古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『倭人伝』シリーズ(8)

2024年01月30日 | 古代史
 「投馬国」の位置として「邪馬壹国」の北にあるという主張があります。その根拠としては、「邪馬壹国」の前に「南至る」と有り、それが「郡治」からの方向であるとして、その構文と同一である「投馬国」も同様であるというものです。しかしそもそも『倭人伝』の冒頭は「倭人在帯方東南大海之中」という大方向指示があり、そこには「東南」とありますから「南」が「郡治」からの方向とすると食い違ってしまいます。あくまでも「南」が「郡治」からの方向であるとすると「東南」は「邪馬壹国」の方向ではないこととなりますが、「常識的に考えて」それはいかがなものと思われます。
 「倭人」の代表として「邪馬壹国」の「卑弥呼」を「倭王」としたからには、「倭人」のいる方向としてはやはり「邪馬壹国」の方向を示して当然です。そうであれば「南至」という「邪馬壹国」の方向は「郡治」からではないこととなりますが、それは即座に「投馬国」の南」という方向も「郡治」からのものではないということにならざるを得ません。ではどこからなのかというのは、それを示すものが「郡使往來常所駐」という一語が付されている「伊都国」からと考えるのは自然でしょう。
 『倭人伝』が単なる「風俗資料」ではないのは当然であり、軍事的意味合いが濃いとすれば自ずと「読み方」があると思われそれを押さえた上での読解が必須と思われます。
 仮に「郡治」の「南」に「投馬国」がありそこに「郡治」などから使者が行っていたとすると、「郡より倭に至る行程」を書いたはずの記事中に「投馬国」がないということになります。それは「報告書」として「不体裁」でしょう。「報告書」を作成した「魏使」は、「投馬国」は「倭」への行程上の中に(支線行程であっても)あるとして書いたに違いないのです。そうでなければ「邪馬壹国」への行程上に(不意に)「郡治」からの方向が示された国が出てくることとなり、想定された第一読者としての「皇帝」を初めとした他の多くの読者は混乱することでしょう。
 また『倭人伝』の冒頭に出てくる一文として「今使訳通じるところ三十国」というものがありますが、そこに「狗奴国」は入っていないのでしょうか。
この「三十国」とは『倭人伝』で示された「国」を示すと考えられますから、「女王国以北」とされる「諸国」及び「女王国」(邪馬壹国)、更に「遠絶」とされる「其の余の傍国」が該当すると見られます。「女王国以北」には「対馬国」以降「投馬国」までが数えられると判断されますし「狗邪韓国」は「韓」の領域にありますから、当然のこととして除外されるものであり、「地理風俗」等の情報が記載されるようになる「対馬」以降が「倭王権」の範囲に入ることは自明です。そうすると「狗奴国」は明らかに「其の余の傍国」に入っていると思われることとなるでしょう。「狗奴国」が「使訳通じる」とされる「三十国」に入っていると見る理由の一つはこの「使訳通じる」とされる対象あるいは範囲が「倭人」とされている点です。

『倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。』

 この『倭人伝』の表現からは「使訳」が通じている「三十国」について、「邪馬壹国」の支配する領域の中の「国」であると限定することはできないでしょう。そこでは対象としては単に「倭人」といっているだけであり、その意味では「狗奴国」と「魏」との間に「使訳」が通じていなかったと判断することはできません。このことは「狗奴國」と「邪馬壹國」とが戦争状態にあるということと「使訳」が通じているかどうかは別のことと見るべきことを示します。
 さらに疑問なのが、そもそも「今」とはいつのことなのかという点です。
 つまり問題の一つは「今使訳通じるところ」という「今」についてです。一見すると「邪馬壹国」と「狗奴国」が敵対関係にある時点と考えられるかもしれませんが、そうでないことは「今」の示す「時点」について考えると判明します。
 そもそも『三國志』は「陳寿」が「西晋」の史官の時に書いたとされており、その意味で「今」とは「西晋」時点と即断してしまいそうですが(『書紀』の場合でも「今」という表現は『書紀』編纂時点のことと見るのが相当であり、この『三國志』でも同様ではないかと考えられる訳です)、しかし実際に『三國志』内で「今」の例を渉猟すると「地の文」で出てくるものについて明確に時代がわかるものとして例えば「高句麗王」についての記事(『高句麗伝』)があります。そこでは「高句麗王」の「宮」に対して「『今』句麗王宮是也」という表現があり、その彼は「正始六年」に「毋丘儉」により失脚させられています。つまりここに出てくる「今」は「正始六年」付近以降ではない時点と理解できます。

「…伊夷模無子。淫灌奴部、生子名位宮。伊夷模死、立以爲王。今句麗王宮是也。其曽祖名宮、生能開目視。其國人惡之。及長大、果凶虐、數寇鈔、國見殘破。今王生堕地、亦能開目視人。句麗呼相似爲位。似其祖、故名之爲位宮。位宮有力勇、便鞍馬、善獵射。
景初二年、太尉司馬宣王率衆討公孫淵、宮遣主簿大加將數千人助軍。
正始三年、宮寇西安平。其五年、爲幽州刺史毋丘儉所破。語在儉傳。」(高句麗伝)

「正始中、儉以高句驪數侵叛、督諸軍歩騎萬人出玄菟、從諸道討之。句驪王宮將歩騎二萬人、進軍沸流水上、大戰梁口(梁音渇)、宮連破走。儉遂束馬縣車、以登丸都、屠句驪所都、斬獲首虜以千數。句驪沛者名得來、數諫宮、宮不從其言。得來歎曰:「立見此地將生蓬蒿。」遂不食而死、舉國賢之。儉令諸軍不壞其墓、不伐其樹、得其妻子、皆放遣之。宮單將妻子逃竄。儉引軍還。六年、復征之、宮遂奔買溝。儉遣玄菟太守王?追之、過沃沮千有餘里、至肅慎氏南界、刻石紀功、刊丸都之山、銘不耐之城。諸所誅納八千餘口、論功受賞、侯者百餘人。穿山漑灌、民賴其利。」(毋丘儉伝)

 このことは「西晋」時点だけが「今」とされているわけではないこととなりそうであり、「陳寿」がその記事を構成する際に以前の資料を「そのまま」書いている部分があることが推察できます。その意味で「原資料」の性格を吟味することが必要ですが、いずれにしても『倭人伝』の記事自体が、派遣された「魏使」が皇帝へ提出した「復命書」という一種の帰朝報告書を下敷きにしているとみられるわけであり、その「魏使」は「告諭使」として派遣されたものですから、彼らの帰朝時点ではその「告諭使」としての使命が果たされたという可能性が高いと見るのが相当です。
 「告諭使」の使命は「邪馬壹国」率いる倭王権とそれに対抗していた「狗奴国」との争いを停止させることであり、いわば「和平工作」であったはずです。「告諭使」としてやってきた彼らが「黄幢」「檄」などを手渡しただけでその責務を全うしたこととなると考えたとは思えません。彼らには「結果」が求められていたはずです。そうであれば「狗奴国」が「告諭」に応じたかどうかを確認しなければ帰国することはできなかったでしょう。
 後代の例からは彼ら一行には「告諭使」が正しく「魏」法令に則り「皇帝」から与えられた使命を全うするか確認する係の官吏(監察御史的役割)も同行していたものと思われ、その意味からも結果を出さずに帰国するわけには行かなかったはずです。この点について古田氏が指摘した「海賦」という史料に書かれた文が参考になるでしょう。
 「古田氏」は『「海賦」と壁画古墳』(『邪馬壹国の論理』所収)において、『海賦』で述べられている以下の部分について「倭国が狗奴国との交戦によって陥った危急を急告、それに対する中国の天子のすばやい反応によって危難が鎮静された事件」があった事を示すとされ、この「正始八年記事」が該当すると述べておられます。

「若乃偏荒速告,王命急宣。飛駿鼓楫,汎海?山。於是候勁風,?百尺。維長?,挂帆席。望濤遠決,冏然鳥逝。鷸如驚鳧之失侶,倏如六龍之所掣一越三千,『不終朝而濟所屆。』」(『海賦』より)

 ここでは「不終朝而濟所屆。」と書かれており、この「不終朝」という一語が事件の解決に時間がかからなかったことの比喩として書かれていると思われ、それは即座に「告諭使」の責務が全うされたことを示すものです。そうであれば「狗奴国」は「邪馬壹国」との戦闘行為を停止したと見るべきこととなります。
 また「狗奴国」にとってもこの「魏」が直接使者を派遣してきたことを決して軽視はしなかったと思われます。なぜならそれ以前に「卑弥呼」が「親魏倭王」と認定されていたからであり、また直前に「韓半島」が「帯方」「楽浪」両郡の前に武力で制圧された例があるからです。
 「親魏倭王」という称号を付与された「卑弥呼」が要請すれば「魏」の皇帝はその要請を無視できないこととなりますから、本格介入がありうることとなり、そうわかっていれば「魏使」の「告諭」に対して「狗奴国」としてあえて異を唱え、戦闘停止に応じなかったと見ることは無理があるといえます。
 もし「狗奴国」がこのような態度を取り続けた場合、最悪「魏」の軍隊が「帯方」「楽浪」両郡から派遣されてくる可能性があり、それは避けるべき事柄であったはずです。そうであれば「魏使」の「和平工作」は成功したと見るべきですが、その時点以降「狗奴国」は敵対勢力ではなくなっていたと考えられ、「魏」あるいはその後の「西晋」と「使訳」を通じるようになっていたとみるのが相当でしょう。そうであれば「魏使」の帰国付近である「正始八年」付近を「今」と表現しているとみることができそうですが、それは『高句麗伝』において「今」が「正始六年」に至近となることと矛盾はありません。つまり彼らが帰国し「復命書」を提出した時点付近で「使訳通じるところが三十国あった」ということとなるでしょう。そう考えれば「狗奴国」が「三十国」に入っていたとすることは不自然とはいえないこととなります。
そしてこの「告諭使」の活動が成功裏に終わったからこそ、その帰国にあたって「倭女王」を継承した「壹与」によって多大な貢献物が「魏」の皇帝にあてて送られたものであり、それはいわば「感謝のしるし」であったはずです。
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『倭人伝』シリーズ(7)

2024年01月30日 | 古代史
 すでに述べましたが「一大率」が「魏使」の案内役であったこと、「魏使」(あるいは「郡使」)が「卑弥呼」と面会するなどの際に全てを「一大率」がサポートしていたであろうことを推定しています。さらにこれに加え「一大率」が「常治」していたという「伊都国」の重要性を指摘することができます。
 「伊都国」は「郡使往來常所駐」という書き方から見ていわば「ベースキャンプ」とでもいうべき位置にあったと思われ、ここは列島内各国へと移動・往来する際の拠点となっていたと考えられますが、それを示すのが以下の記事であり、この記事はいわば「道路」の「方向・距離表示板」の如く「行程」記事が書かれていると考えます。つまり以下は全て「伊都国」からの方向と距離を示していると考えるものです。(但し「邪馬壹国」の「水行十日陸行一月」は「郡より倭に至る」全日数がここに記されているとみるのが自然であり、そうであれば総距離の「万二千余里」とも矛盾しないのは既に明らかです)

東南至奴國百里。官曰?馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳?。可七萬餘戸。

 このうち少なくとも「奴国」「投馬国」「邪馬壹国」は「戸数」が書かれていますから(これは別に述べますが「戸」表記は「戸籍」に基づくものであり、データの開示を受けなければ知ることのできない事柄と思われる)、実際に「魏使」(あるいは「郡使」)がそれらの国へ行き、官吏から説明を受けたと推定できます。
「不彌国」の場合は「家」で表記されていますがこれだけでは実際に行ったのか行かなかったのかは不明です。行ったものの「戸籍」に関するデータの開示がなかったのかもしれませんし、行かなかったために「一大率」から(戸籍に基づかない)情報として「家数」を聞いたのかもしれません。
 ただし「魏使」(あるいは「郡使」)は「伊都国」から直接「邪馬壹国」へ行ったものと推量します。それが彼に与えられた最優先に実施されるべき事項であり責務ですから当然です。そして「伊都国」が「郡使往來常所駐。」と書かれたような位置にあったと見ればここを拠点として行動したであろうと推定するのは当然ともいえます。またそこには「往来」と書かれており、「邪馬壹国」などからの「帰途」にもこの「伊都国」で「駐まり」、ここで小休止の後「魏の都」あるいは「(帯方)郡治」へと出発したものでしょう。
 つまり上に見るように「伊都国」からの「方向・距離」が書かれている中に「投馬国」についてのものがあるわけであり、その「起点」は当然「伊都国」と見るべきでしょう。
 またここに書かれた「邪馬壹国」以外は「邪馬壹国」へ赴いた後に(つまり「帰途」)「伊都国」へ戻りそこから「奴国」「不彌国」「投馬国」へと足を伸ばしたものと推定しており、それはもちろん「一大率」の案内の元であり、「投馬国」へ行きそこを視察した後(「伊都国」に戻った後)最終的な帰途についたという行程を想定しています。
 ところで、このうち「投馬国」の「南至水行二十日」という部分について「帯方郡治」からのものという理解をされる向きがあるようです。 しかしこの行程記事は「魏使」が「印綬」「黄幢」などを擁して「卑弥呼」に会見するために来倭した「弓遵」「張政」などの報告がベースとみられ、そうであるなら「投馬国」がもし「郡治」から二十日間水行した場所にあるという推測が正しいとすると、「投馬国」への案内をする人間が不在となるでしょう。明らかに「一大率」ではありません。彼らは「対馬国」に至って初めて「魏使」の案内をすることとなったものと考えられ、「郡治」から案内できたとは思われません。
 そもそも『倭人伝』の行路記事は「郡より倭に至るには」という書き出しで始まり「女王の都するところ」という記事で結ばれるわけですから、その動線は一本の線でつながっていて当然です。またその動線の中で「対馬国」以降「詳細」が記されるようになるということ及びこれ以降「一大率」が案内役となったと推定できることから考えて、ここに「国境」があったらしいことが推定され、そのことから「郡治」から直接「投馬国」へというルートがあったとは考えにくいと思われます。それでは「倭王権」があずかり知らぬところで倭地の諸国と「直接的交渉」が行われている事になってしまいます。あくまでも「外交交渉」の窓口は「国境」である「対馬国」でありまた「外交・軍事拠点」としての「伊都国」であったと思われますから、「投馬国」についての記事は「郡治」を起点とするものではないと考えざるを得ません。
 また「今使譯所通三十國」つまり「郡治」との交渉がある国が三十国あるという記事もありますが、「郡使」の「往来」は全て「伊都国」経由であるという記事と関係して考えると、それら「三十国」との交渉も全て「伊都国」を経由していたことを推定させるものであり、その意味でも「一大率」の検察下にあったものであって、「一大率」の目の届かないところでの「郡治」との直接交渉が「諸国」との間にあったとは思われないこととなりますから、その意味からも「郡治」から直接「投馬国」へという動線があったとは考えられないこととなるでしょう。
 またそれは「一大率」の「検察」範囲が「女王国以北」とされていることでも判ります。

「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國 於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」

 ここで「一大率」の「検察」する対象範囲が「自女王国以北」とされていますが、この表現は「自女王國以北、其戸數道里可得略載」という文章中の「自女王國以北」と同じです。そうであれば「戸数道里」が記載されている「投馬国」は当然「自女王國以北」に含まれることとなります。そのことは「一大率」が「檢察諸國」しているという中に「投馬国」は含まれていると理解すべきこととなるでしょう。そうであれば「投馬国」への行程も「一大率」が誘導したことは明らかであり、その場合「伊都国」からの動線以外考えられず、「投馬国」の方向指示である「南」という字句は「郡治」を起点としたものとは考えられないこととならざるを得ないものです。
 (行路記事から見て「伊都国」に行程の集約拠点があるわけであり、そこが「女王国」の北にあるという点が「以北」という表現につながっていると考えられます。)
 この「水行」部分については当時「陸行」の方が日数を要するという点が重要視されていたと思われ、遠距離移動の際にはできれば避けるというのが方針ではなかったかと考えられます。そうであれば「投馬国」への「水行二十日」というのが(当然「沿岸航法」が主体と思われますが)かなり遠距離であるのは確かであり、そのため「陸行」を避けたとも見られると共に、案内役であったと思われる「一大率」自体が「水軍」主体の編成であったと推測され、「魏使」など外国使節の誘導には「水行」を前提としていたと見ることができるでしょう。
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『倭人伝』シリーズ(6)

2024年01月30日 | 古代史
 「伊都国」と「一大率」の拠点としての博多湾岸について考察したわけですが、それは必然的に「邪馬壹国」の領域としてやや南方に下がった位置を措定することとなります。
古田氏をはじめとする多元史観論者の多くは「邪馬壹国」の領域として「博多湾」に面した「筑前中域」と称する領域を措定していますから、上に展開した私見とは異なります。
 古田氏は「卑弥呼」が「魏」の皇帝から下賜された宝物類に良く似たもの(構成)が「須久・岡本遺跡」の遺跡群から出土するとしてこれが「卑弥呼」の「墓」と理解しているようですが二つの点で疑問があります。一つは「薄葬令」です。
 「魏」の「曹操」とその息子の「曹丕」は共に「薄葬」を指示し、墓には華美な宝玉類を入れないようにと遺言しています。「卑弥呼」が(あるいは「倭王権」が)これを守ったなら墓からはそのような宝玉類は出てこないでしょう。そう考えると、これらの宝玉類はそのような「薄葬令」が出される以前の墓と考えるべきことを示すものです。
 「卑弥呼」の墓を造るに当たっては「難升米」や弟王(この人物はあるいは「難升米」と同一人物か…後述)あるいは次代の王である「壱与」などの意志が関与していると見られますが、彼らが「魏」の朝廷の意志や「薄葬令」を知らなかったとは思われず、そうであれば無視などはできなかったはずです。
 また「卑弥呼」の墓は「魏」から「張政」が「告諭」のために来倭中に造成されたものと見られますから、いわば「魏」の使者の監視の下で作られたこととなります。そうであればなおのこと「薄葬令」を意識せずにはいられなかったでしょう。とすればこの時「奴婢」は殉葬したものの「宝物類」は埋納されなかったと見るべきこととなります。そうであればこの「豪華」な副葬品が出土した「須久・岡本遺跡」という地域は「邪馬壹国」ではなくそれ以前の「倭」の代表権力者であった「奴国」(あるいは「伊都国」)の領域と考えるべきこととなるでしょう。
 たとえば「奴国」はそれ以前の「倭王権」の中枢であった時期があったものと思われ、その時代に中国と関係ができ「宝物類」を下賜されたことがあったものとして不自然ではなく、それらを「埋納」したということが考えられます。(そもそも「皇帝」からの下賜品というのはそれほどバリエ-ションがあったとも思われず、「倭」など「夷蛮」への下賜品としてはある程度決まっていたという可能性が考えられるでしょう。その意味では「卑弥呼」への下賜品と似た内容となったとして不思議はないと思えます。)
 この地域が「奴国」であったという可能性は「二万余戸」という人口にも表れており、「博多湾岸」のかなりの部分を占めなければこの人口を収容できないと思われます。「博多湾岸」を「邪馬壹国」が占めるとすると、「奴国」の領域は(西側の)「山」に押し込められかなり狭くなるでしょう。それでは「二万余」という人口を格納できないと思われるわけです。(でなければ「正木氏」のように唐津付近まで「奴国」の領域を広げる必要があると思われますが、それでは「博多湾」の防衛を担うはずの「一大率」の存在が浮いてしまうでしょう。)
 もう一つは「水城」の存在です。「水城」の構造の解析から、その基礎部分には「敷きソダ構造」が採用されており、その最下層の「ソダ」の年代判定として「卑弥呼」の時代まで遡るものもあるとされています。
 「水城」の位置とその構造から考えて、「水城」は首都防衛の重要な施設であったと見るべきこととなりますから、「水城」よりも海岸に近いところに首都があるとすると「水城」の存在意義と反してしまうこととなります。これは後世の太宰府などと同様「首都」となるべき領域は水城の「背後」にあると考えなければならないと思われます。(「狗奴国」との戦いの中で構築されたものでしょうか)それを示すように後に「元寇」に備えて造られた「防塁」は「海岸線」に存在していました。この時代は「博多湾岸」にその九州統治の中心があったものであり、その防衛線はそれよりも海岸側に造られて当然であることをしめすものですが、それは「水城」によって防衛されるものも当然「水城」の背後になくてはならないことを示すものです。
 さらに「神護石」遺跡の分布も「筑前中域」にはその中心がありません。それよりも「筑後側」に偏した付近にその防衛すべき主体があったと見る方が正しいと思われます。もちろん全ての「神護石」遺跡が「卑弥呼」の代まで遡上するというものではありませんが、「祭祀」に使用された遺物の時代判定からは一部についてはやはり「三世紀」付近までその起源が遡上すると考えられるものもあるとされます。 そう考えると、「水城」や「神護石」という重要拠点の防衛として構築されたらしい遺跡の存在から考えて、「博多湾岸」ではなく、そこから一歩下がった現太宰府付近にその中心があったと見るべきでしょう。
 それはまた『倭人伝』に記された「伊都国」からの「行程」からも推定できます。
 伊都国からの距離として(「魏使」の常に留まるところと云うのが現「吉野ヶ里付近」と見てそこから出発したとする場合)距離が明示されておらず、これは「一日以内」の行程であったことを示すものでありせいぜい「二〇〇里」程度と思われ、「実距離」として15km程度が推定されますが、これを地図で確認すると「太宰府付近」までその範囲として含むことが可能と思われますから、位置関係としては矛盾しないと思われます。
 ところで「一大率」は「伊都国」において「刺史の如く」存在しているとされますから、「王」には実権がないものと考えられますが、このようなこととなった経緯については以下の通りと考えられます。
 「伊都国」は「黥面文身」の本拠とでも言うべき領域であり、またその領域はほぼ「海浜」に限定されていたと思われます。つまり彼らは基本的に「海人」であったと思われるわけですが、しかし「邪馬壹国」率いる諸国は「後漢」との折衝を経て以降「律令制」と「国郡県制」のような階層的行政制度を構築しようとしたと推定され、その中心は「農業」であったことが「伊都国」の衰亡に関係していると思われます。
 中国においては「農業」が基本であり、「稲作」と「養蚕」というように男女の労働負担の振り分けも(慣習ではあるものの)決められていました。これを「倭」でも取り入れようとしていたと思われるわけですが、『倭人伝』には「倭」が「漁業」、つまり「海人」が中心の領域であるように書かれています。「末廬国」の描写のところやそれ以外でも「黥面分身」の風習や「沈没して魚介類を捕る」というようなことが書かれており、「魏使」にとって珍しいものであったことが窺えます。しかし「租賦」を納める「邸閣」の存在も書かれているように、当時の「倭」では「租」が人々から徴集されていたと思われますが、これは「穀類」であり、その中心は「稲」でした。「稲作」には広い領域を必要とし当然その中心は「内陸」となります。これは即座に「奴国」「邪馬壹国」などの領域の方が「租」の実量において多数を占めることを示し、相対的にこれらの国々の方が政治的実力も高くなることとなったことが推定できます。
 「賦」については「布帛」つまり「絹織物」を中心とした繊維類や各国の特産物などを貢納するというようになっていたものと思われ、魚介類なども当然この中に入ってはいたと思われますが、税の主体が「穀類」となったことは動かしがたく、その意味で「邪馬壹国」について『倭人伝』で戸数が「七万」という大きな数字とされていることは重要です。このような戸数は「東夷伝」全体でもどの国にも見られずその意味で「邪馬壹国」がずば抜けて大きな人口を保有していたことがわかります。(ただし実数とは思われませんが)
このことからかなりの量の「租」が「邪馬壹国」から収集可能であったものと思われ、それは即座に「邪馬壹国」の「政治力」の増大につながったものと思われます。つまり「稲作」そのものは当然国内では以前から行われていたものですが、それが「税」の中心となるという事態に立ち至って以降「海人」の国である「伊都国」はその体制の中心から遠ざかることとなったのではないかと推察されるわけです。
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『倭人伝』シリーズ(5)

2024年01月30日 | 古代史
 『倭人伝』の記述によれば「郡使」あるいは「皇帝」からの「勅使」は「いつも」「對馬国」を経て「一大国(壱岐)」~「末廬国」へと行くコースを使っていたと理解されます。

「始度一海、千餘里至對馬國。…又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。…又渡一海、千餘里至末盧國。…東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
…自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」

 これによれば「一大国」を経て「郡使の往来」に「常所駐」とされる「伊都国」へという行程には途中「末廬国」を経由するというコースが常用されていたものと考えられ、いいかえればこのような往来には「博多湾」は使用されていなかったと推定されることとなるでしょう。
 つまり「郡使」などが「對馬国」へ来ると「一大国」を経由して「末廬国」へと意識的に「誘導」されたものと思われますが、それはその時点以降「移動」が「軍事関係者」により「誘導」されたものであり、彼らが乗り込んできて強制的に「一大国」~「末廬国」へと進路をとらされた、あるいはその目的で船が先導したという可能性が考えられますが、この「軍事関係者」というのが「一大率」である(その関係者)というのはまちがいないと思われます。つまり「對馬国」には「一大率」から派遣された担当官がおり、彼によって「一大国」経由で「末廬国」へと誘導されたという可能性が高いと思われるわけです。
 「狗邪韓国」までは「官」の有無を始め詳細情報が記されませんが、「對馬国」以降はそれが書かれるようになります。そのことから「倭王権」の統治範囲は「對馬国」までであったと見られ、ここに「境界線」が存在していたものです。(ただしそれは「韓半島」内に「倭人」がいなかったという意味ではありません。)
 つまり「對馬国」はいわば「国境」にあるわけですから、そこに国境警備隊よろしく軍事力が展開していたとみるのは当然です。それはまた「女王国以北」の「諸国」について「一大率」が「検察」しているとする表現からも窺えます。当然「對馬国」に「一大率」の前線基地とでもいうべき「軍事基地」があったと見られ、そこに「斥候」「防人」の類の兵力があったと見るべきでしょう。
 「魏使」が九州島に上陸するにあたって「博多湾」を避け「末廬国」へと誘導した理由としては、古田氏が言うようにそこ(博多湾)が「重要地点」に至近であったからと思われ、この「湾」からほど遠くない場所に王都である「邪馬壹国」があったらしいことが推定されるでしょう。(このことは「邪馬壹国」が「近畿」にあったという解釈に対する反証ともいえるものです。もし「近畿」にあったのならば「魏使」が「博多湾」へ直接入港してもそれほど支障があるとも思えないからです。)
 また、この「卑弥呼」の時代である「三世紀」には「博多湾」はもっと現在より海岸線が内陸側にあったと見られ、その分余計に「邪馬壹国」に接近していたと言えるでしょう。これは逆に言うと「敵」が「海」から侵入してくるとすると、「博多湾」が第一の経路であり、標的となることを意味します。であれば、これに対する防衛システムも博多湾を中心に展開していなければならないこととなるでしょう。つまり「一大率」は(北方の防衛の拠点とされているわけですから)、「博多湾」に面してその拠点を持っていたと考えるのが相当と思われることとなります。
 しかし経路に関する分析から「伊都国」の位置について現在の「佐賀市」など「有明海」に面する地域の近傍が推測されることとなりましたので、「博多湾」に面する地域には「一大率」の出先としての軍事力が配置されていたとみるべきこととなるでしょう。このことから必然的に「一大率」の主要な勢力は「水軍」であったこととならざるを得ないものです。つまり「博多湾」の防衛を考えると、そこには「首都」あるいは「首都圏」防衛のために水軍の基地があったとみられ、「軍船」が常時停泊していたものと思われます。さらにそこには「一大率」の拠点としての「城」がなければならないのは当然と思われ、そのような場所に外国使者などが直接入港することを避けるのは当然です。(軍事情報を隠蔽する意味もあると思われますが)
 加えて言えばより重要な事実として「博多湾」自体の水深が当時それほど深くなかったという点があります。当時はまだ「堆積平野」としての「博多」の陸域が発達していなかったものとみられ、それは逆に当時の海岸線付近の海面水深がさほど深くなかったことを示唆します。(「縄文海進」とは意味が異なりますが)このため、大型の構造線は「博多湾」には侵入できなかった可能性が高いと推量されます。
 当時の「倭」の技術レベルから考えて「倭」の諸国において「大型の構造船」が実用化されていたとも思われませんから、たとえば「狗奴国」などからの侵入者は「小型船」を使用したはずであり、当然「博多湾」内には侵入できたこととなります。その意味では「博多湾防衛」は「必須」であったのは間違いないと思われますが、それとは別に「中国」からの使者は当然外洋航海のできる大型船を使用していたはずですから(それは当然「倭王権」も承知しているところでしょう)、そのため「末盧国」へと誘導されることとなったと思われるわけです。この場所は水深も深く大型船も接岸できていたはずですから、そこに「一大率」の「出先」が設けられていたのも当然となります。
 『書紀』の「壬申の乱」の描写によれば、「近江朝」からの出兵指示に対して「筑紫大宰」であった「栗隈王」はこれを拒否していますが、その言葉の中では「…筑紫国者元戌邊賊之難也,其峻城深湟,臨海守者,豈爲内賊耶,…」とされており、ここでは「城」があり、それが海に臨んで立地しており、「城」そのものも険しく(急峻な城壁を意味するか)、また堀も深いとされます。このような「城」が実際に存在していたと考えて無理はないでしょう。「栗隈王」が言うとおり、それは「外敵」からの防衛のためには当然必要であったと思われるからです。またそれは「七世紀」に限った話ではなかったはずであり、それ以前からこの「博多湾」に望む位置が軍事的に重要なものであったことが推察されます。
 後の「鴻臚館」のあった場所(これは後に「博多警固所」となり、また「福岡城」となります。)には「大津城」という「城」があったことが推定されており、また「主船司」も至近にあったらしいことが推察されています。
 このようなものは当時(平安時代)の「新羅」などの侵入に対する「博多」防衛のためのシステムですが、その趣旨は「一大率」という存在と酷似するものではないでしょうか。つまり、「伊都国」に「治する」とされている「一大率」もこの「鴻臚館跡」付近にその出先としての拠点を持っていたという可能性が考えられるものです。(この場所が地形的にも「博多湾」に突き出るような形になっているのも「博多湾」の防衛拠点としては理想的であり、この地の利点を生かさなかったはずがないとも言えます。)
 また「伊都国」には郡使などの往来に際して「郡使往來常所駐」、つまり常に駐まるところとありますから、「伊都国」には「外国使者」の宿泊施設や「迎賓館」のようなものもあったと思われます。これは後の「鴻臚館」につながるものと思われますが、当初の「鴻臚館」的建物は「伊都国」にあったものであり、「博多湾」にその後「移動」されたと推測されることとなります。
 またすでに述べましたが「伊都国」に「一大率」の拠点があり、また「一大率」が「諸国」を「検察」していたということから考えて「魏使」や「郡使」は全てここから「一大率」の案内(あるいは「監視」の元)で諸国へと誘導されたものと推測でき、また帰途も「伊都国」を経由した後「小休止」し「旅立ちの準備」をした後「末盧国」を経由した後「帯方郡」や「魏」の都へと帰っていったものと推察され、その際も「対馬」までは「一大率」が案内したものであり、そこで「狗邪韓国」側からの案内に切り替わったものかと推察します。
 また『倭人伝』には「邸閣」の存在が書かれていますが、それは通常の「租賦」の集積場ではなく「軍事用糧米」などの供給のための施設であったと考えられます。それが「邪馬壹国」内にあったと受け取られる『倭人伝』の書き方からも、そこから遠く離れた場所に「軍事施設」があったとは思われません。つまり「邸閣」から「軍事基地」である「一大率」の治するところまでは「一日以内」で行ける距離の範囲になくてはならないことが推定されます。そうでなければ補給の用は満たせないでしょう。そのことから、「邸閣」のある「邪馬壹国」から「一大率」の拠点までは正木氏も言うように一日行程の距離として「三百里以内」であることが推定出来ますが、『倭人伝』に書かれた里数から考えると、「伊都国」までの「距離」が書かれていないことから、ほぼ「伊都国」と「邪馬壹国」は至近の距離にあったものであり「一日以内」の行程であったらしいことが推察されますから、その意味でも整合すると思われます。
 これらのことは少なくとも「末廬国」から「一大率」の拠点としての「施設」までの案内は「一大率」配下の人員が行ったことを推定させるものであり、さらにいえば「卑弥呼」への面会から帰国までを全面的にサポートしたのも「一大率」配下の人員であったことを示唆するものです。それもかなり高位の人間が直接出向いたという可能性が考えられ、「魏」から「銀印」を下賜され「『率』善校尉」という軍事的な称号を授けられた「次使都市牛利」がその任に当たった可能性が強いでしょう。
 この「『率』善校尉という軍事的称号についても「一大『率』」と関連して考えるべきという論もあるぐらいですが 、「魏」の制度の「校尉」とは「軍団の長官」に与えられる称号であり、与えられた「銀印青綬」も「軍団の長官」という官職に対するものとして整合しているものです。
 また後の「隋使」や「唐使」を迎える際にも最上位の官僚が出迎えてはいないことから、このときも「大夫」とされる「難升米」が出向いたものではなかったと思われ、「次使」とされる「都市牛利」は「大夫」ではなかったらしいことが推察されますから、彼が「郊迎の礼」をとったという可能性が高いと思われます。(このことから「都市牛利」が「一大率」の出先機関の長として存在していたと推定されるものですが、後の「松浦水軍」の関係者として現在もこの周辺に「都市」姓が遺存していることは瞠目すべきことです。上に述べたようにこの「一大率」の主たる勢力が「水軍」であるのは論を待たないわけですから、それが「松浦水軍」へと連続しているという可能性は高いものと推測されます。そうであれば「都市」姓そのものも「一大率」から続いているということもまた考えられるところとなるでしょう。)
 このように「一大率」の拠点として「常に治する」とされる「伊都国」を除けば「對馬國」と「博多湾岸」そして「唐津湾」が考えられるわけですが、それを示すのが「兵器」の出土分布であるように思われます。
 この「卑弥呼」の時代は既に「鉄器」の時代に入っていると思われるわけですが、使用する兵器の多くがまだ「銅製品」であったことも間違いないものと思われ、その「銅製兵器」(矛、剣、戈)についてその主な出土範囲を見てみると(もちろん「福岡県」が突出して最多領域であるわけであり、即座に当時の「王権」の所在地を明確に示しているわけですが)、「對馬國」に当たる「対馬」と「博多湾岸」に相当する「筑前中域」に偏っていることが明かになっています(※4)。これについては「対馬」を「兵器祭祀」の場と考えたり、「卑弥呼」の「都」の場所と関連づけて考える論(古田氏による)がありますが、「兵器」の存在はそこに「軍事勢力」があったことを意味するものと理解するべきであり、そう考えれば「一大率」との関連を考えるほうが正しいものと思われます。つまり国境防衛の拠点である「対馬」と首都防衛の拠点としての「博多湾岸」に「軍事力」が展開していたことを示すと考えると出土状況と整合するでしょう。この「兵器遺物」の出土状況は、それが「一大率」の拠点の場所を意味する、あるいはその存在につながるものと考えるのは自然なことと思われるわけです。
 また「唐津」にこのような「兵器遺物」が少数しか見られないのはそこが「軍事拠点」というより「外交拠点」であったからと見れば上に行った推定と矛盾しないものと思われます。

(※1)佐藤鉄太郎「実在した幻の城 ―大津城考―」(『中村学園研究紀要』第二十六号一九九四年)
(※2)三木太郎「一大率とソツヒコ」(『北海道駒澤大學研究紀要』一九七四年三月)
(※3)内倉武久「理化学年代と九州の遺跡」(『古田史学会報』第六十三号 二〇〇四年八月)
(※4)樋口隆康編『古代史発掘五 大陸文化と青銅器』講談社一九七四年
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『魏志倭人伝』シリーズ(4)

2024年01月30日 | 古代史
『魏志韓伝』には以下のような記述があります。

「…辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。 有城柵。其言語不與馬韓同,名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴。相呼皆為徒,有似秦人,非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿,謂樂浪人本其殘餘人。 今有名之為秦韓者。始有六國,稍分為十二國。
有巳柢國 不斯國 弁辰彌離彌凍國 弁辰接塗國 勤耆國 難彌離弥凍國 弁辰古資彌弥凍國 弁辰古淳是國 冉奚國 弁辰半路國 弁楽奴國 軍彌國 弁軍彌國 弁辰彌烏邪馬國 如湛國 弁辰甘路國 戸路國 州鮮國 馬延國 『弁辰狗邪國』 弁辰走漕馬國 弁辰安邪國 馬延國 『弁辰涜盧國』 斯盧國 優由國 弁辰韓合二十四國 大國四五千家小國六七百家惣四五萬戸 其十二國属辰王 辰王常用馬韓人作之世世相繼 辰王不得自立為王。土地肥美冝種五穀及稲 暁蠶桑作?布 乗駕牛馬。嫁娶禮俗,男女有別。以大鳥羽送死,其意欲使死者飛揚。國出鐵韓?倭皆従取之 諸市買皆用鐵如中国用銭 又以供給二郡。俗喜歌舞飲酒。有瑟,其形似筑,彈之亦有音曲。兒生,便以石厭其頭,欲其褊。今辰韓人皆褊頭。男女近倭,亦文身。便?戰,兵仗與馬韓同。其俗,行者相逢,皆住讓路。
弁辰與辰韓雑居 亦有城郭 衣服居處與辰韓同 言語法俗相似 祠祭鬼神有異 施竈皆在戸西。『其涜盧国與倭接界』 十二國亦有王 其人形皆大 衣服絜清長髪 亦作廣幅細布 法俗特嚴峻。」

 これを見ると「弁辰」十二国の中に「(弁辰)狗邪国」があります。さらに「弁辰」と「辰韓」は雑居しているとされ(それは「弁辰」に属する国とそうでない国が分けられず表記されていることでも判りますが)、「辰韓在馬韓之東」つまり「馬韓の東」という地域に「辰韓」はあるとされますが、「馬韓」自体「郡治」のすぐ南にあるとされていますから、そこから考えて現在の「慶尚南道」(洛東江流域)付近と比定されています。この位置は「魏使」が「倭」に赴く際に「郡より倭に至る」際の半島を経過し「其の北岸」に到着したという「狗邪韓国」の位置を含んでいると思われます。つまり「(弁辰)狗邪国」が「狗邪韓国」であるとみて何ら不自然はないといえるわけです。
 また「弁辰涜盧國」は「倭」と境を接しているとされます。これは『韓伝』の冒頭に書かれた「韓は南を倭と接している」という表現と同一です。

「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接…」

 この記事から「弁辰涜盧國」が「狗邪韓国」と同様半島の南端にある国であることが推定できます。(ただし、既に「接する」という表現が「陸続き」であることを直接は意味しないことは述べていますのでここでは言及しません)
 但し「狗邪韓国」に着いたという記事の後「一海を渡る」という表現になっているところを見ると、「狗邪韓国」つまり「弁辰狗邪國」自体も同様に「倭」と境を接していることにはなるでしょう。ただ「弁辰涜盧國」についてのみ「界を接する」という表現がされていることからみて、ここに「韓」における「一大率」のような役割の施設(組織)があったと見るのが相当ではないでしょうか。そして、それは「倭」との通交の窓口となっていたということの表現と見るべきです。
 逆に言うと「伊都国」同様「魏使」はここを経由しないで「倭」に渡ることはできなかったことを示すものであり、その意味でも「郡治」から直接「投馬国」に行くというルートが当時あったとは思われないこととなるでしょう。
 この点「倭」において「一大率」が所在していた「伊都国」とは別に「末羅国」に通交の窓口としての「港」があり「魏使」はそこを経由した後「伊都国」へと引率されたことと近似していると思われます。さらに「倭」の場合は「対馬」という島が境を接しているもののあくまで「末羅国」を通交の出入口としていたものであり、「国境警備隊」ともいうべき「一大率」の出先機関が「対馬」にいたということとなります。「韓」の場合は「国境検察機関」の「出先」は「狗邪国」にいたものであり、その本拠が「涜盧国」にあったと理解すべき事となるでしょう。彼らの検察の元「弁辰狗邪国」から「倭」つまり「対馬」に向けて「魏使」は海を渡っていったものと考えます。 
 ちなみに『韓伝』では「辰韓」と「弁辰」を区別する意味で「狗邪国」の前に「弁辰」という語が前置されているわけですが、これは「狗邪国」の後ろに「韓国」という一語が加えられている『倭人伝』の状況に極めてよく似ています。
 『韓伝』の中では「弁辰」という小領域の表記を付加することで「韓地」の内部における差異を表す方法を選んでいるのに対して『倭人伝』の中では、「倭」の領域ではなく「韓」の領域の中の国ですという意味で「韓国」が語尾に付加されているとすると良く理解できるものです。
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