古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「国造」と「評督」

2018年10月24日 | 古代史

 『隋書俀国伝』によれば「小国」が多数分立している状態であり、いわゆる「広域行政体」についての表記が確認できません。

「有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。」

 これをみると「軍尼」が統括している地域(領域)は120あるとされており、明らかに「広域行政体」としての領域(範囲)とは異なると思われます。その後「隋」から種々のことを学んだ「阿毎多利思北孤」は国内にそれを適用・敷衍し、多くの「改革」を行ったものと思われ、それはそれまでと違い「統一王者」としての「統治」範囲の拡大と強化を目的としたものであり、「小国」分立であった状態をまとめ上げ、階層的行政秩序を構築し、「倭国中央」の意志を「倭国」の隅々まで(「直轄地」はもとより「附庸国」に至るまで)透徹させるために行なった「大改革」と考えられます。
 その意味で「国県制」の施行は非常に重大であり、これを実行すると「広域行政体」としての「国」を治めるべき存在が必要になります。これが「国宰」であったものです。
この「国宰」という職掌については、その「名称」すらも『書紀』には出てきませんが、『風土記』などの資料や「木簡」などでその存在が確認されています。
ところで『常陸国風土記』をみると倭武天皇時につけられた地名を「国宰」が変更している例があります。

『常陸国風土記』「久慈郡の条」
「自此艮二十里 助川駅家 昔号遇鹿 古老曰 倭武天皇至於此時 皇后参遇因名矣 至国宰久米大夫之時 為河取鮭 改名助川 俗語謂鮭祖為須介」

 これを見るとあたかも「国宰」は地名変更の権利を有しているかのようであり、それは「倭武天皇」の権威を犯しているように見えます。
「倭武天皇」が関東王朝の象徴的人物と理解できることは種々の状況からいえると思われますが、それを踏まえるとこの時点で「倭王権」の権威が「国宰」という役職を通して関東王権に対し優越的立場に立ったことがうかがえます。

 また関東の前方後円墳の消長を見ると七世紀前半に一斉に途絶するのが判ります。すでにそれ以前(六世紀末)に西日本の前方後円墳の築造が停止するのを見ると、この政策の執行主体が西日本側にあったことは疑えません。またそのような「一斉停止」という事象は、「中央」が決めた規格以外のものの築造を許容しないという意思の表れであり、権威を透徹させようとする王権の意志の表れと思われます。
 この状況を踏まえると「国宰」が派遣され広域行政体としての「国」が成立し、その責任者として「国宰」が任命派遣されたのは「前方後円墳」の築造が停止される「七世紀初め」ではなかったかということが強く推測できるでしょう。

 『常陸国風土記』では「小領域」の責任者として「造」「別」がいたとされますが、推測によればすでに一部には「評」が設置されていたものであり、そこには「官道」が通じていて「直轄地」としての扱いを受けていたものと思われます。つまり「造」には「国造」と「評造」がいたものであり、それは「官道」の有無の違いではなかったかと推察されるわけです。つまり「官道」が通じていた場合その末端には「屯倉」があり、その「屯倉」とそれを取り巻くその周辺の生産地域を「評」と称し、そこを統括する「評督」あるいは「評造」が配されていたと思われるわけですが、他方「官道」が未整備の地域では「屯倉」が設置されておらずその結果「評」も設置されなかったものであり、そこには単に「国造」だけがいたこととなるでしょう。これらのことから「評」の責任者としての「評督」あるいは「評造」の方が「国造」よりランクが上であると思われることとなります。なぜなら「評」は「直轄地」であり、そこで生産・収穫されたものは基本的に「王権」に官道を通じて「直送」されるものであったわけであり、そのような地域を監督している役職である「評督」あるいは「評造」も「王権」との関係がより密であったとみられるからです。

 このように「国宰」が設置される契機としては、「官道」の整備がより広範に進捗したことが関係していると思われます。以前から一部には通じていたと思われる「官道」も改めて規格を大幅に拡大して延伸することとなったものであり、その「官道」整備を契機として「広域行政体」の設置を試みたものとみられます。その際に「国宰」として「大夫」が任命され、派遣されたものでしょう。
 この「大夫」と称する役職の階級は後世においても宮殿内に上がることのできる最低の位階である「五位以上」であり、ある意味一般の人々から見ると「雲の上の人」であったはずですから、そのような人物を配することにより王権の意思を直接伝えるという意図があったものと推量されます。

 この「国宰」任命時点で以前の小領域の責任者である「国造・別」は廃されたはずですが、あらたに造られた「広域行政体」の中にはその国内に権威が行き届かない地域が残ったところもあったものとみられ、掩われた「権威」の網の「密度」の違いによっては「国造」がそのまま残った場合もあったとみられます。「下毛野」の一端である「那須」という地域がそのような地域であった可能性があるわけです。
 ここは「蝦夷」との境界であり、明らかに「関東王権」としても「倭国王権」としても「末端」という場所にあり、「官道」がこの段階では開通しておらず「評」が設置されていなかったため、「国造」を自称していた人物(勢力)がそのまま後代まで依存し続けたということが考えられるでしょう。

 上に見たように「国造」に比べ「評督」の方が権威が高かったという可能性があるわけです。そうであれば「評督」であった者が「国造」という役職(称号)をもらっても、(「那須直韋提」の場合)死後子供達が石碑を建てるほどの「栄誉」とはいえないと思われ、その意味でも「碑文」の解釈は「国造追大壹」が「評督」を授与されたとみるべきであり、古田氏や谷本氏の解釈には疑問が残るといえます。

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『古田史学会報』一四八号をみて

2018年10月16日 | 古代史

『古田史学会報』一四八号が発行され、そこに「谷本茂氏」の『「那須国造碑」からみた『日本書紀』の紀年の信憑性」と題する論が巻頭掲載されています。
前回の記事はこの論の存在を前提としたものでしたが、さらに以下の点を指摘しておきます。

 この谷本氏の論をみると各種の資料状況から「干支が現行歴とは一年ずれた暦が存在したことは確実です。」としていますが、そのうち『定恵伝』については「遣唐使」団の一員として派遣された年次が「白鳳五年甲寅」と書かれており、これは「白雉」と「白鳳」の取り違えとしても『書紀』では派遣されたのは「白雉四年」の遣唐使団であり、そもそも「年次」が『書紀』とは異なるものですから、「干支」が「一年ずれている」という内容とはやや異なる事象と思われます。

 また『斉明紀』の「伊吉博徳」の記録によれば「同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以『己未年』七月三日發自難波三津之浦。」と書かれていますが、彼が出発したのは明らかに「六五九年」の「七月」であり、この年を「己未」と表現していますが、この干支は別にずれてはいません。
 彼を含む遣唐使団は明らかに「唐皇帝」の主宰する「朔旦冬至」の会に出席するためであったと思われますから(月の大小の相違は確認されるものの)間違いなく「六五九年」の出来事であり、その歳次の干支を「正確に」「己未」と表現していますから、特異な暦が使用されていたようには見えません。

 また「那須直韋提碑」の「那須国造追大壹」という表現を「六九〇年記事」につなげようとしているようですが、「叙位」は当時存在していたと思われる「浄御原朝廷の制」にあった(と考えられる)「考仕令」によって「毎年」秋から春にかけて各官人について評定されていたものであり、特定の年だけに行うものではなかったものです。
 該当する官人に対し前年の秋以降、翌年春までに勤務態度等が総合的に評定された結果、新たに位階を授けることが四月に行われていたものであり(これは基本となる「隋・唐の律令においても同様でした)、「韋提」の場合もその際に「評督」という地位を授けられたとみるべきと思われ、特にそれが「六九〇年」との錯誤というわけではないと思われます。(ちなみに「評督」を授けられた際の位階については何も書かれていないようですが、多分位階は微増でしかなかったものと思われるものの、彼と彼らの子供達にとっては「評督」が授けられたということがなにより重要であったものであったと思われ、そのため碑文では言及がないものと推測します)
 氏の指摘する「六九〇年記事」は「評定」の積算年数を定めたものと思われ、「位階」の上昇にいわば「歯止め」をかけたものではなかったでしょうか。

 また「服部氏」の論(『「浄御原令」を考える』)では「浄御原朝廷の制」つまり「浄御原律令」というものの実在性を指摘していますが、その始源が「天武朝」ではなく「七世紀半ば」の「白村江の戦い」以前の時期であるという指摘は首肯できるものです。さらに「隋」と「唐」との関係から「浄御原朝廷」というものが「八世紀新日本王権」とは異なる王権であるとみるべきという指摘も同様です。
 私見では「大宝律令」に影響を与えたものは巷間言われるような「永徽令」ではなく、それ以前の「貞観律令」あるいはその「貞観律令」が実質内容を引き継いだ「武徳律令」であると考えており、それについては( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/0e7725d957418c004b28a68175bb88f9 )で触れていますが、「釈奠」の際に祭祀を行う対象の変遷から「大宝律令」以前の「浄御原朝廷の制」というものの淵源が「隋」の「開皇律令」にあったものではないかと推論しています。

 ところで「開皇」は隋代の年号であり「開皇律令」というものは「年号+律令」という形となっています。これは後の「武徳律令」などでも踏襲されていますが、それを考えると「浄御原朝廷」とか「浄御原朝廷の制」というような用法は異例です。本来は「年号+律令」という形であったものを「年号」を表記するのを忌避するために「朝庭名」だけの表記としたとみられます。「年号」がついていると「いつ」制定されたかが明確となってしまいますし、「倭国年号」を極力表記したくないという意図も働いたものと思われ、そのためもあって「浄御原朝庭」というような表記となっていると思われます。しかし実態としてはやはり「年号+律令」という命名ではなかったかと思われ、それが制定されたのが「七世紀半ば」とすると考えられるのは「白雉」か「常色」であると思われます。しかし『書紀』で「孝徳」が発したとされる「詔勅」の類はほとんど「白雉」以前のものですから、可能性としては「常色」年間に律令が定められたものではなかったでしょうか。つまり「常色律令」というものが存在していたものではなかったと考えられるわけです。
(これは正木氏の主張である「常色の改革」の一環とも見る事ができそうです)
 それが「浄御原」という名がかぶせられて呼称されているのは、その時点の「宮」つまり「首都」は「浄御原宮」であったからであり、その時点で施行された「律令」は「浄御原朝廷の制」として認識されていたと言うことも考えられるところです。
 「浄御原宮」が七世紀半ばには存在していたとみられるのは以前に( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/1a02ca60f33fb9d2c9359c1d6893e52d )でも考察しましたが、「壬申の乱」以前に「浄御原宮」ができていたとみるのが相当であり、その場合「天智」の時代以前となるのは必定であり、その意味でも始源として「七世紀半ば」が想定可能と思われる訳です。

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20万ページビューを超えて

2018年10月15日 | 古代史

このブログも気がつけば20万ページビューを超えました。さほど面白くもないであろうこのブログを訪れるある意味奇特な方々に対し改めて深く御礼を申し上げます。

今後ともおつきあいのほどよろしくお願いいたします。

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「那須直韋提」の碑文解釈をめぐって(その後)

2018年10月13日 | 古代史

『続日本紀』では「大宝」と「建元」と共に「始停賜冠。易以位記」とあり、この時始めて「冠」を与えるのをやめ、「文書」にしたとあります。

『続日本紀』
「(文武)五年(七〇一年)三月甲午。對馬嶋貢金。建元爲大寶元年。始依新令。改制官名位号。親王明冠四品。諸王淨冠十四階。合十八階。諸臣正冠六階。直冠八階。勤冠四階。務冠四階。追冠四階。進冠四階。合卅階。外位始直冠正五位上階。終進冠少初位下階。合廿階。勳位始正冠正三位。終追冠從八位下階。合十二等。『始停賜冠。易以位記。語在年代暦。』」

 しかし、『書紀』を見ると「六八九年」という年次に筑紫に対して「給送位記」されており、その後「六九一年」には宮廷の人たちに「位記」を授けています。

「(持統)三年」(六八九年)九月庚辰朔己丑条」「遣直廣參石上朝臣麿。直廣肆石川朝臣虫名等於筑紫。給送位記。且監新城。」

「(持統)五年(六九一年)二月壬寅朔条」「…是日。授宮人位記。」

 これらの記事は『続日本紀』の記事とは明らかに齟齬するものであり、しかも、この記事以前には「位記」を授けるような「冠位」改正等の記事が見あたらないこともあり、この「位記」がどのような経緯で施行されるようになったのか不明となっています。

 中国では元来「官爵」の授与は同時に授与される「印綬」によって証明していたものです。これは後に「文書」である「告身」によるようになります。その延長線上に「位記」が存在するものであり、「位記」は「隋・唐」においては日常的に使用されるようになっていたことを考えると、「大宝年間」まで「位記」が採用されていなかったという『続日本紀』の記事には疑いが発生することとなります。つまり「倭国」が「遣隋使」「遣唐使」を送って「隋・唐」の制度導入を図っていた時期になぜ「位記」が採用されていないのかが不明となるでしょう。その意味では『書紀』の記事にはリアリティがあるといえます。この時代には「位記」が「印綬」に代わって使用されていたとして不思議ではないと思われるからです。
 「位記」が存在していたとすれば当然その書式も定まっていたこととなるでしょう。それは『大宝令』以前の定めである「浄御原朝廷の制」(『続日本紀』の表現)に則っていたと思われますが、『大宝令』がその「浄御原朝廷の制」を「准正」としていたとするなら、『公式令』に表されたものがほぼその当時の「位記」の書式を示しているとみられます。
その『公式令』の「奏授位記式条」によれば「六位以下」に冠位を授与する場合の書式は「太政官謹奏/本位姓名〈年若干其国其郡人〉今授其位/年月日/太政大臣位姓〈大納言加名。〉/式部卿位姓名」とすると定められています。これによれば「日付」は後方に来ますが、「木簡」によれば「評」木簡の中には日付を記したものがあり、それは全て先頭に来ています。一例を挙げれば以下のものなどです。

「甲午(六九四年か)九月十二日知田評阿具比里五木部皮嶋養米六斗」  (031  荷札集成-32(飛20-26  藤原宮跡北面中門地区)

(以下木簡は奈文研木簡データベースよりピックアップしたものです。)

「評制」施行時期はあきらかに「浄御原朝廷の制」施行下ですから、この木簡の書式がその「制」の何らかの「定め」に拠っていたことは確かと思われます。しかしその後の「郡」木簡には日付が後ろに書かれたものがみられるようになります。(以下一例)

「美濃国山県郡郷〈〉三斗十月廿二日〈〉 」( 033  平城宮7-12775(木研23  平城宮第一次大極殿院西面築地回)

この木簡の書式も何からの定めに拠ったと考えれば基本は上に見た『大宝令』の『公式令』がその候補として上がるでしょう。

 ところで「那須直韋提碑」に書かれた「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原宮那須国造追/大壹那須直韋提評督被賜」という文章については、私見ではそれが「朝廷」からの「任命文書」に沿って書かれたものと理解しています。この任命を「栄誉」と考えたがゆえに「碑文」が書かれたとするならそこから直接引用して当然だからです。
 当然この文書の書式は任命元である「浄御原朝廷の制」としての「位記」の書式に則ったものであったはずですから、その記述順序はその時点の『公式令』によったものとみるべきでしょう。
 この文章を見ると「日付」が先頭にあり任命する側である「浄御原朝廷」と「本位姓名」から「今授其位」と続きますから、基本は『大宝令』の『公式令』に沿ったものであり、それはまた『大宝令』が「准正」としたという「浄御原朝廷の制」における『公式令』に則っていると判断できるのではないでしょうか。

 また日付の位置が先頭にありますが、それは「評制」下の木簡と同様ですから、その意味でもこの時点の『公式令』の「書式」を表現しているとみるべきであり、そうであればやはり以前の検討の通り「那須国造追大壹」であった「那須直韋提」が「評督」を「賜」ったとみるのが相当ではないかと思われることとなります。(「授」を「賜う」に代え「視点」の変更をしているとみられるわけです。)

 推測によれば、「追大壱」という冠位が「国造」である(あるいは自称していた)「韋提」に授けられた時点で、やっと「官道」が「那須」という地域に到達したものであり、この「下毛野」の「那須」という領域がこの時点付近で「倭国王権」の権威が「直接」届くようになったと言うことを意味すると思われます。さらにそれから数年後そこに「屯倉」(この時点では「駅家」か)が造られその支配の拠点として「評」が成立したものであり、その監督者である「評督」に「那須国造追大壹」であるところの「那須直韋提」が選ばれたという流れと理解できるでしょう。
 すでに述べたようにこの北関東という蝦夷との境界地域は長く「倭国王権」の「直接」統治領域ではなかったものであり、当地を支配する「在地首長」の手に委ねられていたものと思われます。このため「評制」の施行、「評督」の任命などのことが他地域に比べ大幅に遅れていたものと推量されますが、「天智」の革命とそれ以降に発生した「壬申の乱」などで「東国」の地位が上昇すると共にこの地域に対して統治の網をかぶせることが必要と考えられるようになったものと思われますが、重要なこととして「白鳳の大震災」とも言うべき「六八四年」の大地震と大津波による当時の権力中枢であるところの「西日本」の甚大な被災があったものと思われます。
 この時の「倭国王権」は必然的に「西日本」から「東日本」へその依拠する重点を変更せざるを得なくなったものであり、官道の延伸(この場合「東山道」か)が行われるようになった時点以降この地域も「直接統治領域」として組み込まれ、「評制」が施行されるようになったという流れの中にこの「碑」の文章も理解するべきと思われるわけです。

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「伊勢王」とは(二)

2018年10月02日 | 古代史

 「伊勢王」に関する考察を行いましたが、さらに考えてみます。
 『孝徳紀』によると「白雉改元」儀式の際に「執輿後頭置於御座之前」、つまり、「白雉」が入った籠が乗った御輿を担いで「天皇」と「皇太子」の前に置く、と言う重要な役どころで「伊勢王」という人物が登場します。

 (以下白雉献上の儀式)
「白雉元年(六五〇年)…二月庚午朔…甲寅。朝庭隊仗如元會儀。左右大臣。百官人等。爲四列於紫門外。以粟田臣飯中等四人使執雉輿。而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋。其弟塞城忠勝。高麗侍醫毛治。新羅侍學士等而至中庭。使三國公麻呂。猪名公高見。三輪君甕穗。紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前。時左右大臣就執輿前頭。『伊勢王』。三國公麻呂。倉臣小屎。執輿後頭置於御座之前。」

 輿は担ぐ際には左右対称な人数が担がなければ安定しないわけですから、必ず「偶数」となるはずです。しかし、記事によれば「殿前」までは確かに「四人」で担いできたにも関わらず、「御座の前」まで持ってきたときには「五人」になっています。(前左右が「左右大臣」、後ろが「伊勢王。三國公麻呂。倉臣小屎」の三名です)
 つまり、「輿」の後ろを担ぐべき人間の数が一人多いと考えられます。この後ろを担いでいる三人の内「三國公麻呂」はその前から担ぎ続けているため、この時点で新たに後ろ側の担ぎ手となったのは「伊勢王」と「倉臣小屎」の二人です。このどちらかが「余計」であると考えられるわけであり、それは「伊勢王」ではなかったかと考えられるものです。

 「余計」な人物を書き加えている、ということは、その人物が「重要」で意味のある人物である証拠です。そういう意味では「倉臣小屎」は『書紀』の中にはここ以外には全く出てきませんし、何の事績も書かれていません。このような人物をわざわざ書き加える理由がなく、彼が「余計に」追加させられた人物であるはずがないこととなります。つまり、追加させられた人物は「伊勢王」である可能性が強いこととなります。
 このことは「伊勢王」が輿を担いでいる、と言う事を強調したいがために(別の言い方をすると「輿を担ぐ身分である」と言うことを強調するために)「改変」されたものと考えられます。にも関わらず「死亡記事」(天智紀)では「未詳官位」とされており、これらの情報が欠如している(書かれていない)のは明らかに不審であり、「意図的」なものと考えられます。

 この『孝徳紀』からおよそ三十年離れた『天武紀』にも「伊勢王」に関連する記事が多く書かれています。この『天武紀』は「八世紀」に入ってから「付加」された部分とみられ、その内容は『孝徳紀』からの切り貼りであることが強く推量されます。つまり、「伊勢王」も本来は「白雉改元」の儀式で判るように「孝徳朝」の人物であったと見られるわけです。
 これを裏付けるのが「威奈大村」の「骨蔵器」に書かれた文章です。これは「壬申の乱」に登場する「伊那公高見」という人物の「子」に当たると思われる人物に関わるものと考えられていますが、「七〇七年」に埋葬されたことがその「骨蔵器」に書かれたものであり、ほぼ同時代資料と思われ、信頼性は高いと思われます。

 「卿諱大村檜前五百野宮/御宇 天皇之四世後岡/本宮聖朝紫冠威奈鏡公之/第三子也卿温良在性恭/倹為懐簡而廉隅柔而成/立後清原聖朝初授務広/肆藤原聖朝小納言闕於/是高門貴兜各望備員(スペース)/天皇特擢卿除小納言授/勤広肆居無幾進位直廣/肆大寶元年律令初定/更授従五位下乃兼侍従/…以慶雲四歳在丁未/四月廿四日寝疾終於越/城時年卌(四十)六粤其年冬/十一月乙未朔廿一日乙/卯帰葬於大倭国葛木下/郡山君里狛井山崗天潢/…」(威奈大村骨蔵器銘文)

 これで見ると「威奈大村」は「七〇七年」で「四十六歳」であったというのですから、生年は「六六一年」となります。(日付から考えると「七〇七年」という年次には間違いがないと思われるため)
 また彼は「三子」とされますから、「父」である「威奈鏡公」はこの「六六一年」当時いわゆる「壮年」であったと思われ、四十歳前後ではなかったかと考えられますが、彼は「白雉改元」の儀式の際に「輿」を担いでいる「猪名公高見」と同一人物という考え方があり、もしそれが正しければ、「白雉改元」儀式は「六五二年」とされますから、この当時「威奈鏡公」という人物はその時点で三十歳程度と思われ(もしこれより若かったとしても「二十代前半」より若くはないと思われます)、年齢に関する点はそれほど不自然がありません。
 そもそも「猪名(伊奈とも)公」は『書紀』では「多治比公」と共に「宣化天皇」の「玄孫」とされており、「血筋」は卑しくなく、このような華やかで重要な儀式に参加したとして何ら不思議ではないと考えられるでしょう。
 その「猪名公高見」と共に「輿」を担いでいるのが「伊勢王」なのですから、彼もこの「猪名公高見(威奈鏡公)」と同時代を生きた人物であり、「孝徳朝期」に存在した人物であるとみて間違いないと考えられます。
 そう考えると、『天武紀』の「伊勢王」関連記事には明らかな「記事移動」があると考えなければなりません。

 また『天武紀』には「天武」の葬儀記事があり、そこにも「伊勢王」が出てきます。

「(朱鳥)元年(六八六年)…
九月甲子。平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次『淨大肆伊勢王』誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴惣誄宮内事。次淨廣肆河内王誄左右大舍人事。次直大參當摩眞人國見誄左右兵衞事。次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人誄膳職事。…」

「(持統)二年(六八八年)八月丁亥朔丙申。甞于殯宮而慟哭焉。於是。大伴宿禰安麻呂誄焉。
丁酉。命淨大肆伊勢王奉宣葬儀。」

 いずれの記事でも「淨大肆」という冠位(官位)が書かれています。この冠位は「六八五年」に定められたという「冠位四十八階」の十一番目のものでしかありません。しかし既に述べたように「伊勢王」と「弟王」については「天智紀」と「斉明紀」と二回ある「死亡記事」のいずれにも「薨」という語が使用されており、これは『書紀』『続日本紀』では「三位以上」の高位者のみに使用されるものですから、「諸王五位」あるいは「淨大肆」という「五位」程度の位階しかなかったように書かれている事には疑いが生ずることとなります。これは彼らが実際には「明位階」にあったことを示すものと思われ、「諸王」と云うより「親王」であったと考えられるわけです。
 以上から「時期の矛盾」と「位階の矛盾」を共に解消できる説明は「年次移動」しかないと思われます。



(この項の作成日 2011/07/03、最終更新 2017/02/26)旧ホームページ記事の転載

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