『隋書俀国伝』によれば「小国」が多数分立している状態であり、いわゆる「広域行政体」についての表記が確認できません。
「有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。」
これをみると「軍尼」が統括している地域(領域)は120あるとされており、明らかに「広域行政体」としての領域(範囲)とは異なると思われます。その後「隋」から種々のことを学んだ「阿毎多利思北孤」は国内にそれを適用・敷衍し、多くの「改革」を行ったものと思われ、それはそれまでと違い「統一王者」としての「統治」範囲の拡大と強化を目的としたものであり、「小国」分立であった状態をまとめ上げ、階層的行政秩序を構築し、「倭国中央」の意志を「倭国」の隅々まで(「直轄地」はもとより「附庸国」に至るまで)透徹させるために行なった「大改革」と考えられます。
その意味で「国県制」の施行は非常に重大であり、これを実行すると「広域行政体」としての「国」を治めるべき存在が必要になります。これが「国宰」であったものです。
この「国宰」という職掌については、その「名称」すらも『書紀』には出てきませんが、『風土記』などの資料や「木簡」などでその存在が確認されています。
ところで『常陸国風土記』をみると倭武天皇時につけられた地名を「国宰」が変更している例があります。
『常陸国風土記』「久慈郡の条」
「自此艮二十里 助川駅家 昔号遇鹿 古老曰 倭武天皇至於此時 皇后参遇因名矣 至国宰久米大夫之時 為河取鮭 改名助川 俗語謂鮭祖為須介」
これを見るとあたかも「国宰」は地名変更の権利を有しているかのようであり、それは「倭武天皇」の権威を犯しているように見えます。
「倭武天皇」が関東王朝の象徴的人物と理解できることは種々の状況からいえると思われますが、それを踏まえるとこの時点で「倭王権」の権威が「国宰」という役職を通して関東王権に対し優越的立場に立ったことがうかがえます。
また関東の前方後円墳の消長を見ると七世紀前半に一斉に途絶するのが判ります。すでにそれ以前(六世紀末)に西日本の前方後円墳の築造が停止するのを見ると、この政策の執行主体が西日本側にあったことは疑えません。またそのような「一斉停止」という事象は、「中央」が決めた規格以外のものの築造を許容しないという意思の表れであり、権威を透徹させようとする王権の意志の表れと思われます。
この状況を踏まえると「国宰」が派遣され広域行政体としての「国」が成立し、その責任者として「国宰」が任命派遣されたのは「前方後円墳」の築造が停止される「七世紀初め」ではなかったかということが強く推測できるでしょう。
『常陸国風土記』では「小領域」の責任者として「造」「別」がいたとされますが、推測によればすでに一部には「評」が設置されていたものであり、そこには「官道」が通じていて「直轄地」としての扱いを受けていたものと思われます。つまり「造」には「国造」と「評造」がいたものであり、それは「官道」の有無の違いではなかったかと推察されるわけです。つまり「官道」が通じていた場合その末端には「屯倉」があり、その「屯倉」とそれを取り巻くその周辺の生産地域を「評」と称し、そこを統括する「評督」あるいは「評造」が配されていたと思われるわけですが、他方「官道」が未整備の地域では「屯倉」が設置されておらずその結果「評」も設置されなかったものであり、そこには単に「国造」だけがいたこととなるでしょう。これらのことから「評」の責任者としての「評督」あるいは「評造」の方が「国造」よりランクが上であると思われることとなります。なぜなら「評」は「直轄地」であり、そこで生産・収穫されたものは基本的に「王権」に官道を通じて「直送」されるものであったわけであり、そのような地域を監督している役職である「評督」あるいは「評造」も「王権」との関係がより密であったとみられるからです。
このように「国宰」が設置される契機としては、「官道」の整備がより広範に進捗したことが関係していると思われます。以前から一部には通じていたと思われる「官道」も改めて規格を大幅に拡大して延伸することとなったものであり、その「官道」整備を契機として「広域行政体」の設置を試みたものとみられます。その際に「国宰」として「大夫」が任命され、派遣されたものでしょう。
この「大夫」と称する役職の階級は後世においても宮殿内に上がることのできる最低の位階である「五位以上」であり、ある意味一般の人々から見ると「雲の上の人」であったはずですから、そのような人物を配することにより王権の意思を直接伝えるという意図があったものと推量されます。
この「国宰」任命時点で以前の小領域の責任者である「国造・別」は廃されたはずですが、あらたに造られた「広域行政体」の中にはその国内に権威が行き届かない地域が残ったところもあったものとみられ、掩われた「権威」の網の「密度」の違いによっては「国造」がそのまま残った場合もあったとみられます。「下毛野」の一端である「那須」という地域がそのような地域であった可能性があるわけです。
ここは「蝦夷」との境界であり、明らかに「関東王権」としても「倭国王権」としても「末端」という場所にあり、「官道」がこの段階では開通しておらず「評」が設置されていなかったため、「国造」を自称していた人物(勢力)がそのまま後代まで依存し続けたということが考えられるでしょう。
上に見たように「国造」に比べ「評督」の方が権威が高かったという可能性があるわけです。そうであれば「評督」であった者が「国造」という役職(称号)をもらっても、(「那須直韋提」の場合)死後子供達が石碑を建てるほどの「栄誉」とはいえないと思われ、その意味でも「碑文」の解釈は「国造追大壹」が「評督」を授与されたとみるべきであり、古田氏や谷本氏の解釈には疑問が残るといえます。