古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『懐風藻』の成立時期について(2)

2016年10月31日 | 古代史

 『新唐書日本伝』を見ると「天智」即位と記された後に「明年使者と蝦夷人が偕に朝でる」とされています。

「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦? 人偕朝。蝦?亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中…」

 この記事によれば「蝦夷」の居住する地域について「海島」と記され、また「ロビンフッド」のように瓠を(多分頭に)載せて数十歩離れたところから矢を放って外すことがなかったとされています。この記事を見る限り実際におこなったと見られ、かなり注目されるイベントであったと考えられます。この記事と「伊吉博徳書」に書かれた記事を見比べるとその内実は全く異なる事が解ります。
 『新唐書』の記事では「蝦夷」は「海島」にいるとされますが、「伊吉博徳書」では三種いるとされる「蝦夷」のうちこれは「熟蝦夷」であるとされ、最も近いところの人達であるように書かれており、すでにその点で食い違っています。

「(斉明)五年(六五九年)秋十月卅日。」「天子問曰。此等蝦夷國有何方。使人謹答。國有東北。天子問曰。蝦夷幾種。使人謹答。類有三種。遠者名都加留。次者麁蝦夷。近者名熟蝦夷。『今此熟蝦夷。毎歳入貢本國之朝。』天子問曰。其國有五穀。使人謹答。無之。食肉存活。天子問曰。國有屋舎。使人謹答。無之。深山之中止住樹本。天子重曰。脱見蝦夷身面之異。極理喜恠。…」(『斉明紀』「伊吉博徳書」より)

 この「蝦夷」については上の記事の直前に「仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子」とあり、「陸奥」の蝦夷であることが記されていますが、それがまた「熟蝦夷」でもあるということとなります。しかし『新唐書』では「蝦夷亦居海島中」とあり「倭国」がそうであったように「蝦夷」もまた「海島」に居住しているとされているわけです。そうすると「陸奥」に「海島」があったこととなってしまいますが、それは不審といえるでしょう。(この海島を日本列島のことと理解する考え方もあるようですが、この文章の「亦」とは「日本国」と同様「海中」の島に住んでいる、という意味で書かれていると理解すべきでしょう。)
 たとえばこの「海島」が「佐渡」であるとするような解釈をしない限りは この「海東」が「北海道」を指すという可能性は高いものと思料します。しかし「北海道」であるとすると「陸奥」のさらに向こう側であり、『新唐書』の「蝦夷」は最も遠い場所の種である「都加留」と呼ばれる種族であった可能性が高いと思われることとなり、少なくとも「熟蝦夷」ではないと思われるわけです。(ただしこの時期に「北海道」の「蝦夷」が勢力下に既に入っていたとは考えにくいのも事実ですけれど。)

 またこの「伊吉博徳書」や同じ時に派遣された「難波吉士男人」の「書」にも「向大唐大使觸嶋覆。副使親覲天子。奉示蝦夷。於是蝦夷以白鹿皮一。弓三。箭八十。獻于天子。」とあり、「蝦夷」が同行したことは確かであると思われるものの、「弓矢」で「瓠」を射るようなデモンストレーションについての記事が全くありません。これはかなり衆目を集める記事ですからもし行われたなら両者ともそれを記録しなかったはずがないと思われます。
 このように考えると『新唐書』の記事と「伊吉博徳書」とは全く別の時点の記事である可能性が高いと思われ、「蝦夷」が唐へ赴いた時期には前後二つの時期があったこととなるでしょう。(続く)

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『懐風藻』の成立時期について(1)

2016年10月31日 | 古代史

『懐風藻』に書かれた詩群の実際の年次について考察しているわけですが、その『懐風藻』の中に「元日」のものとして造られた「詩」が複数有ります。たとえば「藤原不比等」(史)の「元日」の詩として以下のものが書かれています。

「正朝観万国 元日臨兆民/斉政敷玄造 撫機御紫宸/年華已非故 淑気亦維新/鮮雲秀五彩 麗景耀三春/済済周行士 穆穆我朝人/感徳遊天沢 飲和惟聖塵」

 この冒頭の「正朝」という語について解釈が複数あるようであり、「元日」という意義や「天皇」が親しく皆の前にいるという意義であるなどの理解がされているようですが、ここでは字義通り「正当」な「王朝」という解釈が最もふさわしいのではないでしょうか。それは「年華已非故 淑気亦維新」とあるところからも推測できるものです。
 「年華已非故」とは改元して新しい年となったことを示すと思われますし、さらに「維新」となると単に年が改まったというだけではなく「新王朝」が始まるという意義が認められます。この「維新」の語は『隋書俀国伝』に出てくる「倭国王」の言葉の中に「大国維新之化」というものがあり、これにも通じると思われますが、この言葉は通常「煬帝」に向けたものと思われているものの、実際にはその前代の「高祖」(文帝)に向けられたものであり、彼が「受命」により「隋」という新王朝を開いたということを捉えて「維新」という語が使用されていると思われるわけですが、それと同義であると思われます。つまり「藤原史」の詩の中の「元日」は「新日本国王」の「即位」して以降最初の「元日」であり、その時点で「改元」され、新王朝が名実共に始まった時点のものではなかったでしょうか。 
 この「藤原史」の漢詩の中に使用されている「万国」という表記はそのまま『孝徳紀』の「万国」に通じるものです。

「八月丙申朔庚子。拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修『萬國』。…」(東国国司詔より)

 この「詔」は「東国国司」に出していることでも分かるように、それまで版図には入っていなかった「東国」を領域としたことを示す語でもあります。その意味では「蝦夷」の領域に勢力を伸ばした時期が最もふさわしいといえるでしょう。そう考えると、実体としてはもっと遡上する時期を想定するべきです。なぜなら「蝦夷」が初めて「倭国」の使者に同行して「唐」に赴いたのは「太宗」の時ではなかったかと考えられるものであり、「朔旦冬至」を祝うために訪れた「六四〇年」が最も蓋然性が高いものと推量します。

 後代史書ではありますが、『佛祖統紀』という書の中に収められている「世界名體志」の中の「蝦夷」の部分には「唐」の「太宗」の時に「倭国」が遣使してきてその際「蝦夷人」も来朝したと記されています。

「…東夷。初周武王封箕子於朝鮮。漢滅之置玄菟郡…蝦夷。唐太宗時倭國遣使。偕蝦夷人來朝。高宗平高麗。倭國遣使來賀。始改日本。言其國在東近日所出也…」(「大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二〇三五 佛祖統紀五十四卷/卷三十二/世界名體志第十五之二/東土震旦地里圖」より)

 この記事に従えば「太宗」の時に「倭国」からの使者に「蝦夷」が同行したというわけであり、これは「六三一年」の「犬上氏」などの遣唐使を指すと理解するのが通例でしょうが、そうとしても『書紀』ではその際には「蝦夷人」は引率しておらず、食い違いがあります。そうであればこの「蝦夷」記事については「高宗」時点のことを『仏祖統紀』の編纂者が誤認したと考えるのが穏当かもしれませんが、そうではないという可能性もあるでしょう。なぜなら「伊吉博徳書」に書かれた「蝦夷」記事と『新唐書』記事とは実際には違う事実を記したものとは思われるからです。(続く)

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「智蔵法師」という人物とその時代(5)

2016年10月31日 | 古代史

 ところで、「漢詩集」『懐風藻』に書かれた漢詩群については一般的に「南北朝」時代の「古典的」な部分の影響を強く受けているとされ、「中国六朝時代の古詩の模倣が多く、いかにも黎明期の漢詩」という傾向が見て取れるとされます。その典型的なものが冒頭の「大友皇子」の作品であり、これは通常の漢詩と違い「仄韻」つまり「仄音」で「韻」を踏んでいます。

「五言侍宴一絶/皇明光日月/帝徳載天地/三才竝泰昌/萬國表臣義」

 通常漢詩文は「平音」で「押韻」するものであり、「仄韻」は「破格」とされます。また「大津皇子」の漢詩(以下のもの)においても同様の趣旨の評がされています。

「言春苑言宴 一首/開衿臨靈沼/游目歩金苑/澄清苔水深/晻曖霞峯遠/驚波共絃響/哢鳥與風聞/羣公倒載歸/彭澤宴誰論」

 さらに「葛野王」の漢詩文や「釈智蔵(智蔵法師)」の作においても同様に古詩を模倣したという言い方がされています。
 またこれらの詩文に共通なことは押韻が「呉音」によって行われていることです。
 「大津皇子」の作品では「苑、遠、聞、論」であり、「智蔵」の「秋日言志」詩では「情・聾・驚」と「芳」、さらに「葛野王」の「春日翫鷺梅」詩では「馨・情」と「陽・腸」です。これらはその詩体と共に音韻体系においても「唐」の影響ではなくその前代の「隋」あるいはそれ以前の中国の影響を受けていることを如実に示すものであり、この漢詩が「天智」以降の時期である「六七〇年代以降」に造られたとすると大きく齟齬するものと思われます。なぜならその時点までに「遣唐使」は何次にもわたって送られており、「唐」の文化つまり「漢音」や「唐詩」のルールなどを学ばなかったとするとかなり不審なことと思われるからです。
 
 また「大津皇子」の辞世といわれる詩においては良く似た詩が「南朝」「陳」の最後の皇帝「陳後主」の「臨行詩」(長安に連行される際に詠ったとされる)にあり(ただしこれは別人の偽託によると思われるものの)、これが元々「隋朝」から「唐朝」にかけて仕えた「裴矩(裴世矩)」(五四六~六二七)が記した『開業平陳記』にあったものが伝来したと見られること、それをもたらしたのが「智蔵」であるという考察があります。(※)
(以下「大津皇子」と「陳後主」の詩)

「大津皇子」
「金烏臨西舎/鼓馨催短命/泉路無賓主/此夕誰家向。」(『懐風藻』より)

「陳後主」
「鼓馨推(推)命役(短?)/日光向西斜/黄泉無客主/今夜向誰家。」(釈智光撰『浮名玄論略述』より)

 ここでも「大津皇子」の詩は押韻が「呉音」で行われているようであり(「名」、「向」)これもまた「異例」のものです。(しかもこれも「仄韻」です)それに対し「陳後主」の方は「斜」と「家」であり、これは「漢音」(しかも「平音」)で「押韻」されています。
 またこの二つの詩の類似はどちらかが他方へ影響したものと見られるわけですが、年次からいうと「陳後主」から「大津皇子」へとなります。それは「智蔵」に関する『懐風藻』の記事からも推察されます。それによると「智蔵」は「呉越の間」に留学していたとされ、そのことから「南朝」の皇帝である「陳後主」に関するエピソードについて特に収集可能であった環境があることなどから、彼がもたらしたと見ることができるとされます。
 『旧唐書』の「裴矩伝」によれば彼は「『開業平陳記』十二巻を撰し、代に行わる」とされており(「開業」とは、「隋文帝」の年号である「開皇」と「煬帝」の年号の「大業」を合わせたもの)、この書物が一般に流布していたらしいことが推定できます。
 この『開業平陳記』については『隋書』「経籍志」の史部・旧事類に書名が書かれており、また『旧唐書』では「経籍志・藝文志」の「雑史類」に分類されています。「雑史」に分類されたということはその内容として「平陳時」(「陳」滅亡時)の各種雑多なエピソードが書かれていると思われますが、これを「智蔵」が「倭国」に持ち帰り、その中にあった「陳後主」の作とされる「詩」を改変して「大津皇子」のものとしてその心境を忖度したものではなかったかと推測されるわけです。

 これらのことからいえることは、この『懐風藻』に収められた詩文のうち特に初期のものはその成立時期がかなり早かったという可能性があることです。
 そもそも「智蔵」については、すでに考察したように彼が七世紀半ば以降に留学して帰国したとは考えられないことがあり、そのことと上に見る「詩体」や「押韻」などの実情は重なるものであり、実際には「隋末」から「初唐」にかけての時期が最も考えられるものではないでしょうか。(続く)

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「智蔵法師」という人物とその時代(4)

2016年10月31日 | 古代史

 すでに行った考察から、「智蔵法師」が「入唐」したのは「六〇〇年代」ではなかったかと想定され実際には「入隋」であったろうと思われると共に、「丙午年」には既に帰国して「三論を講義」しているわけですから、その双方を考えると「淡海帝」とは「天智」ではないし「大后天皇世」とは「持統」ではないと言うこととならざるを得ないものです。(他の史料の中には「斉明朝」という表現をしているものもありますが、いずれにしても「淡海帝」とは「天智」ではないこととなるでしょう。)

 一般的な見方においても、「大后天皇世」というのが「持統」とすると、『天武紀』に「智蔵」が「僧正」に任命されたとか「一切経書写」を監督したという記事群と矛盾するのは避けられないのです。また「大后」という敬称はそれ以前に出ている「淡海『帝』」という敬称と同じ位取りのものであり、この事はこの二つが「対」を成すと見るべき事を示すと思われます。
 (この「大后」については「則天武后」を指すという説もあるようですが、そう考えたところで矛盾が解消されるわけではなく、更に「則天武后」を「大后」と称した例があるのか、彼女について「大后天皇」という敬称が妥当なのかと言うことを考えると、はなはだ成立しにくい仮説であると考えられます。)
 この「大后天皇」という名称に関する「矛盾」を解消するために考え出された苦肉の策が、「天智」と「天武」の間に「天智」の皇后であった「倭姫」が即位していたとしてこれを「大后天皇」とするものです。これは「喜田貞吉氏」「井上光貞氏」と継承された説ですが、しかしこのような考えはいかにも苦し紛れであり、ほぼ問題にもならないと思われます。それはどのような史料にも(もちろん『書紀』にも)「倭姫」即位を示唆するものは確認できないからです。これはまさに「そうでも考えないと整合しない」ということから生み出されたものでしかないと考えられます。

 このことから「大后天皇」が誰であるか不明とならざるを得ない訳ですが、「淡海帝」あるいは「淡海先帝」というのが「天智」ではないとすると、「智蔵」が「遣唐使」として派遣されたと言う「六〇〇年代」に「倭国王」であった人物としては『隋書俀国伝』に「倭国王」として描写されている「阿毎多利思北孤」に擬されている人物以外いないと考えられますから、そのことと「智蔵等」が「六四六年」に「三論を講義」しているということを考え合わせると、「太后天皇世」とは「六四〇年代」を意味することとなるでしょう。この時代に「大后」と称しうるのは「阿毎多利思北孤」の「太子」であったとされる「利歌彌多仏利」が即位して以降の彼の「皇后」以外いないと思料され、彼女が「利歌彌多仏利」に代わって「倭国王」を「称制」ないし「代行」していたと考えると矛盾はなくなると思われます。

 この「六四〇年代」という時代は、ほぼ「九州年号」の「命長年間」に相当する訳であり、この「命長年号」についてはその「語義」から考えても「倭国王」の寿命の延長を祈願した「改元」であることを推定させるものですが、そのことは「利歌彌多仏利」の発病とそれに伴って「倭国王」としての統治行為の継続が困難となったことを推定させるものであり、そう考えた場合「大后天皇世」という表現はその状況に良く整合するといえるでしょう。
 それに関連するのが「善光寺」に残る「聖徳太子」からとされる手紙であると思われます。

 その手紙は「助我濟度常護念」というように「私が『誰かを』救うために常に守り祈ることを助けたまえ」という「願文」であると理解すべきであり、またこの「願文」が書かれた年次である「命長七年」は「六四六年」と推定され、そのことから考えて「利歌彌多仏利」の死去と関連していると推定されるわけですから、この差出人とされる「斑鳩厩戸勝鬘」なる人物が救おうとしていたのは「利歌彌多仏利」であると考えられます。また別に触れますが、この「勝鬘」という名称(法号か)がいわば「高貴な女性」専用の名前であることを踏まえると(「新羅」の「真徳女王」も諱は「勝蔓」でした)、使者を派遣するなどの強い権力を行使している様を併せ考えた場合、彼女は「利歌彌多仏利」の「皇后」である事が推定され、彼女により行なわれた「助命祈願」文であると推定できるでしょう。
 つまり、この「命長年間」というのは「利歌彌多仏利」が、「阿毎多利思北孤」死去後(六二二年)「倭国王」に即位し統治していたものの、その後健康を害して「皇后」にその統治を委ね、自分は「温泉治療」などを行なうなど回復に努めていたものであり、「称制」あるいは「摂政」の地位にあった期間であると見られます。(『舒明紀』などに見える「有馬温泉」行幸記事の増加がそれを反映した記事ではないかと考えられるものです)(さらにさらに続く)

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「智蔵法師」という人物とその時代(3)

2016年10月31日 | 古代史

「智蔵法師」について検討しているわけですが、『懐風藻』には彼の作とされる漢詩が二首収められており、その解説には「淡海帝世、遺學唐國。」「太后天皇世、師向本朝」とされています。これらについては従来は「遣唐使」として派遣されたのが「天智朝」であり、帰国は「持統朝」と解釈されているようですが、そのような「天智朝」の「遣唐使」という考えは上で行った考察により疑問視されると共に、別の理由からも実際上成立が困難な解釈であるともいえると思われます。それは「天智朝」が未だ「戦乱」の収拾が付いてない時期であると考えられるからです。
 後でも述べますが、この時期「唐」との間にやりとりされた人物達は、「戦後処理」のための軍人と官人達に限られていたと考えられるからです。

 「百済を救う役」及びその後の「白村江の戦い」により「唐」に全面敗北を喫した「倭国政権」は、「唐」とその出先機関である「熊津都督府」から派遣されて来倭した「劉徳高」「郭務宋」「百済禰軍」達との間の戦後処理に忙殺されたと思われ、とても「学生」「学問僧」などを派遣できるような政治状況ではなかったと考えるべきであると思われます。
 例えば「井上光貞氏」などは「智蔵は天智四年に入唐し、同一〇年に帰国した」とされており、それは追認される方も多いようですが、「劉徳高」の「帰国」は「泰山封禅の儀」に参加させられることとなった「諸将」を率いていたものと考えられ、そのようないわば「微妙な役割」の諸将の中に「学問僧」などが入る余地があったとは考えられません。そのようなものは本来「友好的雰囲気」の中で行なわれるものであり、このようなタイミングで派遣することは「あり得ない」のではないでしょうか。つまり『天智紀』の「唐」への人員派遣に「智蔵」が同行したと言うようなことは考えられないと思われ、このことは「智蔵」が派遣されたのはもっと「以前」ではないかと言う事を意味するものです。

 また『懐風藻』には「智蔵」について「時呉越之間。有高學尼。法師就尼受業。六七年中。學業頴秀。」と書かれており、「中国」に渡ってから「長安」や「洛陽」ではなく「呉国」の地で学業に励んだらしいことが知られます。これについては彼がそもそも「呉人」であったと言うことが重要な要因であることはもちろんですが、これが「隋代」中のことであればまだ「呉越」地方にまだ「高学」の「尼」がいても不思議ではないと思われます。(煬帝が長安に高僧を招集する以前と考えられるため)

 また「智蔵」については「僧正」に任命された記事が複数確認できます。

①白鳳元年 智蔵、僧正に補任(「元亨釈書」他)
②天武二年三月 智蔵、僧正に補任(『僧網補任』、『扶桑略記』等)
③大化二年 智蔵、智師・慧輸とともに僧正に任命(『三国仏法伝通縁起』)

 これらの記事は相互に矛盾していると考えられますが、このうち最も信憑性が高いと考えられるのは、(通常とは異なり)実は③の『三国仏法伝通縁起』に記された「大化二年」記事であると思われます。その記事によれば「慧灌僧正」が「乙酉年」(六二五年)に「来倭」したものの「二十一年間」は「未廣講敷」とされ、多くの人間を対象とした講義が行われていなかったものと思われますが、「大化二年丙午年」(六四六年)になって「智蔵」は「智師」「慧輸」とともに僧正に任命され、「初開三論講塲」つまり「講堂」などで多くの仏教関係者に対して「三論」を講義したというわけです。

『三国仏法伝通縁起(中巻)』
「…孝徳天皇御宇大化二年丙午慧師慧輪智蔵三般同時任僧正。是三論講場日之勧賞也。…乙酉歳慧灌来朝。来朝之後二十一年未廣講敷。大化二年丙午初開三論講塲是即仏法傳日本後。経九十五年始講三論。…」

 このような経緯の詳細が「年次」を指定して書かれているとすると、一概にこの記事の「時系列」全体を否定することは出来ないと思われ、、この記事の信憑性は高いものと思料します。
 このことと先に考察した「天智朝」以前と言うことを重ねて考えると「淡海帝」と「太后天皇世」という表記については、これは一般に考えるような「天智」と「持統」を指すとは考えられないこととなります。(さらに続く)

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