ところで、「三善為康」は『二中歴』を書く際に当然かなり古い資料を参照したと思われますが、この「都督歴」について言うと、この「藤原元名」付近で一旦まとめられた資料があり、そこまでの分を「省略」し、その以降の未整理の分について自ら書き継いだと言う事ではないでしょうか。
この『二中歴』は「百科事典」のようなものと言われ「有識故実」について書かれているとされますが、今で言う「現代用語事典」的あるいは「広辞苑」的なものではなかったかと考えられ、それらと同様にその時点における最新の知識が随時追加されていたのではないかと思われます。
「故・中村氏」はまた『…二中歴は八十二の「歴」により構成され、各歴毎に原記(書き継ぎではない)と推定される記事に年代の異同があり、八十二歴全体が一挙に編集されたものではなく、各歴により成立年代が異なっていたと推定され…』とされており、『二中歴』が一気に書かれたものではないことに言及されていますが、さらに言えば、(彼の意見とは異なり)時代と共に書き足されていったものと言う可能性が考えられるものであり、「三善為康」はその意味でいわば「アンカー」を務めたと言えるではないでしょうか。
このようなことは「都督歴」だけではなく『二中歴』の各所に起きていたものと思われ、そうであれば「年代歴」にもそのような可能性が考えられるでしょう。つまり「都督歴」の「國風」以降と以前に「区切り」があるように「年代歴」には「九八七年時点」付近に同様に「区切り」があるのではないかと考えられるわけです。
この「区切り」の場所が「都督歴」と「年代歴」では若干異なるものの(三十年程度か)、年代としては大きくは違わないものであり、いずれも『二中歴』の編集段階とされる時期(平安末期)をさらに遡上する「十世紀後半」であることも重要と思われます。これは「都督歴」の旧編集者と「年代歴」の「旧編集者」とが同一人物かあるいは「親子」である可能性を感じさせます。
「都督歴」についての旧編集者は、「省略」された「都督」中の最終人物である「藤原元名」と同世代であったのではないかと思われ、その場合「藤原元名」が「康保元年」(九六四年)に「八十歳」で死去していることを考えると、編集者である彼も同様に「九六〇年代」にはせいぜい「七十代後半程度」と見られることとなるでしょう。また、「年代歴」の方の旧編集者はその一世代後の人物ではないかと思われ、「一条天皇」の即位付近で一旦資料としてまとめられたものと考えることができそうです。
これについては「三善氏」として最初の算博士となった「三善茂明」が「三善氏」を名乗ったのが「貞元二年」(九七七年)とされていますから、彼がこの編集に関わった可能性は非常に高いと思料します。(他の資料からも「平安時代」に存在していた「同種」の記録に基づくものという考え方がされています。)
「算博士」でありながら『二中歴』という「百科事典」様の書物を記したり、『拾遺往生伝』などという仏教史料を著した「三善為康」の一種「特異性」は彼自身の能力の発露と言うより「三善家」に伝わる「原・二中歴」があって始めて成し遂げられたものと言うこともできると思われますが、さらにいえば彼が依拠した史料は「九条家」に伝わるものであったという可能性も考えられます。なぜなら「三善氏」は代々「九条家」の「家司」(けいし)であったと思われるからです。
「家司」とは主人筋の家に(ちょうど「執事」のような形)で出入りして家事全般の面倒を見る立場の人間であり、「九条家」の「家司」は「三善氏」であったと推定されています。
「為康」の次代の「三善家」当主と思われる「為則(為教とも)について当時の「関白」「九条兼実」の日記に「臨時で任命した越後の介を解任する」という記事があり、そのことからも彼が「九条家」に深く関係する人物であったという可能性が考えられています。(※)
この「越後の介」任命は当時起きた「法然」と「親鸞」及びその他当時の「浄土宗」の関係者に対する弾圧の際に「九条兼実」の差配によって行われたものと思われ、「親鸞」に対する「保護」が目的であったと見られています。
「法然」や「親鸞」など浄土宗教団については「承元元年」(一二〇七年)二月「後鳥羽上皇」から「弾圧」を受け、一部のものは死刑、その他関係者は各地へ配流となりました。この時「親鸞」と「法然」も配流となったものですが、「法然」は「九条兼実」自身が深く帰依していたものであり、彼が配流先を「土佐」から「讃岐」へ変更させたものです。「讃岐」には「九条家」の領地があったものであり、そこで「法然」は厚く遇されたとされます。そうならば「親鸞」についても「九条家」の保護の手が入ったと考えるのは不自然ではありません。
「親鸞」は「越後」に配流となっていたものであり、その「親鸞」の保護兼監視役として「越後の介」として「三善氏」が(臨時に)配置されていたらしく、そのことからも「三善氏」と「九条家」の間に深い関係があると見られるわけです。
「為康」も「為則」と同様「越後の介」に任命されたことがあり、それについても「九条家」の計らいがあった可能性があり、そのような関係であれば「九条兼実」が蔵していた各種史料を彼が見る機会もあったものと思われ、それらを活用したという可能性も考えられるものです。
このように考えると、『二中歴』に書かれた「年始」についての理解が「五世紀の始め」とみて不自然ではないと思われるものです。
(※)「九条兼実」の日記『玉葉(ぎょくよう)』の治承二年(一一七八年)正月二十七日条に「除目」の発表についての記事があり、そこには「越後介正六位上平朝臣定俊、《停従三位平朝臣盛子去年臨時給三善為則改任》」とあります。(《》間は小文字二行書き)
(この項の作成日 2011/01/26、最終更新 2023/06/04)
この『二中歴』は「百科事典」のようなものと言われ「有識故実」について書かれているとされますが、今で言う「現代用語事典」的あるいは「広辞苑」的なものではなかったかと考えられ、それらと同様にその時点における最新の知識が随時追加されていたのではないかと思われます。
「故・中村氏」はまた『…二中歴は八十二の「歴」により構成され、各歴毎に原記(書き継ぎではない)と推定される記事に年代の異同があり、八十二歴全体が一挙に編集されたものではなく、各歴により成立年代が異なっていたと推定され…』とされており、『二中歴』が一気に書かれたものではないことに言及されていますが、さらに言えば、(彼の意見とは異なり)時代と共に書き足されていったものと言う可能性が考えられるものであり、「三善為康」はその意味でいわば「アンカー」を務めたと言えるではないでしょうか。
このようなことは「都督歴」だけではなく『二中歴』の各所に起きていたものと思われ、そうであれば「年代歴」にもそのような可能性が考えられるでしょう。つまり「都督歴」の「國風」以降と以前に「区切り」があるように「年代歴」には「九八七年時点」付近に同様に「区切り」があるのではないかと考えられるわけです。
この「区切り」の場所が「都督歴」と「年代歴」では若干異なるものの(三十年程度か)、年代としては大きくは違わないものであり、いずれも『二中歴』の編集段階とされる時期(平安末期)をさらに遡上する「十世紀後半」であることも重要と思われます。これは「都督歴」の旧編集者と「年代歴」の「旧編集者」とが同一人物かあるいは「親子」である可能性を感じさせます。
「都督歴」についての旧編集者は、「省略」された「都督」中の最終人物である「藤原元名」と同世代であったのではないかと思われ、その場合「藤原元名」が「康保元年」(九六四年)に「八十歳」で死去していることを考えると、編集者である彼も同様に「九六〇年代」にはせいぜい「七十代後半程度」と見られることとなるでしょう。また、「年代歴」の方の旧編集者はその一世代後の人物ではないかと思われ、「一条天皇」の即位付近で一旦資料としてまとめられたものと考えることができそうです。
これについては「三善氏」として最初の算博士となった「三善茂明」が「三善氏」を名乗ったのが「貞元二年」(九七七年)とされていますから、彼がこの編集に関わった可能性は非常に高いと思料します。(他の資料からも「平安時代」に存在していた「同種」の記録に基づくものという考え方がされています。)
「算博士」でありながら『二中歴』という「百科事典」様の書物を記したり、『拾遺往生伝』などという仏教史料を著した「三善為康」の一種「特異性」は彼自身の能力の発露と言うより「三善家」に伝わる「原・二中歴」があって始めて成し遂げられたものと言うこともできると思われますが、さらにいえば彼が依拠した史料は「九条家」に伝わるものであったという可能性も考えられます。なぜなら「三善氏」は代々「九条家」の「家司」(けいし)であったと思われるからです。
「家司」とは主人筋の家に(ちょうど「執事」のような形)で出入りして家事全般の面倒を見る立場の人間であり、「九条家」の「家司」は「三善氏」であったと推定されています。
「為康」の次代の「三善家」当主と思われる「為則(為教とも)について当時の「関白」「九条兼実」の日記に「臨時で任命した越後の介を解任する」という記事があり、そのことからも彼が「九条家」に深く関係する人物であったという可能性が考えられています。(※)
この「越後の介」任命は当時起きた「法然」と「親鸞」及びその他当時の「浄土宗」の関係者に対する弾圧の際に「九条兼実」の差配によって行われたものと思われ、「親鸞」に対する「保護」が目的であったと見られています。
「法然」や「親鸞」など浄土宗教団については「承元元年」(一二〇七年)二月「後鳥羽上皇」から「弾圧」を受け、一部のものは死刑、その他関係者は各地へ配流となりました。この時「親鸞」と「法然」も配流となったものですが、「法然」は「九条兼実」自身が深く帰依していたものであり、彼が配流先を「土佐」から「讃岐」へ変更させたものです。「讃岐」には「九条家」の領地があったものであり、そこで「法然」は厚く遇されたとされます。そうならば「親鸞」についても「九条家」の保護の手が入ったと考えるのは不自然ではありません。
「親鸞」は「越後」に配流となっていたものであり、その「親鸞」の保護兼監視役として「越後の介」として「三善氏」が(臨時に)配置されていたらしく、そのことからも「三善氏」と「九条家」の間に深い関係があると見られるわけです。
「為康」も「為則」と同様「越後の介」に任命されたことがあり、それについても「九条家」の計らいがあった可能性があり、そのような関係であれば「九条兼実」が蔵していた各種史料を彼が見る機会もあったものと思われ、それらを活用したという可能性も考えられるものです。
このように考えると、『二中歴』に書かれた「年始」についての理解が「五世紀の始め」とみて不自然ではないと思われるものです。
(※)「九条兼実」の日記『玉葉(ぎょくよう)』の治承二年(一一七八年)正月二十七日条に「除目」の発表についての記事があり、そこには「越後介正六位上平朝臣定俊、《停従三位平朝臣盛子去年臨時給三善為則改任》」とあります。(《》間は小文字二行書き)
(この項の作成日 2011/01/26、最終更新 2023/06/04)