古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

論語の二倍年暦と倭国の二倍年暦

2017年05月28日 | 古代史

「古田史学の会」の古賀氏には「二倍年暦」の研究があります。その論の中に「論語」に中に「二倍年暦」がみられるという指摘があり、そのひとつとして「古賀達也の洛中洛外日記」第788話(http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nikki10/nikki788.html)で以下の記事を問題にしています。(旧聞ですが)

 「子曰、後生可畏也。焉知来者之不如今也、四十五十而無聞焉、斯亦不足畏也已矣」(『論語』子窂第九)

(子の曰く、後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯れ亦た畏るるに足らざるのみ。)

 つまり「四十歳五十歳になっても目が出ない人物は恐れるに足らない」というわけですが、古賀氏はそれでは遅すぎるというわけです。平均寿命が短かったであろう古代においてはもっと早く目が出る出ないが問題になるべきであるというわけです。
 しかし、この主張は当の「孔子」の生涯を見たときに疑問符が付きます。

 「孔子」の生涯を見てみると、彼の名が世に知られるようになったのは四十すぎであったようで、「魯」の官人であった時代を過ぎて「斉」に遊学し見聞を広めた時期以降であったとみられます。
 『史記』によれば「魯」から「衛」に呼ばれさらにその後諸国を回ったとされますが、これが「四十代」から「五十代」のこととされていますから、まさにこの年令になって「名前」が大いに売れるようになったと見られるわけです。
 それに対し彼の二十代はまだ「魯」で駆け出しの官人として勉強中でしたから衆目が集まっていたはずはありません。
 この孔子の言葉は、多分自身の体験を下敷きにしていると思われます。これを「二倍年暦」と考えると、自分自身に対して過度に卑下した表現であると思われますが、そのような発言を彼がしたかどうかはかなり微妙ではないでしょうか。

 そもそも古代においても「官」に登用されるには「二十代」も半ばを過ぎなければならないはずですが、そのような登用されてそれほど時間のない段階で天下に名声が聞こえるというようなことがそうそうあるとは思えず、そうでなければたいしたことないというのは断定に過ぎるものでしょう。そう考えると、この言葉の真意は現生と後生の対比としての文章であり、現在それほどでなくとも招来は立派な人物になるかもしれない、ただし四十~五十になっても名が売れていなければ結局たいした人ではなかったということだ、と言う意味に私は受け取りました。つまりここで「二倍年暦」が使用されているのかはかなり疑問と考えられるわけです。
 中国における例としてこれは確実というものはなかなか見受けられないわけですが、それは「倭国」に比べ相当以前から「太陰暦」を使用していたためであり、「正歳四節」を正確に把握することが一般の人でも可能となっていたからといえ、その意味で中国における「二倍年暦」の使用例は極度に少ないものと思われ、そのため立証が困難なものともいえるでしょう。 

 「倭国」の例で考えてみると、「卑弥呼」の時代の「二倍年暦」がありますが(『三國志』において『魏略』から引用された部分)、その後「倭の五王」以降の「二倍年暦」はその性格が異なると見られるものであり、「卑弥呼」の時代の「二倍年暦」は「農事暦」としての「太陽暦」であり、「貸稲」の利息に関わる期間として数えられていたものとみられるのに対して「倭の五王」以降の「二倍年暦」は「月」の運行を数える形での「二倍年暦」であり、「満月」~「新月」、「満月」~「新月」というように通常の一月を前半と後半で別に数えるという内容を持った「二倍年暦」であり、全くその性格を異にするものであったと思われます。(この議論の基礎としては「貝田禎三氏」の研究(※)に拠っています)
 いってみれば「卑弥呼」の方は「農民」としてのものであり「後代」の方は「海人」としての「二倍年暦」であったものではないでしょうか。「海人」が「月」の運行を知る必要があるのは「満潮」「干潮」を知るためであり、それによる船の運航や漁に出る時期などを計るのに必須の情報であったと思われるわけです。

(※)貝田禎三『古代天皇長寿の謎』六興出版一九八五年

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「倭国軍」の陣容等について

2017年05月14日 | 古代史

 後の『養老令』中の「軍防令」の規定によれば、「軍団」は千人単位(それを構成する「隊」は五十人単位)で構成されるとされています。さらに、「将軍」の率いる「軍」の「兵員数」が「一万人以上」の場合には「副将軍」が二人配置されるように書かれていますが、五千人以上一万人以下では「副将軍」は一名に減員されるとされています。

「軍防令二十四 将帥出征条 凡将帥出征。兵満一万人以上将軍一人。副将軍二人。軍監二人。軍曹四人。録事四人。五千人以上。減副将軍軍監各一人。録事二人。三千人以上。減軍曹二人。各為一軍毎惣三軍大将軍一人。」

 これを踏まえた上で以下の「百済を救う役」及び「白村江の戦い」という軍隊記事を解析してみます。そこには「原・軍防令」とでもいうべきものがあるのではないかと推測するものであり、それは「大宝令」あるいはそれ以前の「飛鳥浄御原律令」の中のものと思われ、そこには「軍防令」に類似した規定があったと見るものです。なぜなら「飛鳥浄御原律令」は「難波朝廷」時代に制定されたと考えるからです。(詳細別途)

 後の「軍防令」では「隊」の構成人数が「五十名」であるとされていますが、これは「隋」「唐」の「府兵制」に拠ったものとも推定されます。他方「里」の構成戸数を「八十戸」から「五十戸」に変えたこととも関係があると考えられ、それになぞらえれば、「軍」を構成する「兵員数」についても、「評」の中の「戸数」と等しいのではないかと考えられるわけです。
 すでに述べましたが、「評」という制度そのものは「六世紀代」から倭国内に展開されていたと思われ各地に設置された「屯倉」の管理上の組織であったと思われますが、「隋」との交渉から「五十戸制」という村落の戸数改定を行いこれを制度とした確立したと思われ、『隋書俀国伝』にいう「軍尼」の管轄する戸数が「八〇〇」程度とされていることから、「評」においても同様の戸数が確保されていたと見れば、「軍」においても「十五隊」(七五〇名)という基本兵員数というのが「当初の」「原・軍防令」に規定されていたと仮定できると思われます。
 更に、この事から「軍団」の規定兵員数は「十二軍九千名」であったのではないかと推定されますが、この数字が「養老令」では各々「一軍千名」と「十軍一万名」に改められているものと推量します。
 
 この「軍制」は前述したように「隋」「唐」で施行されていた「府兵制」にその根拠があるものと思われ、そこでは「正丁」三人に一人の割合で「兵士」とするなどして「軍隊組織」が作られていたと考えられます。
 「倭国」でもこれを応用しているものと思われ、「里(さと)」の単位が「五十人」であること、「評」の戸数が「八〇〇」程度であることなどは、「一戸一兵士」とすればほぼ「正丁三人に一人」程度の兵士となるものであり、また「折衝府」の平均的兵員数(八〇〇人)と「評」の戸数(七五〇~八〇〇程度)がほぼ等しいのは偶然ではなく、これは「隋」あるいは「唐」など「北朝」からの影響と見ると自然です。
 このような制度改定が「高度な中央集権制」の確立というものと関係していると考えれば、「天子」を自称するなどの事績が確認できる「隋末」から「初唐」の時期がもっとも蓋然性が高いものと推量します。

 『書紀』の「斉明紀」の「百済を救う役」の記事中の「前将軍」の率いる軍に付いては「副将軍」と目される人間は一人だけであり(「小華下河邊百枝臣」)、それは「後将軍」の「大華下阿倍引田比邏夫臣」の副官として「大山上物部連熊」「大山上守君大石」の計二名が添えられているのと異なっています。これは先述した規定によって「前軍」の兵員数が「九千人」以下であり、「後軍」は「九千人以上」であるということを示すと考えられ、総員凡そ「二万人弱」ほどであったものと思料されます。

「(斉明)七年(六六一年)八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖」

 それに対し以下の例では「将軍」としては「阿曇連比羅夫」しか書かれていません。

「(天智称制)元年(六六二年)夏五月。大將軍大錦中阿曇比邏夫連等。率船師一百七十艘。送豐璋等於百濟國。宣勅。以豐璋等使繼其位。又予金策於福信。而撫其背。褒賜爵祿。于時豐璋等與福信稽首受勅。衆爲流涕。」

 しかし、ここでは「阿曇連比羅夫」が「大将軍」と呼称されています。これについては同様に「軍防令」の中に、軍の構成が「三軍」以上の場合は一人が「大将軍」となると規定されており、それに準ずると、この時は実は「三軍」構成であったと思われ、この時の一軍あたりの兵員は(『書紀』には書かれていませんが)以下の例から考えて、各々「九千人」程度であったものであり、「規定」に定められた一軍の定員数そのものであった可能性が高いと考えられます。そしてその「兵員」を「百七十艘」の「船」により派遣したとされていることから、一艘あたりに換算すると「百六十人以上」が乗り込んでいたものと思われ、かなりの「詰め込み」状態であったものではないでしょうか。
 その後に派遣された軍の記事では、明確に「三軍構成」であることが記載されています。

「(天智称制)二年(六六三年)三月。遣前將軍上毛野君稚子。間人連大盖。中將軍巨勢神前臣譯語。三輪君根麻呂。後將軍阿倍引田臣比邏夫。大宅臣鎌柄。率二萬七千人打新羅。」

 この記事では各々の軍の「将軍」とされる「上毛野君稚子」「巨勢神前臣譯語」「阿倍引田臣比邏夫」の直後に書いてある「間人連大盖」「三輪君根麻呂」「大宅臣鎌柄」は「副将軍」であると考えられ、「副将軍」は「軍」の総兵員数が「五千人以上」「一万人未満」の場合は「一人」と決められているわけですから、この時の軍は各々「約九千人」であった可能性が強いものと考えられます。そして、それは「二万七千人」という総数ともぴったり整合するものです。
 また「三軍構成」となっているわけですから、「大将軍」が一人任命されていたものと考えられ、「蝦夷」遠征の実績などから考えると「後将軍」である「阿倍引田臣比邏夫」がこの時の「大将軍」であったのではないかと推察されます。
 また「船」の数が記載されていませんが、前回の「三軍構成」の際の数が「一七〇艘」とされていますので、これとほぼ同じ数の船が派遣されたと見られるでしょう。

 以上見てみると「軍隊」の構成において後の「軍防令」と同様の制度(令)があったと見られ、それに基づき「人員」の調達と「海外派遣」などの大々的な軍事行動が可能となっていたと思われます。
 さらに、これらは『斉明紀』の出来事であるわけですが、同じ『斉明紀』には「蝦夷」に対して「軍」を派遣している記事があり、これも同様の「軍防令」様の制度の元の行動であるのは確実であり、その意味でこの時期(つまり『孝徳期』付近)に「番匠」を含め「律令」としての内容を持ったものが存在していたことを強く示唆するものと考えるわけです。

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「軍制」と「戸制」について

2017年05月13日 | 古代史

 『養老令』の軍制と「戸制」の人数には関係があるという議論があります。
 つまり、『養老令』(軍防令)では「軍」の基本構成単位である「隊」の編成人数が五十人とされており、またその下層単位として「伍」(五人)と「火」(十人)というものがあるとされています。
 これらの兵員数の体系が戸籍に見る里(さと)の「五十戸」などの「五保制」と関係しているというわけです。すなわち、「戸」-「保」-「里」という「戸制」の体系と、「兵士」-「伍」-「隊」という軍の体系とが対応しているという考え方です。
 このことから「一戸一兵士」という「徴兵」の基準があったとされるわけですが、これに対しては「軍防令」の「軍組織」はもっぱら「唐制」によるものであり、それもかなり後代に取り入れたものであるのに対して、「戸制」の制度については「五十戸」制等が「七世紀後半」を示す年次を伴った「木簡」から確認されるなどの点においてかなり先行するとされ、「軍防令」と「戸制」の対応についてはその意味から疑問とする考えもあるようです。

 確かに「唐制」には「府兵制」という制度があり、そこでは「正丁」三人に一人の割合で「兵士」を徴発し、それが五十人で「隊」を成し、それらは「折衝府」という「役所」に集められたとされています。そしてその集められた兵員数に応じランク付けされていたものです。
 「我が国」の「軍防令」についてはこの「唐制」を「模倣」したものであって、「戸制」との関連づけを認めないという考え(反論)もあるわけですが、「軍防令」が「唐制」によるものであり、『大宝令』以降に定められたものであるという考え方は、「六五〇年後半」から「六六〇年前半」という時期に、「百済」を巡る戦いに際して「倭国」から大量に「軍」を派遣していること、その時点では「軍制」が存在していると考えざるを得ないことと「矛盾」しているといえます。
 「軍制」等「軍事」(軍隊)に対する何の定めもなかったとすると、「軍」を編成して国外に派遣するなどのことが可能であったとは思われません。このことは「当然」それ以前から「軍制」があったと考える必要があることとなるでしょう。
 そこで注意すべきものは「難波朝」以前に(「評制」施行以前)「八十戸制」から「五十戸制」に変更されている点です。
 
 『隋書俀国伝』で示されているように「倭国」では「六世紀末」の「遣隋使」派遣以前という段階において「八十戸」という戸数を基礎とした「行政制度」が施行されていたものと見られます。そこでは、「伊尼翼」という「官職」様のものに「属する」として「八十戸」という戸数が示されています。この「伊尼翼」や「軍尼」というような「官職制度」は現在全く残っておらず、また「八十戸制」についてもこれが「どのような」制度のものなのか、「いつから」「いつまで」続いていたのかという重大な部分が欠落しているのが現状であり、これについては明確な「国内資料」(「金石文」「木簡」)などがいまだ発見されず、「五十戸制」の始まりの時期と共に「八十戸制」の詳細は「不明」となっています。
 また「五十戸制」の始源が「隋」「唐」にあると考えられることから、「五十戸制」そのものは「遣隋使」以降であることは明確と思われ、「六世紀末」がその始原の時期として考えられますが、少なくとも「飛鳥京」から発見された遺跡から「大花下」木簡と共に出土した「白髪部五十戸」木簡に「己酉年」という表記があり、これは通常「六四九年」と考えられていますが、「遣隋使」派遣時期との整合性から考えて「五八九年」という可能性も考えられるところです。

 このように「隋」から各種の情報を得ていたわけですが、その「隋」には「評」という制度・官職は存在しておらず、あきらかに「評制」は「隋」からではなく「半島」からの情報に拠ったものと見られます。それは同時に「七世紀初め」という時期とはかなり異なる時期の施行である事を示すものと思われます。つまり相当以前から「評制」は「一部」ではあるものの、国内に施行されていたと考えられるわけです。
 その「評制」については「軍事」的要素が強いとされますが、そうであるなら、その「評制」の軍事的意義が強調されるようになったのは「五十戸制」及び「戸籍制度」が「隋」から導入された以降のこととみるべきこととなります。

 「評」の戸数については、『常陸国風土記』に「評」の新設を上申した文章があり、その記載から「七百余戸」程度であったと考えられ、それは『隋書俀国伝』から推測される当時の「軍尼」の管轄範囲の戸数が「八百戸」程度になる事とも大きく異ならないものです。その「評」の戸数が「七百五十~八百」程度であることと、「唐」で設置されたという「折衝府」の平均的兵員数(八百人)とがほぼ等しいのは偶然ではなく、「評」に「折衝府」的意味合いが持たされるようになったということではなかったでしょうか。
 また、『持統紀』に記された「点兵率」(正丁の中から兵士を徴発する割合)として考えられる以下の記事については、「正丁四人から一兵士」ということが書かれているとされ、この基準はそのまま「大宝令」にも受け継がれたものと考えられているようです。

「持統三年(六八九年)潤八月辛亥朔庚申。詔諸國司曰。今冬戸籍可造。宜限九月糺捉浮浪。其兵士者毎於一國四分而點其一令習武事。」(『持統紀』)

 このように「正丁四人に一人」という基準が「難波朝」でも実施されたとみられますが、それは上で見たようにほぼ「一戸」から「一兵士」を徴発する事と「大差ない」ものであったと見られ、それは「評」の戸数とその「評」から徴発される「兵士数」がほぼ等しいことを推定させるものです。

 以上のことを想定すると「百済」を巡る戦いへの派遣軍について「不審」とすべき事があると思われます。それは「白村江の戦い」への派遣の人数として「二万七千人」という数字が見えていることです。
 前述したように「三軍構成」で組織され、その各々が「九千人」程度であったと考えられるわけですが、何か数字が「半端」であると思うのは当方だけでしょうか。
 なぜ「三万人」ではないのか、なぜ一軍一万人で構成されなかったのか。そう考えた場合、「折衝府」たる「評」に集められた「兵員数」が「平均七五〇」名であったとすると、それを足していくと「一万人」にはなりにくいことが分かります。
 「軍」が「評」単位で編成されたことは「軍防令」(兵士簡点条)にも「兵士を徴発するにあたっては、みな本籍近くの軍団に配属させること。隔越(国外に配属)してはならない。」という意味の規定があり、そのことからも明確となっていますが、その「評」に集められた「人数」が「七五〇人」程度であったとすると「軍」の兵員数も「七五〇」の倍数になるという可能性が高いと思料され、「切り」のいいところ(千位のフルナンバー)になるのは「九千人」(七五〇×十二)であると推定されます。つまり、この「九千人」というのが「原・軍防令」とでもいうべきものの中に「定員数」の基準として存在していたものであり、そのため「三軍構成」の場合の「一軍」が「約九千人」なのではないでしょうか。
 つまり、後の「軍防令」では「軍団」は「千人単位」ですが、この「百済」をめぐる戦い際にあったと思われる「原・軍防令」では「七五〇人」つまり「評」単位で「軍団」が形成されていたのではないかと推定されるものです。

 以上考察したように「五十戸制」が「軍制」と関連していると考えられるわけであり、そのため「里」の戸数として「五十戸」を大幅に超えるような「里」編成は想定しなかったし、実際にも行なわれなかったと見られます。
 つまり「一隊」が「一里」に対応していると考えられるわけであり、「一里」に五十戸以上戸数があるとその分は「別の隊」に組み込まざるを得なくなって、その結果他の「隊」の編成に影響を与える可能性が出て来かねません。 

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「天武紀」の新羅王死去記事について

2017年05月11日 | 古代史

 以前『持統紀』と『文武紀』の「新羅王」死去記事について、それが実際には「七世紀半ば」の「新羅王」である「善徳女王」と「真徳女王」の死去記事であることを推定しました。(以下の記事)

http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/06c098c2b16c3395aa50fa3da548a9b0

http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/8fe30c109c10f39e571f14f872a55713

http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/af47611b058e312f0ebdf5415c400f33

 その後それ以前の「新羅王」死去記事についても実際とはその年次が異なると考えられる事に気がつきました。それを以下に確認してみます。

 『書紀』によれば「天武十年」に「新羅王」死去を伝える記事があります。
「(六八〇年)(天武)九年…十一月壬申朔。…乙未。新羅遣沙■金若弼。大奈末金原升進調。則習言者三人從若弼至。
…」
「(六八一年)十年…六月己亥朔癸卯饗新羅客若弼於氣紫。賜祿各有差。…

秋七月戊辰朔。…辛未。小錦下釆女臣竹羅爲大使。當麻公楯小使。遣新羅國。是日。小錦下佐伯連廣足爲大使。小墾田臣麻呂爲小使。遣高麗國。…
九月丁酉朔己亥遣高麗。新羅使人等。共至之拜朝。…
冬十月丙寅朔。…。
癸未。地震。
新羅遣沙喙一吉飡金忠平。大奈末金壹世貢調。金銀銅鐵。錦絹。鹿皮細布之類各有數。別獻天皇。々后太子金銀。錦。霞幡。皮之類。各有數。…
是月。天皇將蒐於廣瀬野。而行宮構訖。裝束既備。然車駕送不幸矣。唯親王以下及郡卿。皆居于輕市。而検校裝束鞍馬。小錦以上大夫皆列坐於樹下。大山位以下者皆親乘之。共隨大路自南行北。新羅使者至而告曰。國王薨。…
十二月乙丑朔甲戌小錦下河邊臣子首遣筑紫饗新羅客忠平。…

「(六八二年)十一年春正月乙未朔癸卯。大山上舍人連糠虫授小錦下位。
乙巳。饗金忠平於筑紫。…
二月甲子朔乙亥。金忠平歸國。…」

 これら「新羅」からの使者をめぐる記事をみると、「新羅国王」の「薨去」を告げたという記事が「是月条」に記されており、外国使者の到着という重要事項であり、且つ「国王」の死去という重大事が伝えられているにもかかわらず、「日付」が曖昧というのはそもそも不自然です。またこの「使者」は文脈上「沙喙一吉飡金忠平。大奈末金壹世」と同一と思われますが、彼らは「調」を貢ずるためにきた「新調使」のはずであり、「国王」の死去を伝えに来たわけではないと考えられます。(実際に多量の「調」を貢上しています)それならば別に「喪使」が来たのかということになりますが、文章からはそのような気配は感じられません。
 彼らに対して「倭国」サイドは「進調使」としての通常の対応をしているように見えます。特に「慰霊」の詔が出されているわけではありません。また「金忠平」たちが「喪使」であるなら当然彼らの帰国に併せ「弔使」が派遣されるべきですが、そのような記録もありません。(それ以前に派遣されている「釆女臣竹羅」達は「遣高麗使」と同時に派遣されており、通常の外交儀礼を行うためのものと思われ、「弔使」ではないとみるのは当然です。)

 「壬申の乱」以降「新羅」と「倭国」の関係は良好であったはずであり、「新羅国王」(ここでは「文武王」となる)の死去という重大事に接したならば「弔意」の一つも表さないことなど考えられないことでしょう。このことは、これら「不審」に満ちた「新羅王死去」記事の性格として、本当にこの年次の記事であったのか、本来別の年次として書かれるべき記事ではなかったかという事が疑われます。
 この記事では「新羅国王」の死去の詳細について何らの情報も書かれていませんが、死去があまり時を置かず伝えられたとすると、「冬十月丙寅朔…癸未。」という日付に「筑紫」に到着したらしいことから少なくともそれ以前(つまり「春から夏」付近)の時期に「新羅国王」が死去したことが推定できます。確かに「文武王」の死去は「七月」ですから一見整合しているようですが、そうであるなら「十月」に到着した「金忠兵」達が「進調使」であるはずがないといえます。

 すでに『持統紀』に記された「新羅王」の死去記事について、それが「善徳女王」についてのものという可能性を指摘したわけですが、当然それ以前の「新羅王」がこの『天武紀』の「死去」した「新羅王」ということとなるわけであり、そうであるならそれは「真平王」である可能性が高いと推量します。

 「真平王」は六三二年一月死去とされ、半年ほど外交活動を停止後隣国である「倭国」に「国王」の死去を告げたとすると「十月」頃の使者到着は不審ではありません。

「五十四年 春正月 王薨 諡曰眞平 葬于漢只 唐太宗詔 贈左光祿大夫 賻物段二百 【古記云 貞觀六年壬辰正月卒 而新唐書 資理通鑑皆云 貞觀五年辛卯 羅王眞平卒 豈其誤耶】」(『三国史記新羅本紀』より)

 すでにみたように「新羅」においては「国王」が死去した場合、通常の「朝貢」などの儀礼を停止する期間は数ヶ月以上一年未満程度と思われ、ある程度長い「服喪期間」が設定されていたと思われますから、その意味でも一月の死去と十月の「喪使」は不自然ではないものの、それが「進調使」であった場合は明らかに不自然といえるでしょう。
 つまりこれを「文武王」の死去記事とみると不自然であるのに対して「真平王」に関係した記事とみたとき違和感はなくなるものであり、『持統紀』『文武紀』記事と同様「年次」移動が推定するのが相当ということとなるでしょう。その場合「移動」された「年数」は「六八一」―「六三二」=「四十九年」という年数が措定され、これは『持統紀』記事における推定移動年数(四十七年)と似たような数字となることもまた「年次移動」の傍証ともいえるでしょう。

 またこれを遡る他の「新羅王」死去記事は確認できません。「文武王」の前王である「金春秋」の死去は、ちょうど「半島」で「百済」「高句麗」の存亡をめぐって「倭国」を含む各国が熾烈な戦いの最中の時期であったものであり、「新羅」と「倭国」の関係はほぼ敵対関係であったものですから、当然の帰結として「倭国」に「喪使」が派遣されるというようなことはなかったと推定され、当然『書紀』の原資料にも「金春秋」の死去は記録されなかったものであり、それを『書紀』の記事として反映させる必要性もなかったこととなります。そのような事情からこれ以前の「新羅王」の死去記事がみられないとすると理解できるものではないでしょうか。

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