古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

地球によく似た惑星の件

2015年07月31日 | 宇宙・天体
 最近「地球」に良く似た環境の惑星が発見されたという記事が出ていました。それによれば「地球」よりやや大きい惑星が地球とほぼ同じ周期で主星の周りを回っているとされます。ケプラーの法則から周期が同じならば距離も同じとなるため、主星から受ける熱量もほぼ同じとされているようです。またその主星は太陽よりやや質量があるようですが、表面温度は同じであり、スペクトルもほぼ同じのようです。これによればその「地球に良く似た星」は十億年後の地球環境に良く似ているという説もあるようです。そしてその「地球」に良く似た星には「生命」があるかもしれないとささやかれています。確かに「地球」とよく似た環境の「惑星」に生命の可能性があると考えることは全く正しく、その意味でこの惑星が非常に有力な生命それもかなり高度な生命の存在が想定される天体であるのは正しいと言えますが、しかし、「生命」の存在や進化を考える上で重要なことは、その「惑星系」に「木星」に匹敵する惑星があるかどうかではないでしょうか。なぜなら、「木星」は「太陽」の引力により引き込まれる微惑星や隕石などをその手前で食い止める役割をしているからです。

 現在「火星」と「木星」の間に「小惑星帯」(「メインベルト」と呼ばれる)が存在しています。その数「数百万個」とも言われる非常に大量の小惑星(中には直径1m以下のものも多数あるようです)がここに集まっているわけですが、これらの小惑星は「木星」により軌道が固定化されているのです。
 太陽系の惑星や小惑星はもちろん太陽の引力により太陽の周りを回っているわけですが、太陽系最大の惑星である「木星」の引力が実は絶大な影響を与えているのです。地球の軌道でさえも木星の影響を強く受け(「摂動」と呼ばれる)、その軌道を変化させられています。
小惑星帯の軌道は「太陽」と「木星」の引力が微妙なバランスを取った結果「安定的に取り得る」軌道と考えられ、これ以外の軌道は「木星」により軌道を乱されて「太陽」か「木星」に「吸い込まれて」しまう、と考えられています。

 近年「シューメイカー・レビー彗星」などのように「木星」に衝突する天体が数多く観測されており、太陽系内にはまだかなり軌道が不安定な天体が多いことがわかります。それらは「太陽」や「木星」からも遠い「太陽系外縁」に存在する天体であり、「カイパーベルト」天体と言われていますが、太陽系ができた頃から余り状況が変化しないで存在していると思われ、周囲の恒星からの影響や新星爆発現象などによる強いエネルギーを浴びるなどして、僅かに軌道が乱され、「不安定」な軌道に遷移した結果、太陽近傍まで接近してくると考えられますが、太陽系には「木星」という門番がいて、不安定な軌道を持つ天体を全て平らげてしまう、というわけです。

 生命の進化には「安定的」環境が「長期」に渡って存在する、という事が必要であり、そのためには「小惑星」との衝突、と言うような事態は「滅多に起こらない」という条件が必要となると思われますが、その条件を造ってくれているのが「木星」と言うこととなるわけです。
 もし木星がいなければ、生命は発生してもあるいはやや進化したとしても、降り注ぐ小天体により「絶滅」が頻繁に起きてしまい、そのたびに進化のリセットがかかることとなります。
 現在の太陽系においても全ての天体が「木星」の引力によき寄せられるわけではなく、一部はやはり「地球」と「小惑星」や「彗星」本体との衝突という現象の発生となってしまうわけであり、化石の研究からは幾度も大絶滅が起きていることが確認できます。しかし、その間隔や頻度が生命の進化のスピード比べると充分小さく、それを大きく妨げないものであったために、現在地球には多様な生命が棲息することとなっているのです。その意味では「木星」は「地球」とその上に生存している動植物類の「守り神」でもあるといえるでしょう。

さらに、木星の質量がもっと大きかったら「小惑星帯」はもっと「木星側」に寄って形成されると思われ、それは一見地球にとって都合が良さそうですが、その場合多分「木星」は「惑星」というより「恒星」(矮星)となっていたと思われ、(現在でも木星の中心部からX線が出ているという説もあるぐらいであり、それは「恒星」的特徴でもありますから、ひょっとすると「惑星」と「矮星」の中間ぐらいに位置する天体なのかもしれません。)そのぐらい質量が大きいと「太陽」も「木星」から受ける引力がかなり大きくなり、安定した軌道をとれない可能性が出てきます。つまり周辺の惑星は通常の楕円軌道から外れる公算が強く、「太陽」からの距離に大きな変化が生じることとなると思われ、受ける「輻射量」(「熱量」)が一定ではなくなり、「生命」の進化を促進させる環境が形成されない可能性が高いと見られます。
 一般に惑星の軌道は太陽を焦点の一つとする楕円であるとされますが、これは太陽がほぼ「不動」であるとすることができるからです。(ただし「太陽系」という慣性系においての話です)しかし、一般に二重星など多重星系においては「主星」の位置はその慣性系の中で固定(不動)ではなくなり、ある軌道を描いてふらつきます。それは当然その系に拘束されている全ての天体に影響が及び、「惑星」があればその惑星の軌道も「楕円軌道」ではなくなります。(場合によっては「カオス」つまり特定の軌道を持たないというような場合も想定されることとなります。)
 このような環境の中では「主星」や「伴星」から受ける引力や輻射量などにも不規則な変化が発生することとなるでしょうから、生命の進化という点では非常にマイナスの要素が大きいこととなります。
 新しく発見された地球によく似た天体においても木星のように主星の軌道を大きくは乱さず、微少天体はこれを悉く引きつけてしまうような惑星がないとすると、充分に生命の進化を担保する環境が整っていないという可能性も考えられるでしょう。
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「漏刻」の導入とその使用時期

2015年07月26日 | 古代史
すでに見たように「肥」の地において「日の出」・「日の入」などの時刻が記録されていたわけですが、それには当然その「時刻」を測定する器具が必要であり、「漏刻」(水時計)が使用されていたものと推量できます。これを使用し時刻を把握して、またそれにより鐘(あるいは「太鼓」)を鳴らしていたとされるわけです。
 『書紀』によればこの「漏刻」を日本で初めて作製したのは「皇太子」時代の「天智」であるとされます。

「(斉明)六年(六六〇年)…夏五月…是月。有司奉勅造一百高座。一百衲袈裟。設仁王般若之會。又皇太子初造漏尅。使民知時。」

「(天智)十年(六七一年)…夏四月丁卯朔辛卯。置漏尅於新臺。始打候時動鍾鼓。始用漏尅。此漏尅者天皇爲皇太子時始親所製造也。云々。」

 このように「漏刻」の設置と使用が書かれているわけですが、この「漏刻」に関して「増田修氏」の研究(※1)などにより、以下のことが判明しています。

①『延喜式』にある「開門・閉門時刻」について「一日四十八刻法」(一昼夜を一二辰刻、一辰刻を四刻、一刻は十分(ぶ)という分け方)と理解できる事が書かれていること。(前項の「日の出」・「日の入り」時刻などもみな「干支」×四刻で表示されており、四十八刻法となっています)
②『延喜式』当時および「大宝令」施行当時の暦は「儀鳳暦」であり、それらは「一日四十八刻法」ではなく「一日百刻法」であったこと。(それ以前の「元嘉暦」や「戊寅元暦」も皆「百刻法」であり、それは「殷周時代」の制を踏襲したものとされています)
③『令集解』という「大宝令」の私的注釈集によれば、そこで引用されている「古記」(七三八年「天平十年」頃の成立か)の中の「暦」の説明が「儀鳳暦」には合致していないこと。(「十九年七閏法」として説明されている)
④この暦の説明として「春秋正義」からの引用があり、その「春秋正義」で説明している暦は「古暦」と呼ばれ、これは「後漢四分暦」と同じ四分暦法に基づく暦であること。
⑤これらから、『延喜式』に言う「一日四十八刻法」を採用している暦が、「後漢四分歴」様の暦であると理解できること。

 これらが明らかとなっているわけです。ここでその使用が推定されている「四十八刻法」はいつの時代の使用法なのでしょうか。

 ところで、「漏刻」の使用が書かれた『令義解』は『大宝令』の注釈書ですから、「漏刻」は「暗黙」に『大宝令』以前からあったこととなります。また『延喜式』も「延喜」年間に作られたものばかりではなく、すでにそれ以前に確立していた儀式や礼制を集めた、という性格があります。この「漏刻」に関することも、当時使用されていた「儀鳳暦」の(元嘉暦も同様)「一日百刻法」という用法と食い違う内容になっているということは、増田氏も言うように「大宝令」以前の状態を「漏刻」の使用法が示しているのではないかと思われることとなるでしょう。つまり、『書紀』によれば「漏刻」の使用開始は「近江朝廷」に始まるようですが、それは当然「違う」ということとなるでしょう。
 また、『書紀』には「難波朝」において「朝廷」の中に「鐘」を設置し、この「鐘」を合図に「公務」を行う事が決められたとされています。

「(大化)三年(六四七年)…
「是歳。壞小郡而營宮。天皇處小郡宮而定禮法。其制曰。凡有位者。要於寅時。南門之外左右羅列。候日初出。就庭再拜。乃侍于廳。若晩參者。不得入侍。臨到午時聽鍾而罷。其撃鍾吏者垂赤巾於前。其鍾臺者起於中庭。」

 「宮殿」の周辺に住んでいた官人はその「時」を知らせる「鐘」の音を聞いて時刻を確認していたものと思われます。つまり一般に「官人」が「宮殿」の近くに住むのは「鐘」が聞こえる範囲でなければならなかったためであると思われますが、その「鐘」をならすための基準としての「時計」はどのようなものだったかについては、なにも書かれていません。しかし、『延喜式』にもあるように「漏刻」でもなければ「鐘」を鳴らす時刻を決めることはできないはずであり、「漏刻」の使用開始が「近江朝」であるとすると、この時点ではまだ「漏刻」ができていないこととなります。そのため一般にはこの「小郡宮」での「鐘」を鳴らすこととした、と言う記事が疑われ、これが事実ではないと考えられているようです。しかし、「天文観測」に「漏刻」が必須であったことを含んで考えると、「七世紀前半」はもとより「六世紀代」にすでに「漏刻」が存在していたらしいことが推察されることとなり、その「漏刻」は「隋代」以前に「南朝」から学んだ各種の技術の中にあったと強く推測されるものとなったものです。

 そもそも「漏刻」は「中国」では「秦漢」以前から有り、実用されていましたが、やや精度に難があったものです。しかし「初唐」(「貞観年間」)時代(六二七年~六四九)に「呂才(「りょさい」あるいは「ろさい」)がそれまでのものを工夫し精度を上げ、精密測定が可能なように改良されたものです。そのような流れを考えると、「呂才」以前の「隋代」あるいはそれを遡る「南朝」との交流時期にもたらされた知識や技術の中に「漏刻」があったと考えて不思議はないわけです。それは「四十八刻法」を用いた「漏刻」使用という存在からも言えることです。
 「唐」から「改良型」の「漏刻」が伝わったとすると、この時「呂才」の「唐」では「戊寅元暦」が行なわれていたものであり、これは「一日一〇〇刻法」だったものですから、「四十八刻法」と「漏刻」が「戊寅元暦」と一緒に渡来したとは考えにくいこととなります。当然「戊寅元暦」の伝来以前に「漏刻」と「四十八刻法」が伝来したものと考えざるを得ないわけです。(「天智」が使用したという漏刻についての図(※2)には「百刻法」であるかのような説明が付いており、この図が正しいとすれば「時代的」には整合しているともいえます。)
 但し「南朝」の正式な「暦」が伝来したとしてもそれもまた「百刻法」あるいは「一〇八刻法」(これは「梁」の時代)であったものであり、「四十八刻法」であったことはありません。そう考えると「四十八刻法」が伝来したのはいつの時点のことなのか、はっきりしません。もっとも「東晋」時代に民間で「四十八刻法」の元で「漏刻」が使用されていたという形跡があり(※3)、「東晋」に遣使した「讃」がこれを取り入れたということも想定すべきかもしれません。(詳細は不明ですが)
 またこの「四十八刻法」を「倭国独自のもの」とする考え方もあるようですが、それもまた従えません。なぜなら「何刻法」であっても「漏刻」の存在と不可分のものであるからであり、「漏刻」と「太陰暦」が切り離して考えることができない以上、「四十八刻法」が倭国のオリジナルとは考えられないものです。

 「漏刻」については後年(平安時代)になっても「中央」の「陰陽寮」と「筑紫」の「大宰府」だけに存在していたものであり、従来はそれが「中央」が先行していると(無批判に)考えられていますが、ここまでの論理進行から考えて当然その「逆」であったものであり、「肥後」にあった「漏刻」はその後「六十六国分国」の際に「肥」が「肥前」「肥後」に分割され、さらに中間に「筑後」が割り込むかたちで「筑紫」にその領域が割譲された時点以降「太宰府」へと移動したものと思われます。(ただしそこではもう天文観測は行わなくなったものと思われます。それは「北緯33度」より北のデータがないことでも推測できるものです。それは「唐」から「暦」の頒布を受け始めたことの反映ではないかと思われ、「戊寅元暦」を使用し始めたものと思われることとなります。


(※1)増田修「倭国の暦法と時刻制度」(『市民の古代』第16集、一九九四年)
(※2)櫻井養仙『漏刻説』の中の挿絵の解説文に「百刻法」を表す語が見えます。
(※3)慧遠(盧山の僧)(三三四~四一六)が「蓮花漏」という水時計を造り、それには「四十八刻法」を用いたとされますが、漢籍にはそれを示す史料が確認できません。
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「天文観測」開始と「倭王権」の都(二)

2015年07月26日 | 古代史
 すでにみたように「北緯33度」の地である「鞠智城」付近で「天文観測」が行われたと見られるわけですが、その時期はいつ頃のことでしょうか。
 「倭王権」は「肥」の国から遷都し、「筑紫」に都を移し、さらに「難波」に副都を設けたと見られるわけですが、それら遷都の後での観測ということにはならないでしょうから、この「天文観測」は「遷都」以前であると見るべきこととなります。
 「天文観測」は「暦」作成の一環であり、その「暦」(つまり「太陰暦」)の導入は「五世紀後半」の「倭王済」の時代であることが推定されているわけですが、その後「倭王武」は「自称」した称号の一部(「開府儀同三司」など)を「南朝」から認められなかったと思われる経緯があります。
(以下「武」の上表文関連記事)

「…濟死,世子興遣使貢獻。世祖大明六年,詔曰:「倭王世子興,奕世載忠,作藩外海,稟化寧境,恭修貢職。新嗣邊業,宜授爵號,可安東將軍、倭國王。」興死,弟武立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。」

「順帝昇明二年,遣使上表曰:「…竊自假開府儀同三司,其餘咸各假授,以勸忠節。」詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。」(『宋書夷蛮伝』より)

 これらの記事を見る限り『百済』への軍事権は認められず、また「開府儀同三司」等についても認められなかった可能性があるでしょう。この後「倭国」は「南朝」への朝貢を行わなくなったと見られ、「中国側」の資料に「朝貢記事」が見あたらなくなります。
 「南斉書」においても「安東大将軍」から「鎮東大将軍」へと進号しているものの「朝貢記事」はありません。同じく南朝の「梁」の時代に「征東将軍」へというやや変則的な進号をしている(「百済」など夷蛮の国に対して行われている「特進」が見られない)という問題もあり、それが「倭国」が朝貢をしなくなっていたことの反映ではないかという考えもあるようですが(※)首肯できるものです。
 つまり「武」の時代に「半島」における権益や「列島支配」の権威の根拠としての「称号」などを「南朝」が認めなかったことが「倭国」朝貢停止の理由として考えられるわけです。そうであれば、その時点以降「暦」の作成(特に日食月食予報)を自力で行う必要性が発生したものと思われ、「天文観測」は必須となったものと理解されます。
 この時点付近で「倭国王権」として「天文観測」を始めたとすると、最も蓋然性の高いのは「武」の後半あるいは「次代」の「倭国王」(これは「磐井」か)の時代ではなかったかと考えられる事となるでしょう。つまり年次でいうと「五〇〇年」前後が措定されることとなります。
 ところで、古賀氏の研究により「倭国」への仏教伝来が「五世紀」の初めであり、それに関連して、『推古紀』に見える「百済僧」「観勒」の上表記事も「一二〇年」遡上するという可能性が指摘されているわけですが、上の推測から、この「天文観測」記事も同様に遡上するものではないかと思われるわけです。つまり実際には「五〇〇年」付近から「天文観測」を開始したものと思われることとなり、そうであれば「ハレー彗星」記事も「煬帝日食」記事も見られないのは当然のこととなります。
 この年次付近で「都」である「肥」の国において「観測」を始めたとすると、その中心的存在である「鞠智城」に「鐘楼」あるいは「鼓楼」とおぼしき「八角形の建物」があることもこの「天文観測」と関連しているという可能性があるでしょう。
 この建物」は「時刻」を知らせるという意義において必要なものであったものと思われ、「鐘を撞く」あるいは「太鼓を鳴らす」ものであったとするわけですが、当然その時刻の基準として「漏刻」が必要であり、ここに「漏刻」があったとすれば「天文観測」にも使用できたものと思われますから、この「鐘楼」あるいは「鼓楼」が「天文台」の役を務めていた可能性が高いものと推量します。
 この「八角形」の建物はその内部に「柱」が多く空間が確保されておらず、ここで「儀礼」的なことが行われたとは思えないとされます。あくまでも「見晴台」としてのものであったと推量され、「日の出」「日の入り」などの「天文観測」をもっぱら観測していたものではないでしょうか。


(※)菅野拓「「梁書」における倭王武の進号問題について/臣下から「日出処天子」への変貌をもたらしたものは何か ―古田説の検討を中心として」(『大学評価・学位授与機構二〇〇八年十月期学位授与中請(要旨)として』をネットで参照しました)
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「磐井の乱」の真偽(三)

2015年07月26日 | 古代史
 「戦争」とは古代においては「土地」及び「人」の奪い合いですから、その結果によって当然「戸数」も「国数」も変動するでしょう。そして『隋書俀国伝』(六世紀末)と『魏志倭人伝』(三世紀半ば)の間においてそれに該当するような大戦争があったかというと、考えられるのは(当然「五世紀」の「倭の五王」以後のこととして)、「六世紀始め」に起きたとされる「磐井の乱」です。『書紀』からはこれ以外には「戦争」とみなせるような大規模な反乱などは見出せません。しかもその内容は「国」を二分するというようなものでしたから、結果として半減したというのは首肯できるものです。

 「磐井の乱」の際には「継体」から「物部麁鹿火」に対して以下の「詔」が出されています。

 「…天皇親操斧鉞。授大連曰。長門以東朕制之。筑紫以西汝制之。」(継体二十一年秋八月辛卯条)

 この「磐井の乱」時点での分割統治提案においては「筑紫以西」と書かれており、この「磐井」が「筑紫」を中心とした領域に君臨する「倭国王」であったらしいことが推定できますが、これが実現した場合この時点以降「倭国」の統治範囲が大幅に狭まったことと推定できます。(実際に「長門以東」「筑紫以西」というように分割されたかは不明ですが、かなり狭まったことは確かと思われます。)
 つまり「磐井の乱」が実際に起きたとすると、「倭国」王権はかなりの痛手を被り、支配領域はかなり狭まったものと思われることとなります。ただし、逆に言うと「筑紫以西」は元々の「倭国王権」の直接支配領域であり、そこは「継体」(に「擬されている」近畿王権の王者)にも手の届かない領域であったことが推定できるでしょう。そしてそれは「卑弥呼」時点において「女王国以北」は「略載できる」とされた各国の範囲にほぼ重なるものではないでしょうか。

 このように「戦争」により「国数」と「戸数」が大幅に減少させられる事となったと見ると『倭人伝』と『隋書俀国伝』の間の状況の違いについて説明が可能であると思われます。
 このことは「磐井の乱」の真偽にも関わってくるものであり、この倭国の状況の変化を端的に表すものとして「戦争」が考えられることと「磐井の乱」という『書紀』の記述は良く重なるものであり、それは「磐井の乱」は実際にあったと考えるのが相当であることを示すと思われます。
 またそのことから逆に、「本来」の倭国の領域(倭人伝の「三十国」の範囲)としては、「近畿」付近まで広がっていたと考えられることとなり、「明石海峡」付近にその境界線があったと見ることができると思われます。
 それはたとえば「播磨風土記」で「応神」に擬される「近畿王」の「巡行範囲」が「播磨中部」に限られていることからも推定できます。そこでは「播磨東部」と「播磨西部」は巡行の対象から外れており、それは「東部」は以前からの支配領域であるためであり、そのことは 『神功皇后紀』において「筑紫」から帰還する「神功皇后」達を「香坂」「忍熊」両皇子が「明石海峡付近」(播磨東部)で迎え撃ったこととつながっています。つまり、ここに「境界線」があったことを示すと考えられるわけです。
 このようなことから「倭国領域」の境界線としては「明石海峡付近」であったものと見られ、それ以東は「狗奴国」等の「女王」の統治を拒否していた領域であったと考えられるものです。(「応神」の「巡行」とは「狗奴国」側から見てそれを僅かに西側へ広げた行為を意味すると考えられます)
 この時の倭国の領域については「吉備」「出雲」「安芸」「伊予」などがその中に入ると思われ、これらが当時「三十国」の中にあったものと思料します。

 この「播磨東部地区」という場所は「新羅王子」「天之日矛」の伝承においても西から進出してきた彼らの侵攻は「明石海峡」で止まるとされており、「播磨東部」で食い止められたことが推定されますが、その領域は先にこの地に「百済」から移住していた氏族がおり、彼らが中心となって「新羅勢力」と対峙することとなったと見られ、現実として「播磨東部」から「難波」へかけて「百済」からの渡来氏族が多かったとされることと関係があると思われます。
 いずれにしろ各時代を通じて、この「播磨東部」付近に常に「境界」が存在していたことを窺わせるものであり、ここが「女王国」と彼らに敵対する勢力との分水嶺であったことが知られます。

 この「境界線」までが「卑弥呼」の「倭国」であったとすると、この段階での戸数が「二十万戸」程度あったと見られることとなり、「一戸五口」として約百万人が「卑弥呼の倭国」人口であったと思われます。
 このことは「旧百余国」「今使訳通ずるところ三十国」という表現と重ねてみると、総人口はその三倍強の三百~三百五十万人程度であったかと考えられることとなるでしょう。
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「磐井の乱」の真偽(二)

2015年07月26日 | 古代史
 『倭人伝』段階に比べ『隋書俀国伝』では「戸数」も「国数」も半減していることとなったわけですが、そこから考えて、一国あたりの「戸数」には変化がないと考えられることとなりますが、それは自ずと一つの「国」の広さにも大きな変化がなかったであろう事が示唆され、『隋書』に記載されている「国」は「倭人伝」に言う「国」(クニ)と大きな差がないことを示すものです。それは『常陸国風土記』などの表記からも推察され、「広域行政体」としての「国」の成立は「遣隋使」以降であることがここでも強く推定されることとなります。さらにそれは各国における一戸当たりの「口数」にも変化がなかったであろうという推定にもつながるものです。
 『倭人伝』以降『隋書俀国伝』までに極端に「口数」が増加するような大家族制が成立していたという推定が成立する別途証明がない限り、「口数」も変わらなかったであろうと考えられるわけですが、そうであれば当然「総人口」においても「半減」したものと考えるべきであろうと思われることとなります。
 それはまたこの「三世紀以降七世紀」まで「戸籍制度」に大きな変化がなかったであろうということからもいえるものと思われます。たとえば、「正倉院文書」によれば「筑紫」や「常陸」などでは「両魏式戸籍」に類似する様式が確認できますが、さらに以前に国内で行われていたものは、「西晋時点付近」に起源がある「西涼式」といわれる戸籍でした。
 この戸籍は「美濃」地方で行われていたことがやはり「正倉院文書」から確認できますが、その起源から考えて「美濃」だけではなく「倭国内」ではかなり以前から行われていたことが推定されます。
 また「両魏式」の戸籍が「北魏」以降「隋」まで続いていたものであることを考えると、それが倭国内に伝来したのは「遣隋使」によるものであり、「六世紀末」から「七世紀初め」のことではなかったかと考えられることとなりますが、そのことから逆に「三世紀」から「七世紀」までの「倭国」では同じ戸籍制度(西涼式)が継続していたという可能性が高いこととなります。

 一戸あたりの「口数」が変化したとすると、そのためには兵役制度や班田法など、「戸籍」と連動した制度改定があったものと見なければなりません。それがなければ基本的には「家族制度」にも変化はなかったと見るべきだろうと思われます。
 「家族制度」というものは「戸籍」を通じて「社会全体」につながっているものであり、「社会」はそれを規定する「律令」の存在で変化するものと考えられるものですから、「村落」に関わる制度や「兵士」などを規定した軍制の変化など、社会を規定する要素の変動がない限り、その構成単位である「戸制」も変化しないと考えらます。(というより『隋書』や『二中歴』において「年始」以前は「結縄刻木」であったという趣旨の記事があることから考えて、「卑弥呼」「壱与」の時代以降かろうじて行われていた中央集権的制度や「律令」らしきものは「崩壊」したものと思われ、「戸籍」なども「中央」の指示によって作られるというようなことはなくなっていたと思われますが、他方「倭国中央」ではなく「諸国」には当時行われていた「戸籍制度」である「西涼式戸籍」というものがあたかもタイムカプセルに入ったように保存されていたという可能性が高いと推量します。それは「美濃国」など諸国における「地方王権」が独自性、独立性の元に存立していたことを示唆するものであり、それが後に「両魏式」制度を受容しない土壌を作っていたものではないでしょうか。

 また生産性が上がって「単位収量」が増加した結果、人口増につながりそれが「口数」の変化になるという考え方もあり、それは一面真理ではあるものの、この当時全員が農民であるわけでもなく、日本は海岸線が非常に長い国ですから、多数の「漁民」もいたわけであり、近代日本においても「漁村」あるいは「半農半漁」という村落は非常に多かったと見られるわけですから、「農業生産性」の向上が仮にあったとしてもそれが「人口増加」には直結しなかったと思われます。また、仮に関係があったとしてもそれが一概に「口数」の変化(増加)になるとは限らないと思われます。さらにそのような収量の増加ということは必ず「班田制」など制度の改定や充実に伴うものと思われ、そのようなものが「遣隋使」以前にはなかったであろう事を考えると、一戸あたりの口数の増加に直結するような収量増大は起きていなかったと見るべき事となります。
 「家族」の構成というような基本的構造の変化は国家の骨格に関わることであり、何らかの外圧など「爆発的要素」がない限り、「準静的変化」(ゆっくり変化していく)の範囲に留まると考えられます。
 少なくとも、「三百年間」で「口数」は大きく増加したにもかかわらず「戸数」には変化なしというような事態ははなはだ考えにくいと思われるわけです。

 そう考えると、この『隋書俀国伝』時点で「戸数」が減少している理由を社会制度や生産性というようなものとは異なる次元の中で捜さなければなりません。そのような観点から見て、可能性があるのは「天変地異」と「戦争」ですが、人口が半減するような天変地異が起きたと考えるのは少々困難です。「地震」「津波」などによる場合は「海岸線」や低標高地帯に居住する人々には多大な影響はあるでしょうけれど、それ以外であれば影響はまだしも小さかったと考えられますし、ボーリング調査などから瀬戸内沿いにこの時代に巨大地震があった或いはそれに伴う巨大津波があったという証拠は見つけられていません。それよりも原因として合理性があるのは「戦争」ではないでしょうか。
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