古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

コンブとワカメ

2018年04月30日 | 古代史

 以下は「奈文研」木簡データベースから「軍布」という語をキーワードとして拾い上げたものです。

連番 本文 KWIC 型式番号 出典 遺跡名
1 海評中田里支止 軍布 31 荷札集成-185(飛20-26 藤原宮跡北面中門地区
2 海評海里人小宮 軍布 31 荷札集成-172(藤原宮1 藤原宮跡北面中門地区
3 海評三家里人日下部赤 軍布 31 荷札集成-182(飛20-27 藤原宮跡北面中門地区
4 次評新野里 軍布 31 荷札集成-191(藤原宮1 藤原宮跡北面中門地区
5 里上部← 軍布   39 飛22-21上(藤原宮1-21 藤原宮跡北面中門地区
6 知夫利郡由良里 軍布 39 木研5-85頁-(71)(奈良 藤原宮北辺地区
7 知夫利評三田里石部真佐支 軍布 筥‖ 31 荷札集成-170(木研5-8 藤原宮北辺地区
8 海評海里 軍布 廿斤 31 荷札集成-174(奈良県 藤原宮北辺地区
9 海評海里 軍布   31 荷札集成-175(木研5-8 藤原宮北辺地区
10 海評三家里日下部日佐良 軍布 31 荷札集成-183(奈良県 藤原宮北辺地区
11 次評鴨里鴨部止乃身 軍布   31 荷札集成-188(木研5-8 藤原宮北辺地区
12 里人大伴部知真利尓支 軍布 廿斤 33 奈良県『藤原宮』-(30 藤原宮北辺地区
13 評〈〉男田若 軍布 筥‖ 31 荷札集成-201(木研5-8 藤原宮北辺地区
14 周吉郡〈〉 軍布 筥‖ 31 木研5-82頁-(20)(奈良 藤原宮北辺地区
15 水江 軍布 十六斤 31 木研7-121頁-(22)(平 平城宮
16 海評佐々里阿田矢 軍布 31 荷札集成-179(藤原宮2 藤原宮跡大極殿院北方
17   軍布 廿斤 31 藤原宮3-1214(飛5-12 藤原宮跡東面北門
18 次評部里 軍布 31 藤原宮3-1178(荷札集 藤原宮跡東方官衙北地区
19 海評前里 軍布 31 藤原宮3-1177(荷札集 藤原宮跡東方官衙北地区
20 布西里 軍布 39 藤原宮3-1642(飛6-21 藤原宮跡東方官衙北地区
21 隠伎国周吉郡上部里日下部礼師 軍布 六斤霊亀三年‖ 31 木研10-90頁-1(3)(城6 平城宮左京二坊坊間大路西側溝
22 海部郡前里阿曇部都祢‖ 軍布 廿斤 31 平城宮7-11311(木研24 平城宮内裏西南隅外郭
23 鮑六十具鯖四列都備五十具‖須志毛十古‖割 軍布 一古‖ 11 日本古代木簡選(大宰 大宰府跡政庁地区正殿後方築地東
24 隠伎国海部郡作伎郷大井里阿部呂麻御調 軍布 六斤天平九年‖ 31 木研5-11頁-1(16)(城1 平城宮内裏北外郭東北部
25 隠伎国海郡佐吉郷阿曇部多 軍布 六斤 31 木研5-11頁-1(15)(城1 平城宮内裏北外郭東北部
26 隠伎国智夫郡大井郷各田部小足 軍布 六斤‖ 31 木研5-11頁-1(17)(城1 平城宮内裏北外郭東北部
27 隠伎国海部郡佐々里勝部乎坂‖ 軍布 六斤 31 城21-32下(354)(木研1 平城京左京三条二坊一・二・七・
28 依地郡奈具里 軍布 39 木研15-23頁-1(1)(飛1 藤原宮跡内裏東官衙地区
29 隠地郡村里三那部井奈 軍布 六斤 31 城27-20下(290) 平城京左京三条二坊一・二・七・
30 須二古心太二古 軍布 小二古荒 81 藤原宮3-1391(飛12-10 藤原宮跡東方官衙北・東面北門南
31 隠伎国周吉郡奄可郷吉城里服部屎人 軍布 六斤養老四年 31 木研20-41頁-4(5)(城3 平城京右京三条一坊三坪朱雀大路
32   軍布 廿斤 39 飛鳥藤原京1-932(荷札 飛鳥池遺跡北地区
33   軍布   32 飛鳥藤原京1-229(飛14 飛鳥池遺跡北地区
34 次評上部五十戸巷宜部刀由弥 軍布 廿斤‖ 31 飛鳥藤原京1-196(荷札 飛鳥池遺跡北地区
35 依地評都麻五十戸 軍布 31 飛鳥藤原京1-133(荷札 飛鳥池遺跡南地区
36 軍布   31 木研25-48頁-(60)(飛 飛鳥京跡苑池遺構
37 川内五十戸若 軍布   31 荷札集成-198(木研26- 石神遺跡
38 役道評村五十戸忍 軍布 廿斤 31 荷札集成-199(木研27- 石神遺跡
39   軍布   31 飛鳥藤原京1-228 飛鳥池遺跡北地区
40 軍布 十五斤 11 木研29-41頁-(26)(飛2 石神遺跡
41 軍布 嶋成百卅四連長寸六十九連布二准【「年魚二 11 ◎観音寺1-58 観音寺遺跡

以上の「軍布」がなんと発音するかについては、ヒントになりそうなものがいくつかあります。
例えば「連番23」は「太宰府政庁正殿後方築地」の基壇天場の下層土層から発見された木簡ですが、これは以下のようなものです。

(表)十月廿日竺志前贄駅□□留 多比二生鮑六十具/鯖四列都備五十具
(裏)須志毛(十古)割軍布(一古)

 この中に出てくる「割軍布」は「わかめ」と読むのではないかと推測されます。「割る」は「分かつ」であり「軍布」は「め」と読むと考えられるからです。
 「軍布」を「め」と読むことに関しては、以下の「歌」があります。

「然之海人者軍布苅塩焼無暇髪梳乃小櫛取毛不見久尓」(万葉二七八番歌)
「志可の海人は軍布(藻(め))刈り塩焼き暇(いとま)なみ髪梳(けづり)の小(を)櫛取りも見なくに」

  この歌は『万葉集』の「第三巻」にあり、この巻は「八世紀半ば」頃の時代のものとされています。
 つまり、ここでは「軍布」を「め」と呼称しているようです。しかし、「軍布」は「め」とは読めないのは明らかです。この「軍布」は「藻」のことであることが分かりますが、「藻」とは「海草一般」を指すものであり、その「代表」として「わかめ」が考えられていたと思われます。

また以下は「連番37」の石神遺跡から出土した木簡です。

 □□〔川内ヵ〕五十戸若軍布
 隠岐国隠地郡河内郷〈隠岐国隠地郡川内五十戸〉
 
これは明らかに「ワカメ」であると思われ、「軍布」で「め」と発音するらしいことが推定できます。

 また、「連番38」の「石神遺跡」からの木簡は「評制下」のものであり、また「五十戸制」ですから、「六九〇年以前」のものと推察されます。

 「役道評村五十戸忍 軍布 廿斤」

 また「藤原宮」出土木簡の「連番12」について。

「里人大伴部知真利 尓支軍布 廿斤」

 ここで「尓支」(爾支)(「にき」)とは「若い」あるいは「近い」「少ない」などの意味があり、ここでいう「爾支軍布」とは「ワカメ」であると考えられます。
 『書紀』の「斉明紀」にある「伊吉博徳書」の中に「唐」の皇帝に「蝦夷」を連れて行った記録がありますが、その中に「天子問曰 蝦夷幾種 使人謹答 類有三種。遠者名都加留、次者粗蝦夷、近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷。??、入貢本國之朝。」という部分があり、「大系」では「熟蝦夷」に「『にき』蝦夷」と読みが振られています。つまり「にき」とは「近い」という意味で使用されているわけであり、これと同様の意味であると思われます。

「連番40」の石神遺跡十八次調査出土木簡について。

「和軍布十五斤」

 これも同様「ワカメ」であると思われます。

 以上「軍布」が「め」と呼ばれ、それは「藻」の意味であり、その「藻」の代表が「わかめ」であるとされていたらしい事がわかると思われますが、そもそも「軍布」という字面は上でも述べたように「め」とは発音できないものであり、これは明らかに「アイヌ語」の「コンプ」の音写であると考えられ、これがまずかなり早い時期に日本語の中に取り入れられた事を示すものと考えられます。
 ここでは「軍」が「コン」「布」が「ブ」ないしは「プ」を示すと考えられますが、例えば『万葉集』の中で「クン」や「コン」に「軍」を充てた例が「皆無」であり、「軍」は「いくさ」としか読みが振られていません。その他現存している万葉仮名を記した史料中には「軍」は見あたらないのです。この事から「万葉仮名」が固定化し、一般化する以前の段階で「コンブ」は「軍布」と表記されるようになったと考えられます。

 既に考察したように「万葉仮名」(文字)の成立は「五世紀終わり頃」つまり「仏教伝来」から「六~七〇年経過」した時点と考えられ、「武」から「磐井」にかけてのことと推察されます。つまりその時点以前に「コンブ」及びその発音に対して「軍布」と表記し、また「コンブ」と発音していたこととなるでしょう。
 「コンブ」は基本的に北海道等の北方圏に分布、生育するものであり、そこに居住していた「アイヌ」による呼称が起源であると考えられ、当然そう考えると「東国」以東や以北にその言語環境が限られていたものと思料されます。
 「コンブ」を「軍布」と表記したのは、当然「アイヌ」側ではなく、「倭人」側であったはずであり「コンブ」という発音を耳で聞いて「軍布」という「漢字」に当てはめたわけです。(中国などで「外国語」を無理に「漢字」に当てはめているのを見ますが、よく似ていると思われます。)その時代としては「筑紫」の勢力が「東国」に始めて進出した「五世紀」の「倭の五王」のころではなかったでしょうか。
 しかし、その後「軍布」という単語が広がるにつれ、それが「普通名詞」化していったものと思料されます。つまり「コンブ」の実体を見たことがない地域の人々については、「軍布」という「漢字」について、「海藻」一般を意味するというある種の「誤解」が生まれ、「海藻」の代表である「ワカメ」を表すのにもっぱら使用されると云うこととなったものと考えられます。
 それは「筑紫」などから「西国人」達が「東国」に移動した(武装植民)の際の出来事であると考えられ、彼らは「軍布」の実物を知らずに「藻」(海草)であると認識し、その「藻」の発音である「メ」をその「軍布」の発音に充てたという経緯と考えられます。

 現在「コンブ」は「昆布」と表記されますが、この表記は(『続日本紀』の「元明紀」を除くと)「九世紀の初め」に書かれたとされる『本草和名』に出てくるのが初見であり、それまではもっぱら「軍布」と表記されていたようです。(ちなみに『古事記』には「海布」と出てきますそれが「コンブ」なのか「ワカメ」なのかは判然としません)
 また上に見た木簡の表記の中で「軍布」を調として貢した地域が「昆布」を算出するほどの北方地域ではないことからも、「軍布」と表記されたものの実態が「コンブ」つまり「昆布」ではないことは明らかであり、この時点(藤原京)ではまだ「蝦夷」との交渉が本格化しておらず、「軍布」を「ワカメ」あるいは「海藻一般」の表記として使用することに違和感を感じていないことが推測されます。
 また、このことは「蝦夷」との関係が一旦希薄となった時点(六世紀付近か)以降「コンブ」というものの実態を目にする機会が減少したことを示すと思われますが、再度「蝦夷」との交渉が始められた時点がその後かなり時間が経過してからではなかったかと考えられることとなり、その時点以降「軍布」の実態に触れることとなった結果、その時点で「軍布」という字面と「ワカメ」という発音の乖離について問題とされるようになったのかもしれません。
 その時点で「海藻」の表記に「コンブ」とそれ以外とにその時点で分かれることとなり「昆布」と「若布」と別表記されるようになったと考えられるでしょう。そしてそれは「八世紀」も後半のことではなかったかと思われ、それが『本草和名』に反映しているということではないでしょうか。しかしそう考えると『続日本紀』の「昆布」表記はやや不審といえるでしょう。

「靈龜元年…冬十月…丁丑。陸奥蝦夷第三等邑良志別君宇蘇弥奈等言。親族死亡子孫數人。常恐被狄徒抄略乎。請於香河村。造建郡家。爲編戸民。永保安堵。又蝦夷須賀君古麻比留等言。先祖以來。貢獻『昆布』。常採此地。年時不闕。今國府郭下。相去道遠。往還累旬。甚多辛苦。請於閇村。便建郡家。同百姓。共率親族。永不闕貢。並許之。」(元明前紀)

 ここでは明らかに「昆布」と表記されていますが、それがこの「元明」当時(八世紀の初め)の実態と乖離しているのは木簡などからも明らかです。その『続日本紀』は「淳仁天皇」(淡路廃帝)の時代から編纂が開始され、「光仁天皇」の時代も継続し、最終的に編纂が終了したのは「七九七年」「桓武天皇」の時と言われています。

「是日。詔曰。天皇詔旨良麻止勅久。菅野眞道朝臣等三人。『前日本紀』與利以來未修繼在留久年乃御世御世乃行事乎勘搜修成弖。續日本紀・卷進留勞。勤美譽美奈毛所念行須。故是以。冠位擧賜治賜波久止勅御命乎聞食止宣。從四位下菅野朝臣眞道授正四位下。從五位上秋篠朝臣安人正五位上。外從五位下中科宿禰巨都雄從五位下。」「『日本後紀』巻五延暦十六年(七九七)二月己巳十三条」

 つまりこの『元明紀』の記述は『続日本紀』の成立時点における最新知識として書かれたという可能性が高く、古代の実態としてリアルなものかについては疑問が出て当然ということとなるでしょう。

 人々は「コンブ」というものの実態を知った結果「軍布」が示す「ワカメ」とは異なることが理解され、そうなると「軍布」の示す字面は「ワカメ」ではなくかえって「昆布」に近い(当然ですが)ということが問題になった結果、「ワカメ」は「若布」と表記されることとなり、「コンブ」は「蝦夷側」の表記として「昆布」が使用されたこともあり、以後「昆布」と表記されるという経過が考えられます。

(また、このことは『隋書俀国伝』に出てくる「軍尼」という官職様のものの名称の「読み」についても示唆を与えるものです。この『隋書俀国伝』自体が「隋代」のことであり、また「編纂時期」は「初唐」の頃ですから、基本として発音は「漢音」であると考えられます。そうすると「こんじ」ないしは「くんじ」と発音するのがいちばん「近い」と考えられますが、それが正しいと考えられるのは「コンブ」が「軍布」と書かれている事からもいえると思われます。)


(この項の作成日 2012/07/10、最終更新 2017/02/23)(ホームページ記載記事を転記)

コメント

「来目皇子」の軍の編成について

2018年04月30日 | 古代史

 『推古紀』には「新羅」遠征軍として「来目皇子」を将軍とする軍が編成されたという記録があります。

「(推古)十年(六〇二年)春二月己酉朔。來目皇子爲撃新羅將軍授諸神部及國造伴造等并軍衆二萬五千人。
夏四月戊申朔。將軍來目皇子到于筑紫。乃進屯嶋郡。而聚船舶運軍粮。
六月丁未朔己酉。大伴連囓。坂本臣糖手。共至自百濟。是時。來目皇子臥病以不果征討。…」

 ここでは「兵士数」として、総数「二萬五千人」という「人数」が記載されています。後の例からもこのような大規模な遠征軍は複数の軍から構成されると考えられ、三軍構成(前軍・中軍・後軍)ではなかったかと見られ、「来目皇子」はそれらを総括する「大将軍」であったと見ることができると思われます。
 この当時は「五十戸制」ではなく、「八十戸制」であったと考えられ、軍の編成の基礎も「八十戸」という戸制にあったと考えられ、この「二万五千人」という兵員数も「八十戸制」と何らかの関係があると考えるのが自然です。ただし、「五十戸制」が「常備軍」につながるものであり、「律令」に則ったものであったと考えられるのに対して、この「八十戸制」はある意味「自然発生的」であり、「軍制」と直接は関連していないという可能性が強いと思われます。それは、この「八十戸制」が「中国」の制度に学んだものではなく、「倭国」独自の制度であったという可能性があり(「八十戸制」という戸制が中国には見られません)、またそれは「数や量」が多いという形容として「八十」という数字が広くまた古くから行なわれていたと推定できることからも言えると思われます。
 
 後でも触れますが、「難波朝期」に制定された軍制では一軍が「九千人」であり、これは「評」の戸数である「七五〇戸」と深い関係があったと見られる訳ですが、この「二万五千人」という兵員数においても、同様のことが想定され、当時存在していた「クニ」の戸数である「八〇〇」というものと関係していると見ることができるでしょう。
 『隋書俀国伝』には以下の記事があります。

「…有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。…」

 この「軍尼」という職掌が統括していた領域は「国別」や「国造」が支配していた領域と重なるものと考えられ、いわゆる「クニ」であったと考えられます。(「軍尼」がクニと発音するとか読めると主張している訳ではありません)
 上の記述から「クニ」は約「一二〇」あったと見られ、総戸数で「九万六千戸」ほどと計算できます。そこから「二万五千人」が徴発されたとすると約「四戸一兵士」という基準(らしきもの)があったことが推察できます。
 この基準は「臨時」に設定されたものであり、当時は「常備軍」はなかったと見られ、そのことはそれを規定したような「律令」や「軍制」(軍防令のようなもの)が存在していなかったことを推定させます。
 それは『書紀』の記事の中にも、「諸神部及國造。伴造等。」という表現がされており、「地方行政官」ともいうべき職掌の人間に対しても、軍兵として徴発し、派遣している事からも推察できます。
 この「四戸一兵士」という基準は、後の「一戸一兵士」よりかなり「緩く」、そのことからもこれが「律令」等に基づくというよりは「臨時」の「詔」によるという理解をすべきことを示しているようです。
 『隋書俀国伝』には「征戦がない」と書かれており、これは即座に「常備軍」がなかったことを意味するものですが、それはまた「軍制」が整備されていないことを示すものです。
 「外敵」が侵入を試みたり、海外に遠征するような際に、始めて「傭兵」感覚で「各地」から徴発したのではないでしょうか。(通常は各地の地場の勢力の私的武装集団として存在していたものと思われます)
 『天智紀』にある「邇摩郷」のように「戦いにこれから行く」という段階で「兵」を徴発しているように見られる記事もありますが、それは「地名」から来る「付会」であり、実際には「天智」時点では「軍制」があったと見られ、それに基づいて「徴兵」制が機能していたと考えられるものですが、それよりかなり以前の段階である「阿毎多利思北孤」の統治段階では「常備軍」はなく「八十戸制」は「軍制」に関連づけられる性格のものではなかったと思われます。
 ここで「来目皇子」の軍編成が「八十戸制」の中で理解すべきとすると、この段階は「隋制」導入以前の段階であることとなり、戸籍その他確認できる導入された「隋制」とは整合しないこととなり、明らかにそれ以前のものであることが推定できます。

 ちなみに、この「百二十」あるという「軍尼」が統括している領域は、後の「郡」に相当する領域であると理解できるものであり、「和名抄」などで確認すると、「筑紫」「肥」「豊」「長門」「周防」ぐらいの領域でほぼ一二〇をやや超えるぐらいになります。つまり、この段階においては「倭国」の領域といえるのは、「九州北部」と「中国地方」の西側程度であったのではないでしょうか。
 このことと、「利歌彌多仏利」の「六十六国分国」事業が行なわれる以前に既に「三十三国」が形成されていたとされていることを考慮に入れると、この「三十三国」の示す範囲とは、この「一二〇クニ」が存在していた領域を示すのではないかと考えられます。
 「国」(クニ)の国内における「成立」とその「変遷」を考えると、「従来説」のなかでも「有力」なもののひとつは、「七世紀」以前から「クニ」があって、そこには「国造」が存在しており(それは「ヤマト政権」の版図としてであるとされますが)、ある時点でその「クニ」がいくつか合わさった「広域行政体」としての「国」が成立したとみられています。この「ある時点」というのが「利歌彌多仏利」による「七世紀初め」と理解されるものですが、当然「三十三国」というものはそれ以前に遡らざるを得ず、その段階では「国」は「クニ」を意味する言葉であったと考えられます。
 ただし、上に見た「倭国」の範囲の各国は「後の令制国」に匹敵する領域があったと見られ、「六十六国分国」時には(「常陸」のように)集められたのではなく、「前後」に分けられるということとなったものと考えられます。
 ただしこの段階の「国」には「国宰」のように、行政を主管する人物が配置されてはいなかったと思われます。あくまでも名目的な分け方であり、実質としては各「クニ」の長である「国造」「国別」がその地と人民に対して支配権を行使していたものと考えられるものです。

 ところでこの「来目皇子」の名称は「久米」ではなく「久留米」であったという可能性が強いと思われ、「筑後」の「久留米」という地名との関連を考えるべきでしょう。さらに、彼の死去後跡を継いだ兄とされるのが『當麻皇子』であり、「當麻」が「肥後」の地名であることも関係しているといえそうです。「皇子」が「筑後」と「肥後」にいるというわけですから、「九州王朝」の直轄領域に対して「皇子」達で分治していたことが窺えるわけです。
 「新羅征伐」に「志摩郡」に駐屯したという記述も、地場の勢力であったと考えると、少なくとも「筑紫」にいることは「遠征」なのではないことと推定できます。このことからも、この段階の「軍」の編成の主体は「西日本」であり、まだ「東国」からの軍は少数であったことを示していると考えられます。


(この項の作成日 2012/08/12、最終更新 2013/03/25)(ホームページ記載記事を転記)

コメント

『万葉集』について

2018年04月29日 | 古代史

 『万葉集』は「舒明天皇」以後『天武紀』までが基本的な部分とされています。つまり、『推古紀』以前については「雄略」などの歌がわずかに載っているだけで、他は全て除かれているのです。最古の歌と考えられているのが「仁徳天皇」の后「磐姫」の歌ですが、これ以後「推古」までの歌が極端に少ないのです。
 「仁徳」は『書紀』では「四世紀」の終わりから「五世紀」にかけての存在とされており、ここから「推古」の間『書紀』上では二〇〇年ほどが経過していることとなるわけですが、この期間はほぼ「空白」であるわけです。明らかに、この期間に造られた「歌」が集録されていないこととなると思われますが、それにしてもこれほどの「長期間」の空白があるのは「不審」としか言いようがありません。
 現在各地で発見されている「歌木簡」の解析から、『万葉集』に載せられた歌以外に数多くの歌が存在していたことが推定できます。これらの最古のものは「七世紀初め」と推定される「はるくさ木簡」であり、このことから、現在目にする事ができる『万葉集』は「七世紀初め」以前に(「推古朝」)で一旦成立した「古・万葉集」を原資料としており、その中からほんの一部だけが集められ、それに後代の歌群が附属された「新・万葉集」である、と判断できます。
 それを示すように『万葉集』の中には「古集」というものが出て来ます。
 『万葉集』の第七巻に出て来るもので「右の件の歌は、古集中に出づ」という風に書かれているものです。計五十首ほどが確認できます。そしてこれらの歌についてその内容を確認してみると、全て「筑紫」に関する歌なのです。(以下「古田氏」の研究による)
 例を挙げると以下のようなものがあります。

「ちはやぶる金の岬を過ぎぬともわれは忘れじ志賀の皇神」(一二三〇番歌)
「少女らが放(はな)りの髪を木綿(ゆふ)の山雲なたなびき家のあたり見む」(一二四四番歌)

  ここに出てくる「志賀(しか)」も「木綿(ゆふ)」も筑紫(九州)の地名なのです。
 このことは、これらが集録されていたものは「古集」と呼ばれているわけですから、後の『万葉集』に先立つものであり、なおかつ「筑紫」で成立していたことを示すものと考えられます。
 『万葉集』の先頭が「天皇」の歌であることからも、この歌集が「勅撰集」という性格があることがわかりますが、さらにこの時点の「都」が「筑紫」であり、「倭国」の中心部である証明と考えられるものです。

 これら『万葉集』の先駆となった「古集」は、「利歌彌多仏利」の「天子」(皇帝)即位の記念として「勅撰集」として編纂されたものであったものではないでしょうか。
 「最古」の「歌」と考えられるものが「仁徳天皇」の后「磐姫」のものである、という事実は先に行った「解析」により「仁徳天皇」が「利歌彌多仏利」の投影である、と考えられることから考えても、彼の時代に編纂されたものが「原・万葉集」として存在していたことを裏書きするものといえます。
 
 また、『万葉集』の中では、「筑紫」の地は「大君の遠の朝廷」と呼ばれています。

万葉集巻三 第三〇四番歌
(柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首)
大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念

 この名称は現在のいわゆる通説では、「官衙」(政府の出先機関)の地をそう呼んだのではないか、という言い方がされています。「越」の国や「韓国」をさして、同じように使用されているかのように見える例はありますが、 それ以外の地域に対し、使用例が全くないことからも「一般的な呼び方」とはいえるものではありません。
 そもそも「朝廷」とは天子(皇帝)の居する「宮殿」の「大極殿」や「紫宸殿」などの「殿」に面する「中庭」的部分を言い、その場所に天子が出御し「百僚」がその庭で天子を拝謁する、という場所であったもので、そのことから「天子」の「統治」の中心的な場所の事となったのです。その呼称が「筑紫」の地に関連して使用されている、ということは、「筑紫」の地に「天子」がいた、ということにならざるをえません。
 さらに「聖武天皇」の歌の中では、「御」朝庭と尊敬を表す字が付加されており、天皇自身が筑紫に対して尊敬の念を表している事になっています。
 また、「越」の国をさして「大君の遠の朝廷」という言い方をしているのは「大伴家持」だけであり(他の人の歌などでは「越」に対しこのような使用例がありません)、「大伴氏」は「武烈天皇」亡き後、「越」の国から「継体天皇」を担ぎ出してきた氏族ですから、この事が家持をして「越」の国を「大君の遠の朝廷」と呼ばせるものと推察されます。
 もっとも、家持は「越」と「筑紫」とで表現を微妙に変えている事が注意されます。それは「筑紫」と違い「越」に対しては「大君の遠の朝廷」ではなく、「大君の遠の〝美可等〟」と表音表記を使用しており「朝廷」(または「朝庭」)の文字を使用することを慎重に避けている事です。(例外がありません)これは「朝廷」の文字が内包する重大な意味を、作者大伴家持が感じ取っていたが故の表記方法であろうと思われます。
 つまり「朝廷」というのは天子が政治を司るところであり、只一か所しかないのです。それを知っている人間には、実際に天子がいなかった場所には使えない、或いはためらわずには使えない、そういう性質の言葉なのです。
 その言葉が、「筑紫」に対してのみ使用され、しかも『万葉集』の中でだけ使用されているということは、もともとのこの歌集の持つ政治的、権力構造的な意味の「位置」が、通常一般に理解されているものとは大きく異なっているということでしょう。

 また、『持統紀』に「筑紫の軍丁」「大伴部博麻」にたいして「顕彰」の「詔」が出されていますが、その中で「天朝」と「本朝」いう言葉が使用されており、その解析の結果「天朝」とは「諸国」の立場から見た「筑紫朝廷」を指すものという理解が得られています。そして、この「天朝」については「遠朝廷」と同じ意義であると考えられ、「漢語的」表現か「和語的」表現か、あるいは「時間的」表現か「空間的」表現かという差でしかないと推察されるものです。

 また、万葉集中には「田邊福麻呂」という人物の「歌集」から採ったものが載せられており、それによれば上に見た「筑紫宮殿」と同様「難波」においても「大王」が「在通(ありがよふ)」という表現がされています。

(右廿一首之歌集中出也)
安見知之  吾大王乃  在通  名庭乃宮者  不知魚取  海片就而  玉拾  濱邊乎近見  朝羽振  浪之聲せ  夕薙丹  櫂合之聲所聆  暁之  寐覺尓聞者  海石之  塩干乃共 渚尓波  千鳥妻呼  葭部尓波  鶴鳴動  視人乃  語丹為者  聞人之  視巻欲為  御食向  味原宮者  雖見不飽香聞

(以下訓)
 やすみしし  我が大君の  あり通ふ  難波の宮は  鯨魚取り  海片付きて  玉拾ふ  浜辺を清み  朝羽振る  波の音騒き  夕なぎに  楫の音聞こゆ  暁の  寝覚に聞けば  海石の  潮干の共  浦洲には  千鳥妻呼び  葦辺には  鶴が音響む  見る人の  語りにすれば  聞く人の  見まく欲りする  御食向ふ  味原宮(味経宮)は  見れど飽かぬかも

 この歌からは「難波の宮」と「味経の宮」とが同一のものを指すことがわかるとともに、そこへ「大王」が「あり通ふ」という実態が示されています。そのことは「柿本人麻呂」の歌においても同様であり、「蟻通」っているのは「大王」です。
 このふたつの歌はほぼ同意であり、「遠乃朝庭」も「名庭乃宮」も、そこが「大王」の「居宅」などではなく、また「近隣」に居宅があったようにも見えず、かなり遠方より「通い」の身分であることと思料されるものです。
 「筑紫」の場合は「官道」(山陽道)は既に整備されていたと思われるものの、後の時代と違い使用に大幅な制限があったと考えられ、基本は「船」を使用し「博多湾」から上陸してその後「大宰府」までの間は「官道」が整備されていたと考えられ、ここを使用して「宮殿」に拝謁しに行っていたものと思料します。つまり「大王」とは「諸国」の王以上の身分ではなく、そこに居を構えている「天子」(天王)とは違う人物であると云うことが分かります。
 特に「後者」の歌からは「難波大道」を利用しているように見え、この「難波大道」が「宮」の「南門」(朱雀門)から「真南」に延びる道路であり、このことから「孝徳」の「宮」は「難波宮殿」の南の「方向」にあったと考えられます。

 また、この歌集のことは『書紀』や『続日本紀』などには全く片鱗すらみせていません。また、『古事記』と同じくずいぶん年月を経た後、世に現れており、それまで秘匿されていたようですが、それはなぜか?という問題があります。
 これについては、この書物が「呉音」で書かれていることが考えられます。
 朝廷からその後何度となく出された「呉音禁止令」のため世に出すわけにはいかなくなったことが考えられます。また、あってはならない「朱鳥年号」が書かれていたり、その「朱鳥年号」が書かれた『日本紀』が引用されていたり、「筑紫」のことを「朝廷」と呼んでいるなど政治的に「危険」な性質のものであったものであり、そのため長く秘匿され鎌倉時代あるいは室町時代など後代になるまで歴史には登場することがなかったものと思われます。

 現存する『万葉集』は本来冒頭に置かれるべき肝心の「代表権力者」の歌が省かれていると考えられます。つまり前半部分が残った状態では「秘匿」することさえ困難であった、ということを意味するものでしょう。
(後の時代に作られた「偽書」である、という指摘もありますが、「呉音」を駆使して書かれており、「字句」の使用法などについて考察しても同時代性が非常に高くずっと後になって偽作した、という仮定は非常な困難と考えられます。)

 『万葉集』は、はるか後の平安中期以降になって、復活します。完全な写本が名古屋の「真福寺」から出て来たもので、これは「南北朝」時代に(一三七二年か)「東大寺」にあった原本か、またはその写本を書き写したものとされています。これは平安末期に復活する「九州」の用語使用開始がその前駆となる動きだったのだと思われます。同様に『二中歴』も平安末期から書き継がれてきており、この当時は「九州王朝」に対する「隠蔽」が、約五〇〇年ほど経過して、「緩んで」来ていたものと思われます。
 「古集」と呼ばれる「古・万葉集」が「筑紫」で成立し、後にそれに「諸国」の人々の歌が付加された形で「現万葉集」の「原型」ができた後、一旦「お蔵入り」となったものを、「大伴家持」が「前半部」をカットする形で「編集」して、日の目を見ることができるようになったものではないでしょうか。


(この項の作成日 2004/10/03、最終更新 2014/11/29)(ホームページ記載記事を加筆修正)

コメント

「はるくさ木簡」について

2018年04月29日 | 古代史

 「なにはづ」の歌が書かれた大型木簡が出土していますが、「前期難波宮」遺構からは別の「和歌」を万葉仮名で書いた「長さ二尺」の大型木簡が出土しました。それは「はるくさ木簡」と呼ばれていますが、その大きさから「儀式」で手で「捧げ」ながら、朗詠したものと考えられ、そこには「はるくさのはじめのとし~」と読める「万葉仮名」が書かれていました。

「皮留久佐乃皮斯米之刀斯■(読めない文字)」難波宮跡出土木簡 遺構番号 谷七層 寸法(ミリ)「185×26×6」「下欠。表面には刻線がある。整形され墨書された後に施されている。表面は下から上の方向に削っている。上端部は表面側を面取りし、丸みを持たせている。」とされています。(木簡データベースより抜粋)

 この「木簡」は「下側」が欠損しており、残存部分の長さで18.5㎝有りますが、ここには(読み取り不明も入れて)「十二文字」書かれています。もしこれが「和歌」であり、残存部分同様「一字一音」であったとすると「三十一文字」書かれていたこととなりますが、そうであれば「48㎝ほど」はあったこととなります。更にこのような木簡としては異例に長大なものは「儀式」「儀典」などの際に「捧げ持って」「朗詠」したという考えもあるようですから、そうであれば「手に持つ」空白部分も必要となり、全長で「二尺」(60㎝)ほどあったであろうという推定もされています。

 この木簡は「前期難波宮」の最下層の埋土から出土したもので、この層は「前期難波宮」の造営に関わる「埋め立て」「以前」のものと考えられており、であれば少なくとも「七世紀半ば」よりも「古い」と考えなければなりません。
  この「木簡」は「難波宮」の「難波宮南西地点」の「下部整地層」(第七層)から発見されたとされています。(「前期難波宮」の地層は上から「第一層」(大阪夏の陣以降の層)、「第二層」-「第四層」(三期にわたる豊臣氏による整地層)、「第五層」(中世の作土層)、「第六層」(前期難波宮造営時の整地層)、「第七層」(それ以前に谷を埋めた層)と解析されており、この「はるくさ木簡」は「第七層」からの出土と報告されています。) 
 ただし、この地層解析については当初のものであり、その後見解が変更された模様です。それによれば「第六層」と「第七層」は(若干の停止時期を挟むものの)ほぼ同時とされることとなった模様ですが、詳細は文化庁への報告に書かれているらしいものの、一般には公開されていません。
 しかし当初の見解によれば明らかに「第七層」と「第六層」とでは出土土器の編年が異なるとされていましたから、それが覆るに足る証拠が必要と思われますが、それが明示されていないのは遺憾と言うべきです。(層毎の土器数とその各々の編年分布が提示されるべきでしょう。)
 ここではあくまでも当初見解に従うとすると、「難波宮造営」以前の時期が「はるくさ木簡」の年次と考えられ、上の推定から考えると「六世紀最終末」ぐらいまで遡上する可能性もあります。

 同様に「前期難波宮」遺構から発見されたものとして「戊申」と記された木簡があります。この「戊申」は「六四八年」を意味すると思われますが、この「木簡」が発見された「層位」は「難波宮」時点とされ、「前期難波宮」で使用された物品(木簡や土器など)を「廃棄した」場所という性格があるとされています。つまり、この「戊申木簡」は「はるくさ木簡」よりも「新しい」と判断されるものであり、「はるくさ木簡」の年代としてはこの「戊申」という「六四八年」よりも「以前」であるという可能性が非常に高いのではないかと思料されます。
 
 また「評制」の諸国への全面的施行の主体が「阿毎多利思北孤」と「難波皇子」の時代であることも強く推定されています。
 『常陸国風土記』などによれば「東国」に対する「統治」の強化が各種の事例により確認されており、そこには「評制」の再編や「土着信仰の排除」などが記されていますが、この事は「九州倭国王朝」の「権勢」が「東国」に深く届くようになっていたことを示すものと考えられ、それは「近畿」に「前進基地」とでも言うべき「統治」の「拠点」となるべきものが出来たことを示すものと思料され、その意味からも「副都建設」がリアルな出来事であったものと思料されるものです。
 このような「強い権力」の行使ないしは発現とも言うべき「壮大な」宮殿が築かれたことは、「統一的権力者」の存在を前提とすべきであり、それは「阿毎多利思北孤」から「利歌彌多仏利」へと続く「六世紀後半」から「七世紀初め」の「倭国王権」の存在と切っても切り離せないものと考えられます。

 この木簡に書かれた文章は「はるくさのはじめのとし」と読み下すものと考えられ、何かの「元年」を記す木簡と考えられます。『書紀』においての「元年」の読み下しは「岩波」の「大系」でも「はじめのとし」です。そして、この「元年」が「何の元年」であるかというと、可能性があるのは「命長」、「常色」、「白雉」そして「倭京」などが候補に挙がると思われます。
 この場合「下部整地層」ということから「難波宮」完成以前であるのは間違いなく、その場合はこの木簡に書かれた「和歌」は「地鎮祭」のような儀式で詠われたと考えるわけですが、上にみたように『孝徳紀』の本来年次として「七世紀初め」ではないかということが考えられるわけですから、今仮に「前期難波宮」の工程進捗を「六十年」遡上させて考えてみることとします。
 『天武紀』にある「難波宮」を副都とするという記事自体が『孝徳紀』の記事が移動されていると考えられる訳ですが、そもそもそれが「七世紀初め」からの移動であるとすると、天武紀から「六十年」の遡上が措定され、その場合以下の年次への移動となります。

・「天武八年(六七九年)十一月」「是の月に、初めて関を竜田山・大坂山に置く。仍りて難波に羅城を築く。」

 この記事は実際には「六一九年」のこととなると思われるわけですが、(倭京二年)冬十二月乙未朔癸卯(九日)」「…天皇都を難波長柄豊碕に遷す。…」
 さらに以下の記事等も移動するとみられます。

「天武十一年(六八二年)三月甲午朔条」「小紫三野王及び宮内官大夫等に命して、新城に遣して、其の地形を見しむ。仍りて都つくらむとす。(中略)己酉(十六日)、新城に幸す。」

 これも移動により「六二二年」記事となります。
 つまり、これらの記事を移動すると「倭京」改元の直後であることとなり、「倭京」つまり「筑紫本宮」造営に続いて「難波副都」造営を構想したこととなるでしょう。
 このように年次移動を措定することは特に不自然でもなく、「六一九年」以前に「難波」に「羅城」の計画が立てられたと考えて問題はなく、更に「六二二年」になってその「羅城内」に「都」(この場合「宮域」と思われる)を建築することとなったという経緯が想定されます。
 「はるくさ木簡」の出土した「層」は、「宮域」を造営するための整地層の「更に下」ですから、上の記事と対照すると「六一九年」以前に「羅城」を構築するための「儀式」の際に使用されたと考えると整合すると思われます。つまり「はじめのとし」とは「倭京」元年(六一八年)がその「年次」として該当するのではないかと推察されるわけです。そうであれば「倭京」改元は「難波宮」の造営と関連しているという可能性も出てきます。つまり「本宮」の整備と「副都」の整備とは同時並行して企図されたものであり、それは「天武」の詔にも明らかですが、「都城」は複数必要であるという観念の元のものであり、当初から計画されたものと考えられるわけです。

 この「はるくさの」という言葉は「枕詞」と考えられ、それは「始め」に掛かるものとされていますが(ただし『万葉集』には前例がありません)、「字義」上「季節」にも係っていると考えられます。つまり、旧暦の「春」と言えば「一月」から「三月」ですから、この「儀式」もそのような月を選んで行われたと見ることが出来るでしょう。
 新都計画(新宮)の計画がおおよそ定まった翌年春に「地鎮祭」と思われる儀礼が行われたと見られ、その際に「詠まれた」ものが「はるくさ木簡」ではなかったかと考えられます。

 さらに最近「年代測定」の新手法として開発された「繊維のセルロースに含まれる酸素同位体の量の測定」から算出された「難波宮」の「北方」の「柵」の木材の年代として「五八八年」や「六一一年」が報告されている(※)ことにも強く関係しています。
 それはまた、この「はるくさ木簡」が「重要な儀式」の際に詠まれたとすると、「難波皇子」あるいは「阿毎多利思北孤」の「太子」である「利歌彌多仏利」の「即位」と関連しているという可能性もあるでしょう。

 さらにいえば「万葉仮名」というものの発生が一般の想定よりかなり古い事をも示すものですが、それは『二中歴』の解析から「五世紀」には成立していたと考えられることが妥当性が高いことを示唆します。
 また、ここに書かれていた「皮留久佐乃皮斯米之刀斯■(読めない文字)」という文字列は「一字一音」で書かれており、それは『万葉集』の「初期」とされる「記載法」(仮名音)に合致しています。また『書紀』『古事記』に出てくる「歌謡」も全て「仮名音」であり、そのことからもこの「はるくさ木簡」の時期としても相当程度遡上すると考えるのは当然といえるでしょう。
 また、このことは『万葉集』そのものの成立についてもかなり遡上することを想定させるものです。
 また「現在」確認されている「和歌木簡」のうち『万葉集』中に同じ「歌」があるものは、「あさかやま」を除き一つも「確認」されていません。このことは「現在」見られる『万葉集』に先だって(以前)に「別」の歌集があったことを推測させるものです。

(※)中塚武「気候と社会の共振現象 ―問題発見の新しい切り口―」(『名古屋大学大学院環境学研究科・地球環境科学専攻・地球環境変動論講座』より。

 
(この項の作成日 2013/01/23、最終更新 2016/02/07)(ホームページ記載記事を転記)

コメント

「なにはづ」の歌

2018年04月29日 | 古代史

 現存している「九州年号」史料に拠れば、九州島内で確認される九州年号資料は「熊本」「大分」「福岡」という北部九州地域に偏りを見せています。いわゆる「筑紫」「肥」「豊」三国は古代から非常に結びつきが強く文化圏としても緊密なものがあったと思われ、年号史料が多く見られるのもそういった事が理由と考えられます。
 ところが、この三国も含め全九州から全く「九州年号」が見えなくなる時期があります。(それを記した資料が存在しない、という事)
 それが「願転」「光元」「定居」「倭京」「仁王」「聖徳」「僧要」「命長」「常色」の各年号に渡る五十年ばかりのことなのです。これは、西暦で言うと「五九四年」から「六五二年」までの間です。この間、九州島内から九州年号が見えなくなるわけですが、かえって遠隔地であるはずの「奈良」「愛知」などで確認されているのです。また、遠隔地ながら九州年号発見例が多い「長野」「福島」でも、この期間はほとんど確認できなくなります。
 また、これらの年号が九州島内から確認できなくなる期間は「法興」などの別系統年号と重なっている期間でもあります。しかし、その「法興」も九州島内ではなく、他の地域で確認されているのです。(「愛媛」、「奈良」、「滋賀」、「大阪」)
 この時代は「阿毎多利思北孤」及び「弟王」と跡継ぎである「利歌彌多仏利」の時代に重なっています。彼らは『隋書』にも現れる、存在が非常に明確な人物です。彼らの存在証明とでも言うべき「地元での年号遺存」の状況が全く見られない、という事は彼らの統治が「筑紫」の内部に「及んでいない」という事ではないでしょうか。そして、「近畿」の地域を中心としてこの時代の年号が多く確認される、という事はこの時期「阿毎多利思北孤」と「弟王」は「近畿」に政治の中心を移動させていたのではないかと推察されます。

 「複都制」の詔により「難波」が「都」となるわけであり、そこで壮大な宮殿の完成となります。これを従来通り「七世紀半ば」のことと捉えると、それ以前に「摂津難波」に何かしら、倭国王の拠点のようなものがあったのではないかと考えざるを得ないこととなります。つまり、「難波朝廷」が「なぜ」「難波」に設置されたのか、なぜ「複都制」が最初に適用されたのが「摂津難波」なのか、という問題につながるものです。
 これに関しては「神功皇后」の時代に「住吉大社」の「支社」が「摂津」に作られた、という伝承が注目されるでしょう。
 すでにみたように「神功皇后」の実際の時代は「阿毎多利思北孤」の時代と同時代と考えられ、その「阿毎多利思北孤」は「筑紫」に「宮都」を建設しているわけですが、それを首都としながらも、仏教布教のため、「附庸国」を巡行していったと思われ、その際に(「四天王寺」を移築して)「摂津」という「筑紫王権」の前進拠点とも言うべき地に「天王寺」を作ると共に、その地に「行宮(仮宮)」を造り、ここに居する事が長くなったものと思われます。

 ところで、『二中歴』の「都督歴」によれば「最初」の都督とされる「蘇我日向」は「大宰」として「筑紫本宮」に赴任したとされています。ここで言う「本宮」というのは「仮宮」や「行宮」あるいは「離宮」などに対する用語であり、本来常住している「宮殿」を言うものです。つまりこの記述は「筑紫」に「本宮」つまり「本来の宮殿」があることを示すものといえますが、それが「孝徳」段階であるのは、『書紀』における「倭京」の初出が『孝徳紀』であることとつながっていると思われます。

(六五三年)白雉四年…是歳。太子奏請曰。欲冀遷于『倭京』。天皇不許焉。皇太子乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟等。往居于『倭飛鳥河邊行宮』。于時公卿大夫。百官人等皆隨而遷。由是天皇恨欲捨於國位。…」

 つまり「孝徳」(難波朝廷)段階以前には「倭国王」は「筑紫」など「近畿」とは異なる地域にいたものであり、それを「倭京」と称したものと思われるわけです。そしてこの時点で「筑紫」から東方へ進出しその「前進拠点」として「難波」に「宮殿」を造ったことを示すと思われますが、これはいわゆる「難波副都」を指すものと思われます。そして、その段階で「蘇我日向」が「大宰」としてその「前進拠点」から「筑紫」へ戻されたとするわけですが、「大宰」は本来「王」と共にいるものであり、この時点で「倭国王」もまた「筑紫」に所在していたことが想定されます。そう考えると、この時点で「難波副都」にいたのは誰かということとなりますが、『書紀』ではこの時「難波」にいたのは「中大兄」ですから、これが現実の何らかの反映であるとすると「倭国王」の「太子」が「前進拠点」としての「難波」にいたという可能性を示唆するものと思われます。そして、「蘇我日向」は「大宰」と兼務として「都督」つまり「倭国」の「軍事力」の「元締め」として「筑紫」を「守衛」していたと考えられます。
 また『二中歴』の「年代歴」によれば「倭京」改元は「七世紀初め」と考えられており、さらにその「二年」に「天王寺」が「聖徳」により創建されたと書かれていますので、この時点で「難波」に大きな拠点が築かれたことは確実と思われますが、これは『孝徳紀』のあるべき「年次」としては「七世紀初め」という時期がもっともふさわしいことを意味するものといえます。

 ところで、「なにはづにさくやこのはなふゆごもり、いまはるべとさくやこのはな」という和歌が書かれた大型木簡が各地に出現しています。それらは「徳島県」(観音寺遺跡)など地方にも及んでいます。
 この木簡は長さが「二尺」(60cm)以上あったと考えられ、全長を復元すると「74cm」あったのではないかとされるものもあるようです。これは「縦一行」に歌の全文が書かれているものです。このような大きな木簡は日常的使用の観念を超えており、明らかに「儀式」など公的な場で、この木簡を「捧げながら」「朗詠」する際に使用されるものであったと思われます。(合唱したのではないかという考えもあるようです)
 これに関して「古今集」の「仮名序」には以下のようにあります。

 「なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり(おほささぎのみかど、なにはづにて、みこときこえける時、東宮をたがひにゆづりて、くらゐにつきたまはで、三とせになりにければ、王仁といふ人のいぶかり思ひて、よみてたてまつりける歌也。この花はむめの花をいふなるべし。」という風に書かれています。

 この「仮名序」そのものは「紀貫之」の書いたものであると思われますが、「括弧」の中の文章は「古注」と呼ばれ、誰が書いたものか不明なのですが、非常に古いものであり、「古今集」成立から余り時間が経過してない時期のものと推察されています。そして、この「注」によると、この「なにはづ」の歌は「おほささぎ」つまり「仁徳天皇」に関わるものであるとされているようです。
 この歌が、ここに書かれたような古いものであるのかどうかは議論が分かれていましたが、「法隆寺」を解体修理した「昭和の大修理」の際に、解体された五重塔の部材に(天井裏組木)「奈爾波都爾佐久夜己」と書かれているのが発見されています。
 「法隆寺」の「五重塔」については心柱の伐採年が「五九四年」と確定しており、他にもかなり古い部材が使われているようにも見えますが、それとは逆にかなり新しい部材も使用されていることも判明しており、部材の構成が多様な面を持っています。このため、この天井組木についても確定した答えは出せませんが、もし古いものであったなら、移築前の「筑紫」段階で書かれたという可能性もあるでしょう。その場合は「七世紀初め」付近で書かれたものと思われ、この歌が捧げられたその時点で書かれたと言うことも想定できるものです。少なくとも、「八世紀」の初めには「五重塔」は建てられてしまっていますから、その直前(遅くとも「七世紀」の終わり)までにはこの歌が書かれたことは確実だと考えられます。
 これを書いたのは、このような寺院などの建築に携わる人たち(宮大工)などと思われますが、彼らの間でも著名であった歌なのだと思われます。
 ただし、これらのことは「この歌」の期限を確定させるものではなく、あくまでも下限を示しているものですから、「仮名序」に言うような「仁徳」のもの(つまり「四世紀」のもの)と即座に判断することはできません。
 
 また「仮名序」の「紀貫之」の「本文」でも「みかどのおほむはじめなり」、つまり、帝(御門)というものが始められた最初の時に歌われたもの、と言う意味のことが書かれていますが、「仁徳」が実は「阿毎多利思北孤」の「弟王」の反映ではないかと考えたわけですから、日本で最初に「帝」(御門あるいは天子)を自称したのは倭国王「阿毎多利思北孤」(というより「弟王」)だったのかもしれません。その弟王が「押坂(忍坂)彦人大兄」の「弟王」である「難波皇子」であるとすると、その名称と「古注」の「なにはづにてみこときこえける時」という形容は見事に重なるといえます。
 彼は「遣隋使」の言葉から判断して「隋王朝」が成立する以前から「阿毎多利思北孤」と共に「兄弟」で統治を開始していたと考えられ、その後「阿毎多利思北孤」が「倭国王」となった時点以降、彼が実務の面で「倭国」を代表する地位に就いた際に自らを「帝」(御門)の位置に置いたものと推量されます。そう考えるなら、「みかどのおほむはじめなり」という言い方がは実態に即しているともいえます。
 つまり、この歌は彼の「帝」としての即位の際に「お祝い」として詠まれた歌なのではないかと考えられるものです。

 また、「筑紫」の「志賀海神社」に古来から伝承されている歌にこの「なにはづ」の歌があることも明らかになっています。また、この「和歌」の中で詠われている「花」は「古注」にもあるように「梅」の事と考えられています。
 「梅」は原産が中国であり、「倭国」には元々なかった木(花)です。これが「倭国」に伝わったのは「南朝」と交流が始まった「倭の五王」の頃のことと考えられます。
 「梅」の発音は「むめ」ですが、本来これは「んめ」(nme)であったと思われ、これは「梅」の呉音「まい」(nmai)からの転音と思われ(漢音は「ばい」)、この言葉が南朝から渡来したことを示していると考えられます。
 当時の「倭国」には「ん」の音が無く、そのため「n」の発音ができず、それを「u」で代用しているのです。
 同様の例に「馬」「nma」→「uma」、「王」「wan」→「wau」、「阿吽の呼吸」の「吽(うん)」「n」→「un」などがあります。

 「仁徳」が本当に『書紀』に書かれているような「四世紀末」の人物であるとすると、まだ「倭国内」には「梅」が伝来していない時期と考えられ、「なにはづ」の歌の人物としてはふさわしくないものと考えられます。
 また、「外来種」である「梅」は、積極的に各所に根分けなどしなければ、広く各地の山野などで見ることができたわけではなく、そのためその後も「梅」は「筑紫」の「太宰府」付近でしか見ることができなかった模様です。今も「太宰府の梅」と言えば全国的に「梅の名所」で有名であり、中国から伝来した梅が最初に列島へ到着した地点が「筑紫」であったことを物語っています。
 そして「梅」はその後「倭国王」を象徴する「花」となり、「花」と言えば「梅」と云われる起源となったものでしょう。
 「なにはづ」に「天王寺」ができ、「仮宮」などが作られたときに「根分け」された「梅」が「難波」に植えられたものと推察されます。
 (「梅」が根分けされ、植えられたことが理由で「難波」という地名も(皇子と共に)「筑紫」から移動したという可能性もあるでしょう)

 『二中歴』の解析により「四八一年」に「明要」改元された際に「漢和辞書」ができたと推測され、これを完成させるために編み出された「万葉仮名」を用いて、その後たくさんの和歌が詠まれたこととなったと思われますが、それらが「倭国」の人々の一般教養となったのだと思われます。
 前記したように『万葉集』の中には「古集」というものが出て来ます。これらの「古集」は「阿毎多利思北孤」ないしは「難波皇子」の「勅撰集」として編纂されたものと考えられます。
 当然その中には「倭国王」の象徴である「梅」を読み込んだものもたくさん造られたことと思われ、「梅」伝来の地である博多湾岸の「筑紫の志賀海神社」にこの「和歌」が遺存しているのも理解できるものです。

 また、この「なにはづ」の歌は、同時に「あさかやまかげさえみゆるやまのいの、あさきこころをわがおもわなくに」と言う、いわゆる「安積山」の歌と共に歌われたものと思われ、この二つはセットで詠まれる歌であったと推定されます。
 仮名序でも「歌の父母」としてこの二つ歌は紹介されていますが、「紫香楽宮」跡地からこの二つの歌がセットで(裏と表)木簡に書かれているのが出土しています。
 この二つの歌「なにはづ」と「あさかやま」が「歌の父母」として仮名序に書かれているのは、つまり、誰でも知っている、非常に有名な歌である、ということを意味すると思われます。なぜ誰でも知っているかというと、公的な場で多くの人の面前で声に出して詠まれる歌だったからではないでしょうか。大型木簡に書かれていたのは、遠くから見てもわかるように、という意味であり、それは即座に多くの人が集まっている場を想起させるものです。
 また、このことは「紫香楽宮」で聖武天皇が「遷都」など儀式を行なった際に「なにわづ」「あさかやま」を読み上げていた事を推定させますが、彼にとってこの儀式は「特別」な意味を持っていたものと推察されます。
 彼は「不改常典」を遵守することを誓約して即位しているわけですが、(私見では)この「不改常典」が「十七条憲法」を意味すると考えられるわけであり、その「十七条憲法」の制定は「阿毎多利思北孤」ないしは「難波皇子」によるものと考えられますから、「なにはづ」の歌を詠ずるという儀式は、「不改常典」と共に「阿毎多利思北孤」と「難波皇子」への尊崇を表明するものとなっていたことを推定させるものです。それは彼が「出家」した際に「沙弥勝満」という「法号」を授与されていることからも分かります。
 この「勝満」は「斑鳩厩戸勝鬘」という名称から流用したと考えられ、これが「聖徳太子」を指して使用されていたことは(これは誤用と思われるものの)確かであると思われ、その「聖徳太子」は「阿毎多利思北孤」と「難波皇子」の合体の投影ともいうべき存在ですから、聖武天皇の「尊崇」の対象も実は「聖徳太子」というような人物ではなかったと考えられるものです。

 「阿毎多利思北孤」と「弟王」は「天子」(皇帝)を宣言し、「改新の詔」などを初めとする「大改革」を実行し、「聖帝」とされたわけですが、彼を「尊崇」することを「表明」していると云うことから、「聖武」も自らを「天子」や「聖帝」として意識していたのではないかと考えられますが、それは「聖武」を「あめのみかど」と称する「歌」や「解釈」が残っていることからも、推察できます。
 この「あめのみかど」という「呼称」に関しては「山田孝雄氏」の詳細な研究があり、それは「天智」を指すというそれまでの解釈を否定するものでした。彼はその研究の中で「あめのみかど」という語について『漢字で書く時に天帝若くは天皇といふ文字を宛ててよい樣だから、その意味でいへば、いづれの天皇をもさし奉りうることになる。さうすれば實はいづれの天皇をさし奉るのであるか、わからぬことになつてしまふ。そこで、これは、ある特別の天皇をさし奉つたのだといふことが證明せられねばならぬことである。』とされており、これは「先帝」という「語」の用法にも言えることと考えられます。
 この「あめのみかど」という一見「天皇」の普通名詞的な呼称が特に「聖武」に限って使用されていたということの中に「聖武」の「神聖性」が浮き出ていると思われます。それは「先帝」といえば「聖武」を指すものという事がこの時代以降形成されたことを示すのではないでしょうか。
 「なにはづ」の歌が書かれた「木簡」が「紫香楽宮」から発見されていることは、彼が「利歌彌多仏利」の「神聖性」を継承したという意味があったものと見られ、「大仏建立」などの事業を行なったのも同じ意識からであったという可能性があるでしょう。


(この項の作成日 2011/01/22、最終更新 2016/02/07)(ホームページ記載記事を転記)

コメント