
『書紀』ではこの「薨」と「卒」の使い分けはかなり厳重に為されているように見えますが、唯一の例外が「栗隈王」であり、『書紀』では「四位」とされているのも関わらず「卒」ではなく「薨」の字で表記されています。これは「四位」という「官位」表記が「虚偽」であることを推定させるものであり、もっと高位の人物であったことを推定させるものです。(『続日本紀』には「従二位」であったという記事もありますが、それがどの時点で授けられたものかは不明です)
「天武五年(六七六年)六月。四位栗隈王得病薨。」
これらのことから「難波王」の皇子達はいずれも「軍事関係」の「要職」に就いていたこととなり、「軍事・警察」に力を持つ一大勢力を形成していたこととなるでしょう。
しかし、この時代は能力主義ではなく血縁が非常に重視された時代であったと思われます。しかしそうであれば、彼等の父とされる「難波皇子」という人物については、特に何か『書紀』内で特記すべき血統であるとは書かれておらず、重視されている形跡が見あたらないことと矛盾するといえます。
「物部守屋」を滅ぼした「丁未の戦い」の中にその名が出てくる以外は全く記録に残っていないような人物の子達が、多くこのように高位にいると言うことははなはだ理解しにくいことであり、「不思議」というより「不審」であるといえるでしょう。
彼らの主要な勢力である「軍事・警察」という力が彼らの「父」から継承したものと考えると、「難波皇子」の「兄」である「押坂彦人大兄」の持っていた勢力(「刑部」(押坂部)=「解部」)と重なることが推測できます。つまり「栗隈王」達の権威の源泉は「難波皇子」とその兄である「押坂彦人大兄」につながるものであると考えられ、このことから、この「難波皇子」が「兄弟統治」における「弟王」を指すものであり、この時点で「日の出以降」という時間帯を制していたのは「弟王」であったと思われますから、彼が「実質的」な「倭国王」である(と考えられていた)可能性があると思われることとなるでしょう。
『書紀』で「皇祖大兄」という表記がされている「押坂彦人大兄皇子」について、その「御名部」とされた「押坂部=刑部」が本来「解部」であったことを指摘し、また『隋書俀国伝』に書かれた「刑法」(律)の施行の主体であったと推定したわけですが、それはその「律」を含む「律令」全体の施行が彼の手によると見るべきことを示し、彼という存在は、「天子」を標榜したと『隋書俀国伝』に書かれた「倭国王」「阿毎多利思北孤」と重なる人物であると推定できると思われます。
その「阿毎多利思北孤」の最初の遣使(これは既に「隋書」では「開皇二十年」(六〇〇年)とされていますが、実際には「隋初」のことであったものと推定しました)では「天を以て兄とし日を以て弟とする」と語られており、これを「隋」の「高祖」(文帝)から「無義理」とされ「訓令」により改めさせられたとされます。
「隋書俀国伝」「開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰 此太無義理。於是訓令改之。…」
これは従来「兄弟統治」を表すと理解されています。確かにこれを単なる「観念的」なものと受け取るには、「天」と「日」、「兄」と「弟」というように「対称型」で語られ、「阿毎多利思北孤」単独で「統治」しているというようには受け取れない論理性を有しているようです。
またすでに述べたように、この時点で「強い権力」が行使されるようになり、非常に多岐に亘る改革が行なわれたと推定される訳ですが、そのようなものが「一人」の改革者により行なわれたとは考えにくいと思われます。
有力なブレーンを複数抱えなければこのような改革はおぼつかない訳であり、信頼に足る人物が傍で支えていたという可能性が高いでしょう。というより「共同」で事に当たっていたという可能性を考えてみるべきであり、「弟王」がいたという想定はあながち無理なことではありません。それが「夜明け前」と「日の出後」という「時間差」で分担しているというのが「リアル」な話かどうかは不明ですが、「双頭体制」ともいうべき権力構成であったと推定できるものであることは確かです。
ここでいう「兄弟」のうち「兄」という存在はすでにみたように「皇祖大兄」と尊称される「押坂彦人大兄」であると考えるわけですが、このように「兄」に当たる人物が『書紀』の中に表されているとすると、「弟」に当たる人物も同様に『書紀』の中にいる(隠されている)可能性が高いと思われます。
この「弟」が実際の兄弟であるとすると「阿毎多利思北孤」の投影ともいうべき「押坂彦人大兄皇子」の兄弟の中に候補を捜すこととなりますが、その場合「同母兄弟」はいませんが、「異母兄弟」であれば「三人」存在しています。それは「難波皇子」「春日皇子」「大派皇子」の三名です。(このうち「春日皇子」が「小野毛人」の祖父とされているわけです。)
この三者の中で最年長と思われるのが「難波皇子」です。この「難波皇子」を含む彼ら兄弟は『書紀』にほとんど「動静」や「事績」が書かれていません。ところが、このようにいわば「存在の希薄」な彼らですが、それと反するように見えるのが彼らの子供達です。
「押坂彦人大兄」の場合は「舒明」でありまた「皇極」です。彼らは何と言っても「天皇位」についています。しかもその後の「新日本国王権」につながるような各天皇の「祖」ともいえる位置にあります。
また「弟」である「難波皇子」(難波王)にはその子供達として「栗隈王」「石川王」「高坂王」「稚狭王」「大宅王」がいるとされます。(『古代氏族系譜集成』などによる)
彼等は各々かなり高位の存在として扱われていたことが『書紀』から窺えます。(続く)
「皇祖大兄」と称される「押坂彦人大兄」の「御名部」と思われる「刑部」は、職掌から考えてその前身が「解部」である可能性が考えられます。
『筑後国風土記』には「筑紫君磐井」の墳墓の説明として書かれた中に「解部」という「官職」についてのものがあります。この「解部」はその説明の中でも「盗み」を働いた人物を取り調べる立場として描かれているようであり、それはまさに「刑部」の職掌そのものであると思われます。
「筑後國風土記」磐井君(前田家本『釋日本紀』卷十三「筑紫國造磐井」條)
「縣南二里,有筑紫君磐井之墓。墳高七丈,周六十丈,墓田南北各六十丈,東西各卅丈。石人?石盾各六十枚,交陣成行,周匝四面。當東北角,有一別區。號曰解部。前有一人,裸形伏地。號曰盗人。生為偸豬,仍擬決罪。側有石豬四頭。號曰賊物。賊物,盜物也。…」
後の「養老令」でも「解部」は「刑部省」と「治部省」に分かれて別々に存在、配置されており、それはこの「解部」が本来「律令制」の枠組みから外れた存在であり、かなり以前から広範な「刑事・警察」を職掌としていた過去を反映していると考えられます。そのような「解部」の地位の確立に甚大な成果を上げたのが「押坂彦人大兄」であったのではないかと考えられ、彼の時代に「解部」の立場を強化するような「律令」の拡大施行があったものではないでしょうか。
この「解部」が「押坂彦人大兄」の時代に彼の業績を讃える意味で彼の「御名部」となり、「押坂(忍坂)部」となったものと思われますが(さらに言えば、彼が「磐井」の後裔であったという可能性も考えられ、そのため「解部」を「伴部」としていたということかもしれません)、その後「御名部」の返還という事態となり、「押坂(忍坂)」という名称が外され、再び「解部」に戻されたものと思料します。(「刑部」という用語が使用されるようになるのは「大宝令」以後と思われます。)
『隋書俀国伝』の記事によると、そこに「刑法」の存在が窺えます。記事を見ると後の「笞杖徒流死」の原型とも言うべき「杖流奴(奴隷になる)死」が定められていたようです。
(『隋書俀国伝』より)
「其俗殺人強盜及姦皆死、盜者計贓酬物、無財者沒身為奴。自餘輕重、或流或杖。毎訊究獄訟、不承引者、以木壓膝、或張強弓、以弦鋸其項。或置小石於沸湯中、令所競者探之、云理曲者即手爛。或置蛇甕中、令取之、云曲者即螫手矣。 」
この内容は「隋初」に派遣された「使者」(遣隋使)が「隋」の「高祖」から「風俗」を問われ、それに応じて語った内容をまとめたものと推量され、「六世紀末」の「倭国」における「法秩序」について述べられたものと判断して間違いないものと考えられます。
このような「刑法」を含んだ「律」中心の「律令」が「六世紀末」という段階で新たに施行されたものと考えられ、それに功績があったのが「押坂彦人大兄」であったという可能性が高いでしょう。
また、「刑事・警察」はどのような場所にも必要であったでしょうから、彼の「御名部」としての「押坂(忍坂)部」は当時「倭国内」に広く存在・分布していたものと見られ、実数としてもかなりの数に上ったものと見られます。
実際に「和名抄」に「地名」として「おさかべ」という読みが充てられる「刑部」「忍壁」が残っている例を数えてみると、1/3近くが「吉備」の領域であることが判ります。これに隣接する「因幡」と「丹波」を加えると「半数」を占めることとなります。
後でも述べますが、「押坂彦人大兄」の「夫人」である「糠手姫」は「嶋皇祖母命」という別名があったとされますが、それは「皇極」の母である「吉備嶋皇祖母命」と同名であり、この二人は同一人物という指摘もあります。そう考えると「吉備」に「刑部」地名が遺存していたというのはある意味当然ともいえるでしょう。
また「皇太子の下問の詔」では、かなりの数に上るであろう「群臣連及伴造、國造」が私有している「入部」および「皇子等」が私有する「御名部」に並べて書かれるほどですから、相当なウェイトを占めていたと考えられ、「獻入部五百廿四口」という中のかなりの数は「皇祖大兄」である「押坂彦人大兄」の「御名部」ではなかったかと推察されます。(続く)
「小野毛人」が「春日皇子」の孫であり、また「刑部卿」などの重要な職掌を歴任していたと推察されることは、その「春日皇子」の兄弟たちの重要性の帰結であると考えられるわけであり、その意味で「長兄」でありまた「太子」とされる「彦人大兄」という存在に注目する必要があると思われるわけです。
古代においては「法」の中でも「律」つまり「刑法」の存在が重視されていました。「西晋」時代に「泰始律令」が定められた後でも依然として「律」が優先であり、「令」は補助的であったものです。その意味では「警察」「検察」「裁判」という「律」に関連する業績が考えられる「押坂彦人大兄」は「律令」そのものの制定ないしは改定に関わったのではないかと推測できるでしょう。
つまり「皇祖」として讃えられる人物である「押坂彦人大兄」は「律令」に深く関係していると考えられることとなりますが、それはまた「天子」自称と強くリンクするものであったと考えられます。それは「律令」と「天子」が強く関係しているからです。
既に述べたように「皇帝」という称号は「秦の始皇帝」に始まるわけであり、その彼は「法治国家」を初めて作り上げたわけです。そしてその「法」の「集大成」が「律令」ですから、「法治国家」は「律令」なしでは完成しないものといえます。
その意味からは「皇帝」や「天子」という称号を自称する「背景」としては、「律令制」の施行という事績があったと考えるのは当然であるといえるでしょう。そのような人物こそがこの国に始めて現れた「強い権力」の発現者であったと考えられます。
また「律令制」というものと「郡県制」というものの間にも強い関連があることは既に良く承知されています。このことは「王」の元に「諸侯」がいるという「封建制」的国家体制が、「律令」の施行と共に解体され、「郡県制」へ移行したあるいは「しようとした」ということが想定されるものです。
「律令体制」は即座に「中央集権体制」であり、それは「中間管理者」としての「諸侯」の存在を許容しないと考えられるからです。
そう考えると、「律令」(ただし「律」を中心としたもの)の制定、ないし改定に関わったと見られる「押坂彦人大兄」という存在が「律令体制」と深く関係していると言う事は、「隋書倭国伝」で「阿毎多利思北孤」が「天子」を称したとされることと等しいことを示すと思われます。
また、上の記事の中では「彦人大兄」という人物について「皇祖大兄」という「尊称」が奉られているわけですが、この「皇祖」という表現は軽視できません。それは「彦人大兄」という人物の「本質」が窺われるものといえるものです。
この「皇祖」については「皇」の「祖父」つまり、「改新の詔」当時の天皇である「孝徳」の祖父を示す称号と理解するのが「一般」のようですが、『書紀』には「皇祖」という称号が複数出現しており、それらを見てみるとその時点の天皇の「祖父」のことを示すといえる例はほぼ皆無ではないかと考えられ、この「皇祖大兄」についても「皇」の「祖父」を指す「尊称」と即断することはできないと思われます。
『書紀』には「皇孫(天孫)」である「瓊瓊杵尊」が「皇祖」として扱われています。「瓊瓊杵尊」は「天孫降臨」の当事者であり、正に「初代の王」です。
つまり「彦人大兄」は「瓊瓊杵」と同列に扱われているわけですが、それは彼を「皇祖」と仰ぐべき何かがあったことを示すものですから、「天子自称」などの行為がそれに見合うものということもいえると考えられます。
また、この「皇祖」という尊称については『書紀』には他にも多数現れますが、その中でも「持統紀」に現れるものに注目すべきでしょう。それは「倭国王」の死去の際に「弔使」として訪れた「新羅」からの使者(金道那等)に対するものです。
そこでは、「皇祖」の代から「『清白』な心で仕奉る」といっておきながら、実際は違うと言うことを非難しています。
「(持統)三年(六八九年)五月癸丑朔甲戌条」「太正官卿等奉勅奉宣。…又新羅元來奏云。我國自日本遠皇祖代並舳不干楫奉仕之國。而今一艘亦乖故典也。又奏云。自日本遠皇祖代。以清白心仕奉。而不惟竭忠宣揚本職。而傷清白詐求幸媚。是故調賦與別獻並封以還之。然自我國家遠皇祖代。廣慈汝等之徳不可絶之。故彌勤彌謹。戰々兢々。修其職任。奉遵法度者。天朝復益廣慈耳。汝道那等奉斯所勅。奉宣汝王。」
このように非難している訳ですが、このような「新羅」が服従の姿勢を取ったという「遠皇祖代」とはそもそもいつのことを指すのかというと、以下の記事が該当すると思われます。
「推古八年(六〇〇年)春二月。新羅與任那相攻。天皇欲救任那。
是歳。命境部臣爲大將軍。以穗積臣爲副將軍並闕名。則將萬餘衆。爲任那撃新羅。於是。直指新羅。於是直指新羅以泛海往之。乃到于新羅攻五城而拔。於是。新羅王惶之。擧白旗到于將軍之麾下。而立割多多羅。素奈羅。弗知鬼。委陀。南加羅。阿羅々六城以請服。時將軍共議曰。新羅知罪服之。強撃不可。則奏上。爰天皇更遣難波吉師神於新羅。復遣難波吉士木蓮子於任那。並検校事状。爰新羅任那王二國遣使貢調。仍奏表之曰。『天上有神。地有天皇。除是二神。何亦有畏乎。自今以後。不有相攻。且不乾般柁。毎歳必朝。』則遣使以召還將軍。將軍等至自新羅。弭新羅亦侵任那。」
また、これとは別に「仲哀紀」には「神功皇后」により新羅遠征記事があり、そこでも同様の言葉と思われる『從今以後。長與乾坤。伏爲飼部。其不乾船柁。而春秋獻馬梳及馬鞭。復不煩海遠。以毎年貢男女之調。』というようなものが「新羅王」から語られています。
しかし、それ以降「欽明紀」には「任那」をめぐって戦闘が発生しており、それを考えると「倭」-「新羅」間は平坦な関係ではなかったこととなり、この「持統紀」で改めてそこまで遡って指弾するというのも不審です。それよりは「推古紀」というまだしも近い過去においての「誓約」が守られていないという事を非難していると考える方が論理的ではないでしょうか。また、「神功皇后」そのものを「皇祖」と呼称した例が見られないこともあり、ここでいう「皇祖」の代とは「六〇〇年付近」を指す用語として使用されていたことと判断できる事となりますが、それはまさに「彦人大兄」の時代のことと言ってもいいと思われるものです。
ところで、彼の御名部であったと考えられる「押坂(忍坂)部」(おしさかべ)(=「刑部」(おさかべ))は、「彦人大兄」の「御名」がかぶせられる以前は何であったのでしょうか。
そもそもこのような「治安維持」に関する職掌がそれ以前になかったということは考えにくいものですから、該当する「部」は始めて作られたものでないと思われます。つまり、この時点で「改名」させられたものと考えられますが、職掌から考えてそれ以前の呼称は「解部」であったのではないかと推測されます。(続く)
「春日皇子」の異母兄であり「敏達」の「太子」とされる「彦人大兄」については、『書紀』の「大化二年」に出された「皇太子使使奏請の条」では彼の「御名部」について述べられています。そこには「原注」と思しきものがあり、「皇祖大兄」とは「(押坂)彦人大兄」のこととされています。
「大化二年(六四六年)三月癸亥朔壬午条」「皇太子使使奏請曰。昔在天皇等世。混齊天下而治。及逮于今。分離失業。謂國業也。屬天皇我皇可牧萬民之運。天人合應。厥政惟新。是故慶之尊之。頂戴伏奏。現爲明神御八嶋國天皇問於臣曰。其群臣連及伴造。國造所有昔在天皇曰所置子代入部。皇子等私有御名入部。『皇祖大兄御名部入部。謂彦人大兄也。』及其屯倉。猶如古代而置以不。臣即恭承所詔。奉答而曰。天無雙日。國無二王。是故兼并天下。可使萬民。唯天皇耳。別以入部及所封民簡死仕丁。從前處分。自餘以外。恐私駈役。故獻入部五百廿四口。屯倉一百八十一所。」
つまり「御名部」とはこの場合「押坂彦人大兄」の名前を取り込んだ「部」(職掌集団)を言うこととなりますから、ここでは「押坂(忍坂)部」(おしさかべ)を意味するものであり、これは通常「刑部(おさかべ)」と漢語表記されて、「警察」「検察」「裁判」のような職掌を行なう人達を意味していたものと考えられます。
ただし、この「刑部」については「警察・検察」に関係のない職掌であるとする意見もあります。(※1)それは「刑」に「入墨」という意味があることから、彼ら自身が「入れ墨」をしていたものであり、それが「名前」となっているとするのです。そして「刑部」の本来の職掌は「武器」(利器)の維持管理や製造などを行うものとするわけですが(「忍壁皇子」が「石上神宮」で神宝を磨いているのがそれを象徴しているとする)、「部」の名称は基本的に「職掌」を表すものであり、その「部」の「見かけ」に由来するものは他に見られません。
「刑」には「入墨」の意があるのですから、彼らの職掌は「罪人」などに「入墨」を施すという役割であったことが推定され、「警察・検察」機構の末端に位置する下級官吏であると考えるのがやはり妥当と思われます。
また「忍壁」という地に刑官が居た為に「刑部」を「オサカベ」という様に訓じたという説もあるようですが、これは話が逆であり、地名由来としてはそこに「刑官」がおり、その呼称が「オサカベ」であったため「忍壁」あるいは「刑部」という地名となったと考える方が普通でしょう。(その職掌の性格から「オサカベ」と呼ばれる地以外に「刑部」がいなかったとは考えられないからです。)
従来「押坂(忍坂)部」という「部」については、「允恭天皇」の皇后であった「忍坂大中姫命」と関連して考えられているようですが(彼女の名前にちなんで「刑部」が造られたとする記事がある)、そうではないことはこの「皇太子への下問の詔」で明らかであると思われます。
一般に「御名部」というのは天皇や皇后あるいは皇子などの「功業」を後世に伝えるために特定の「部民」に彼らに関する名前をつけたものであるとされ(※2)、この「刑部」が「警察・検察」という治安維持に関する組織の末端に位置するとした場合、そのような職掌に「押坂彦人大兄」の名前が付けられるというのは、そのような職掌が「押坂彦人大兄」の主な業績(功業)につながっていることを示すものです。
そもそも「部民」とは元々「」を拡大・拡張したものであり、多くの「部民」が「」の印である「入墨」(黥面)をしていたようです。
前に触れたように「黥面」は「犯罪者」に対して行われるものであり、「没」された証としての「」の表象でした。これはもともと「海人族」の風俗でしたが、「海人族」の没落に伴い「中国風」に「犯罪者」に対して行われるものとなったとみられます。
「履中紀」には「墨之江中津彦」の反乱に同調した「阿曇連」に対して「墨刑」を施したという記事があります。
「(履中)元年夏四月辛巳朔丁酉条」「召阿雲連濱子詔之曰。汝與仲皇子共謀逆。將傾國家。罪當干死。然垂大恩而兔死科墨。即日黥之。因此時人曰阿曇目。亦免從濱子野嶋海人等之罪。於倭蒋代屯倉。」
ここでは「兔死科墨」とされていますから、「死刑」と共に「墨刑」というものが当時存在していたことが判ります。つまり「刑罰」の一種として「墨刑」が存在していたと考えられるわけです。
また、「」とは元々「犯罪人」であり、その罪の軽重によっては「没」されて「」となる場合があり、その場合は「」の印として「入墨」をするというのが慣習ないしは規則としてあったことを示していると思われます。
さらに「刑罰」と「部民」に関連する例が「安閑紀」にあります。
「(安閑)元年(五三四年)閏十二月己卯朔壬午条」「…於是,大河内直味張,恐畏求悔,伏地汗流.啓大連曰:「愚蒙百姓,罪當萬死.伏願,毎郡以钁丁,春時五百丁,秋時五百丁,奉獻天皇,子孫不絶.籍此祈生,永為鑑戒.」別以狹井田六町,賂大伴大連.蓋三島竹村屯倉者,以河内縣部曲為田部之元,於是乎起.」
この末尾の部分では「大河内味張」への措置に関連して、「竹村屯倉」の「田部」に「河内縣」の「部曲」を充てるのはこれが始まりかと推測しており、それは「味張」に対して「籍此祈生,永為鑑戒」とされていますから、「永く鑑戒」とする(つまり子孫にそれを反映させる)としているわけです。その具体的な方法が子孫を「部曲」とするということであり、この「部曲」は「豪族」の私有民としての「部民」ですから、「味張」の犯した犯罪に応じ、彼の子孫に対して「部民」とすることが決められたものと思料されます。
この場合「黥面」が行われたかは不明ですが、「履中紀」の記事からは「死罪」に代えて「墨刑」が行われていますから、これに準じて考えると、「墨刑」が「味張」とその「宗族」に対して行われ、「没」されて「部民」となるべきこととされたらしいことが窺えます。
これらのことは「刑部」が「入れ墨」を入れる係であると同時に、自分たちも入れ墨をしていたという可能性があることを示しますが、上で述べたようにそれは「部民一般」に共通することである可能性が強く、「刑部」だけに限らないとすると、その「名称」の由来は「入墨」を入れる、という職掌に関連したものと考えざるを得ないものでしょう。
(※1)前之園亮一「刑部と王賜銘鉄剣と隅田八幡人物画像鏡」『東アジアの古代文化』一三七号二〇〇九年
(※2)和田英松『新訂官職要解』二〇〇四年