古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

武蔵國分寺の礎石配置について

2017年04月22日 | 古代史

肥沼氏のブログ( http://koesan21.cocolog-nifty.com/kokubunji/2017/03/post-3175.html )において活発に「國分寺」について議論が行われていますが、その中に「武蔵國分寺」についてのものがあり、礎石の配置に使用されている「単位」について「唐尺」なのか「南朝尺」なのかが議論の対象となっていました。
それに関し国会図書館のデジタル近代ライブラリーを検索したところ、大正十二年三月に行われた『東京府史蹟調査報告書 「武蔵國分寺址の調査」』という報告書があり、そこに以下の数字が挙げられていました。
(以下全て心―心距離)、また「尺」は全て「曲尺」(303.0㎜)です。また①は心礎、②は側柱礎(南西側)、③は側柱礎(南側)、④は側柱礎(南東側)、⑤は側柱礎(西側)、⑥は四天柱礎(南西側)、⑨は側柱礎(北側)を表します。

A)②-③間距離:22尺5寸、B)③-④:10尺7寸、C)②-⑤:10尺5寸、D)④-⑧:10尺5寸、E)⑨-⑥:22尺5寸

これらの実測値から「10尺7寸」+「11尺6寸」+「10尺7寸」=「33尺」というように「復元」した後、さらに「天平尺」でいえばとして「中間」を「12尺」、「側端間」(これは端と中間の距離)「11尺」の計「34尺」であったであろうということを示しています。(昭和に入ってから行われた「石田茂作氏」を長とする発掘調査でもこれらの値を踏襲しているようです)
このようにこの時の調査では原尺は「天平尺(唐尺)」としてみているわけですが、それにしてもこの礎石間の寸法には素朴な疑問があります。それは「どの尺単位よりも「曲尺」によるものがもっとも完数値に近いのはなぜか」というものです。
内部の礎石間の寸法はあるいは帰納的に決まるものかもしれませんが、両端の礎石間距離は、これを最外寸として先に決めたものではないかと考えられ、それが「完数」としてキリが良くならないのは不審と思われるわけです。

実際に上の報告がいうように「天平尺」であるとしても、「曲尺」としての「33尺」を「天平尺」(唐尺)に換算しても「33尺6寸9分」となり、これはいかにも「キリ」が悪いでしょう。それは「南朝尺」(宋氏尺)として24.568cmで除しても同様にキリのいい数字には(近いけれども)ならない(40尺7寸)ことでもいえます。逆に言うと「曲尺」としての寸法がいかにも「キリ」が良すぎるのです。

これについては、これら「礎石」が本当に原位置にあったのかが問題となるのではないでしょうか。(報告では原位置を保っているとされますが根拠は示されていません)このように疑うのは「明治初年」に一度「持ち上げられた」という話もあると同時に、「明治二十五年」の区画整理の際に近隣の人に割り当てられ、畑地として開墾することとなったが、「妖異」が起きたので旧に復したという趣旨の碑文があったとされる点からです。

これら礎石は当時土の中に埋もれていたという報告もありますが、開墾の際に鍬を入れたところ当然のように礎石があり、心礎だけは容易には動かせなかったと思われるものの、そのように礎石が埋まっている(転がっている)状態では「畑地」として使用するのは困難と思われますから、それらの礎石は一度撤去されたのではないでしょうか。その後「妖異」が起きたので、という理由により礎石が元へ戻されたとみられるわけですが、問題はその当時使用されていた「曲尺」でキリのいい位置を選んで復元されたのではないか、本当に旧位置に復されたのかが問題と思われるわけです。

これは証拠もなく「勘ぐり」といえばその通りですが、「心礎」以外の礎石は「置かれた」だけであったから動かすことも容易であったはずです。(現にいくつかの礎石は動かされ紛失しています)もしそうであれば原尺が何であったかは容易に復元できるものではないこととなるでしょう。

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「壬申の乱」と「難波小郡」

2017年04月12日 | 古代史

 「壬申の乱」収束時に「大伴吹負」が「(難波)以西の国司」達から「官鑰騨鈴傳印」つまり「税倉」等の鍵や「官道」使用に必要な「鈴」や「印」などを押収していますが、それがわざわざ「大阪」を越えた「難波小郡」で行われたことに意味があるでしょう。

「辛亥。將軍吹負既定倭地。便越大坂往難波。以餘別將軍等各自三道。進至于山前屯河南。即將軍吹負留難波小郡。而仰以西諸國司等。令進官鑰騨鈴傳印。」(天武紀)壬申(六七二年)の条

 ここで彼ら「西国」の国司達が「難波小郡」におり、その彼らが「官鑰騨鈴傳印」を持っていたということは、彼らが何らかの理由で「難波以西」の地から派遣されてきていたものか、あるいは「難波小郡」から西国へ派遣されていたものが帰国した時点のことであったという可能性もあります。ただ多くの「国司達」が「難波小郡」にいたらしいことを考えると、帰国したというより「派遣」されてここに集まっていたと考えるべきではないでしょうか。
 また彼らがこの「壬申の乱」に直接関わっていたということではなさそうなことが読み取れます。ただし「大伴吹負」に素直に「鍵」「鈴」等を渡しているらしいことを考えると、当初から「大海人」の勢力の側としての存在であったと考える方が正しいのかもしれません。

 確かにもともと「難波」には「小郡」というものがあったことが『書紀』(以下の記事)に書かれています。これは言ってみれば「出張所」のような役目を持つ「王権」に直結する「出先機関」であったと思われますが(これはこの当時「近江京」に全ての政府中枢機関があったわけではなく、「近江朝廷」の権能が限定的であったことを示すものといえます)、またそこに「律令」で規定される「官道」使用に関する統制機構の存在やそこで発揮される権能の所在が看取でき、「難波」の西方の諸国の「税」に関するものや「屯倉」に保管されている物品の所有が誰に帰するものかという事情などについて興味あるものです。つまり、この記事からは「難波以西」の諸国は「租」や「調」など国家に納入すべきものの集約場所として「難波小郡」が有ったことが推定出来るわけです。それは上に見るように「王権」の出先期間として存在していたという「小郡」の本来の機能を充分感じさせるものです。そして彼等が上京する際に必要だったものが「税倉」(屯倉)の「鍵」(鑰)であり、「官道」使用に必要な「騨鈴」であったというわけです。
 しかし、当然のこととしてすでに「宮」となっていたはずの「小郡」がこの時点でまだあったというのは「矛盾」としかいえず、甚だ疑わしいといえるでしょう。「難波小郡」は上に見るように「六四七年」以前にしか存在しないのですから、この「壬申の乱」記事そのものが(少なくともその一部は)時代を大きく遡上するものであったこととなるわけです。 

 またこの時は「天智」が亡くなり、「山陵」の造営中でしたから、彼らがの派遣目的として最も考えられるのは「天智」の葬儀への出席と「新倭国王」への祝意を表する「表敬訪問」を兼ねたものではなかったでしょうか。「鍵」唐所有していたのはこれを新王権に献上することで忠誠と服従を誓う儀式様なものがあったことが推定出来ます。しかし、以下に示すように「六四七年」以降「小郡」ではなくなってしまったわけです。

 「六四七年」(常色元 大化三)年 「春正月戊子朔…是歳。『壞小郡而營宮。』天皇處『小郡宮』而定禮法。其制曰。凡有位者。要於寅時。南門之外左右羅列。候日初出。就庭再拜。乃侍于廳。若晩參者。不得入侍。臨到午時聽鍾而罷。其撃鍾吏者垂赤巾於前。其鍾臺者起於中庭。」

 そのような経緯の後突然「倭京」「古京」という呼称と共に「難波小郡」という表記が登場するわけです。「難波小郡」が「宮」となったことは、そこで「官人」達の行動基準として「禮制」が定められていたという記事からも明らかです。それを見ても明らかなように「宮」という存在は「王権」の常時的居所としての存在であり、それまでの「小郡」という「下級官人」達の拠点として、限定された機能しかなかった存在とは隔絶したものとなっていたと推察されるわけです。

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倭京と古京(二)

2017年04月12日 | 古代史

 この「倭京」に対して、同じ「壬申の乱」の記事中に「古京」というものも出てきます。

「壬辰。將軍吹負屯于乃樂山上。時荒田尾直赤麻呂啓將軍曰。古京是本營處也。宜固守。將軍從之。則遣赤麻呂。忌部首子人。令戍古京。於是。赤麻呂等詣古京而解取道路橋板。作楯堅於京邊衢以守之。」

 この「古京」については『日本後紀』の中の「嵯峨天皇」の「詔」の中でも「平城古京」という表現が使用されているように、「新京」である「平安京」と対比して使用されているものであり、「古京」とは「遷都」する前の「京」を意味する用語であることが判ります。
 さらに「古京」に関しては以下のように「壬申の乱」記事中に表されています。

「癸巳。將軍吹負與近江將大野君果安戰于乃樂山。爲果安所敗。軍卒悉走。將軍吹負僅得脱身。於是。果安追至八口■而視京。毎街竪楯。疑有伏兵。乃稍引還之。」

 つまり「乃樂山」で戦った後、追いかけて「八口」までくると「京」が見え、そこで「堅く守っている」状況が判ったので引き返したと云うことのようです。
 通常「乃樂山」とは「柿本人麻呂」の歌(「…いかさまに思し召せか、青によし奈良山を越え…」)でも判るように、「大和」と北方の域外の領域の「境界線」の役目を果たしていたものであり、「奈良県北部」の「山地」(丘陵)を指すと考えられています。
 そうであるとすると、「大野果安」は「近江側」から南下してきたものであり、それを「大伴吹負」は「境界」領域で迎え撃ったこととなります。
 そもそも「大伴吹負」は「倭京」を制圧していた訳であり(倭京将軍と呼称されている)、また「大野果安」も「倭京」を同様に支配下に置くために前進してきたと考えられます。両陣営とも「倭京」が重要拠点であり、これを自陣営のものにすることが至上命題であったことが判ります。「近江朝廷」側が「使者」を派遣したのも趣旨は同じであり、また「大伴吹負」が「倭京」に「奇計」を用いて制圧したのもこの「倭京」という場所が戦略上欠かすことのできない拠点であったことを示すと言えるでしょう。
 このようにここでは「倭京」をめぐる戦いが行なわれていたはずですが、しかし「大野果安」の軍は「古京」の手前「八口」(これは「八街」と同義と思われます)で引き返しており、その結果「古京」には入れなかったとされています。

 また「古京」について「本營處」と称されていることにも注目です。

「…壬辰。將軍吹負屯于乃樂山上。時荒田尾直赤麻呂啓將軍曰。『古京是本營處也。』宜固守。將軍從之。則遣赤麻呂。忌部首子人。令戍古京。於是。赤麻呂等詣古京而解取道路橋板。作楯堅於京邊衢以守之。…」

 「本営」とは「本陣」と同じく通常「総大将」や「総司令官」の「軍営」を意味するとされますから、通常では「大伴吹負」の拠点という意味で使用されていると考えられているわけですが、それであればさらに「倭京」と「古京」が同一となってしまうこととなります。しかしそれは一見「矛盾」といえるものであり、「遷都」以前の「京」に「留守司」が置かれたこととなってしまいます。

 すでにみたように「留守司」は「京師」から行幸などで「王」や「皇帝」「天皇」などが不在となる場合に置かれる臨時の官職であり、多くが「軍事」に関係する人物が充てられたものですが、そうであれば「倭京」は「現在の京」を指すこととなるわけであり、すでにそれ以前に「近江京」への遷都が行われていたわけですから、本来であれば「近江京」にこそ「留守司」がおかれて然るべき事となるわけですが、実際には「遷都」以前の「古京」に「留守司」がいるという不自然さが発生してしまうわけです。
 「近江京」が「倭京」ではないのは「壬申の乱」記事の「近江京」から「倭京」までという書き方をみてもわかります。

「…或有人奏曰。『自近江京至于倭京。』處處置候。亦命菟道守橋者。遮皇大弟宮舍人運私粮事。…」

 このように「近江京」は「倭京」ではないわけであり、遷都以前の京師に「留守司」が置かれたとすると「矛盾」といえるわけですが、前述したように「倭姫」が「天智」の後継としていわば「称制」していたとして、彼女が「古京」(飛鳥)に戻った上で「高坂王」達を「留守司」とし、その間どこか近くに「新宮」を作り「殯」の儀式を行っていたとしたら、「倭京」に「留守司」がいて不思議ではないこととなります。それが窺える徴証は確かに『書紀』にはみられないわけですが、「敏達」の死去の際、死去当時の「宮」ではなくそれ以前に「宮」であった「百済大井」の地の至近(廣瀬)に「殯」が営まれた前例もあり、それ以前の「宮」つまり「京」に深い関係がある場合は現在の「京」とは違う場所に「殯」を営むこともありうるものともいえるでしょう。その意味で「倭姫」が「古京」に帰還しそこで仮に「政務」をとるような状況があったという可能性は充分考えられるわけですが、そこを「倭京」つまり現在の「京」として扱ったとすると「倭京」と「古京」が一致するという事態もある得るものとなります。そして「倭姫」が至近の「殯宮」に隠ったとすると「留守司」を「倭京」(つまり「古京」)に置いたことも理解できる事となります。しかしそのように理解が正当かどうかは別の話です。そう考えるのは「壬申の乱」の最後に「大伴吹負」が「難波」の「小郡」へ行き「税倉」の鍵などを押収したという記事があるからです。

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倭京と古京(一)

2017年04月10日 | 古代史

 「壬申の乱」の記述によると「東宮大皇弟入東国」という事態を承けて、「近江朝廷」からは「東国」「筑紫」「吉備」「倭京」という四箇所へ使者を派遣しており、そこでは「…並悉令興兵。」とされ、「軍を出動」するように指示を出したとされます。
 但し「筑紫」と「吉備」についてはその指示に従わない可能性を考慮しています。

「(六七二年)元年…六月辛酉朔…丙戌…則以韋那公磐鍬。書直藥。忍坂直大摩侶遣于東國。以穗積臣百足。及弟百枝。物部首日向遣于倭京。且遣佐伯連男於筑紫。遣樟使主盤磐手於吉備國。並悉令興兵。仍謂男與磐手曰。其筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人。元有隷大皇弟。疑有反歟。若有不服色即殺之。於是。磐手到吉備國授苻之日。紿廣嶋令解刀。磐手乃拔刀以殺也。」(天武紀)

 そこでは「吉備國守」として「当摩広島」の名が出されていますが、この時点では「吉備」には「惣領」ないしは「大宰」として「石川王」がいたはずであり、彼の名が出ていなのは不審ですが、彼であったとしてもやはり「命令」に随わなかった可能性があるでしょう。(彼はその後「死去記事」で「天武」から手厚い惜別の辞を受けていますから「天武」とは深い関係があったことが推定出来るからです)
 「筑紫」と「吉備」の両国に派遣された使者にはいざとなったら彼等(「栗隈王」と「當摩公廣嶋」)について「殺せ」という指令が出されていました。それに対し、「東国」と「倭京」にはそのような強硬な態度を示していません。

 また「高坂王」は「壬申の乱」の描写中で「倭京」の「留守司」とされています。

「六月辛酉朔…
甲申。將入東。時有一臣奏曰。近江群臣元有謀心。必造天下。則道路難通。何無一人兵。徒手入東。臣恐事不就矣。天皇從之。思欲返召男依等。即遣大分君惠尺。黄書造大伴。逢臣志摩于『留守司高坂王』。而令乞騨鈴。因以謂惠尺等曰。若不得鈴。廼志摩還而復奏。惠尺馳之往於近江。喚高市皇子。大津皇子逢於伊勢。既而惠尺等至『留守司』。擧東宮之命乞騨鈴於『高坂王』。然不聽矣。」

 彼の場合も「駅鈴」を管理しているわけであり、このことは「官道」の管理を行っていたと推測され、その「官道」が後の「養老令」では「兵部省」の管轄下にあったことから「軍用」であったものと推定されますから、それを考えると、彼は「軍事」部門の高位にあったという可能性が高いと思われます。また、これについては後の「養老令」においても「公式令 車駕巡幸条 凡車駕巡幸。京師留守官。給鈴契多少臨時量給。」とあるように「留守官」には「駅鈴」がいつもより臨時に多く支給されるようですから、「留守官」はそもそも「軍事」と深い関係にあったことが判ります。

 上に見たように「栗隈王」は、「近江朝」から(「吉備」へと同様)の「援軍」要請を拒絶しており、これは彼の協力がなければ「反乱」を制することはできないことの裏返しとも言えます。つまり、「栗隈王」が(留守司である「高坂王」も含め)「倭国王権」全体の軍事的方向性を決めていたと言っても過言ではないと言えるでしょう。
 また、それについては「近江朝廷」としては制御できていなかったことを示します。それは彼等「栗隈王」等「難波王」の子供達の専管事項であり、「近江朝廷」側には何も指示・命令する権限がなかったことを示すものです。

 また、「難波王」の子供の一人である「稚狭王」は「留守司」である「高坂王」と行動を共にしており、「高坂王」と共に「大海人軍」に帰順しています。
 この部分の描写は「微妙」であり、「大海人」側は「高坂王」には「駅鈴」を「乞」とされており、「敬意」を以て臨んでいるようです。これを「高坂王」は拒否している訳ですが、断られても、これに対し攻撃を加える風ではありません。
 これをみると彼は兄弟(多分「兄」)である「筑紫大宰」である「栗隈王」とは異なる対応をしており、指示により「軍」を出動させ「倭京」防衛体制を築いたように見られます。ただし、それは「大海人軍」からも想定の範囲のことであったもののようであり、特に敵視されているというわけでもないようです。
 この場合の「倭京」は『書紀』の「壬申の乱」を記す他の記述から「明日香」の地全体を指すものとして使用されているようです。(「小墾田宮」をも含むか)

 ところで、「高坂王」は「倭京」の「留守司」であったわけですが、この「留守司」という呼称も重要な意味を持っていると思われます。
 一般に「留守司」とは「倭国王」が行幸等で「京師」を離れる際に文字通り「留守役」として任命されるものです。この用語がここで使用されていることから判ることは、ここでいう「倭京」が「倭国王」の「京師」(首都)であること、「倭国王」はこの時点で存在(生存)しているものの、何らかの理由により「京師」を不在にしているらしいことです。

 しかし「王」「皇帝」などが死去して後、次代の王などが即位するまでの間「京」を預かる人間を「留守司」あるいは「留守官」「監国」などと呼称した例はないのです。その意味でも、この時点において「倭国王」が存在している事は確かです。その場合「倭国王」とは誰となるでしょう。まず「天武」(大海人)ではあり得ないと思われると共に、「大友皇子」でもないと思われます。それはまだ「大友皇子」の即位が行われていなかった可能性が高い事と、もし「留守司」を任命したのが彼であるなら「近江京」が「京師」ではないこととなり、彼の父である「天智」が開いた「近江京」という存在の意義がどこにあるか不明となることもあります。そうなると可能性があるのは「天智」の皇后であった「倭姫」が即位していたという場合です。
 
 「大海人」は「吉野」に下る際に「天智」に対して「倭姫」を「倭国王」とし、「大友」に補佐させるという案を提示しています。

「(六七一年)十年…冬十月甲子朔…庚辰。天皇疾病彌留。勅喚東宮引入臥内。詔曰。朕疾甚。以後事屬汝。云々。於是再拜稱疾固辭不受曰。請奉洪業付屬大后。令大友王奉宣諸政。臣請願奉爲天皇出家脩道。…」

 これが実現していたとするなら、彼女が「倭国王」として「高坂王」を「留守司」として任命したと理解できます。ただしその場合でも「飛鳥」に「留守司」を配置する理由が不明です。もし考えられるとした場合「倭姫」が「古京」たる「飛鳥」に戻るという決断をした場合です。その場合「倭姫」が「殯宮」に隠っていたという「新宮」は「倭京」の至近に存在したことが考えられるでしょう。
 「天智」の「殯」に関する記事は以下のものしかありません。

「(六七一年)十年十二月癸亥朔乙丑。天皇崩于近江宮。
(同月)癸酉。殯于新宮。…」

 その後「山陵」の造営記事らしきものがそのおよそ「半年後」の「六七二年五月」に出てきます。

「(六七二年)元年夏五月是月条」「朴井連雄君奏天皇曰。臣以有私事獨至美濃。時朝庭宣美濃。尾張兩國司曰。爲造山陵。豫差定人夫。則人別令執兵。臣以爲。非爲山陵。必有事矣。若不早避。當有危歟。或有人奏曰。自近江京至于倭京。處處置候。亦命菟道守橋者。遮皇大弟宮舍人運私粮事。天皇惡之。因令問察。以知事已實。…」

 上の『書紀』の記事では「新宮」という呼称がみられます。これは「殯」のために新たに(仮に)あつらえた「宮」であったと思われますが、それは「倭京」つまり「飛鳥」のどこかではなかったでしょうか。
 通常「殯の期間」と「陵墓造営期間」は等しいようですから、この時点ではまだ「殯」の期間内であったと思われ、「皇后」である「倭姫」は「殯宮」に籠もっていたという推測が可能でしょう。
 『書紀』の「殯宮」記事を見ると「宮」の「南庭」で行う事が非常に多く「殯宮」のために「新宮」をこしらえたとすると、「推古」の時代「敏達」の「殯宮」が前皇后である「息長氏」の拠点である「廣瀬」に設けられた例がある位で基本的に珍しいといえるでしょう。この前例のように「倭姫」に皇位が(多分「つなぎ」として)継承されていたとして、彼女が「近江京」ではなく「飛鳥」に戻りそこ(倭京)の至近で「殯」の儀式を行っていたことも有りうるわけです。こう考えると「倭京」に「留守司」がいても不思議ではないこととなるでしょう。

 

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「救世観音像」と「仏罰」

2017年04月05日 | 古代史

法隆寺に伝わる「救世観音像」は長い間「秘仏」とされ、法隆寺に伝わる「伝承」(と言うより「戒律」のようなもの)によれば、表に出ると「仏罰」により「大地震」により寺自体が倒壊するなどの災厄が起こるとされていました。明治になり、当時の文部省の委託を受けて調査に当たった御雇い外国人の「フェノロサ」により止める僧侶達を振り切って白日の元に晒すまで(多分)一三〇〇年以上時間が経過していたものでしょう。(当然彼等の間に伝わる言い伝えもそのぐらいの歴史があると見るべきです)

ところでこの「救世観音像」を公開することがなぜ「仏罰」につながるのでしょう。またその「仏罰」の代表がなぜ「大地震」なのでしょう。
この「観音像」が当初は公開されていたと考えるのは自然です。しかし「何らか」の事情により「秘仏」とされるに至ったわけですが、それは「伝承」の内容から見て「大地震」の発生と関係していると考えるべきではないでしょうか。
これについては、史料もなく「推測を逞しくする」しかないわけですが(妄想ともいえます)、当初表に出されていた段階ですでに批判的な扱いをされていたということが考えられます。それはこの「救世観音像」が「真影」とされていることに深い関係があると思われます。「真影」つまり当時の「倭国王」の姿を写したものというわけですが(伝承では「聖徳太子」とされる)、これは「観音像」ですから本来は「観音」としての伝統的彫像が選ばれて普通であり、当然のはずです。しかしこの当時の「倭国王」は自分(或いはその「父親」という可能性もあるか)の姿を「観音像」として造らせ、その結果人々が「観音」に手を合わせると自然と自分自身に対して「拝礼」をすることとなるという、いわば「個人崇拝」を強制していたことになります。このようなことが批判を呼ぶのは(当時の仏教界としては)当然といえ、「仏教」の教義に則ればこのような試みは「畏れを知らぬ」悪行であり、まさに「仏罰」に値すると考えられたものではないでしょうか。
それでもこれが「法隆寺」であり、推定したように「勅願寺」であるとすると(それが「真影」であることからも)「権力」に直結した「像」であり、その「権力」によりいわば「ごり押し」されて公開していたということが考えられます。そして、その時点で発生した「大地震」が、「仏罰」であると多くの人々に判断されることとなったというストーリーが隠されているのではないと推察します。その意味で「六七八年」の「筑紫地震」に対する評価というものが「仏罰」として受け止められたと言うことが考えられるでしょう。(この時に寺院はかなりのダメージを受けたという可能性が考えられるでしょう)

このように「観音」というような「尊貴」の対象と自己を同一視するというのは「異例」と言うべきですが、これには前例があるというべきであり、それは「法隆寺」の釈迦三尊像の存在です。これは「釈迦」と言いながら「尺寸王身」とされ、実際には「倭国王」(阿毎多利思北孤か)の姿を現しているとも考えられます。両脇侍も「鬼前大后」と「干食王后」を表すという説もありますから、その点でもまさに「個人崇拝」(というより「王家崇拝」というべき)となっており、これもまた「邪道」といえるでしょう。このようなことが可能なのも「強い権力」の存在とつながるものであり、この当時「王権強化」の一環として「仏教」が利用されたことを強く示唆するものです。
このようなことに対する「反発」が「筑紫地震」の前後で発生し、「王権」の弱体化或いは別の王権による交代というイベントを経て「救世観音像」が「秘仏」とされるに至ったものではないでしょうか。
私見では「筑紫」から「飛鳥」へ移築されたと見るわけですが、それも「地震」の脅威から逃れるためであったと考えられ、その時点で「秘仏」扱いとなったという可能性もあるでしょう。

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