古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

年末ご挨拶

2015年12月31日 | 日常身辺雑事

ブログを御覧の皆様。今年も最後の日を迎えています。

いつも当ブログを御覧いただきありがとうございます。

今年も実に様々なことがありました。十年一緒に暮らした愛猫「太郎」の死から始まり、ポリープ切除、勤め先の変更、古田氏の死去、転倒による負傷などほかにも書ききれないほどの種々雑多のことがありました。

古代史研究は図書館がよいに明け暮れ、たてた仮説はちっとも成立せず、ほかのことも遅々として進まず、焦燥感が募る毎日でしたし、欠陥のある論を投稿してみたり、意気の揚がらない一年でした。
ocnがホームページサービスをやめたため私がこのブログとは別に開いていたホームページもクローズしました。(中身にいろいろ問題があり、それらを精査しているため現在なおクローズのままです)

来年はもう少し形のある結果を求めて論を進めたいと思います。

どうか皆様には来る年が健康で実りのある一年となりますよう祈念申し上げます。

今年一年ありがとうございました。

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「■妻倭国所布評」木簡について(二)

2015年12月29日 | 古代史

 「五十戸制」が「里制」に変更されたと推定される「庚寅年」というのは、倭国王権が大きな改革を行なった年であると考えられ、「筑紫」からの「遷都」を行ない、それに伴って「畿内」の再定義が行なわれ、「近畿」周辺を改めて「畿内」としたと推定されます。(この場合の「京師」は「下層条坊」としての「藤原京」かと推定されます)
 この時点で、旧「畿内」である「筑紫周辺」にも「評制」が適用されることとなったものと考えられます。それは「筑紫周辺」で「評」が書かれた木簡等が確認される年次が全て「庚寅年」以降のものであることからも推定できるものです。
 そもそも「七〇一年」以前の段階で既に「列島」の盟主の座は「倭国」から「日本」へと交替していたと見られ、それは「国号」の変更という形で現れたと見られますが、その際に「倭国」という呼称は元々の「倭国王権」の「当初の」支配領域に限定された使用法となったという可能性があると思われます。
 中国の例からも元々の支配領域(封国)の名称を後に「国号」にしていたものであり(「唐」も「隋」も「封国」の名称を国号にしていたものです)、当時の日本においても同様ではなかったかと考えられ、「倭国」とは「筑紫」の一地方の名称であったものと推量します。(またその「読み」は当時の「都」の場所の呼称を充てていたと思われ、「ちくし」であったと思われます)
 それが「日本国」へ「列島」の代表王権が移り変わった際に、元の「封国名」に戻されたという経緯が考えられ、「国名」が「日本国」となって以降、「倭国」は「筑紫」の一地方名にいわば「格下げ」となったものではないかと考えられます。つまりこの時点では「倭国」と「日本国」が並立していたのではないかと推察する訳です。
 そのように考えた場合は、この「木簡」に書かれた「倭国」というのは「評制」が施行されているということから考えても、「諸国」という扱いとなった「筑紫」周辺の「旧畿内」地域を指すと思われ、「近畿」のものではないと推定されることとなるでしょう。つまり「畿外諸国」という扱いとなった「筑紫」の一地域に対して「調」が義務として課せられ、それを輸送したときの「荷札」としての木簡であったという可能性が強いのではないでしょうか。
 その意味ではこの木簡の「冒頭」に書かれた「■妻」とは「上妻」ないし「下妻」という「八女」付近を指す地方名であるという推測が出来るように思われます。

 また「書紀」には「添郡」は「添上郡・添下郡」というように上下に分割された形でしか出てきません。以下の例が「添」郡の最古のものであり、その段階で既に「上郡」と表記されています。

『日本書紀』巻十九欽明天皇元年(五四〇)二月
「二月。百濟人己知部投化。置倭國添上郡山村。今山村己知部之先也。」

 このように「欽明紀」という段階で既に上下に分割されていることとなります。(その後も統合などがされていないようであり『続日本紀』にもかなりの数の「添上・下郡」記事が出てきます。)
 しかし、木簡では「所布評」というように「上・下」には分割されていません。上に見たように「国-評-里」という書き方はかなり新しい形式と考えられ、少なくとも「五十戸」が「里」と全面的に書き改められるようになった「庚寅年」以降であると考えられます。
 つまりこの木簡が書かれた時代としては一般的には「六九〇年」以降「七〇一年」までのおよそ十年間の中のことと絞られることとなりますが、その中では「上・下」には分割されていないわけですから、『書紀』『続日本紀』の示す史料上の事実と「実体」(木簡)とが整合していないこととなります。
 『書紀』等に「添郡」としての「単体記事」がないということは、この二つをイコールで結ぶ事はできないということを示すのではないでしょうか。
 しかし、たとえば、「倭国」には「添山」があるとされます。(以下の記事)それは「天孫降臨」が行なわれた山の名として出てくるものであり、まさに『倭国』の中心とも言える場所です。

「一書曰。天忍穗根尊、娶高皇産靈尊女子栲幡千千姫萬幡姫命。…是時高皇産靈尊乃用眞床覆衾 皇孫天津彦根火瓊瓊杵根尊。而排披天八重雲以奉降之。故稱此神曰天國饒石彦火瓊瓊杵尊。干時降到之處者。呼曰日向襲之高千穗『添山』峯矣。及其遊行之時也云々。…『添山』此云曾褒里能耶麻。…」(『日本書紀』巻二神代下第九段一書第六)

 古田氏によって「天孫降臨」の地が「筑紫」であることが明らかにされていますから、「添山」は「筑紫」にあったこととなり、それは「倭国」に「添」(そほり)という地名等が遺存していても不思議ではないことを意味するものでもあります。

 また「倭名抄」によれば「大和国」の「添郡」には(「上・下」とも)「大野」という「里」(郷)は存在していないのに対して、「筑前」や「豊前」には「大野」という地名が当時存在していました。

 「筑前國御笠郡大野郷」
 「豊前国築城(ついき)郡大野郷」

 木簡に見る「大野里」がこれらの地域であるという可能性も考えられるでしょう。また、これらのことは「添下郡」の「大野郷」という場所が古い時代のものではなく比較的「新しい」という事を表すものともいえると思われます。

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「■妻倭国所布評」木簡について(一)

2015年12月28日 | 古代史

 かなり以前ですが、「古田史学の会」のホームページに掲載された「古賀氏」のブログに、 「藤原京」遺跡から発見された木簡として「倭国」という文字が書かれたものがあることについて書かれていたものがありました。(以下全ての木簡史料は「奈文研木簡データベース」によります)
 今回はそれに関連したことを書きます。

妻倭国所布評大野里」(藤原宮跡北辺地区より出土)

 これがその問題の「木簡」です。ここに書かれている地域については「大和国添下郡大野郷」であろうと比定されているようです。(「奈文研」の解釈による)
 また、ここに書かれた木簡には「国」「評」「里」が揃っていますから、「評木簡」の中でも後期のものであると考えられます。「七〇一年」以降には「評」は「郡」に変更となったものとされていますし、また「六九〇年」以前には「里」は「五十戸」と書かれていたらしいことが推察されているためです。
 このことから「七〇一年以前」に「近畿」に「倭国」があったこととなると云うような解釈も考えられることとなったわけです。

 ところで、この木簡が発見された同じ場所(藤原宮跡北辺地区)からは他にも三十三例の木簡出土が確認できますが、いずれも「荷札木簡」とされています。つまり、遠方の国から運ばれて来た物資につけられた「荷札」としての機能があったものです。それらは「隠岐国」「尾張国」「下毛野国」「吉備中国」「三川国」「周防国」ないしは「大隅国」「遠江国」「丹波国」「播磨国」「若狭国」などであり、いわゆる「畿外」からのものです。(国名等が明記されておらず不明なものもありますがそれも「隠岐国」ではないかと推定されています)
 また、これらの木簡が同一の地域から出土したと言う事は、それらの木簡が「同種」のものであり、また「同時期」に廃棄されたものということが考えられます。
 そう考えると「畿外」からの「荷札木簡」と「畿内」からのものが同居しているという不自然さがあるようにも思われます。
 ただし、他の木簡を見てみると、「軍布」(ワカメ)、「伊加」(イカ)、「大贄」(内容不明)などのいわゆる「調」を輸送したものと推定されます。このことはこの「藤原宮跡北辺」から出土した木簡群全体が「調」に付されたものという理解が可能と思われますが、後の「養老令」などでは「畿内」に対しても、「低減」(半減)などの措置はあったものの、基本的には「調」が全く免除されていたわけではありませんから、この廃棄された荷札木簡の中に「畿内」からの「調」に付されていた木簡があったとしても不思議ではないこととなります。ただし、この「倭国木簡」が「畿内」からの「調」に関連するのかそれとも「畿外木簡」なのかというのは微妙な問題です。 
 ここで考え方としては二つあると思われます。一つはこの木簡が書かれた時期(六九〇年以降)は「近畿」に「倭国」があったとするものであり、それは即座に「畿内」も「近畿」にあったことを意味するものでもあります。つまり、ここで見られる「『調』木簡」はその「近畿」の「倭国」に設定された「畿内」からの「調」であるとするものです。
 それに対し別の考え方はこの時期には「近畿」に「畿内」があったという点は共通していますが、「倭国」は「筑紫」のままであったとするものです。そしてこの「『調』木簡」は「畿外」からとしての「倭国」からのものであったとするものです。この場合「畿内」には「日本国」があったと考える訳であり、「倭国」はこの時期「筑紫」の一地方名として矮小化されていたとするわけです。このように考えても「倭国」から「調」に関連していると考えられる木簡が発見されても不思議ではないこととなるでしょう。これによれば他の「遠隔地」からの木簡と一緒に出土としている理由も納得のいくものとなります。 
 
 ところで、私見によれば「評制」は「諸国」に適用されていたものであり、「倭国王権」の直轄地である「筑紫」の周辺(これが元の「畿内」と思われる)には施行されていなかったものと見られます。
 「筑紫」は「都督」が「倭国王」に代わって「直轄」していたと考えられ、そうであれば「評制」は施行されていなかったと考えるよりないと思われます。また、それは即座に「筑紫」には「評督」がいなかったであろう事を示します。「評制」がないとすると「評督」が存在しないのは当然です。そう考えるとここで「倭国」に「評制」が施行されているということが、この「倭国」の位置を示していると思われます。つまり「倭国」の地域が「諸国」の一つであり「畿外」であるということを表すものではないでしょうか。

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「大疫」と「倭王権」

2015年12月26日 | 古代史

 既にみたように「後漢」の末期には天変地異の他、「大疫」(疫癘)と称される強い伝染病の蔓延があった可能性が高く、そのため一般の人々(特に農民)にとっては彼等を取り巻く環境が大きく悪化したものと思われるわけですが、その時「後漢王朝」とそれを支えていた人達は自己の権益を優先したため、事態の悪化を招いたものです。
 「王権」を支えていた将軍達は自家の領域における権益の確保を優先したため「王権」を支える意識が低下したものであり、それは即座に「民衆」に対する視点の欠落となったため、「反乱」を起こすものや、他国領域へ「難民」となる人々が多数に上ったものです。「黄巾の乱」も彼等に対する救済が遂に「太平道」しかなくなったと思われたからこそ、「後漢王朝」に対して打倒の意識が集まったものと思われます。
 そのような中で「難民」(流民)となって「故郷」を捨てて流浪する人々が増加し、彼等のうち相当多くのものが半島へ移動したとみられ、更にその一部は倭国へ流入するという事態となったと思われます。(『新撰姓氏録』にも「後漢」の末裔と称する人々が数多くみられることが、そのことを物語っています。)
 このような人の動きは「列島」の中に少なからず波紋を広げたものであり、居住地をめぐる争いというレベルの問題から、彼等によって持ち込まれることとなった「疫病」も重大な影響を列島内にもたらすこととなったものと思われ、「後漢」と同様な天候不順や地震などという天変地異と重なって社会に混乱をもたらしたものと推測されます。

  たとえば「新大陸」にヨーロッパから「天然痘」が持ち込まれた際には多くの原住民が亡くなったことがあるなど、「伝染病」は特にその「病気」に対する「抗体」を持っていない地域では破滅的な結果になる場合があります。「卑弥呼」の当時の日本列島にも同様のことが起きた可能性があるでしょう。特に列島内には家畜の習慣(特に牛)がなく、「牛痘」や「天然痘」に対する「抗体」は全く持っていなかった可能性が強いと思われます。(「弥生時代」に豚家畜の痕跡があるとされますが、それは渡来人によるものではなかったかと思われ、列島に元々いた人々については「家畜」を起源とする伝染病に対して抗体を全く持たなかった可能性が高いと推量します)
 このため、かなりの感染者が出た可能性が高く、致死率も高かったでしょうから、各地で混乱が発生したものと考えられます。
 このような「エピデミック」は現代でもなかなか沈静化させることは難しく、当時の「王権」には至難の事業であったと思われます。このようなときに「後漢」に「太平道」や「五斗米道」が起きたように「倭国」でも新しい宗教に救済を求める雰囲気ができあがった結果、「鬼道」に事える人物である「卑弥呼」に対する依存と信頼が民衆の間で発生したと思われるわけです。

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「倭国乱」と「後漢」の状況(二)

2015年12月20日 | 古代史

 そもそも「疫」とは多くの人がその病気に悩まされていたことを示し、さらに「癘」はその中でも「悪性の病気」を指す語ですから、その正体としては各種考えられるものの、その症状等が書かれていないため推測でしかないわけですが、たとえば「天然痘」などもその候補の中に入るでしょう。
 「天然痘」の感染力の強さと致死率の高さは比類がありませんから、この「疫癘」という致死率の高い悪性の流行病が「天然痘」を示すと考えてもそれほど不自然ではないこととなります。
 記録上は「南北朝期」に「南朝」側の記録として「天然痘」と思われる記事が見られるのが最初とされますが、それが「北朝」からもたらされたとみられるわけで、「牧畜」の習慣を持っていた「鮮卑族」など匈奴の出身者が多かった「北朝」との交戦経験が「天然痘」の流行をもたらしたものと思われているようです。
 たとえば「一六五年」から十五年間にわたってローマ帝国の領域で多くの死者を出した疫病(アントニウスの疫病あるいはアントニウスのペストと呼ばれるもの)と同じものが当時東方へ伝染していたと言うこともありうると思われます。当時「ローマ帝国」は「パルティア」(現在の「イラン」「イラク」付近にその中心があったと見られます)との戦争のため多くの人員を中近東付近に派遣しており、彼等が疫病をローマ領内へと運んだものと見られます。この疫病は天然痘と見られており、少なくとも350万人(一部には500万人という説もある)が死亡したとされますが、当時「ローマ」は「漢」との間に使者を交換しており、通交があったものです。これらの交流の結果が漢帝国内の疫病となったという可能性もあるでしょう。 ただし、「黄巾の乱」が当初発生した「河南地区」は当時の首都である「洛陽」を含んでおり、「夏」「殷」王朝やそれ以前の石器時代においても文化中心であったとみられており、その当時から「豚」などを家畜として利用していたことが判明しています。この地域から最初に「黄巾の乱」が発生したわけですから、ここでいう「疫癘」は「家畜」との共通伝染病であった可能性も考えられ、その意味では「豚インフルエンザ」などもその候補として考えられるでしょう。

 たとえ「疫癘」の正体がどの伝染病であっても「黄巾の乱」の発生した「河南」地区は「大農業地帯」であり、天候に恵まれていれば農民が生活に困ることはそうなかったはずです。それが「新興宗教」に頼らざるを得なくなったわけですが、そのようになった理由の一つは強い社会不安の存在であり、その根底に「病気」(「疫癘」)に対する恐れがあるとともに、生活そのものが破壊されていることに対する不安があったものと思われます。
 「黄巾の乱」を起こした教団である「太平道」では罪を懺悔告白し、「符水」(お札と霊水)を飲み、神に許しを乞う呪文(願文)を唱えると「病が治る」とされ、支持を集めたとされるなど、いわゆる「現世利益」を目的としているとされますが、この「病を治す」というところが主眼であったものであり、それが特に「疫癘」に対してのものであったことが推定出来ると思われるわけです。
 このような「疫病」の蔓延とそれに対処できない「後漢」の混乱及びそれに伴って発生した「宗教結社」の存在とが「卑弥呼」の前代の混乱及び「卑弥呼」の即位という事情に重なっていると思われるのです。

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