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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

環濠集落と都市国家

2017年11月28日 | 古代史
 「弥生時代」を代表するといわれる集落の形態が「環濠集落」というものです。これは「吉野ヶ里」の遺跡で明確なように「集落」の周囲に「環濠」を巡らし、その中に(多くの場合)住居や倉庫を建てるものであり、その多くにおいて径が100メートル以上あったものです。
 しかし子細にみればこれは実際には「代表」と言われるほど主流ではなく、少数のグループによって行われていたと考えられるようになっています。その源流は半島東南部(後の新羅の領域)にあり、弥生前期には九州北部に流入したとされます。(例えば「板付遺跡」など)
 これら「環濠集落」が少数なのは、推測によれば(半島からの)外来者だけがこの形態を採用していたからであり、それは「半島」における状況を反映したものだった、つまり周辺集落との間に争いなどがあったらしいことが推測されるものです。逆に言えば列島内部においてはそれほど他集落に対して攻撃的ではなかったこことなりそうであり、それは「兵器」や「武器」の発達がそれほどではなかったことなどの状況を反映しており、各集落がやや協調的関係を持っていたためとも考えられます。
 また「瀬戸内東部」においては「弥生中期」までに廃絶するとされますが、その後やや遅れて「近畿」と「関東」で最大化されることとなります。
 またその「環濠」の断面は九州や西日本では「V字」型であり、しかもかなり深くこれは「防御」としての側面が強いことを意味するものですが、近畿地方のものは「U字型」が優勢になります。(しかも「多条」の環濠が確認できます)しかしその後増加する関東地域は再び「V字」型となるなど地域差が認められますが、関東と九州地域に共通の土木技術があったこととなり、関係が深いことが示唆されます。

 この「環濠集落」という存在は、ギリシャやローマで勃興した都市国家(ポリス)と意味として同質と考えられ、彼らが「高台」に周囲を土やレンガなどで壁を作りそれを巡らして防御施設としていたことと同じとみられるわけです。つまり「周辺」の他集落からの侵入を想定し、それに対応する意味があったとみるべきでしょう。その立地としても(近畿を別として)北部九州や西日本では「台地」上に設けられる場合が多く、これについても「ポリス」の存在意義と同様であり、「防御施設」という側面が明確であるといえるでしょう。その時期としても近接していますから、その意味で「弥生都市」という言い方をする研究者がいるのは正鵠を得ているかもしれません。(※)
 さらにこの「環濠」はその内部に「倉」しかないものや、全く建物の痕跡さえもないものなどのバリエーションも発生します。さらに「環濠」の外部に「土塁」が築かれているケースもあり、この場合は「中から外へという移動」に対し制限が加えられているように見え、戦いで得た「捕虜」を収容したものという理解もできそうです。つまりこの時点で「」が発生したとみられるものです。
 「箕子朝鮮」は東方に「礼儀」を説いたとされますが、具体的には「犯禁八條」を定め、教え諭したとされます。

「玄菟樂浪武帝時置 皆朝鮮貉句驪蠻夷 殷道衰 箕子去之朝鮮 教其民以禮義田蠶織作 樂浪朝鮮民『犯禁八條』 相殺以當時償殺 相傷以穀償 相盜者男沒入爲其家奴 女子爲婢。…」(『漢書地理志』第八の下より)

 この中で「相盜者男沒入為其家奴,女子為婢」とされ、「」となる場合が書かれています。この時代は「縄文」の末期と思われ、その意味でその意味で「縄文時代」にも「」がいたこととなりますが、「戦争捕虜」としての「」ではなかったものであり、「」という存在はそれほど多数ではなかったとみられます。しかし「弥生時代」になり「環濠」を設ける集団も現れるなど多少なりとも対外戦争的な事案が発生すると必然的に「捕虜」が発生しますから、彼らが「」となったと見るのは自然です。その場合彼らを収容する施設が必要になりますから、そういう意味の「環濠集落」もあったかと推察されるものです。

 そして「関東」では「方形周溝墓」とセットという形態で「環濠集落」が弥生中期において爆発的に増加したものです。それら集落形態も墓制もそのころ利根川以北に居住していた人たち(これはいわゆる「蝦夷」と呼ばれるべき人たちと思われますが)と全く異なるものであり、明らかに「外来」のものとしてこの地に流入したものと見られます。これは主に「出雲」の王権による勢力拡大と軌を一にするものであり、「初期倭王権」の東方政策の結果であると思料されるものです。
 当然自分たちが外来者として侵入したわけですから、当地に以前からいた人々による「反撃」も考えられ、それに備えたものという分析も可能でしょう。


(※)広瀬和雄「弥生時代の首長-政治社会の形成と展開-」(『弥生の環濠都市と巨大神殿』池上曽根遺跡指定20 周年記念事業実行委員会 1996年)、「弥生時代の「神殿」」(『都市と神殿の誕生』新人物往来社)、「弥生都市の成立」(『考古学研究』45号)等の所論
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「聖武」と「伊勢神宮」

2017年11月26日 | 古代史
 「東大寺」に当初「大華厳寺」という額が掲げられていたことについて書きましたが、その中で「伊勢神宮」と「聖武」の関係について書きました。つまり「東大寺」を建立するにあたり伊勢神宮へ「行基」と「橘諸兄」を差し向けていますが、これはありていに言えば「贖罪」と「支援」の要請及び「費用」の調達の意味があったとみて間違いないでしょう。
 ここで使者として派遣されているのは「橘諸兄」ですが彼は以前「葛城王」であったものであり、また「美濃王」の子供でした。その「美濃王」は「栗隈王」の子供とされていますが、その「栗隈王」は「難波王」の子供とされます。(『古代氏族集成』によります)その「難波王」は「忍坂日子人大兄王」の「弟王」とされています。この「忍坂日子人大兄王」と「難波王」は私見によれば「阿毎多利思北孤」あるいは「利歌彌多仏利」に擬された人物と思われ、倭国王権に直結した一家であり、また一族であったと思われます。(※1)

 「伊勢神宮」への使者として派遣されたもう一人は「行基」でしたが、彼は元々市中に説法して歩き布教をしていた人物です。この当時「国家」は一般民衆への布教を禁じていましたが、彼はそれを堂々と破りまた結果的に「承認」させてしまっています。このような所業が「聖武」」の王権とは一線を画するものであることは確かであり、彼がもともと「倭国王権」と関係の深い人物ではなかったかと推測できることを示します。
 彼はこの時「(仏)舎利」を「伊勢神宮」へ持参していますが、その「舎利」は「菩提遷那」がインドより?伝来したものとされているものです。その「舎利」の献上に対し「伊勢神宮」(外宮である「豊受大神」(宇迦之御魂之神))からは、これを「如意寶珠」と同じものとされ賞揚されたようです。この「宇迦之御魂之神」というのは「阿毎多利思北孤」あるいは「利歌彌多仏利」を神格化したものと思われ(※2)、これらを概観すると「東大寺」を建立する際に重要視されたものが「伊勢神宮」のもつ「影響力」であり、またその財力であり、「如意寶珠」に関わる信仰であったこととなるでしょう。つまり「伊勢神宮」と「如意寶珠」には関係があったということとなります。(これについては倭国王の「真影」とされる「救世観音像」が「如意寶珠」を持っていることが注意されます)

 ところで「古田史学の会」の現顧問である水野孝夫氏の論に「長屋王のタタリ」というものがあります。(※)その趣旨として「長屋王」が自殺に追い込まれたことで「聖武」は「倭国王権」とその宗教的支柱である「伊勢神宮」に対して「負い目」を持ったとされているようです。
 「長屋王」が殺された際には「伊勢神宮」では強い不満と不快の念が示され、それにより「聖武」は自責の念で錯乱状態となったようです。これに関しては引き続き「水野氏」の研究があり、それに拠れば「太神宮神道或問」という書物など「神宮」関連史料のいくつかに上の「長屋王」自害の翌日の「二月十三日」に「天皇」が「御悩みあり」という状態となったとされています。

「…同年二月十三日天皇俄に御悩みありて、御薬きこしめすの間、卜食しめ給ふに、神祇官陰陽寮勘申しけるは、巽の方太神死穢不浄の咎によりて祟り給ふなりと申し上げければ…」(渡会芳延『太神宮神道或問』より)
 
 これは明らかに「長屋王」の死去についての「聖武」の精神的な「煩悶」を示すものであり、「長屋王」を自害に追い込むにあたって「聖武」自身はある意味「断固」としてこれを行なったものではないことが分かります。つまり「聖武」自身は「長屋王」に対する「遠慮」とある種の「敬意」を持っていたらしいことが知られ、そのことから推測すると「高市皇子」についての彼の兄弟の反感を「藤原氏」などが利用したという流れではないでしょうか。
 『懐風藻』によれば彼の後継を誰にするかという審議の際に「弓削皇子」が「兄弟継承」を主張しようとしたらしいことが推定され、それを封殺されたことから遺恨があったことが考えられます。
 その立役者は「舎人親王」ではなかったかと考えられ、その直後に出された「舎人親王」に対し「下座する必要がない」(敬意を払う必要がない)という「太政官」処分(以下のもの)は「聖武」の意志に沿った行動を取らなかった「舎人親王」に対する精一杯の反抗ではなかったでしょうか。

「同年夏四月癸亥条」「…太政官處分。舍人親王參入朝廳之時。諸司莫爲之下座。…」

 これについては「聖武」の精神的状況を示すと共に「伊勢神宮」そのものの「長屋王」に対する「死」を望んでいなかったこと、つまり「伊勢神宮」の意志に反して「長屋王」が死罪となったことを示すものと思われ、「伊勢神宮」の勢力も「親長屋王」的立場であったことが窺われるものであり、彼らも「旧日本国」勢力の一部をなしていたということが考えられるものです。
これらの背後に「長屋王」という存在の「絶対性」があったものであり、旧倭国王権の直系という至尊の存在であったものに対して「亡き者」とするという方法・手段に対して「聖武」が強く畏怖したことがあったと思われるわけです。
 この事から「贖罪」の意味もあって「舎利」を「伊勢神宮」に献呈することし、「行基」と「橘諸兄」に取りなしを頼んだのではないでしょうか。
 「伊勢神宮」はその「外宮」がそれを「如意寶珠」つまり(海幸山幸が海神からもらった珠)として歓迎し、褒美に東大寺建設資金を援助したものと思われるわけです。もちろん「伊勢神宮」の「格」について国教的位置につけるという言質もとったことでしょう。(この派遣の直後の『続日本紀』の記事として「長屋王」に対する疑いが「誣告」によるものであったことが明らかとなることが書かれており、記事の流れとして意味深長なものがあります)

「五月…辛夘。使右大臣正三位橘宿祢諸兄。神祇伯從四位下中臣朝臣名代。右少弁從五位下紀朝臣宇美。陰陽頭外從五位下高麥太。齎神寳奉于伊勢大神宮。…
秋七月…丙子。左兵庫少属從八位下大伴宿祢子虫。以刀斫殺右兵庫頭外從五位下中臣宮處連東人。初子虫事長屋王頗蒙恩遇。至是適与東人任於比寮。政事之隙相共圍碁。語及長屋王。憤發而罵。遂引劔斫而殺之。東人即誣告長屋王事之人也。」

 つまりこの「聖武」の当時は、未だ「倭国王権」の政治力(主に宗教的精神的支柱として)や「財力」(伊勢神宮配下の土地及び財産等)は大きく、これを頼みにしなければ(あるいは無視して)国家的事業はおぼつかなかったものという可能性が考えられるでしょう。しかし、「長屋王事件」以来「伊勢神宮」からの支援は止められていたものではないでしょうか。これを解決するために「橘諸兄」という元の倭国王権に直結する関係者と、「舎利」を「行基」によりもたらし、歓心を得ようとしたものではなかっかと思われるわけです。これに「伊勢神宮」の側でも応え、東大寺で贖罪の「祀り」を毎年開くことを条件に資金援助を行ったとみられますが、この「祀り」というのが「お水取り」というわけです。これを満たしたことで「東大寺」は「聖武」の願い通り建立されたとみられるわけです。

(※1)拙論「小野毛人の墓誌について」の各記事(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/c70754e30fb5473002ad09fb0926608a)等
(※2)拙論「「廣瀬」「龍田」記事について -「灌仏会」、「盂蘭盆会」との関係において-」(『古田史学会報』一一八号)
(※3)水野孝夫「長屋王のタタリ」(『古田史学会報』一〇一号)
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「大華厳寺」という寺名について

2017年11月25日 | 古代史

 肥沼氏のサイトで東大寺に元々「大華厳寺」という扁額がかけられていたという記事がありました。林修先生ではないが「初耳」であり、なるほどと思った次第です。そのようなことの経緯として以下のことを考えてみましたので記します。(試案です)

 この「大華厳寺」という寺名は明らかに「華厳経」という経典に深く関係していると思われるわけですが、『続日本紀』など渉猟しても「聖武」が「華厳経」について詔を出したという記事は皆無です。「金光明経」や「法華経」「大般若経」などについては転読や写経の指示が出ていますが、「華厳経」については見られません。このことは中心経典に変転があったことを示しますが、そもそも「大仏」は「毘盧遮那仏」であるとされ、この仏は「華厳経」にゆかりの深いものであり、その意味では「大華厳寺」という寺名に矛盾はありません。また「大仏開眼」の際に「導師」として「聖武」以下を引き連れて「目」を入れたのは「婆羅門僧正」と称されるインド僧「菩提僊那」でしたが、彼は「華厳経」を常に読経していたとされるなど「華厳経」に関係の高い人物でした。彼の存在と「大華厳寺」という寺名は直接つながっているとさえいえるでしょう
 この人物は「遣唐使」であった「多治比広成」「学問僧理鏡」「中臣名代」らの要請により「天平六年」(七三六年)に「唐」より来日したものであり、彼が来日した際には「行基」が出迎えをするにど「聖武」の朝廷から歓迎を受けまた支持されていたと思われるわけです。その理由としてはやや不明な点はありますが、後日「東大寺」を建立するために、「行基」と「橘諸兄」が「伊勢神宮」に遣わされ、「舎利」を献上することで「伊勢神宮」の領地(飯高郡)から寄進を受けることとなったという経緯があったという「伝承」と関連しているようです。なぜならその「舎利」は「菩提遷那」が「天竺」から持ち来たったものと言うことが言われているからです。そして、その「舎利」について「伊勢神宮」ではこれを「(如意)寶珠」であるとして歓迎したとされます。 

「実相真如之日輪、明生死長夜之闇/本有常住之月輪、掃無明煩悩之雲/我遇難遇之大願、於闇夜如得之燈/亦受難受之宝珠、於渡海如請之《請之》船/造聖武大仏殿故、慶豊受大神宮事/善哉善哉■■■、神妙神妙自珍者/《五》先垂跡地神霊、富相応所安一志/飯高施福衆生故、…」(「行基菩薩秘文」による)

 これによると「日輪」(これは天照大神)すなわち「大日如来」の本地は「廬舎那仏」であるとして、「大仏」を作りそれを収容する寺院を造ることを「善いこと」であるとしています。これについては一般には「平家」によって「東大寺」が焼亡した際に再建のため「伊勢神宮」に「重源上人」が「後白河法皇」から遣わされた時点で作られた話と解釈されています。しかし、そもそもこの「伊勢」参詣が「天平の創建時に伊勢に祈願したという先例」に基づくものであったとされており、そのような事実がないにも関わらず「先例」に基づくとしても説得力がないのは確かですから、話の内容から考えて実話であったという可能性が高いと思われます。飯高郡の豪族らしい人物が以下のように「位」を授けられているのはその現れと思われます。

「天平十年(七三八年)九月丙申朔甲寅。伊勢國飯高郡人无位伊勢直族大江授外從五位下。」
「天平十四年(七四二年)夏四月甲申。伊勢國飯高郡采女正八位下飯高君笠目之親族縣造等。皆賜飯高君姓。…」

 ここでは「无位」からいきなり「外」ではあるものの「従五位下」とされており、これは破格の出世といっていいでしょう。これは「和銅」改元の際に「熟銅」が産出したということに貢献したことで「无位金上元」が同様に「従五位下」を授けられた例と酷似しています。

「(七〇八年)和銅元年春正月乙巳。武藏國秩父郡獻和銅。…是日。授四品志貴親王三品。從二位石上朝臣麻呂。從二位藤原朝臣不比等並正二位。正四位上高向朝臣麻呂從三位。正六位上阿閇朝臣大神。正六位下川邊朝臣母知。笠朝臣吉麻呂。小野朝臣馬養。從六位上上毛野朝臣廣人。多治比眞人廣成。從六位下大伴宿祢宿奈麻呂。正六位上阿刀宿祢智徳。高庄子。買文會。從六位下日下部宿祢老。津嶋朝臣堅石。无位金上元並從五位下。」

 このように希少な資源が見つかった場合には特にその発見者、発掘者などに対して破格の待遇を与えることが行われていたとみられるわけです。
 また「伊勢神宮」への参詣については多くの史料が「行基」と共に「橘諸兄」についても記していますが、『続日本紀』には確かに「伊勢神宮」へ使者として「橘諸兄等」が派遣された記事があります。

「天平十年(七三八年)五月辛夘。使右大臣正三位橘宿祢諸兄。神祇伯從四位下中臣朝臣名代。右少弁從五位下紀朝臣宇美。陰陽頭外從五位下高麥太。齎神寳奉于伊勢大神宮。」
 
 この派遣の後に飯高郡の「无位伊勢直族大江」に対しての「外從五位下」を授けるという褒賞が行われているわけであり、これは「飯高郡」からの調庸の施入に対するものではなかったかと考えられ、この地から産出していたという銀あるいは水銀という特殊な金属材料が目的であったものでしょう。
 この時と前後して(時期は史料により異なる)「行基」も派遣されたとする伝承があります。たとえば『日本帝皇年代記』によれば「行基」は「天平十三年」に「伊勢神宮」に「仏舎利」を献上するため派遣されています。

「辛巳(天平)十三 勅行基法師、授仏舎利一粒、献伊勢太神宮、有種々神託…」

 この時の「仏舎利」が「菩提遷那」の提供したものであるということが言われているわけであり、そのことは「廬舎那佛」の造仏に際して「菩提遷那」の深く関わっていることと、それにさらに「伊勢神宮」とが関連していることを示すものです。

 しかし「金光明四天王護国之寺」という「扁額」がかけられ詔でもそのことが言われるようになったということは「菩提僊那」が東大寺の創建と関係があるということが『続日本紀』という「正史」から「消されている」こととなります。これに関しては以下のことが推測できるのではないでしょうか。それは「菩提僊那」とともに渡ってきた僧として「仏哲」という人物がいるとされる点です。彼は「大仏開眼」の際に舞われたという「倍櫨破陣楽」を伝えたとされている人物です。(『東大寺要録』巻第二所収の『大安寺菩提伝来記』には以下のようにあります)

「…勝賓四年壬辰七月九日開眼大會( 注略)即仰諸大寺令漢楽矣爾時彼佛哲□□少々師於彼瞻波國習得并?并『部侶』抜頭楽?歌令傅習…」(『続々群書類従』第十一)

 ここでいう「部侶」が「倍櫨」であるとみられるわけですが、この「林邑」というのは今の「ベトナム」付近を指すものであり、結局この時渡ってきた僧はみな中国の人ではなかったこととなりそうですが、それは「玄宗」から中国人の僧の派遣を拒否されたからではなかったかと思われるのです。
 その後の「鑑真」の際にもそうでしたが、「玄宗」は「道教」を自らの宗教としていたため「仏教」だけに興味を示すことに嫌悪感があったものとみられ、高僧要請に対し「中国人」以外であればよいとしたのではないかと思われます。そのため「菩提僊那」「仏哲」などのインドやベトナムの僧が来日したとみられるわけですが、それが本来所望した「高僧」というわけではなかったところに問題があったと思われるわけです。
 遣唐使が招請したかった人物は本来(その後鑑真が招請されたように)「授戒」が可能な高僧ではなかったかと思われ、そう考えると「鑑真」が渡ってきた当初「東大寺」で「授戒」していたという点が注意されます。彼が「東大寺」にいたとすると「大華厳寺」という寺名は彼には似つかわしくないものと思われ、扁額がこの時点付近で外されたとみれば納得出来ます。(鑑真と華厳経にはつながりがないと考えられます)
 「菩提僊那」の消息も「鑑真」と面会したという下の記録以降確認できなくなるのもそれを裏付けるといえないでしょうか。

「…後有婆羅門僧正菩提亦来参問云。某甲在唐崇福寺住経三日。闍梨在彼講律。闍梨識否。和上云憶得也。」(『東大寺要録』「大和尚伝」より)


 このように「鑑真」が来日した際には「菩提遷那」が慰問に訪れ、「長安」の「崇福寺」であなたの「律」の講義を受けたが覚えていらっしゃるかという問いに「鑑真」が覚えていると返事したとされます。このように「菩提僊那」は「律」を講義される立場であり決して高僧ではなかったこととなります。
 東大寺の主として「鑑真」が入ったことで「菩提僊那」については「主役」の座から外されたらしいことがうかがわれ、「大華厳寺」という看板が外されるとともに「聖武」としては本意ではなかったと思われる「華厳経」についても軽視されることとなり、詔などで言及することがなくなったのではないかと考えます。

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紀元前八世紀という時期(補足)

2017年11月21日 | 古代史
 すでに「弥生時代」の始まりと「シリウス」という星の状態に関係があったこと、「紀元前八世紀」付近で地球的気候変動があったことを述べたわけですが(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/7103f16e4dd324e74a6e31f639dc7fad)、そのことはギリシャの当時の実情を解析した別の論文からも言えそうです。

 紀元前八世紀付近の気候変動に関わると思われる論文を渉猟していた中に安永信二氏の論文(「アルゴリスにおけるポリス成立をめぐって―学界の動向と今後の展望―」(『九州産業大学国際文化学部紀要』第22号二〇〇二年))がありました。その中でこの時期に「ギリシャ」では「墓」の数が急増すること、放棄される「井戸」が増加することについて述べた論文があることが書かれていました。それは「Camp,Jr.J.McK.」氏が発表した"A Drought in the Late Eighth Century B.C."です。
 従来「墓」の数の増加は「人口増」が原因であるとされていましたが、この論文ではそれを「Drought」つまり「干ばつ」によるものとし、ギリシャを襲った「干ばつ」の結果、栄養不足と疫病によって亡くなる人が増大し、それが墓の増加の原因であるとしたのです。つまり人口が増加したわけではないとしたわけですが、彼がそう指摘した根拠のひとつは「井戸」の数の変化でした。彼はこの時代に「廃棄」される「井戸」や「異常に深く掘られた井戸」などの数が増大することを考古学的証拠として挙げ、それが「干ばつ」の影響であることを示したのです。
 さらに、同じ時期にそれまで多くは見られなかった「神域」や「神殿」が新たに設けられ、多くの供物が奉納されるようになることを示しました。そのなかには「雨乞い」のための「壺」を「供物」とする例が「七三五年」以降激増することも挙げていますが(それまでの四倍ほどに急増する)、これは「ローマ」において同じ時期に始められる「ロビガリア」という農業儀式と同様「干ばつ」による農作物の不作を「神」に祈ることで回避しようとするものであり、「宗教的」な存在に寄り縋ることを多くの人々が望んだことを示していると(私見では)見ています。

 また同じく渉猟した中に小山田真帆氏の論があり(「ブラウロンのアルクティア再考:アルテミスへの奉納行為を手がかりに」(『京都大学西洋古代史研究』第16号二〇一六年十二月十六日)、その中に「女神」である「アルテミス」に対する信仰儀式として「アッティカ」地方の「ブラウロン」で行われていた「アルクティア」という奉納儀式について新たな角度から検討した論があることが示されています。それは「C.A.Faraone」氏が発表した"Initiation in ancient Greek rituals and narratives : new critical perspectives"です。この中では、この「アルテミス」に対する祭儀を、通常の理解である「女性」の「少女」から「大人」への通過儀礼という単純な見方を否定し、そこでは女性に特有の出産における「栄養不足」による母体と乳児に降りかかる種々の「災い」や「死」に対する庇護を願い、ひいては国家の安寧を願うものという新たな理解が示されていますが、そもそもこの「アルテミス」という女神に対する祭儀の始まりは「八世紀」の終わり付近であり、明らかに「疫病」や「栄養不足」などの条件が背景としてあったことが指摘されています。
 確かに「祈り」の根底には「畏れ」があるものであり、単なる少女から大人への通過儀礼であるとすると「祭儀」として大がかりすぎるものであると同時に、「紀元前八世紀」以降突然始められると共にその後紀元三世紀付近以降忘れられる理由も不明といえます。このことはこの「祭儀」の根源が「死」に対する「畏怖」であり、そこからの「救済」を願うものであることは自明であり、母体や乳幼児など最も弱い存在に対して大自然が与える「不条理」に対する「畏れ」がそこにあったと見る必要があるでしょう。

 その他この時期ギリシャ各地で「ルネッサンス」の如く多くの神々達を祭る「神域」が発生しており、それが「ギリシャ」の発展と反映を表すものであるとするものや、「宗教」が一部の特権階級的立場の者から民衆のものへと発展的段階へと遷移したというような理解がされていたものですが、これもまた「干ばつ」とそれによる「疫病」などから逃れるために多くの人々が種々の神達に祈りを捧げていた風景が原初としてあるように思われることとなるでしょう。

 まだまだ知見に入った文献は少量ですが、大勢として「紀元前八世紀」付近に大規模な気候変動があったらしいことは確実であると思われますが、他方古代ギリシャを専門とする学者達にはそのような視点が欠落しているように見え、文学的観点からの理解から脱していない例が多く見られるようであり、問題の矮小化が行われているように見えます。
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「太陰太陽暦」と「二倍年暦」の共存

2017年11月14日 | 古代史
 「暦」というものは本来農事に関わるものとするのが多数意見ですが、倭国では『魏志倭人伝』が言うように一般民衆は「正歳四節を知らなかった」とされています。つまり本来農業においては重要な要素は日照時間と気温の推移、雨の多少であり、これらは本来「月」の運行とは関係はなく「太陽」に強く依存しています。その意味では「太陰暦」でなければならないという必然性は少ないこととなります。今でも「二一〇日」とか「二二〇日」という言葉がありますが、農業においてはある基準日から日数を数えるだけで事が足りてしまっていたという可能性もあります。その基準日も特定の「星」などの位置によっていたという可能性も考えられ(近世までそのような星の位置などから種まきや刈り入れなどのタイミングを決めていた地方もあるようです)、そうであれば「正歳」を知らなければならないという必然性もないわけです。しかし支配層にしてみれば少しでも統治・支配を強めようとすると民衆を「管理」する必要が出てきます。そのためには「戸籍」が重要な要素となるわけですが、これには「暦(太陰暦)」が必須です。
 『魏志倭人伝』を見ると「戸」の制度があるようであり、これが「戸籍」と直結しているというのは古田氏も指摘しているところですが、他方「其俗不知正歳四節 但計春耕秋收爲年紀」と『魏略』に書かれたように、「俗」つまり「一般民衆」のレベルには「暦」(太陰太陽暦)が使用されていたわけではなさそうです。つまり「支配層」と「被支配層」とで「暦」の受容という点において大きな相違が発生していたと見られるわけです。その意味で「太陰太陽暦」の受容と「二倍年暦」とが齟齬するということは実際にはなかったといえるのではないでしょうか。
 
 ただし『魏略』にいう「計春耕秋收爲年紀」の意味について「単純」に「二倍年暦」であるとするのはやや違うと思われ、私見によればこれは「貸稲の利息を取る期間」として決められていたと理解した論を古田史学会報に投稿しています。(『古田史学会報』(一二五号二〇一四年十二月十日)しかし、会報はまだ「一二三号」までしか公開していないようですから、これを以下に掲載しますので参考にしていただければ幸いです。(同趣旨をブログにアップしたものもありますが、やや縮約したものとなっているため投稿したものを御覧いただいた方が良いと思います)

「春耕秋収」と「貸食」 ―「一年」の期間の意味について―

 ここでは『倭人伝』に記された「但計春耕秋收爲年紀」(春耕秋収を計って年紀としている)という意味について、それが「貸食(貸稲)」の貸与期間でもあった事が推察され、この時代既に後の「出挙」につながる「貸食」の制度があった可能性について述べます。

Ⅰ.「租賦」について
 『倭人伝』によれば「倭国」(邪馬壹国)には「邸閣」があるとされ、「租賦」が収められているとされます。

「…收租賦、有邸閣。…」(『三國志/魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳第三十/東夷/倭』底本:宋紹興本より)

 ここでいう「租賦」とはいわゆる「税」制の主たる部分を構成するものですが、その内容としては一般に「主食」となる穀物を指す場合が多く(それは緊急食料になる場合を想定するが為もありますが)、「米」(稲)ないし「粟」であることがほとんどであり、「倭国」においてもこれらの主要穀物を対象として「租賦」が設定され「邸閣」に運搬され収められていたことを示すものです。
 この「租賦」「邸閣」については『倭人伝』の中に見られる「於國中有如刺史」というような「似ている」という意義の表現ではなく、「租賦」と言い「邸閣」と言い切っていることが重要でしょう。これは「陳寿」や「魏」からの使者の見聞に入ったものが「中国」のものと変わらないという意識であったことを示すものであり、「中国」(魏晋朝)と全く同じシステムが倭国に存在していたということを示すものと思われます。しかし、そのことの持つ意味はかなり重大であって、制度、組織など背景となっているものも「魏晋朝」とほぼ同じであった可能性を示唆するものです。
 たとえば1996年に出土した「送馬楼呉簡」の解析から「三国時代」の「呉」では(「魏晋」などもほぼ同じと思われるわけですが)、各国(及び各郡県)に「倉」があり、そこに「租賦」は運搬され、そこから供出されたりあるいは貸し付けられたりということが行われていた事が明らかとなっています。(註1)
 このように「租賦」が規定されていたとすると、不作の年や植えるべき種籾もないような人たちはどうしていたのでしょうか。
 「稲作」などは天候不順などにより収量がかなり変動する性格が不可避的にあり、「租賦」を収められないあるいは種籾を植えることができないという状況に陥った人達は一定数必ずいたであろうと思われ、それらについては「租賦」を免除していたという考え方(可能性)もあるかも知れません。確かに中国には以下のような実例もあるようです。

「二年三月,遣使者振貸 貧民毋種、食者。秋八月,詔曰 往年災害多,今年蠶麥傷,所振貸種、食勿收責,毋令民出今年田租。」(『漢書/本紀 昭帝 劉弗 紀第七/始元二年』底本:王先謙漢書補注本より)

 ここでは「貧民」に対して「田租」や「貸食」の返却分を収めさせてはいけないとされ、免除されていることが記されています。
 他方「種籾」や収めるべき「稲」等の不足分を「融通」することが行われていたと見ることも可能と思われます。その相手方としては気心が知れた「隣近所」かも知れませんし、一族(宗族)内であったかも知れませんが、また当然「公的機関」(国家)が貸与する場合もあったでしょう。これら全てに「利息」が伴わなかったと考えるのは明らかに不自然ではないかと思われますが、実際に「送馬楼呉簡」によれば「貸食」と呼ばれる「稲」「粟」などを「貸与」する制度や「種粻」という「種籾」を貸し出す制度があり、それに伴う「利息」の存在の徴証が確認されています。(註2)これは後の隋・唐における「出挙」と同じ性質のものが当時から存在していたと考えることが出来ると思われます。(但し「税」としてのものではなかったと思われ、いわば「予算化」されていたとは言えないと思われます)
 このように『倭人伝』と同時代の「呉」政権において「米」や「種籾」の貸与が行われていたことは「魏晋」でも同様に行われていたことを想定させますが、それは即座にその前代である「後漢」以前にその淵源が求められるべきものであることとなります。「後漢」が分裂して三国が形成されたという経緯を考えても「呉」で行われていた政策は「後漢」時代からの継続であったと考えるべきであり、それを示すように上に見る「漢書」の記述中に「振貸」記事が存在しています。
 このように当時から「貧民」に対する救済措置として「種」(種籾)を「貸与」するという政策があったものであり、このことから、「倭国」と「後漢」の関係を考えると(註3)「魏晋」以前から「倭国」で「貸食」「種粻」が行われていたのではないかと考えて不思議はないこととなるでしょう。
 当時の中国には「春貸秋賦」という言葉があり、春に農民に「種籾」を貸し付けて,秋の収穫時に五割(ときには十割)の利息をつけて返還させる一般的慣行が存在していたとされます。このような慣習は本来農民同士の相互扶助的性質のものであり、「送馬楼呉簡」や先の「漢書」の例においても「貸食」が「貧民」に対するものであることから、この時点では国の基幹である農業とその主体である農民の生活の安定に資する目的があったと思われます。
 同様のものが「倭国」に既に存在していたと考える余地があると言う事です。

Ⅱ.『倭人伝』の「春耕秋収」と「養老令」
 ところで『倭人伝』には(正確には『倭人伝』に引用された『魏略』には)いわゆる「二倍年暦」の表現と思われる、「但計春耕秋收爲年紀」つまり「春耕秋収」を計って「年紀」とするというものがあるのはご承知の通りです。ここでいう「年紀」とは「三国志」や先行する史書である「史記」「漢書」などの例では「編年体」による記録を意味する例が見られますが、その基礎となっている概念は「一年」という長さであり、それを「単位」として「年数」を数えるあるいは記録するというものと推量されます。

「…晉唐叔虞者,周武王子而成王弟。…於是遂封叔虞於唐。唐在河、汾之東,方百里,故曰唐叔虞。姓姬氏,字子于。唐叔子燮,是為晉侯。晉侯子寧族,是為武侯。武侯之子服人,是為成侯。成侯子福,是為厲侯。厲侯之子宜臼,是為靖侯。靖侯已來,『年紀』可推。自唐叔至靖侯五世,無其『年數』。」(「史記/晉世家第九」底本:金陵書局本より)

 ここでは「年紀」と「年数」とが対応していると見られますから、「年紀」には「年数」の意義があると推量できるでしょう。

「…將軍駱統表理溫曰 伏惟殿下,天生明德,神啟聖心,招髦秀於四方,置俊乂於宮朝。 多士既受普篤之恩,張溫又蒙最隆之施。而溫自招罪譴,孤負榮遇,念其如此,誠可悲疚。然臣周旋之閒,為國觀聽,深知其狀,故密陳其理。溫實心無他情,事無逆迹,但『年紀』尚少,鎮重尚淺,而戴赫烈之寵,體卓偉之才,亢臧否之譚,效褒貶之議。…」(『三國志/吳書十二 虞陸張駱陸吾朱傳第十二/張溫』底本:宋紹興本より)

 ここは「張温」が「孫権」の配下にありながら「蜀」を賞賛したことが「孫権」の逆鱗に触れたことを「将軍」の「駱統」が弁護している部分で、「張温」が「罪譴」を招いて「謹慎」してからまだ「年数」が経っていない、という意で使用されていると思われます。
 その他複数の例でも同様であり、「年紀」は「年数」という意味があったと考えられます。
 また「計」は「数える」意義ですから、「倭人伝」の場合も当然「春耕」から「秋収」までの間を「計」え(これは「結縄」によるか)、それを単位として年数を数えるということが行われていたと見られますが、これはまた「不知正歳四節」つまり暦がないため正確な一年が判っていないと書かれたように、「魏晋朝」で使用されていた「暦」が「倭国」では使用されておらず「倭国」独自の暦(これが「二倍年暦」か)が行われていたことを示すものでもあります。(註4)
 それに対し同じ『三国志』内の「韓伝」によれば「馬韓」など半島内各国では「…常以五月下種訖、祭鬼神、羣聚歌舞、飮酒晝夜無休。…十月農功畢、亦復如之。…」(『三国志東夷伝韓伝』)とあるように「五月」「十月」という月表示があり、「魏晋」と同じ暦があったことを示しています。
 このように「倭人伝」によれば「倭国」では「魏晋」とは異なる暦を使用していたらしいことが窺え、その基準点として「春耕秋収」が区切りとしての機能を果たしていたというわけです。
 ところで、その区切りは先に見た「春貸秋賦」という言葉の示す時期と重なっており、このことから「稲」や「種籾」の「貸与」の期間の設定と関係して可能性が考えられるものではないでしょうか。
 「貸与」に利息が伴うとすると当然その有効期間が設定されたと思われますが、「春貸秋賦」という言葉が示すとおり「春」に貸し付けられたものは「秋」に収穫された段階で返済することとなるわけですから、「貸付期間」としては「春」から「秋」までであったこととなります。
 これに関連して注目されるのは「養老令」の「雑令」にある「出挙」に関する規定です。そこでは「出挙」という制度の有効期間として(つまり利息を取る期間ともいえます)、「一年を以て断(限り)とする」と書かれています。

「雑令二十以稲粟条」「凡以稲粟出挙者。任依私契官不為理。仍以一年為断。…」

 これは「北宋」の「天聖令」の出現によってほぼ「唐令」の直輸入としての表現であったことが知られていますが(註5)、この「一年」について「養老令」の公的解釈集である「令義解」では以下のように解説されています。
「謂、春時擧(イラヒ)受。以秋冬報。是為一年也。」
 つまり春(種まき時期)から収穫時期である秋や冬までの期間を一年と見なすと解釈しているわけです。
 この「一年」という期間の設定は「倭人伝」と同じ考え方であり、「春耕」から「秋収」までの期間が一般の人々にとって重要であったことを示すものですが、逆に言うと「倭人伝」において「春耕」から「秋収」までの期間を「一年」としている理由の一端はそれが「貸食」の期間であり、また「利息」をとるべき期間として設定されていたからということも考えられると思われます。
 この「一年」という期間は上記「送馬楼呉簡」の例では返却が二月となっている例もあり、「貸与」の期間はその年度内であるものの「秋収」までを「一年」としているわけではないことが判ります。「天聖令」の条文においても同様であり、「暦」(太陰暦)の存在がある限り「一年」の正確な長さは判っているわけですから、ここに言う「一年」は確かに「太陰暦」の「一年」を意味すると思われます。そうすると「令義解」の解釈は「唐」からの直輸入ではなく「倭国」独自のものであることが推測できます。つまり「令義解」の解釈はその時点のものというより倭国における伝統が反映しているものと見られ、「一年」という期間としては異例とも思える範囲が設定されているのも古代の倭国からの状況をそのまま継続してきている現状を反映した結果と言えるのではないでしょうか。
 『書紀』で確認できる「出挙」のような「貸食(貸稲)」の制度は「孝徳紀」に始めて出てきます。

(「大化二年(646年)三月癸亥朔甲子条」)「…宜罷官司處々屯田及吉備嶋皇祖母處々『貸稻』。以其屯田班賜群臣及伴造等…」

 しかし、これは「私出挙」とでも言うべき「吉備嶋皇祖母」の「貸稲」を止めるというものであり、その起源を語るものではありません。(註6)当然それを遡る時期にその起源は求められるべきものでしょう。(註7)
 この「貸食(貸稲)」と「租」の関係に関しては「租」と「貸食」とが連動しているとする考え方や「貸食」が「租」に先行するとするものなど各種議論がありますが、この「倭人伝」時点では確実に「租」が存在しているわけですからいずれの立場でも「貸食」という制度ないし慣習がこの時点で確実にあったものと見なければならないことになるものと思われ、「貸食」の起源としては「卑弥呼」の時代あるいはそれをさらに遡る時代を措定すべきではないかと推量します。そしてその慣習はその後の「倭国」に長く残ったものであり、それが「養老令」の「雑令」に残ったと見ることが出来ると思われます。
 「稲作」は「邪馬壹国」時代以前から連綿として続けられてきているわけですし、天候不順も必ずあるわけですから、不作となって収穫する稲穀が少なかったり、植えるべき種籾がないというような状況はある期間を通じれば普遍的に存在するわけです。そうであれば「貸食」という慣習がなくなるようなことはなかったはずと思われるわけです。
 (ただし「出挙」という用語は「隋代」にその初見があるものであり、そのことは「倭国」の「出挙制」が「遣隋使」によってもたらされたものという可能性は考えられる事となるでしょう。可能性としてはこの時点で初めて「公出挙」が制度として決められたとも考えられますが詳細は別稿とします。)

結語
Ⅰ.『倭人伝』に拠れば「卑弥呼」の時代の「倭国」には「税」のシステムである「租賦」が規定され、人々から「租」(稲や粟などの穀物か)を徴集していたらしいこと。その関連として「呉」の制度として「貸食」「種粻」という制度があったこと。それは「漢代」以来のものと思われ、「魏晋」や「倭」でも同様に行われていた可能性があること。
Ⅱ.『倭人伝』(魏略)における「但計春耕秋収爲年紀」という表現は「二倍年暦」という「倭国」独自の暦の存在を示すと共に、不作などの場合の救済措置として行われていた「貸食」の有効期限としての表現であったと見られること。その「貸食」という慣習は「倭国」では「貸稲」というものに名を変えた後「八世紀」の「養老令」の「出挙」に継承されたと推定されること。
以上を述べました。

「註」
1.伊藤敏男『長沙呉簡中の邸閣・倉里とその関係』歴史研究49号2011年 大阪教育大学歴史学研究室によります。
2.谷口建速『長沙走馬楼呉簡にみえる「貸米」と「種粻」 ―孫呉政権初期における穀物貸与―』史觀 162冊2010年 早稲田大学史学会によります。そこでは「息米」という表現があり、これが「利息」としての「米」であるという理解がされています。ただし「利率」については不明とされます。
3.『後漢書』によれば「委奴国王」が「光武帝」から「金印」を授けられており、又「倭国王」「帥升」が「生口一六〇人」を献上したとされるなど、両国の間には深い関係が構築されています。
4.「春耕」から「秋収」までという期間は、「春」「秋」という表現から旧暦の「三月」から「九月」が想定され、約「百八十日」程度となると思われます。これを「単位」として年数を数えるというわけですが、逆の「秋」から翌「春」まで日にちを数えなかったとすると大いに不審ですから、そちらも別の「一年」となることは必定であり(「秋収」時点で「結縄」は一旦リセットされるものと思われます)、年数が倍となる(つまり「二倍年暦」)ことは必然と思われます。
5.「天聖令」(雑令)に拠れば「諸以粟麦出挙、還為粟麦者、任依私契。官不為理。仍以一年為断。不得因旧本年利、又不得廻利為本。」とありますが、「養老令」では「凡以稲粟出挙者。任依私契。官不為理。仍以一年為断。不得過一倍其官半倍。並不得因旧本更令生利。及廻利為本。…」となっており、「粟麦」を「稲粟」としている他はほぼ同じとなっています。
6.この措置はいわば「私出挙」の制限であり、国家による「出挙」つまり「公出挙」を人々に強制するための準備とも言うべきものではなかったかと思われます。
7.「2008年4月」に「旧百済」の地である、韓国双北里の農耕地から「貸食」とその運用について書かれた木簡が出土しました。そこに「戊寅年」という表記があり、共伴土器から考えて「618年」より新しくはないだろうとされています。(李鎔賢『百済木簡 ─新出資料を中心に』 国立扶余博物館2008年)
 その記述から推測される「利息」の値から考えると「出挙」につながるものであって、これが「孝徳紀」の「貸稲」に影響を与えたという考え方もあるようですがそれに得心がいかないのは上の議論に示したとおりです。

他参考文献
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「古典文学大系『日本書紀』(文庫版)」岩波書店
黒板勝美「国史大系『令義解』」吉川弘文館
三上喜孝『北宋天聖雑令に関する覚書 : 日本令との比較の観点から』山形大学歴史・地理・人類学論集第8号2007年
水谷謙治『中国における物的貸借の歴史的考察』立教経済学研究第66巻第二号2012年
春山千明『律令時代に於ける出挙』金城学院大学論集14号1959年
松好貞夫『融通の原型、出挙制度』流通経済論集第5巻1号1970年
台湾中央研究院Webサイト「漢籍電子文献全文資料庫」
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