「壬申の乱」の記述によると「東宮大皇弟入東国」という事態を承けて、「近江朝廷」からは「東国」「筑紫」「吉備」「倭京」という四箇所へ使者を派遣しており、そこでは「…並悉令興兵。」とされ、「軍を出動」するように指示を出したとされます。
但し「筑紫」と「吉備」についてはその指示に従わない可能性を考慮しています。
「(六七二年)元年…六月辛酉朔…丙戌…則以韋那公磐鍬。書直藥。忍坂直大摩侶遣于東國。以穗積臣百足。及弟百枝。物部首日向遣于倭京。且遣佐伯連男於筑紫。遣樟使主盤磐手於吉備國。並悉令興兵。仍謂男與磐手曰。其筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人。元有隷大皇弟。疑有反歟。若有不服色即殺之。於是。磐手到吉備國授苻之日。紿廣嶋令解刀。磐手乃拔刀以殺也。」(天武紀)
そこでは「吉備國守」として「当摩広島」の名が出されていますが、この時点では「吉備」には「惣領」ないしは「大宰」として「石川王」がいたはずであり、彼の名が出ていなのは不審ですが、彼であったとしてもやはり「命令」に随わなかった可能性があるでしょう。(彼はその後「死去記事」で「天武」から手厚い惜別の辞を受けていますから「天武」とは深い関係があったことが推定出来るからです)
「筑紫」と「吉備」の両国に派遣された使者にはいざとなったら彼等(「栗隈王」と「當摩公廣嶋」)について「殺せ」という指令が出されていました。それに対し、「東国」と「倭京」にはそのような強硬な態度を示していません。
また「高坂王」は「壬申の乱」の描写中で「倭京」の「留守司」とされています。
「六月辛酉朔…
甲申。將入東。時有一臣奏曰。近江群臣元有謀心。必造天下。則道路難通。何無一人兵。徒手入東。臣恐事不就矣。天皇從之。思欲返召男依等。即遣大分君惠尺。黄書造大伴。逢臣志摩于『留守司高坂王』。而令乞騨鈴。因以謂惠尺等曰。若不得鈴。廼志摩還而復奏。惠尺馳之往於近江。喚高市皇子。大津皇子逢於伊勢。既而惠尺等至『留守司』。擧東宮之命乞騨鈴於『高坂王』。然不聽矣。」
彼の場合も「駅鈴」を管理しているわけであり、このことは「官道」の管理を行っていたと推測され、その「官道」が後の「養老令」では「兵部省」の管轄下にあったことから「軍用」であったものと推定されますから、それを考えると、彼は「軍事」部門の高位にあったという可能性が高いと思われます。また、これについては後の「養老令」においても「公式令 車駕巡幸条 凡車駕巡幸。京師留守官。給鈴契多少臨時量給。」とあるように「留守官」には「駅鈴」がいつもより臨時に多く支給されるようですから、「留守官」はそもそも「軍事」と深い関係にあったことが判ります。
上に見たように「栗隈王」は、「近江朝」から(「吉備」へと同様)の「援軍」要請を拒絶しており、これは彼の協力がなければ「反乱」を制することはできないことの裏返しとも言えます。つまり、「栗隈王」が(留守司である「高坂王」も含め)「倭国王権」全体の軍事的方向性を決めていたと言っても過言ではないと言えるでしょう。
また、それについては「近江朝廷」としては制御できていなかったことを示します。それは彼等「栗隈王」等「難波王」の子供達の専管事項であり、「近江朝廷」側には何も指示・命令する権限がなかったことを示すものです。
また、「難波王」の子供の一人である「稚狭王」は「留守司」である「高坂王」と行動を共にしており、「高坂王」と共に「大海人軍」に帰順しています。
この部分の描写は「微妙」であり、「大海人」側は「高坂王」には「駅鈴」を「乞」とされており、「敬意」を以て臨んでいるようです。これを「高坂王」は拒否している訳ですが、断られても、これに対し攻撃を加える風ではありません。
これをみると彼は兄弟(多分「兄」)である「筑紫大宰」である「栗隈王」とは異なる対応をしており、指示により「軍」を出動させ「倭京」防衛体制を築いたように見られます。ただし、それは「大海人軍」からも想定の範囲のことであったもののようであり、特に敵視されているというわけでもないようです。
この場合の「倭京」は『書紀』の「壬申の乱」を記す他の記述から「明日香」の地全体を指すものとして使用されているようです。(「小墾田宮」をも含むか)
ところで、「高坂王」は「倭京」の「留守司」であったわけですが、この「留守司」という呼称も重要な意味を持っていると思われます。
一般に「留守司」とは「倭国王」が行幸等で「京師」を離れる際に文字通り「留守役」として任命されるものです。この用語がここで使用されていることから判ることは、ここでいう「倭京」が「倭国王」の「京師」(首都)であること、「倭国王」はこの時点で存在(生存)しているものの、何らかの理由により「京師」を不在にしているらしいことです。
しかし「王」「皇帝」などが死去して後、次代の王などが即位するまでの間「京」を預かる人間を「留守司」あるいは「留守官」「監国」などと呼称した例はないのです。その意味でも、この時点において「倭国王」が存在している事は確かです。その場合「倭国王」とは誰となるでしょう。まず「天武」(大海人)ではあり得ないと思われると共に、「大友皇子」でもないと思われます。それはまだ「大友皇子」の即位が行われていなかった可能性が高い事と、もし「留守司」を任命したのが彼であるなら「近江京」が「京師」ではないこととなり、彼の父である「天智」が開いた「近江京」という存在の意義がどこにあるか不明となることもあります。そうなると可能性があるのは「天智」の皇后であった「倭姫」が即位していたという場合です。
「大海人」は「吉野」に下る際に「天智」に対して「倭姫」を「倭国王」とし、「大友」に補佐させるという案を提示しています。
「(六七一年)十年…冬十月甲子朔…庚辰。天皇疾病彌留。勅喚東宮引入臥内。詔曰。朕疾甚。以後事屬汝。云々。於是再拜稱疾固辭不受曰。請奉洪業付屬大后。令大友王奉宣諸政。臣請願奉爲天皇出家脩道。…」
これが実現していたとするなら、彼女が「倭国王」として「高坂王」を「留守司」として任命したと理解できます。ただしその場合でも「飛鳥」に「留守司」を配置する理由が不明です。もし考えられるとした場合「倭姫」が「古京」たる「飛鳥」に戻るという決断をした場合です。その場合「倭姫」が「殯宮」に隠っていたという「新宮」は「倭京」の至近に存在したことが考えられるでしょう。
「天智」の「殯」に関する記事は以下のものしかありません。
「(六七一年)十年十二月癸亥朔乙丑。天皇崩于近江宮。
(同月)癸酉。殯于新宮。…」
その後「山陵」の造営記事らしきものがそのおよそ「半年後」の「六七二年五月」に出てきます。
「(六七二年)元年夏五月是月条」「朴井連雄君奏天皇曰。臣以有私事獨至美濃。時朝庭宣美濃。尾張兩國司曰。爲造山陵。豫差定人夫。則人別令執兵。臣以爲。非爲山陵。必有事矣。若不早避。當有危歟。或有人奏曰。自近江京至于倭京。處處置候。亦命菟道守橋者。遮皇大弟宮舍人運私粮事。天皇惡之。因令問察。以知事已實。…」
上の『書紀』の記事では「新宮」という呼称がみられます。これは「殯」のために新たに(仮に)あつらえた「宮」であったと思われますが、それは「倭京」つまり「飛鳥」のどこかではなかったでしょうか。
通常「殯の期間」と「陵墓造営期間」は等しいようですから、この時点ではまだ「殯」の期間内であったと思われ、「皇后」である「倭姫」は「殯宮」に籠もっていたという推測が可能でしょう。
『書紀』の「殯宮」記事を見ると「宮」の「南庭」で行う事が非常に多く「殯宮」のために「新宮」をこしらえたとすると、「推古」の時代「敏達」の「殯宮」が前皇后である「息長氏」の拠点である「廣瀬」に設けられた例がある位で基本的に珍しいといえるでしょう。この前例のように「倭姫」に皇位が(多分「つなぎ」として)継承されていたとして、彼女が「近江京」ではなく「飛鳥」に戻りそこ(倭京)の至近で「殯」の儀式を行っていたことも有りうるわけです。こう考えると「倭京」に「留守司」がいても不思議ではないこととなるでしょう。