古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「大隅国」成立について

2013年10月27日 | 古代史

 前回は「大隅」地域に「評制」が「薩摩」「肥」に先行して適用されていて当然と考えられることを示しましたが、しかし「続日本紀」によれば「大隅国」の設置はかなり遅れた時期のこととして書かれています。

「(和銅)六年(七一三年)夏四月乙未条」「割丹波國加佐。與佐。丹波。竹野。熊野五郡。始置丹後國。割備前國英多。勝田。苫田。久米。大庭。眞嶋六郡。始置美作國。割日向國肝坏。贈於。大隅。姶良四郡。始置大隅國。」

 ここでは「八世紀」に入ってから(ようやく)「大隅国」ができたように書かれている訳ですが、上に見た「大隅隼人」に対する対応からは、「大隅国」というものの成立が実はもっと早かったとしても別に不思議ではないこととなります。
 これに関連して「正木氏」は「続日本紀」中に「大隅国」を設置するために必要な「論奏」記事が見あたらないことを受けて「抹殺」されたとされ、「九州王朝」の終焉と関連して語られました。
 確かに「養老令」(公式令)によれば「国」を新たに設置する場合など重要な事案については「大臣」以下の論議を経て奏上されなければならないとされており、「大隅国」に関してはそれに関する記事が欠けているのは事実です。しかし、それは同時に「設置」されたという「美作」「丹後」にも共通するものであり「大隅」だけのことではありません。これらの国々についても「論奏」は行われていないのです。
 これについては私見によれば「大隅国」の成立というものの持つ意味あるいは事情というものも、「美作」「丹後」などと同様であったと思われ、もっぱら「実生活」上の利便性の点からのものであったと考えられます。それは「出羽国」の場合とは決定的に状況が異なるものと考えられるものです。
 「出羽国」の場合、「蝦夷」などの対外勢力に対する拠点作りをするという趣旨の「論奏」により建てられたことが明記されており、あくまでも「軍事的」事情によると考えられ、全くその経緯が異なると思われます。
(以下「出羽国」設置の論奏)

「(和銅)五年(七一二年)九月己丑条」「太政官議奏曰。建國辟疆。武功所貴。設官撫民。文教所崇。其北道蝦狄。遠憑阻險。實縱狂心。屡驚邊境。自官軍雷撃。凶賊霧消。狄部晏然。皇民無擾。誠望便乗時機。遂置一國。式樹司宰。永鎭百姓。奏可之。於是始置出羽國。」

 更にこの「出羽国設置」記事をよく見ると、全く新規に「国」を造るというわけであるのに対して、「大隅」(及び共に造られた「丹後」と「美作」)については「分国」であるとされます。「丹後」の場合は「丹波国」から「五郡」を分割したものであり、「美作」の場合は「備前国」から「六郡」を割いたものです。これらと同様「大隅国」の場合も「日向国」から「四郡」を分割して出来たものであって、その点でも「出羽国」とは全く状況が異なっています。
 分割される前の「備前」「丹波」は無論「倭国」にとって旧来からの「安定地域」であり、国境紛争などの問題がありませんでした。それは分割される前の「日向国」についても同様ではなかったかと考えられ、「大隅地域」に紛争があると言うような事情は窺えないものです。

 そもそも、「公式令」に規定されているにも関わらず、このような「論奏」が行われて成立したと「続日本紀」に書かれているのは「管見」する限り「出羽国」だけであり、この例がかなり特殊な事情によるものであったことが推測されます。
 「蝦夷」と境を接するような東北の「紛争地域」という特殊事情がそこにあったものと見なければならず、そのような地域や事情がない限り、基本的には「国」の設置は即座に「分国」となるわけであり、それが特に軍事的に重要であるとか、地域紛争を招くような事情がなく、反対意見等がない限り、議論にもならなかったと考えられ、そのため「論奏記事」そのものが「続日本紀」中に見られないということとなったのではないかと考えられます。
 この「大隅国」(となる地域)が「安定地域」であったという結論は、「書紀」の「大隅」「阿多」の隼人記事を見ても首肯できるものであり、その「帰順」が早期に行われたとすると「戦い」は必要ではないこととなり、そのため「論奏記事」がないということとなったと考えられるのではないでしょうか。
 また、「大隅国」に当たる地域が「安定地域」であり「紛争」がなかったと考えられることは即座に、その「大隅国」の成立そのものがもっと早期のことであったのではないかという先の推測が的を得ている可能性も考えられます。
 それを窺わせるのが上の「和銅六年記事」に相当する「日本帝皇年代記」の記事です。「続日本紀」記事では「丹波」と「丹後国」「美作国」と並んで「大隅国」が作られたと書かれていますが、「日本帝皇年代記」の「癸丑(和銅)六」年記事では(以下に見るように)「丹後国」と「美作国」の成立についてしか書かれていません。(但し「丹後国」のために割譲された郡の数が異なりますが)

「癸丑六割備前六郡始為美作国、割丹波六郡為丹後也、唐玄宗開元元年 稲荷大明神始顕現」

 つまり「大隅国」成立については触れられていないのです。このことは「続日本紀」の「大隅国」成立記事が真実か疑わしいこととならざるを得ないと思われます。

 以上のことから、「大隅」に「評制」が施行されていないというのははなはだ考えにくいこととなります。
 「評制」が施行されているとすると、その「評」は「国」の下部組織であるわけですから、その時点における「大隅国」というものの存在が強く示唆されることとなるでしょう。これらのことから「大隅国」の成立はもっと早期の時点を想定すべきこととなると思われ、「忌寸」ないしはそれ以前の「直」等の「カバネ」を付与した段階が想定されるものであり、その意味からも「斉明紀」記事の信憑性が高いものと思料します。

(続く)

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「三十四年遡上」について(続き)

2013年10月21日 | 古代史

 前回は「斉明紀」と「持統紀」の「蝦夷関連記事」を比較して、「正木氏」の方法論ではそれが「同一の記事である」と言い切れないことを指摘した訳ですが、「三十四年遡上」研究のまな板に載せられた「持統」と「斉明」の「蝦夷関係」記事と同じ文脈の中に「隼人」記事が現れます。
 「蝦夷」関連記事から直接「三十四年遡上」するとは言えなくなった訳ですが、この「隼人」関連記事についてはどうでしょう。

 以下に「書紀」の中で現れる「隼人」記事の内「斉明紀」以降について書き出してみます。

(イ)斉明天皇元年(六五五)是歳。高麗。百濟。新羅。並遣使進調。(百濟大使西部達率余宜受。副使東部恩率調信仁。凡一百餘人。)蝦夷。隼人率衆内屬。詣闕朝獻。新羅別以及餐彌武爲質。以十二人爲才伎者。彌武遇疾而死。是年也太歳乙卯。

(ロ)天武十一年(六八二年)秋七月壬辰朔甲午。隼人多來貢方物。是日。大隅隼人與阿多隼人相撲於朝廷。大隅隼人勝之。
丙辰。多禰人。掖玖人。阿麻彌人。賜祿各有差。

(ハ)天武十四年(六八五年)六月乙亥朔甲午。大倭連。葛城連。凡川内連。山背連。難波連。紀酒人連。倭漢連。河内漢連。秦連。大隅直。書連并十一氏賜姓曰忌寸。

(二)「朱鳥元年(六八六年)九月戊戌朔丙寅。僧尼亦發哀。是日。直廣肆阿倍久努朝臣麻呂誄刑官事。次直廣肆紀朝臣弓張誄民官事。次直廣肆穗積朝臣虫麻呂誄諸國司事。次大隅。阿多隼人及倭。河内馬飼部造各誄之。」

(ホ)「持統元年(六八七年)五月甲子朔乙酉条」「皇太子率公卿百寮人等適殯宮而慟哭焉。於是隼人大隈阿多魁帥。各領己衆互進誄焉。」

(へ)秋七月癸亥朔辛未条」「賞賜隼人大隅。阿多魁帥等三百卅七人。各各有差。」

(ト)持統三年(六八九年)(中略)
壬戌。詔出雲國司。上送遭値風浪蕃人。是日。賜越蝦夷沙門道信佛像一躯。潅頂幡。鍾鉢各一口。五色綵各五尺。綿五屯。布一十端。鍬一十枚。鞍一具。筑紫大宰粟田眞人朝臣等獻隼人一百七十四人。并布五十常。牛皮六枚。鹿皮五十枚。

(チ)持統九年(六九五年)(中略)
五月丁未朔己未。饗隼人大隅。
丁卯。觀隼人相撲於西槻下

このうち(イ)の「六五五年」記事では「内属」という用語が使用されています。この語はそれまで「倭国」の版図には入っていなかった領域が「倭国」に組み込まれたことを示すものですが、それはそれ以降の時期に「朝貢」記事があることと矛盾します。「朝貢」という用語は本来「皇帝」(天子)の統治領域の「外」からの貢献という意味であり、「朝貢」する国は言ってみれば「外国」です。ですから「朝貢」記事が「内属」記事に先行して当然のはずが「逆」になっているのです。
 従来これら「隼人」関連記事の中では「天武紀」(六八一年)記事が信頼の置ける最古のものであるとされており、これ以降「隼人」は「朝貢」をするようになったものであり、その後次第に「ヤマト王権」に組み込まれていくという文脈で語られることが多いのですが、そう考えざるを得なかったのは「朝貢」記事よりも、「内属」記事の方が「年次」的に先行している点が「不審」であったからだと思われます。つまり、それ以前の「隼人」記事については「潤色」であり、後代の「追記」ないしは「変改」であるとされているのです。例えば「履中記」における「墨江中王」関連記事(説話)などについても、それがその時代の事実ではないとされているわけです。
 そして、その根拠として出されているのが「日本版中華思想」というものであり、「倭国中央」(「近畿王権一元論者」達は「近畿」とする)を中心として周辺に「隼人」「蝦夷」が配置されるようになるのはそのような「思想」が顕在化した時点であり、それは「天武」の時代であるとされ、彼の時代に「天皇号使用」「律令制の開始」などが行われるようになることと関係しているというわけであり、そのためこれらの「隼人朝献」というような記事についても「天武朝」を想定する意見が多数であるわけです。
 また、「南九州」に多く残る「地下式横穴墓」(地下式土擴)についても、これが「隼人」の「墓」であるという考え方も以前はあったようですが、最近はそれも否定され、「隼人」と直接結びつくものではないとされることが多くなっていたようです。その理由として挙げられるもののひとつが上に見た「天武紀」以降が「隼人」の時間帯であるという考え方であり、「地下式横穴墓」は「考古学的」には、「五-六世紀」中心の遺構であり、どんなに下っても「七世紀半ば」であるとされていますから、歴史上の「時間帯」が食い違っていると考えられていたものです。
 しかし、(ハ)記事を見ると、「隼人」の有力者と思われる人物である「大隅直」に対して「忌寸」という「姓」が与えられています。ここで与えられた「忌寸」以前の姓である「直」は、そもそも「倭国中央」から見て「辺境」といえる地域の有力者に対して(半ば一方的に)「付与」される「姓」であったものであり、このような「姓」を与えることにより「倭国」は「辺境」を自らの「勢力下」に置くという政策を行っていたと思われます。彼はこの「直」を既に保有していたこととなるわけですが、それが「書紀」内に明記されていません。しかし、かなり以前から「直」を付与されていたものと見るべきですが、そうであれば、「斉明紀」の記事が一概に不審とは出来なくなると思われます。この記事の信頼性が高いとすると、「地下式横穴墓」も「隼人」の墓とみることも可能となるでしょう。つまり、仮に「隼人」が「内属」した時期が「七世紀の半ば」とすると、そのことと「地下式横穴墓」の消滅とが「関連している」と考えられることとなるでしょう。
 「地域」の代表者が「直」という称号を授かり「倭国」の版図の一部を形成するようになるということは、即座に「倭国体制」に組み込まれた事を意味しますし、そうであれば、その時期以降は「地下式横穴墓」形式の「墓」は顧みられなくなり、「円墳」などに取って代わられることになるでしょう。それも「自ら選んだ」と言うより、「選ばされた」ものと思料され、「五世紀」代の「近畿」以東における「前方後円墳」の強制と同様の事象が「南九州」で起こっていたと考えられる事となります。つまり「倭国」への編入、馴化というものが「斉明紀」代に起きたとした方が「考古学時状況」に合致するといえるでしょう。

 また、「大隅直」という「姓」を持った存在はまた、「大隅国」というものの形成を意味するものであったという可能性もあります。
 他の地域に於いても「直」や「忌寸」がいるところは、「倭国」の内部の「諸国」とし存在していたと考えられますから、少なくとも「忌寸」段階での「国」形成を想定することは可能であると思われます。そうであれば「評制」がこの段階で施行されたということも充分考えられることです。
 「続日本紀」によれば「大隅国」の成立はかなり後の事になるとされていますが、そのことについても批判的に摂取する必要があるでしょう。たとえば「続日本紀」には「薩摩」と「肥」の人々による「反抗」等に類することが起きたと書かれています。
 
 「(文武四年)(七〇〇年)六月庚辰。薩末比賣。久賣。波豆。衣評督衣君縣。助督衣君弖自美。又肝衝難波。從肥人等持兵。剽劫覓國使刑部眞木等。於是勅竺志惣領。准犯决罸」

「(大宝二年)(七〇二年)八月丙申朔。薩摩多褹。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉。…。」
「同年」九月乙丑朔…戊寅。…。討薩摩隼人軍士。授勲各有差。」

 ここでは「続日本紀」として始めて、「評」が姿を現しています。彼らが「評督」などであったのなら、必ず「国-評-里」という制度の中にあったはずであり、そのことはこの時点で「薩摩」「肥」という「国」が建てられていたことを示すものと思われます。
 ところで冒頭の記事の中には「大隅隼人」「阿多隼人」というのは出てくるものの、「薩摩」「肥」の「隼人」という存在は出て来ません。また「朝廷」で相撲を取るなどの記事内容を見ても、この「大隅」「阿多」の両隼人グループは早期から友好的であることが理解できます。つまり、「薩摩」(及び「肥」)とは異なり「大隅」「阿多」は「早期」に「倭国王権」に対して「帰順」したものと考えられるわけです。「持統紀」の「天武」の死に際しての誄にも「大隅」「阿多」は出てくるものの「薩摩」「肥」の「隼人」は葬儀に参列さえしていないことが判ります。しかし、その「薩摩」「肥」には「評督」「助督」が存在していたとが明らかなわけですから、「直」や「忌寸」などの「カバネ」を持った人物が(おそらく族長として)存在していた「大隅」に(及び「阿多」にも)「評督」がいなかったあるいは「評制」が施行されていなかったとはとても考えられないこととなるでしょう。
 次回は「大隅国」の成立について考察します。

(続く)

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「大伴部博麻」の「三十年」の拘束の理由(一)

2013年10月17日 | 古代史

  「大伴部博麻」は「薩耶麻達」に旅費などを捻出するため「身を売り」、そのため「三十年」に渡って帰国することが出来なかったとされています。しかし、既に見たように彼は「奴隷」となったわけではなく、あくまでも「債務」を負い、それを「労働」で返済するという形でした。つまり「借金」が返済されれば解放されたはずなのです。その弁済に「三十年」かかったということとなるでしょう。
 ところで「博麻」が債務を負ったのは何人分の「衣糧」なのでしょう。それに関して「持統天皇」の「詔」を見てみます。

「持統四年(六九〇)冬十月乙丑 詔軍丁築後國上陽咩郡人大伴部博麻曰 於天豐財重日足?天皇七年 救百濟之役 汝為唐軍見虜 洎天命開別天皇三年 土師連富杼 冰連老 筑紫君薩夜麻 弓削連元寶兒 四人 思欲奏聞唐人所計 ?無衣糧 憂不能答 於是博麻謂土師富杼等曰 我欲共汝還向本朝 ?無衣糧 ?不能去 願賣我身 以充衣食 富杼等依博麻計得通天朝 汝獨淹滯他界於今三十年矣 朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠 故賜務大肆并絁五匹綿十一屯布三十端稻一千束水田肆町 其水田及至曾孫也 免三族課役 以顯其功.」

 この「詔」によると「大伴部博麻」が「筑紫君薩夜麻」達「四人」のために「体」を売ったと書かれているようですが、確かにこの「詔」の中では「富杼等」と言うように「複数形」では書かれていますが、この「等」が「土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒」の四人全員を指すかというとそれは明らかに違うと思われます。
 そもそも「大伴部博麻」が「献身」して帰国費用を捻出させたはずの「筑紫君薩耶麻」が帰国したのは「書紀」によれば「六七一年」のことであり、明らかに「富杼等」という中に「薩耶麻」は入っていないこととなるでしょう。
 「持統天皇」の詔にある、「薩耶麻」達を帰還させるために「大伴部博麻」の献身が提案された年次である「天命開別天皇三年」というのが何年の事なのかについては、諸説があるものの「書紀」中の「天命開別天皇の何年」という例は全て「称制期間」を指すものであり、ここでいう「天命開別天皇三年」も同様に「称制期間」と考えるべきものですから、「六六四年」のこととなります。すると「薩耶麻」の帰国はその時点から「七年」も経過していることとなります。
 この帰国に「博麻」の「献身」が効果を発揮したならば、「同年」(六六四年)か遅くても翌年の(六六五年)には帰国可能であったかと思慮され、(身を売ってまで帰国して通報しなければならない「緊急性」のある事項ならば、その年の内か、遅くてもその翌年には帰国していなければならないでしょう)かなり遅れて帰国した「薩夜麻」の、帰国に伴う事情と「博麻」の「献身」とは関連性が薄いものと判断されざるを得ません。

 さらに「正木氏」も論文(「薩夜麻の「冤罪」Ⅲ」古田史学会報八十三号)の「補論」で述べているように、この「薩耶麻」の帰国にあたって、はたして「費用」を自前で用意する必要があったかは疑問です。
 彼は当時「百済」を占領していた「唐将」「劉仁願」の部下と考えられる「郭務宋」に同行して帰国したわけですから、彼の帰国は「熊津都督府」の「公務」の一環であると見なされるものであり、そうであれば彼の帰国費用を彼自身が負担したとは考えられないこととなります。
 つまり少なくとも「薩耶麻」の帰国は「大伴部博麻」の献身とは全く別個に行われたものと推定され、帰国した「富杼等」という表現には「薩耶麻」が入っていないのは明確です。それでは残り三人は同時に帰国したのかというと、それも違うと思われます。それは「氷連老人」の帰国の年次が、かなり遅れた「慶雲元年」(七〇四年)であると推測されるからです。かれも「富杼」とは別行動であったと推測されます。
 

 「白雉年間」の「遣唐使記事」に続いて「伊吉博徳言」という「コメント様」のものがあり、そこに「今年」という文言があり、この年次が「氷連老人」の帰国の年とされているのです。

「孝徳紀」
「(白雉)四年(六五三)夏五月辛亥朔壬戌 發遣大唐大使小山上吉士長丹 副使小乙上吉士駒 駒更名絲 學問僧道嚴 道通 道光 惠施 覺勝 弁正 惠照 僧忍 知聰 道昭 定惠 定惠?大臣之長子也 安達 安達中臣渠?連之子 道觀 道觀春日粟田臣百濟之子 學生巨勢臣藥 藥豐足臣之子 冰連老人 老人真玉之子 或本以學問僧知弁 義德 學生阪合部連磐積而增焉并一百二十一人 ?乘一船 以室原首御田為送使 又大使大山下高田首根麻呂 更名八掬脛 副使小乙上掃守連小麻呂 學問僧道福 義向并一百二十人 ?乘一船 以土師連八手為送使.」

「白雉五年(六五四)二月 遣大唐押使大錦上高向使玄理 或本云夏五月 遣大唐押使大花下高向玄理 大使小錦下河邊臣麻呂 副使大山下藥師惠日 判官大乙上書直麻呂 宮首阿彌陀 或本云判官小山下書直麻呂 小乙上岡君宜 置始連大伯 小乙下中臣間人連老 老此云於唹 田邊使鳥等分乘二船留連數月 取新羅道泊於萊周 遂到于京奉覲天子.
 於是東宮監門郭丈舉悉問日本國之地里及國初之神名 皆隨問而答.
 押使高向玄理卒於大唐.」

「伊吉博徳言 學問僧惠妙於唐死 知聰於海死 智國於海死 智宗以庚寅年付新羅舩歸 覺勝於唐死 義通於海死 定惠以乙丑年付劉德高等舩歸 妙位 法謄 學生氷連老人 高黄金并十二人別倭種韓智興 趙元寶今年共使人歸。」

 
 この「伊吉博徳言」の中の文章中に「今年」とあり、これがいつの事なのかが問題であり、この「今年」に「學生氷連老人」が帰国したとされているわけですから、この「今年」が何時なのかを明確にする必要があるわけです。
 これについては諸説があり、「体系」の「注」では「『天智三年』から『七年』の間の某年」とされており、不定とされています。また、「天智四年」(六六五年)という説もあり、「正木裕氏」も論文「薩夜麻の『冤罪』Ⅰ」(古田史学会報八十一号 )では「天智四年」説を採られています。
 また、体系の「補注」には「正木氏」も引用されたように「各種」の学説が書かれていますが、いずれも納得できません。なぜならどの説も「伊吉博徳言」の中にある(つまり「伊吉博徳の言葉」の中にある)「智宗以庚寅年付新羅舩歸」という部分についてしっかり考慮が払われていないからです。
 ここに書かれた「伊吉博徳言」とはまさに「伊吉博徳」が話した内容を示していますから、その話された年次こそが「今年」と考えられますが、その中に「庚寅年」(「六九〇年」)があるということは、この「今年」というのが、少なくともこの「庚寅年」(六九〇年)よりも「後年」のことであることを明確に示しています。 この部分が後からの「偽入」でない限り、この年次が「今年」の下限と考えられます。そうでなければ、この部分は現在(今年)よりも先の事(未来の事)を話していることとなる「矛盾」が発生してしまいます。
 では「庚寅年」(六九〇年)以降のいつなのか、ということとなりますが、ここに書かれた「妙位・法謄・學生氷連老人・高黄金并十二人別倭種韓智興・趙元寶今年共使人歸。」は合計十八名になり 、かなり多量の人数と考えられ、これほどの数の人間の帰国は「遣唐使船」が用意されなければ実現できなかったものと思われます。「新羅船」などを想定する場合は、彼らの様に多数の人間がなぜ「新羅」にいるか、ということが疑問とならざるを得ず、「唐」から「新羅」まで帰国途中であったと推定することとなりますが、「定恵」や後の「大伴部博麻」の帰国の際に一緒であった「大唐學問僧智宗、義徳、淨願」のようにせいぜい「三~四人」程度なら理解できますが、「総勢十八名」が「一斉に」帰国途中であって、「新羅」まで来ていたと想定するのは無理があるものと思われます。
 さらに「共使人歸」という表現は「彼ら」と「使人」が「共に帰ってきた」という表現であり、「使人」も「帰国」した、ということと考えざるを得ません。すると「使人」も「倭人」であるという事を示していると考えられます。これは「劉徳高」などの「唐使」には似つかわしくない表現であると考えられるものです。
 「伊吉博徳言」の中でも「付新羅舩歸」とか「付劉德高等舩歸」というように、外国の船で帰国した場合は「付~帰」という表現を使用しており、区別されているようです。明らかにここでいう「使人」は「倭人」を意味するものと考えられ、「唐」や「新羅」などの「外国船」で帰国したというわけではないと推察されます。
 以上のことから考えると、「八世紀」最初の遣唐使の帰国である「慶雲元年(七〇四年)」が「今年共使人歸」の「今年」に該当すると考えるのが最も妥当ではないでしょうか。
 つまり「使人」とはこの時の「遣唐執節使」である「粟田真人」を指すと考えられます。

(続き)

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「三十四年遡上」について

2013年10月16日 | 古代史

 「正木氏」の「三十四年遡上研究」について私見を披露しようと思います。以下の点についてはかなり以前から考えていたものであり、疑問としていたものでもあります。

 この「三十四年遡上」研究は、そもそも「古田氏」の研究に端を発しているものです。
 「古田氏」はその著「壬申大乱」において「持統」の吉野行幸の日程記事の中に「不審」な「日付干支」があることを発見し、その「日付干支」が存在しうる年月を調査した結果、「三十四年前」の同月にそれが存在している事を知り、そのことから「持統行幸」記事の全体が「三十四年移動」されているのではないかという考えに至ったものです。
(以下「書紀」の当該記事の周辺)

「(持統)八年(六九四年)夏四月甲寅朔戊午。以淨大肆贈筑紫大宰率河内王。并賜賻物。
庚申。幸吉野宮。
丙寅。遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。
丁亥。天皇至自吉野宮。
庚午。贈律師道光賻物。
五月癸未朔戊子。饗公卿大夫於内裏。」

 ここで「吉野宮」から戻った「日付干支」として書かれている「丁亥」がこの年の四月に存在していなかったということから、研究が始まったわけであり、その結果「三十四年遡上」した「六六〇年」の「四月」の記事がここに移動されているという推定に達したというわけです。
 「正木氏」はこの研究に触発されて、「持統」の「吉野行幸記事」以外にそれと同様な例を捜された結果、「孝徳天皇」の「葬儀記事」が「天武紀」に書かれた「天武」の葬儀記事へと移動されていると考えられる例や「持統紀」と「斉明紀」の双方の「蝦夷記事」において、登場する「蝦夷」の人数が一致するとみられる例等を発見され、さらに追加としての例を「難波副都」関係の記事に見い出したものであり、その「副都制」の「詔」についてそれが「天武朝」に出されたとすると重大な「矛盾」であることを指摘した上で、「三十四年遡上」により「孝徳紀」に書かれた「難波宮殿」関係記事と非常に良く整合すると云うことを論究されたものです。
 これらの研究により提出された理解により、「天武紀」から「持統紀」にかけての多くの記事で「三十四年遡上」という重大な「改定」が「書紀」の編纂過程において行われたと見られるようになり、「書紀」の「編纂過程」とその構成の理解において重要な段階に至ったものと考えられるようになったものです。

 しかし、この「契機」となった「古田氏」の研究を検証すると、それは「不完全」のそしりを免れないと思われます。
 「丁亥」という日付を求めて「三十四年」遡上した「六五〇年」なら「四月」にそれが存在するとしたわけですが、その場合「同じ月」の日付として書かれている干支である「戊午」「庚申」「丙寅」「庚午」は全てこの月に存在できなくなってしまいます。つまり「吉野宮」からの帰還日である「丁亥」だけが「三十四年遡上する」と言うことになるわけですが、そのような想定は「恣意的」ではないでしょうか。また、もしそのような記事移動が行われていたとすると、「庚午」の後ろに配置しそうなものだとも思われます。(干支の並び順では「庚午」よりも番号が後ですから)
 このような場合整合する月を探すのであればそこに書かれた日付干支が全てその月内に収まるような年次を探すべきではないかと考えられ、方法論として片手落ちであるといえるでしょう。(このような月を探すと(683年)であるという記述をしていましたが、錯誤によるものなので削除します)
 しかし、実際的な話をするとこの「丁亥」は「丙寅」と「庚午」に挟まれるように書かれていますから、「丁卯」の書き間違いである可能性の方がよほど高いと思料します。ちなみにこのような「日付干支」の書き間違いは『書紀』内にかなりの数が確認されており、ここだけの話ではありません。しかし、ここでは、「丁卯」の「書き間違い」ではないという積極的な証明のようなものは何も行われていないのです。
 つまりこれは「正木氏」の基礎となっている「古田氏」の「三十四年遡上」というものが本当にあったのかという点で既に疑わしいものであり、そうであれば、それを補強するかのように次々と書かれた「正木氏」による事例も当然、同様に疑わしいと言わざるを得ないものとなるでしょう。
 ただし、「正木氏」の説は既に「古田氏」の説を越えて広がっていますので、これを逐一検証する必要があるのは当然です。
 以下に「正木氏」より提示された「三十四年遡上」の例を挙げて検証してみます。

 「正木氏」の「三十四年遡上」研究において特に「整合性」の高い例と考えられるのは(私見ですが)「蝦夷朝貢記事」において「斉明紀」と「持統紀」でその人数が一致しているという例です。
 以下「持統紀」の「蝦夷」関連記事を挙げます。

「持統二年(六八八)冬十一月己未(五日)条」「蝦夷百九十余人、負荷調賦而誄焉」
「同年十二月乙酉朔丙申(十八日)条」「饗蝦夷男女二百一十三人於飛鳥寺西槻下。仍授冠位、賜物各有差。」
「持統三年(六八九)一月丙辰(三日)条」「詔曰…務大肆陸奥国優嗜曇郡城養蝦夷脂利古男、麻呂與鉄折、請剔鬢髪為沙門。詔曰麻呂等少而閑雅寡欲。遂至於此蔬食持戒。可随所請出家修道。庚申宴公卿賜袍袴。」
「同年一月壬戌(九日)条」「詔出雲国司、上送遭値風浪蕃人。是日賜越蝦夷沙門道信、仏像一躯、灌頂幡・鍾鉢各一口、五色綵各五尺、綿五屯、布一十端、鍬一十枚、鞍一具。」

 一方、「斉明紀」の方は、「斉明元年」に以下の記事があります。

「斉明元年(六五五)秋七月己巳朔己卯(十一日)条」「於難波朝、饗北(北は越)蝦夷九十九人、東(東は陸奥)蝦夷九十五人。并設百済調使一百五十人。仍授柵養蝦夷九人・津刈蝦夷六人、冠各二階。…
是歳、高麗・百済・新羅、並遣使進調。百済大使西部達率余宜受、副使東部恩率調信仁、凡一百余人。蝦夷・隼人、率衆内属。詣闕朝献。」

 これを見ると、まず「持統紀」の蝦夷の人数(「百九十余」人)と「斉明紀」の「越の蝦夷」「九十九」人+「陸奥の蝦夷」「九十五」人、つまり合計で「一九四」人が整合しているように見えるのがわかります。ここで「正木氏」はまず「斉明紀」における「柵養蝦夷九人・津刈蝦夷六人」を上の「一九四人」とは「別」と見なして加算し合計「二〇九人」としています。さらに「持統紀」記事においてこの「二〇九人」に更に「城養蝦夷脂利古男、麻呂與鉄折」という部分から「四人分」を弾き出して(「脂利」「古男」「麻呂」「鉄折」という「四人」であると推定し)、その結果「二〇九人」にさらにこの「四人」を足して「二一三」人という数字をはじき出している訳です。
 問題となるのはこのこの加算された人数でしょう。文脈上「斉明紀」における「柵養蝦夷九人・津刈蝦夷六人」は即座に「一九四人」とは「別」とは即断できません。というより「饗」の場で「冠位」が与えられたとすると彼らはこの「一九四人」に含まれていた可能性の方が強いでしょう。これら集まった(集められた)「蝦夷」の人達の中心的のメンバーを選抜して「冠位」を授与したと考えるのが相当と思われます。つまりこの「斉明紀」の「蝦夷」の人数はこれが最大であったと考えるべきでしょう。

 また「持統紀」に出てくる「務大肆陸奥国優嗜曇郡城養蝦夷脂利古男麻呂與鉄折」という部分は、「四人」と考えるのは明らかに不自然と思われます。ここは「麻呂」と「鉄折」の「二人」ではないでしょうか。
 この文には冒頭に「務大肆」という冠位が書かれており、これが明らかに最初に書かれている人物である「城養蝦夷脂利古」にかかると思われますから、「城養蝦夷脂利古男麻呂與鉄折」という文章は単に「沙門」になる人物を並列表記しているのではなく、あくまでも「冠位」を授与されている人物としての「城養蝦夷脂利古」の子供達についての記事であると考えざるを得ないものです。それを示すように「詔」の中でも「麻呂等」と表現されており、「脂利」から始まる文章でありながら彼の名前は書かれていません。これは「脂利古男」の部分は通常の解釈通り「脂利古」の「息子」という意味しかないことを示すものと思われます。(冠位を授与されていることから、彼については名前を和人らしく改名したということも考えられます)
 また特に「父親」の名が書かれているのは彼が「務大肆」という冠位を持っているからであると思われます。
 この「務大肆」という冠位はかなり高いものであり、誰でも授けられるわけではありません。
 たとえば「那須値韋提」の「碑文」では「追大壱」を授けられたことを「栄誉」としていることが判ります。

「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原宮那須国造追/大壹那須直韋提評督被賜…」

 この「碑文」解釈は複数ありますが、いずれにしても「国造」や「評督」という職掌を与えられながら、冠位としては「追大壱(壹)」程度しか授与されていないこととなります。
 このように「地方」の官にとって(初めての)冠位授与ではせいぜい「追冠位」までが極限であったと見られますが、「務大肆」を与えられたとすると「異例」のこととなるでしょう。
 「その身」を「売って」「薩耶馬」達の旅費を稼いだとされる「大伴部博麻」については、特に厚く褒賞されていますが、その彼には「務大肆」が授与されています。そのように特別の功労でもなければ授与されない性質の冠位であったと思われます。
 つまり「脂利古」の冠位が「務大肆」であるのは「特進」であると思われ、彼の存在が「対蝦夷」戦略上重要であるという意識があった事を示すと思われます。彼の息子達が「沙門」となるという記事において、彼の名前が(特に)出される意義もそこにあったと思われるものです。つまり「麻呂」と「鉄折」は単なる一介の「蝦夷」ではなく「務大肆」を授けられた「脂利古」の息子であったものであり、これによって「蝦夷」の「朝廷」への「服従」が「脂利古」段階だけではなく、それが「息子」達に継承されることとなったことが重要な意味を持っていると考えられたのではないでしょうか。そう考えると「脂利古男麻呂與鉄折」の部分を「四名」が表記されていると考えるのは少なくとも「不自然」であると言えると思われます。
 ただし、彼が「特進」であるというのは「斉明紀」記事に「冠位二階」と書いてあることとは一見符合しているように見えます。つまり「斉明紀」段階で「務大肆」に「二階」特進したとすると「追大壱」からと言うこととなりますから、当初冠位としては不自然ではないこととなりそうですが、しかし、これも「蝦夷」に対しては「戦略的理由」により常に「特進」で臨んだとも考えられますから根拠とはなりにくいものです。
 さらに、「持統紀」記事では「越蝦夷」である「沙門道信」に対して「仏像」などが下賜されていますから、この時の「蝦夷百九十余人」ないし「饗蝦夷男女二百一十三人」という中に彼がいたことは確実であり、それはこの時の「蝦夷」というものが「越」と「陸奥」の混成であったことが窺えるものですから、その点において「斉明紀」とは重なるもといえますが、そもそも基本的に「倭国王権」が始めに「城柵」を置いたのは「越」の地であり、この地域がまず「馴化」の対象となったと見られます。その後「陸奥」についても「城柵」が設けられるなどの政策が遂行されたものであり、そうであれば「倭国王」の死去という事態に対しての「弔意」を示す者達について、「越」の「蝦夷」がその中にいなかったとすると、逆に不自然とも言えるものと思われます。
 これらのことから「蝦夷」の人数が高い精度で一致するとはいえないこととなるでしょう。
 他にも「八色の姓」「僧尼の一致」などの例が挙げられているもののそれらは「三十四年」という年数にそれほどの根拠があるわけではないと思われます。
 では「三十四年遡上」というのは「空理空論」なのでしょうか。ところが、そうは思えない部分もあると思われるのです。それを「次回以降」述べたいと思います。

(続く)

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「薩耶麻達」の捕囚場所と「氷連老人」について

2013年10月14日 | 古代史

  「冰連老人」という人物については、「遣唐使」として派遣されて以来、継続して「唐」に滞在していたと見るべきと考察したわけですが、それに対して「冰連老人」と同席していたとされる「博麻」や「薩夜麻」は「唐」ではなく「百済国内」で「捕囚」になっていたと見るべきと考えられることとなり、これらの間には一見「矛盾」があるように見えます。それについて考えてみます。

 「博麻」「薩夜麻」などは「兵士」であり「将軍」であったわけですが、それに対し「冰連老人」は「遣唐使」であったはずです。その彼が同じ場所に「収容」されているわけですが、「冰連老人」」がもし「唐国内」にいたとすると当時「倭国」や「百済」と戦いになった時点で「倭国」などから派遣されていた人達を「収容」していたと言うこととなります。(太平洋戦争当時のアメリカにおける日系人の「強制収容」と似ています)果たして、このようなことがあったのでしょうか。
 「唐」側資料を渉猟しましたが、戦争の相手国からの「使人」や「学生」あるいは「諸蕃」の「子弟」を「充てていた」とされる「宿営」などについて「拘束」したとか「収容した」というような資料は見あたりませんでした。(本国に送還したという記事ならありましたが。)
 この事から、この時「唐国内」において「倭国」の「人間」を「拘束」したというような積極的な事実はなかったと推定されることとなります。
 「百済」が滅亡した時点で「遣唐使」も解放されているわけですし、それ以降「再度」拘束するという事態(状況)の変化も特に感じられないものであり、(「唐」の立場としては、既に残党の掃討戦の形となっていたと推定されます)そうなると「冰連老人」は「唐」で「拘束」されていたわけではないこととなりますから、彼は「遣唐学生」の立場から「自分の意志で」「旧百済」の地で「対唐戦」に加わり、「捕虜」となったということと考えざるを得ません。

 この「冰連老人」の派遣は「白雉四年」(六五三年)に行われたものであり、「新羅」との間に緊張が走り、また「高句麗」と「百済」の間に結ばれた「麗済同盟」の活発化により、その「新羅」と「唐」との間が急接近している時期でした。
 また「倭国」としてはすでに「六三二年」という時点以降「唐」との正式な外交関係が途絶している状態でした。このため、「六四七年」(常色元年)に即位した「倭国王」は「唐」との正式な外交関係確立を目指し、そのために「新羅」を懐柔する作戦を立てたわけです。しかし、意に反し「新羅」は「唐」との関係を強化する方向で動き出し、「倭国」にとっては「橋渡し」の役を果たさなくなってしまいました。
 「六五一年」には「新羅」からの使者を追い返す事件が発生した事もあり(「新羅」の服を捨て「唐」の服を採用したことに激怒した)、直接「唐」との間の関係を正常化する目的で「遣唐使」を派遣したものと考えられます。
 このような時点での派遣は多分に「政治的」なものであったはずであり、彼ら派遣された「学生」「学問僧」などの中には「純粋」に「唐」の制度や「仏教」などを学ぶ者達以外に、「ロビイスト」的活動をその中に含んでいた者もいたと思われます。
 派遣された彼らは「唐」の都で過ごすこととなったわけですが、その間学業に励みつつ、それを兼ねて「情報収集」などの仕事を行っていたものと思われます。そして、更に「半島」の緊張状態が極限に達しようと言う時に、最後の切り札的に「倭国」から「六五九年」の遣唐使が派遣されたものと考えられます。
 この時の遣唐使団には「蝦夷国」の使者が同行しています。これは実は「唐」に対する「示威行動」でもあったと考えられます。すなわち「蝦夷」という「唐」から見て「絶域」中の「絶域」とも言うべき場所さえも「支配」している、という「統治領域」の「広大さ」を誇示することにより、唐に対し「抑止力」としての効果を期待したものではないでしょうか。
 「倭国」としては「唐」など歴代の中国との交渉は長いわけであり、「倭国」の「領域」も既に「隋」までの関係の中でおよそ明らかになっています。しかし、「百済」をめぐる情勢が緊迫してくると、「倭国」に何らかの軍事的影響が及ぶ可能性が出て来たわけであり、国内では「副都遷都」を含め、各種の「防衛策」を講じていたものですが、「隼人」「蝦夷」についてもこれを「服属」させると共に、その事実を「唐」に「披見」する事で、「倭国」の「実力」と「版図」の広さを改めてアピールし、その事により「唐」に対し「軍」を派遣するなどの「行為」を抑制させるための「抑止力」として機能させることにしたものと推察されます。
 この時の「遣唐使団」の構成人員の中には以上のような情勢を踏まえて「学生」や「僧」と称しつつ「軍事情報」に関する収拾活動を行う「任務」のものなどもいたと考えられ、そのような中に「唐軍」の動向を探るために「唐軍」の動きに合わせ「百済」へ移動していた「冰連老人」などがいたという可能性もあるのではないでしょうか。
 そして、その時点で「百済を救う役」が「勃発」し、参戦した「倭国軍」の中に「薩夜麻」や「博麻」がおり、彼等と共に「捕囚」となったとすると、「遣唐使」として送られた人物と「百済」に参戦した「薩夜麻」達が同居している「事実」の説明になると思われます。

 ところで、「薩夜麻」はその後解放されましたが、「冰連老人」が同時に解放されたのかどうかは不明です。彼はその後「七〇四年」の遣唐使船で戻るまで「唐」国内に居続けたと見られ、(これについてはべに述べます)「博麻」や「薩耶麻」達が帰国したあとも「冰連老人」だけが帰国しなかったかあるいはできなかったということも考えられます。
 もちろん、それは「本来」の業務である「勉学」に努めるという意味もあったかもしれません。あるいは、引き続き「残留」して「唐軍」等についての軍事情報を収集すべきという命令が(薩夜麻から)与えられたという可能性もあり得ると思われます。彼はそもそも「軍事情報」を収拾するのが役割であった可能性があり、そうであれば、その「業務」を貫徹する様に指示が出たのかもしれません。
 またそれを口実として帰国を許可されなかったという可能性も考えられ、それは一種の「口止め」が行われたのではないかと思料します。この点については「大伴部博麻」の帰国が「六九〇年」という段階まで遅れた理由と同一ではないかと考えられ、彼も帰国が許可されなかったという可能性があります。

次は「大伴部博麻」の帰国が「30年」もかかった理由について考えます。

(続く)

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