古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『倭人伝』の各争点について―山田様の批判を承けて

2019年03月22日 | 古代史

 山田様のブログ( http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/03/post-8fef.html )において前の当方の記事について批判が行われています。つまり全体として「推定」以上のものでないとされているのです。確かに先の論は、言うまでもないことですが、徹頭徹尾、私の「推定」で構成されています。それは間違いありません。立論が「推定」で構成されているのは確かではあるものの、問題はその「推定」がどの程度確からしいかではないでしょうか。そのためにはその「推定」の根拠となったものについて当否を判断する必要があるでしょう。その根拠が怪しいとすれば「推定」も怪しいこととなります。
 もし当方の論について異論を唱えるのであればそこに焦点を当てるべきですが、しかし山田様の論にはその部分がとても少ないように感じます。単に「推定です」(言外に「推定」に過ぎない」という意を含んでいるように聞こえますがどうでしょうか)とだけ述べられているのが過半であり、物足りなく思います。
 また「噛み合わない」点について述べられていますが、それがすでに「噛み合」っていません。なぜなら当方の提示した疑問点に全く触れていないからです。これこそが「噛み合わない」最大のポイントであり、これに言及しないのはいかがなものかと思います。この点をもう一度書きましょう。

「『「石田氏は「そもそも朝鮮半島は斜めに陸行してきた」とし、また「陸行できる場所であれば陸行するはず」としていますが、そうとは決められないと思います。石田氏の論理は半島が「全陸行」であった場合有効と思いますが、実際には一部「水行」です。石田氏及びこれに賛意を示した山田様はこれをどう捉えているのでしょうか。なぜ「全陸行」ではないのかが明確でなければ「水行」とあるから「九州島の内部ではない」とは即断できないと思います。」

 このように疑問を提出しているわけですが、これについての見解が示されていないということです。「陸行できない場所だから陸行しなかったのだ」というのであればその点を明らかにすべきでしょう。でなければ当方が示した「本来全水行の予定」というものを覆せないからです。
 これをスルーしている点を捉えて「噛み合っていない」と表現しています。この点に触れていただかなければ「水行」したのだからそこは「島」であるという論には同意できません。

 また石田氏も山田様も「邪馬壹国」の前に「南至る」と有り、それが「郡治」からの方向であるとするわけですが、そもそも『倭人伝』の冒頭は「倭人在帯方東南大海之中」という大方向指示があり、そこには「東南」とありますから「南」が「郡治」からの方向とすると食い違ってしまいます。あくまでも「南」が「郡治」からの方向であるとすると「東南」は「邪馬壹国」の方向ではないこととなりますが、「常識的に考えて」それはいかがなものと思われます。
 「倭人」の代表として「邪馬壹国」の「卑弥呼」を「倭王」としたからには、「倭人」のいる方向としてはやはり「邪馬壹国」の方向を示して当然でないでしょうか。そうであれば「南至」という「邪馬壹国」の方向は「郡治」からではないこととなりますが、それは即座に「投馬国」の南」という方向も「郡治」からのものではないということにならざるを得ません。ではどこからなのかというのは、それを示すものが「郡使往來常所駐」という一語が付されている「伊都国」からと考えるのは自然でしょう。

 『倭人伝』が単なる「風俗資料」ではないのは当然であり、軍事的意味合いが濃いとすれば自ずと「読み方」があると思われそれを押さえた上での読解が必須と思われます。「郡治」の南に「投馬国」がありそこに「郡治」などから使者が行っていたというのが仮に本当だとしても、「郡より倭に至る行程」を書いたはずの記事中に「投馬国」がないと判断されては報告書として「不体裁」でしょう。「報告書」を作成した「魏使」は、「投馬国」は「倭」への行程上の中に(支線行程であっても)あるとして書いたに違いないのです。そうでなければ「邪馬壹国」への行程上に(不意に)「郡治」からの方向が示された国が出てくることとなり、読者は混乱するでしょう。
 これも単に私の「考え」であり「推定」なのでしょうか。

 また「使訳通じるところ三十国」という中に本当に「狗奴国」は入っていないのでしょうか。「私見」では「三十国」の中に「狗邪韓国」は入らず、かえって「狗奴国」が入ると見ています。そう考える理由の一つは「狗邪韓国」が「倭王権」の統治下にはないと見ているからですが(それはすでに述べました)、更に以下の点があります。

『倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。』

 この『倭人伝』の表現からは「使訳」が通じている「三十国」についてそれが全て「邪馬壹国」の支配する領域の中の「国」であると断定することはできないとみています。単に「倭人」といっているだけなのであり、その意味では「狗奴国」と「魏」との間に「使訳」が通じていなかったとは言い切れないと考えます。
 山田様は「「不屬女王」とされている㉝狗奴國が「今使譯所通三十國」であるわけがありません。㉝狗奴國は⑪邪馬壹國と戦争状態の国なのですから。」とされますが、「あるわけがない」とは即断できないと思います。「邪馬壹国」と敵対関係にあるかどうかということと「使訳」が通じているかどうかは別のことではないでしょうか。

 さらに疑問なのが、そもそも「今」とはいつのことなのかという点です。
 つまり問題の一つは「今使訳通じるところ」という「今」についてです。これについて山田様は特に言及されていませんが、筆致からは邪馬壹国と狗奴国が敵対関係にある時点と見ておられるようです。しかしその理解には疑問があります。
 そもそも『三國志』は「陳寿」が「西晋」の史官の時に書いたとされており、その意味で「今」とは「西晋」時点と見ることもできそうですが(『書紀』の場合でも「今」という表現は『書紀』編纂時点のことと見るのが相当であり、この『三國志』でも同様ではないかと考えられる訳です)、しかし実際に『三國志』内で「今」の例を渉猟すると「地の文」で出てくるものについて明確に時代がわかるものとして例えば「高句麗王」についての記事(『高句麗伝』)があります。そこでは「高句麗王」の「宮」に対して「『今』句麗王宮是也」という表現があり、その彼は「正始六年」に「毋丘儉」により失脚させられています。つまりここに出てくる「今」は「正始六年」かその直後付近と考えられるわけです。

「…伊夷模無子。淫灌奴部、生子名位宮。伊夷模死、立以爲王。今句麗王宮是也。其曽祖名宮、生能開目視。其國人惡之。及長大、果凶虐、數寇鈔、國見殘破。今王生堕地、亦能開目視人。句麗呼相似爲位。似其祖、故名之爲位宮。位宮有力勇、便鞍馬、善獵射。
景初二年、太尉司馬宣王率衆討公孫淵、宮遣主簿大加將數千人助軍。
正始三年、宮寇西安平。其五年、爲幽州刺史毋丘儉所破。語在儉傳。」(高句麗伝)

「正始中、儉以高句驪數侵叛、督諸軍歩騎萬人出玄菟、從諸道討之。句驪王宮將歩騎二萬人、進軍沸流水上、大戰梁口(梁音渇)、宮連破走。儉遂束馬縣車、以登丸都、屠句驪所都、斬獲首虜以千數。句驪沛者名得來、數諫宮、宮不從其言。得來歎曰:「立見此地將生蓬蒿。」遂不食而死、舉國賢之。儉令諸軍不壞其墓、不伐其樹、得其妻子、皆放遣之。宮單將妻子逃竄。儉引軍還。六年、復征之、宮遂奔買溝。儉遣玄菟太守王頎追之、過沃沮千有餘里、至肅慎氏南界、刻石紀功、刊丸都之山、銘不耐之城。諸所誅納八千餘口、論功受賞、侯者百餘人。穿山漑灌、民賴其利。」(毋丘儉伝)

 このことは「西晋」時点だけが「今」とされているわけではないこととなりそうであり、「陳寿」がその記事を構成する際に以前の資料を「そのまま」書いている部分があることが推察できます。その意味で「原資料」の性格を吟味することが必要ですが、いずれにしても『倭人伝』の記事自体が、派遣された「魏使」が皇帝へ提出した「復命書」という一種の帰朝報告書を下敷きにしているとみられるわけです。そしてその「魏使」は「告諭使」として派遣されたものであり、彼らの帰朝時点ではその「告諭使」としての使命が果たされたという可能性が高いと見るのが相当です。
 「告諭使」の使命は「邪馬壹国」率いる倭王権とそれに対抗していた「狗奴国」との争いを停止させることであり、いわば「和平工作」であったはずです。そしてこの「告諭使」の活動が成功裏に終わったからこそ、その帰国にあたって「倭女王」を継承した「壹与」によって多大な貢献物が「魏」の皇帝にあてて送られたものであり、それはいわば「感謝のしるし」であったはずです。
 また「告諭使」としてやってきた彼らが「黄幢」「檄」などを手渡しただけでその責務を全うしたこととなると考えたとは思えません。彼らには「結果」が求められていたはずです。そうであれば「狗奴国」が「告諭」に応じたかどうかを確認しなければ帰国することはできなかったでしょう。後代の例からは彼ら一行には「告諭使」が正しく「魏」法令に則り「皇帝」から与えられた使命を全うするか確認する係の官吏も同行していたものと思われ、その意味からも結果を出さずに帰国するわけには行かなかったはずです。

 また「狗奴国」にとってもこの「魏」が直接使者を派遣してきたことを決して軽視はしなかったと思われます。なぜならそれ以前に「卑弥呼」が「親魏倭王」と認定されていたからであり、また直前に「韓半島」が「帯方「楽浪」両郡の前に武力で制圧された例があるからです。
 「卑弥呼」が要請すれば「魏」の本格介入がありうるとわかっていれば、「魏使」の「告諭」に対してあえて異を唱え、武装解除に応じなかったと見るのは無理ではないでしょうか。「狗奴国」がこのような態度を取り続けた場合、最悪「魏」の軍隊が「大寶」「楽浪」両郡から派遣されてくる可能性があるからであり、それは避けるべき事柄であったはずです。そうであれば「魏使」の「和平工作」は成功したと見るべきですが、その時点以降「狗奴国」は敵対勢力ではなくなっていたと考えられ、「魏」あるいはその後の「西晋」と「使訳」を通じるようになっていたとして不思議ではないと考えますが、いかがでしょうか。「告諭使」の責務を正確に理解するとこのような思惟に至るのであり、これを単に「考え」あるいは「推定」とすることはできないのではないですか。

 ただし古田氏を初めこの「魏使」が長期間にわたり倭地に留まり、その帰還は「西晋代」になってからだったと考える説もありますが、私見によれば「あり得ない」と考えます。それについては以前に「 https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/d39e12d143cf30501e53988954cbe494https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/138a6b7216e9153a0fc6e3dcb21c081d 」で論じましたが、この記事が「正始八年」の項に書かれていること、この記事自体が『魏志』の中のものであること(西晋への貢献を書く場所ではない)、「復命」は可及的速やかに行われるべきのものであったこと等々から、「正始八年」付近で「魏使」は帰国したと見るのが相当と考えます。
 そうであれば「魏使」の帰国付近である「正始八年」付近を「今」と表現しているとみることができそうですが、それは『高句麗伝』において「今」が「正始六年」に至近となることと矛盾はありません。つまり彼らが帰国し「復命書」を提出した時点付近で「使訳通じるところが三十国あった」ということとなるでしょう。そう考えれば「狗奴国」が「三十国」に入っていたとすることは不自然とは考えません。

 ところで、先にも述べましたが(また何度か指摘したように)「狗邪韓国」は「韓国」という表記があること、「地理情報」など他の「倭」の国々で書かれていることが全く触れられていないこと、さらに「対馬」と「半島」との間を流れる海流に名称がないこと、「接する」という表現が「陸続きである」ことを直接には意味しないこと、「其の北岸」は「倭の北方」の「岸」とみて矛盾がないことなどを既に論じました。これらを根拠として「倭王権」の統治範囲にはないとしたわけです。これを否定するのであれば先にあげた点をまず否定する必要があるでしょう。
 なぜ「倭地」の国なのに「韓国」という名称が付随しているのか、「壱岐」と「対馬」の間の海域に名称があるにもかかわらず、それより流速の早い「対馬と半島」の間の領域(海流)には名称が書かれていないのか(これは肥沼様や川瀬様に山田様が提示していた疑問でもあるはずですが)、「山」「大河川」「海」「湖」などを隔てている場合「接する」という表現は使用できないのか、「北」とあれば必ず「その領域内の北部」をさすということになるのか、これらについて述べなければ「狗邪韓国」が「倭地」であり、ここに「海峡国家」があったという重要な論点を明証したことにならないと考えます。この点について論を尽くした上で「狗邪韓国」が「倭地」であるとするなら率直に同意することとなるのは当然です。

 以上いくつかの点について述べさせていただきました。山田様はもとより、これを御覧なっている諸氏(そんなにはきっといないのでしょうが)からもご批判等伺えれば幸いです。

 

 

コメント

「投馬国」に関する事

2019年03月16日 | 古代史

 Sanmao様(山田様)のブログはいつも刺激を受ける記事であふれていますが、今回は石田泉城氏(「古田史学の会」の友好団体である「古田史学の会・東海」の関係者)の論について書かれており( http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/03/post-88d7.html )、そこでは『魏志倭人伝』に書かれた「投馬国」の位置に関して書かれていました。しかしその内容にやや異議があったことから以下のようなコメントをさせていただきました。

『「石田氏は「そもそも朝鮮半島は斜めに陸行してきた」とし、また「陸行できる場所であれば陸行するはず」としていますが、そうとは決められないと思います。石田氏の論理は半島が「全陸行」であった場合有効と思いますが、実際には一部「水行」です。石田氏及びこれに賛意を示した山田様はこれをどう捉えているのでしょうか。なぜ「全陸行」ではないのかが明確でなければ「水行」とあるから「九州島の内部ではない」とは即断できないと思います。

私見を示すと、「半島」の移動は「本来は全水行」としたかったものの、危険な水域があったため「陸行」せざるを得なかったと見ています。
当時「沿岸航法」を採用する限り、遠距離移動は「水行」が最も適した移動手段であったと思われます。「陸行」するには「道」が必要であり、当時「半島」も「倭」も遠距離移動のための「道」が整備されていたとは思われないからです。
「陸行」の場合野生動物(狼、虎、野犬など)の危険もあり、さらに夜盗などに出会うことも想定する必要があります。悪天候にあっても避難場所があるかどうかさえ判りません。今のように方向指示があるわけでもなく、「陸行」がそれほど安定的な移動手段であったかは疑問です。
『倭人伝』の中には「行くに前を見ず」という表現もあり、「道路整備」がそれほど進んでいなかったらしいことが窺え、「陸行」には障害が多かったのではないでしょうか。ただ半島の場合「西南部」には島が多いことと陸地が複雑な出入りをしており、「沿岸航法」では座礁の危険性があると認識していたものではないでしょうか。そのため「陸行」に切り替えたものと考えています。いわば「やむを得ず」という形ではなかったでしょうか。
このことから「投馬国」の位置についての議論においても、「全水行」だから行き先が「島」であるとは断定できないとみています。たとえ「陸行」で行ける場所であっても「水行」の方が「安全」と判断されたからともいえる余地があるからです。』

 これに対して山田様から示された当方のコメントに対する山田氏のコメント「 http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/03/post-88d7.html#comment-142360602 」及びその後掲載された論「 http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/03/2019-4841.html 」)を見て、違和感を感じました。私の論とかなり噛み合っていなかったからです。もちろん「ミスリード」してしまったのは私の方であり、何か誤解のある書き方をしたのかもしれないなと思っています。
 当方のコメントの趣旨は「郡治から狗邪韓国までが全陸行ではない」という基本認識から始まっています。文章から見て当初は「水行」しているのは明らかですから「郡治から当初水行」した後「陸行」に移っていることとなりますが、この最初の「水行」の持つ意味は何かというところに着眼したものです。なぜ最初から「陸行」ではないのかというところから「陸行で行けるところであれば陸行したはず」という石田氏の提示した主題と矛盾している実態があることについての言及がないことを指摘したものです。
 ということでの当方の論は「投馬国」の位置の問題というより、それを「島」と決めた石田氏の論についてのものであったわけです。しかし山田様の議論を見ていて「私見」がより深まったことは確かであり(それは山田様の論理進行とは異なりますが)、良い機会を与えていただいたことに感謝いたします。

 以前から当方は「一大率」が「魏使」の案内役であったこと、「魏使」(あるいは「郡使」)が「卑弥呼」と面会するなどの際に全てを「一大率」がサポートしていたであろうことを推定していました。これに加え今回の議論の中でその「一大率」が「常治」していたという「伊都国」の重要性が更に明らかとなったと見ています。

「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。 」

 ここでは「伊都国」について「郡使往來常所駐」という書き方がされており、このことは「伊都国」がいわば「ベースキャンプ」とでもいうべき位置にあったと思われ、ここは列島内各国へと移動・往来する際の拠点となっていたと考えられますが、それを示すのがその直後に書かれた以下の記事です。

東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。

 これらの記事はいわば「道路」の「方向・距離表示板」の如く「行程」記事が書かれていると考えます。つまり全て「伊都国」からの方向と距離を示していると考えるものです。(但し「邪馬壹国」の「水行十日陸行一月」は「郡より倭に至る」全日数がここに記されているとみるのが自然であり、そうであれば総距離の「万二千余里」とも矛盾しないのは既に明らかです)
 つまり上に見るように「伊都国」からの「方向・距離」が書かれている中に「投馬国」についてのものがあるわけであり、その「起点」は当然「伊都国」と見るべきと考えます。
 またここに書かれた「邪馬壹国」以外は「邪馬壹国」へ赴いた後に(つまり「帰途」)「伊都国」へ戻りそこから「奴国」「不彌国」「投馬国」へと足を伸ばしたものと推定しています。またそれはもちろん「一大率」の案内の元であり、「投馬国」へ行きそこを視察した後(「伊都国」に戻った後)最終的な帰途についたという行程を想定しています。
 また「私見」では、というより大方の意見もそうでしょうが、この行程記事は「魏使」が「印綬」「黄幢」などを擁して「卑弥呼」に会見するために来倭した「弓遵」「張政」などの報告がベースとみています。そうであるなら石田氏が提唱し山田様が賛意を表明したように、「投馬国」がもし「郡治」から二十日間水行した場所にあるという推測が正しいとすると、「投馬国」には「郡治」から誰が案内したのかと考えてしまいます。明らかに「一大率」ではありません。彼らは「対馬国」に至って初めて「魏使」の案内をすることとなったものと考えられ、「郡治」から案内できたとは思われません。
 そもそも『倭人伝』の行路記事は「郡より倭に至るには」という書き出しで始まり「女王の都するところ」という記事で結ばれるわけですから、その動線は一本の線でつながっていて当然です。またその動線の中で「対馬国」以降「詳細」が記されるようになるということ及びこれ以降「一大率」が案内役となったと推定できることから考えて、ここに「国境」があったらしいことを考えると、「郡治」から直接「投馬国」へというルートがあったとは考えられないこととなります。それでは「倭王権」があずかり知らぬところで「直接的交渉」が行われている事になってしまいます。あくまでも「外交交渉」の窓口は「対馬国」でありまた「伊都国」であったと思われますから、「投馬国」についての記事は「郡治」からのものではないと考えざるを得ません。
 また「今使譯所通三十國」つまり「郡治」との交渉がある国が三十国あるという記事もありますが、「郡使」の「往来」は全て「伊都国」経由であるという記事と関係して考えると、それら「三十国」との交渉も全て「伊都国」を経由していたことを推定させるものであり、その中に「投馬国」もあったという可能性が高いことを考えると、その「投馬国」も「一大率」の検察下にあったこととなりますから「一大率」の目の届かないところでの「郡治」との直接交渉が「投馬国」など「諸国」との間にあったとは思われないこととなります。それは「一大率」の「検察」範囲が「女王国以北」とされていることでも判ります。

「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國 於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」

 ここで「一大率」の「検察」する対象範囲が「自女王国以北」とされていますが、この表現は「自女王國以北、其戸數道里可得略載」という文章中の「自女王國以北」と同一ですから、「戸数道里」が記載されている「投馬国」は当然「一大率」の検察対象である「諸国」の中に入っていると理解すべきでしょう。そうであれば「投馬国」への行程も「一大率」が誘導したことは明らかであり、その場合「伊都国」からの動線以外考えられず、「投馬国」の方向指示である「南」という字句は「郡治」を起点としたものとは考えられないこととならざるを得ないものです。

 ただし石田氏及び山田氏が特に問題とされた「南至投馬国」という表現と「自女王国以北」という表現の齟齬については現時点で「名案」というほどのものはありません。ただ、上で推察したように「一大率」の「検査対象」の「諸国」の中に「投馬国」があると考えると、「自女王國以北、其戸數道里可得略載」という文章にも「諸国」が隠されていると思われ、この「諸国」の中にも「投馬国」は入っているはずですが、「投馬国」以外は全て「邪馬壹国」の「北」にあることは確かと思われますから「諸国」という概念で括ってしまうと「投馬国」が「伊都国」から見て「南」にあった場合でも、いわば「十把一絡げ」にされてしまったという可能性があり、本来は「投馬国」だけ「実際には南にある」という但し書きをつけなくてはならないものを「煩雑」として省略したのではないかと見ています。

 いずれにしましても考察を深める機会を与えて頂いたこと山田様及び石田氏に感謝する次第です。

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