「大宰府政庁」については現在地上に見える礎石の下に同じような配置の礎石が確認され、さらにその下層に「掘立柱建物」の柱穴があり、計「三期」に及ぶ遺構であることが明らかになっています。しかも「第Ⅱ期遺構」は「条坊」と「ずれている」事が判明しています。
例えば「朱雀大路」は最終的に「政庁第Ⅲ期」段階で「条坊」の区画ときれいに整合する事となりますが、それ以前の「朱雀大路」は「条坊」と明らかに食い違っているのです。(「政庁中軸線」の延長が「条坊」の区画の「内部」を通過しています)これは「条坊」区画が既に存在しているところに「政庁中軸線」を「別途」設けたために、既存条坊とずれてしまったとみられています。(この事は当然当初の「朱雀大路」は別にあったと言う事になります。)
つまり「大宰府政庁第Ⅰ期」は条坊と整合しているというわけですが、それは少なくとも「政庁」が「掘立柱建築」という初期段階で条坊があったこととなります。さらにそれ以前に「プレⅠ期」とでもいうべき時期があり、その時点では「都城」の中央部付近に「宮域」が設けられたという可能性が指摘されています。(それは「藤原宮」との類似からの推論のようですが)
その場所は「右郭南方」に存在する「通古賀地区」がそれであったとされ、そうなれば、現在の「太宰府政庁遺跡」の最下層建物(政庁第Ⅰ期古段階)の「柱穴」は、当然「通古賀地区」にあった「宮域」が「北辺」に「移動」した際に形成されたこととなります。(これは「移築」でしょうか)
『周礼考工記』によれば「都城」には縦横とも中央を貫く幹線道路を設けることとされています。つまり、真ん中に「朱雀大路」的道路を設け、東西南北に直交する幹線道路を設けるというように指示されているわけです。「通古賀地区」が本来の「真ん中」であり「宮域」であったとすると、そこを中心として「朱雀大路」があったはずということとなりますが、その場合「右郭四坊線」がそうであったと推定され、この仮想「朱雀大路」を「南側」に延長すると「基山」の山頂を通過します。(正方位から一度以内の差です。)このことはこの時点の「都城」(「政庁プレ第Ⅰ期」)の設計というものが「基山」を基準として造られたことを推定させるものです。
また、この「政庁プレ第Ⅰ期」が「周礼考工記」に準拠して造られたとすると、「王城」の大きさも同様であったと思われますが、そこには「方九里」という規定がありますから「通古賀地区」が中心(宮域)であったと仮定して、この規定を当てはめてみると、(「一坊一里」ですから)「方九里」とは「九区画四方」(九坊四方)という範囲を意味し、これを「条坊」に当てはめて考えてみると、ちょうど現在見られる「右郭」の南側半分程度の範囲となります。
その東端としては現在「朱雀大路」跡と思われているところが該当することとなり、また「朱雀門」礎石が出た場所は「区画」の東北の隅に当たります。これらのことからも、これらの「位置関係」が当初から「計算」されたものであることを示すものです。
そもそも「遣隋使」が派遣されたのが『隋初』つまり「開皇の始め」であるとすると、まだ「隋」の新都である「大興城」はかなりの部分が未完成であったと思われると同時に「北周」以来の都である「長安城」は「周礼」に基づいておらず、「遣隋使」が「都城制」について学ぶとすると「北辺」に「宮域」を持ついわゆる「北朝式」の都城を学んだはずであることとなります。
しかし「政庁プレ第Ⅰ期」は「周礼」に基づいていると考えられるわけですが、「都城プラン」が「周礼」に基づいているものとしては「漢魏」以降存在していた「洛陽城」がありました。これを参考にしたとも考えられます。
『隋書俀国伝』では「倭国」の都について「無城郭」とされています。つまり「城郭」がないというわけですから、「城」とそれをめぐる「郭」がなかったこととなります。これは「遣隋使」以前の倭国の「都」に関する情報ですから、それが「隋」以前のものであるのは明らかであり、この点については南朝の都「建業」の都城との比較が参考になるでしょう。「建業」には「羅城」がなかったとされ「木製」の柵で区切りとしていたとされています。
「倭国」と南朝の関係を考えると、このような「南朝」の都の情報を「倭国王権」が知らなかったとは考えにくく、少なくとも「百済」を通じるという形でその情報を得ていたと見るべきでしょう。
「北魏」の「洛陽城」と「南朝」の「建業」とはいずれもその中心付近に「宮域」を持ちその北側には「華林園」という「緑地帯」を持っていたとされ共通したデザインコンセプトであることが確認されていますが、それはその前代の「魏晋洛陽城」において実現したこととされています。
「魏晋」ではその前代の「後漢」の「洛陽城」をそのまま継承したとされていましたが、実際にはデザイン変更が行われており、その「魏晋洛陽城」がその後の南北朝における各首都のデザインの祖型となったとされています。当然それは「百済」「倭国」など「魏晋朝」やそれ以降の「南朝」と長く交渉があった諸国に伝来したとして不思議はありません。
「百済」では「泗沘城」と「青馬山城」というように「都城」と「山城」という組み合わせが「普遍的」であり、それは「倭国」においても「筑紫都城」と「大野城」等の山城という組み合わせが多分に「百済的」であるところに現れていると考えられますが、その「泗沘都城」)に存在していた「定林寺」などの発掘から、「百済」の仏教建築や瓦製造技術などが「南朝」(特に「梁」)からの伝来であることが強く想定されていますから、その流れが「倭国」においても「同笵瓦」と「四天王寺式」という形式を共有する「飛鳥寺」「四天王寺」などの一連の寺院の存在に現れていると考えられ、その意味でも「周礼」に基づく「条坊」を伴った「都」というものも「南朝」との関係をまず考えるべきと思われることとなり、「倭国」の都においても「中心付近」に「宮域」があり、周囲は簡単に「木柵」で囲う程度の「郭」があったものと推定され、それを『隋書俀国伝』では「無城郭」と称していると思われます。(この形状は「難波京」においても同様であったと思われ、周辺から「柵」状のものが出土しています)
以上から「通古賀地区」に「宮域」があった当時の「原初型」としては、現在の「太宰府」のほぼ「四分の一」程度の広さであったこととなり、その後「都城域」は時代の進展と共に拡大されたものと見られ、(つまり「左郭」は後になってから増加された部分と思われることとなります)そのタイミングはいわゆる「大宰府政庁第Ⅰ期」と考えられている遺構の時期を指すと思われます。その時点で「北朝形式」の都城が形成されたと考えられ、その時期としては「白村江の戦い」の後のこととする見解が大勢ですが、この「北朝形式」の「都城」プランが「遣隋使」が持ち帰った知識に基づくという可能性が考えられることを前提とすると、実際の時期としては「六世紀後半」あるいは「七世紀前半」という年代ではなかったかと推定され、その完成を示しているのが「九州年号」の「倭京改元」付近ではなかったかと考えられます。
(この項の作成日 2011/08/28、最終更新 2015/05/23)(ホームページ記載記事を転記)