『新唐書日本伝』を見ると「天智」即位と記された後に「明年使者と蝦夷人が偕に朝でる」とされています。
「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦? 人偕朝。蝦?亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中…」
この記事によれば「蝦夷」の居住する地域について「海島」と記され、また「ロビンフッド」のように瓠を(多分頭に)載せて数十歩離れたところから矢を放って外すことがなかったとされています。この記事を見る限り実際におこなったと見られ、かなり注目されるイベントであったと考えられます。この記事と「伊吉博徳書」に書かれた記事を見比べるとその内実は全く異なる事が解ります。
『新唐書』の記事では「蝦夷」は「海島」にいるとされますが、「伊吉博徳書」では三種いるとされる「蝦夷」のうちこれは「熟蝦夷」であるとされ、最も近いところの人達であるように書かれており、すでにその点で食い違っています。
「(斉明)五年(六五九年)秋十月卅日。」「天子問曰。此等蝦夷國有何方。使人謹答。國有東北。天子問曰。蝦夷幾種。使人謹答。類有三種。遠者名都加留。次者麁蝦夷。近者名熟蝦夷。『今此熟蝦夷。毎歳入貢本國之朝。』天子問曰。其國有五穀。使人謹答。無之。食肉存活。天子問曰。國有屋舎。使人謹答。無之。深山之中止住樹本。天子重曰。脱見蝦夷身面之異。極理喜恠。…」(『斉明紀』「伊吉博徳書」より)
この「蝦夷」については上の記事の直前に「仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子」とあり、「陸奥」の蝦夷であることが記されていますが、それがまた「熟蝦夷」でもあるということとなります。しかし『新唐書』では「蝦夷亦居海島中」とあり「倭国」がそうであったように「蝦夷」もまた「海島」に居住しているとされているわけです。そうすると「陸奥」に「海島」があったこととなってしまいますが、それは不審といえるでしょう。(この海島を日本列島のことと理解する考え方もあるようですが、この文章の「亦」とは「日本国」と同様「海中」の島に住んでいる、という意味で書かれていると理解すべきでしょう。)
たとえばこの「海島」が「佐渡」であるとするような解釈をしない限りは この「海東」が「北海道」を指すという可能性は高いものと思料します。しかし「北海道」であるとすると「陸奥」のさらに向こう側であり、『新唐書』の「蝦夷」は最も遠い場所の種である「都加留」と呼ばれる種族であった可能性が高いと思われることとなり、少なくとも「熟蝦夷」ではないと思われるわけです。(ただしこの時期に「北海道」の「蝦夷」が勢力下に既に入っていたとは考えにくいのも事実ですけれど。)
またこの「伊吉博徳書」や同じ時に派遣された「難波吉士男人」の「書」にも「向大唐大使觸嶋覆。副使親覲天子。奉示蝦夷。於是蝦夷以白鹿皮一。弓三。箭八十。獻于天子。」とあり、「蝦夷」が同行したことは確かであると思われるものの、「弓矢」で「瓠」を射るようなデモンストレーションについての記事が全くありません。これはかなり衆目を集める記事ですからもし行われたなら両者ともそれを記録しなかったはずがないと思われます。
このように考えると『新唐書』の記事と「伊吉博徳書」とは全く別の時点の記事である可能性が高いと思われ、「蝦夷」が唐へ赴いた時期には前後二つの時期があったこととなるでしょう。(続く)