古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

天空の星と神話の世界(二)「シリウスは赤かった?」

2015年05月28日 | 宇宙・天体

 「火瓊瓊杵尊」の美称部分と思われる「火」は「赤」いという意味があります。これは「穂」に通じるという説もありますが、「穂」の色はいわゆる「黄金色」であり、もし古代米であったなら「赤米」であってその色はやはり「赤」であったという可能性さえあると思われますから、少なくとも「白」や「青白」ではないと思われます。
 また、当時の技術では「火」の温度として「白色」になるほどの高温は作れなかったであろうと思われ(色温度として「1万℃程度」となる)、人工的に作る「火」はすなわち「赤」であったと思われます。語源的にも、「あかるい」という語の語源は「火」の色を示すものであり、「赤」という色のイメージからできた言葉ではないかと思われます。
 今も日本人が太陽を描くと「赤」に塗るなど太陽に「赤」というイメージを持っているのは「火」が赤いことからの類推と思われるわけです。
 ただし、「太陽は実際には黄色に近い。」という言い方もされ、またそのように描く地域(国)もあるようですが、確かに太陽の表面温度は「6千℃」とされますから「色温度」では「黄色」となります。しかし、もし太陽が遠くにあれば確かに「黄色」に見えるとは思われるものの、地上からは光が強すぎて人間の目の中にある「色」を感じる細胞では入力信号がオーバーフローしてしまうため「色」は判別できないと思われます。つまり「太陽」の色を赤や黄色に描いているのは一種のイメージであり、「明るい」と「赤」が近縁の言葉であることからの類推と思われるわけです。その意味では「火」はまさに「赤」であることとなります。
(「瓊瓊杵尊」の「瓊」も「赤い玉」を意味する語ですからその意味でも「赤」のイメージの強い名前です(20151103追加注))
 しかし前項で行った「神話」と「天空」の星との関係の解析からは「シリウス」が最も「火瓊瓊杵尊」に該当する可能性が高く、そうであれば「白い」星に対して「赤」を意味する美称がつけられたこととなってしまいます。そうするとこの神話が形成されたころには「シリウス」は「赤かった」こととならざるを得ませんが、実際に古代において「シリウス」が「赤かった」という記録が複数あるのです。

 「斉藤国治」氏の『星の古記録』という書には、各種の古い記録に「シリウス」についてその色を「赤」と表現する記事があると書かれています。なかでも「紀元前一五〇年頃のエジプトのプトレマイオス(トレミー)は「アルマゲスト」という天文書の中で「赤い星」として、「アルクトゥルス」(うしかい座α星)「アルデバラン」(牡牛座α星)「ポルックス」(双子座α星)「アンタレス」(さそり座α星)「ベテルギウス」(オリオン座α星)という現在でも「赤い星」の代表ともいえるこれらの星の同列のものとして「シリウス」を挙げているのです。しかし同時代の「司馬遷」の『史記』を見ると「白い」という表現がされているものがあり、食い違っています。ただし、「色を変える」というように受け取ることのできる記事もあるなど不確定な部分も見られます。(以下の記事)

「參為白虎。…其東有大星曰狼。狼角變色,多盜賊。…」
「太白 白,比狼;赤,比心;黃,比參左肩;蒼,比參右肩;,比奎大星。」(史記/書 凡八卷/卷二十七 天官書第五)

 これらによれば「太白」つまり「金星」自体色を変えることがあるとされ、そのうち「白」い場合は「狼」(シリウスを指す)と同じような「白さ」であるというわけです。
 「金星」は地平線の近くに出ることが多く(内惑星のため太陽からの離角を大きくはとれない)、上層の大気の様相を反映して色が赤くなるようなことがあります。望遠鏡で見ても「プリズム」で見たように七色に見えることがよくあります。

 ところで上の「太白」の色に関する記事の中に「黄」に対するものとして「參左肩」というものがあります。この「参」とは「オリオン座」を示すものですが、上の記事では「白虎」とされており、その左肩というのは「γ星」(ベラトリックス)のことでしょう。これが「黄」とされています。また「赤」の代表は「心」とされますが、「心」とは「さそり座」を指すもののようですから、「アンタレス」を意味すると思われます。ところが、「蒼」つまり「青」の代表として「參右肩」が出てきますが、これを「オリオン座」のα星「ベテルギウス」であるとすると、これは明らかな「赤」ですから、「蒼」という色とは合いません。最も「蒼」にふさわしいのは「β星」である「リゲル」ですが、これは一般には「左足」とされます。これは明るさもベテルギウスと変わらないほどであり、また「青色巨星」とされていますから、これであれば「蒼」という色に対応するものとして不審はないのですが、実際には「左肩」とされています。たとえばこれが「右」「左」が逆であったとしても「ベテルギウス」に対して「黄」という表現がされたこととなってしまいます。ただし、現時点では「白虎」の姿勢と星の配列がどう対応しているかが不明のため『史記』の記述を性格には判断できないわけですが、「ベテルギウス」は「赤色超巨星」に分類され、「太陽系」でいうと「木星軌道」を超える程のサイズまで膨張していると考えられており、超新星爆発が間近いとされますが、このような星が2~3000年前まで「黄色」であったとは考えにくいものです。
 「ベテルギウス」のような状態になるまでには「赤色超巨星」の期間がかなり長く続いたあげくのことと思われますから、2~3000年ではそれほど進化しないものと思われるのです。
 しかし『史記』において「赤」の代表を「アンタレス」に譲っている事態は「ベテルギウス」の赤みがそれほど強くなかったということもいえるのかも知れません。
 消極的ですが、このことは「白」という色とされている「狼」(シリウス)もそれ以前は違う色であった可能性も考えられることとなるでしょう。
 また「狼」とされる「シリウス」も「變色」つまり「色」を変えることがあり、そのような場合は不吉なことがある(ここでは盗賊が増える)とされているわけです。これについては「金星」と同様「大気」の影響ということももちろん考えられますが、当時は何か不安定な状態で「色」を変えていたのかもしれません。しかし「シリウス」は「主系列」に部類され、変光とか色変化というようなことがあったとは想像しにくいのは事実です。ただし鍵を握っているのは「シリウス」の「伴星」です。

 「シリウス」は確かに青白く見えますが「主系列星」に分類されています。また伴星がありこれは「白色矮星」であるとされています。「白色矮星」は「新星」爆発の残骸といえるものであり、多くの場合「赤色巨星」が爆発現象を起こした後に残るものです。
 「シリウス」とその伴星は連星系を形成していますが、その公転周期は五十年といわれています。この周期から考えられる双方の距離は「20天文単位」と計測されており、かなり近いといえます。(太陽から天王星までの距離に相当する)しかもそれは平均距離であり、伴星が元「赤色巨星」であったとするとそのサイズはかなり大きかったものと見られ、両星は今以上に接近していたという可能性があります。そう考えると当時は「近接連星系」を形成していたといえるかも知れません。
 
 連星系において一方が終末期近い「赤色巨星」である場合、「進化」の過程で「膨張」し(既にそこに至るまでにかなり膨張しているわけですが)、終末期には大きさがいわゆる「ロッシュ限界」まで達する場合があり、そうなると「内部ラグランジュ点」を通って伴星側(これが「シリウス」)に質量が移動する現象が起きることとなります。主星側が伴星に対して質量が圧倒的に大きい場合この「ラグランジュ点」もかなり伴星側に近い場所にできる事となり、このような場合、主星側から質量がもたらされる伴星(この場合はシリウス)は、条件によってはそのまま「質量増加」という結果になる場合もあり得ます。その結果「伴星」であった「シリウス」はやや質量が増加し、発生エネルギーも大きく増加した結果1万度にもなる事となったと見られます。
 シリウスに金属元素が多いという観測結果があるようですが、基本的に「金属元素」や「重金属」元素は「重い星の内部」で作られるものであり、その金属元素は「赤色巨星」(これは重い星)からもたらされたものであると考えると理論的に整合するといえるでしょう。

 ところで「シリウス」の現在の状態は「白色矮星」と「主系列」の組み合わせであるわけですが、当然それ以前は「巨星」と「主系列」という組み合わせであったこととなります。しかもその場合「主星」である「巨星」(現在の伴星)がロッシュ限界に先に達することとなっていた可能性が高いものと推察されます。
 ところが観測された事実からはこのような組み合わせは一例も発見されていないとされます。すべての近接連星系では質量の大きい星、つまり主星が「ロッシュ限界」内にあり、質量の小さい方、つまり伴星が「ロッシュ限界」に達しているのです。この逆パターンつまり「シリウス」の以前の状態の連星系は確認されていないのです。(これをアルゴルパラドックスと称するようです)
 これについては各々の星の「進化」のスピードの違いで説明されています。
 
 先に「主星」が進化・膨張して「ロッシュ限界」に達すると質量の小さい進化の遅い星の方へ(ラグランジュ点を通じて)質量移動が起こり、それにより主星側の「ロッシュ限界」が小さくなり、さらに質量移動が促進されることとなります。ついにはもとの伴星よりも質量が小さくなると急激な膨張はほぼ収まり、その結果「ロッシュ限界内」に止まる新たな主星と「ロッシュ限界」に達している新たな伴星という組み合わせが発生するわけです。この状態が「シリウス」の以前の状態と考えられるわけです。
 この状態でさらに伴星側の進化が進行し、ついには「中心部」から供給されるエネルギーが急激に減少すると重力崩壊を起こし、その結果「白色矮星」が形成されることとなります。これが今のシリウスの状態と思われますが、この「最終段階」のイベントが「紀元前」に起きていたとすると、その時点以前では「赤い」「伴星」と「白い」「主星」という組み合わせであったものと思われますが、この時点では両方の間にそれほど明るさの差がなかったという可能性もあります。特に「赤い星」の状態が末期であるとすると、大きく変光していた可能性が強く、この両星は肉眼では一つの星として見えないわけですから、全体として「赤」くみえたり「白」くみえたりという両方が観測されたとしても不思議ではないと思われるわけです。

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天空の星と神話の世界(一)

2015年05月27日 | 古代史

 『書紀』の神話の中に「天の鈿女」と「猿田彦」の話が出てきます。天下りの前に地上界を調べに来た「雨の鈿女」の前に「猿田彦」が立ちふさがり問答する場面がありますが、そこに一見ストーリー展開と関係のない描写があります。

『書紀』「巻第二神代下第九段」の「一書」
「…已而且降之間。先驅者還白。有一神。居『天八達之衢。其鼻長七咫。背長七尺餘。當言七尋。且口尻明耀。眠如八咫鏡而赩然似赤酸醤也。』即遣從神往問。時有八十萬神。皆不得目勝相問。故特勅天鈿女曰。汝是目勝於人者。宜往問之。『天鈿女乃露其胸乳。抑裳帶於臍下。而笑噱向立。』是時、衢神問曰。天鈿女、汝爲之何故耶。對曰。天照大神之子所幸道路。有如此居之者誰也。敢問之。衢神對曰。聞天照大神之子今當降行。故奉迎相待。吾名是猿田彦大神。時天鈿女復問曰。汝將先我行乎。將抑我先汝行乎。對曰。吾先啓行。天鈿女復問曰。汝何處到耶。皇孫何處到耶。對曰。天神之子則當到筑紫日向高千穗槵觸之峯。吾則應到伊勢之狹長田五十鈴川上。因曰。發顯我者汝也。故汝可以送我而致之矣。天鈿女還詣報状。皇孫、於是、脱離天磐座。排分天八重雲。稜威道別道別、而天降之也。果如先期。皇孫則到筑紫日向高千穗槵觸之峯。其猿田彦神者。則到伊勢之狹長田五十鈴川上。即天鈿女命隨猿田彦神所乞遂以侍送焉。時皇孫勅天鈿女命。汝宜以所顯神名爲姓氏焉。因賜猿女君之號。故猿女君等男女、皆呼爲君此其縁也。高胸。此云多歌武娜娑歌。頗傾也。此云歌矛志。…」

 ここには「雨の鈿女が胸をあらわにむき出して、腰紐を臍の下まで押し下げてあざ笑った。」というような描写があります。このような描写がどのような意味を持つのかは従来不明でした。さらに「猿田彦」の顔などの描写が異常に詳しく出ており、唐突な印象を受けます。
 しかし、これらの部分については「天空の星の配列をなぞったもの」という解釈により「解決」したのです。以下は「勝俣隆氏」の研究に準拠します。
 私がこの「勝俣氏」の研究に接したのは『星の手帖』という天文雑誌が昔あり、それに載っていたものを見たものです。当時非常に面白いと思ったことを覚えています。その後「氏」の『星座で読み解く日本神話』(大修館書店)を購入し読んでいましたが、現在ではその多くが「長崎大学」のデジタルリポジトリで読むことができます。
 それによると「猿田彦」の描写の部分は「牡牛座」の「ヒアデス星団」付近のことであり、「其鼻長七咫。」という部分の「鼻」とは「V字型」をした「ヒアデス星団」の両目とおぼしき星の部分から下方に続く星の列を結んだものであり、「口尻明耀」とされ「似赤酸醤」と書かれているのが「牡牛座」α星の「アルデバラン」のことと考えられるようです。「アルデバラン」は「赤色巨星」であり、その赤く大きく輝く姿は「冬の星座」の中ではかなり目立ちます。
 この「ヒアデス星団」は大きく広がった明るい「散開星団」であり、「牡牛座」の「顔の部分」を形成しています。肉眼でもその「星団」の中に多数の星が数えられるほどであり、古代の人々にもなじみの星達であったと考えられます。
 この「猿田彦」が「牡牛座」であるとすると、「天鈿女」の部分は「オリオン座」のことではないかと考えられます。
 この「オリオン座」と「牡牛座」は「向かい合っている」形になっており、「ギリシャ神話」でも「突進する雄牛」とそれを迎え撃つ「オリオン」という見立てになっていますが、このように「互いに向かい合った」姿を想像するのはそれほど難しくありません。
 このように特徴のある星達(星座)が向かい合っていることから、この「天上」から下りてくる「天鈿女」とそれを迎える「猿田彦」と言うことに話が組み立てられたものと考えられます。その場合、「臍の下」まで押し下げられた「腰紐」というのが「オリオン大星雲」(M42)だと考えられます。オリオン座のいわゆる「三つ星」のすぐ下に「ぼうっ」と輝く「オリオン大星雲」はかなり空の明るいところでも肉眼で容易に認められるものです。それを「腰紐」と形容したものと思われるわけです。
 このように「天鈿女」を「オリオン」とするには別に徴証があり、この「天鈿女」は「瓊瓊杵」から「汝是目勝於人者」と言われており、それは「天鈿女」の「目」が「猿田彦」の「赤酸醤(ほうずき)」のように輝く「光」(星)に負けない光と色であるという意味であり、これは「オリオン座」のα星「ベテルギウス」についての表現であると考えられます。「ベテルギウス」の方が「アルデバラン」よりも明るくて、同じように赤く輝く星ですから、それが「瓊瓊杵」の言葉に現れていると思われます。

 また、上の「神話」の記事の中に「猿田彦」のいた場所として「天八達之衢」という名称が出てきます。
 「衢」(ちまた)というのは「交差点」を示す言葉であり、「天上世界」とこの世界を繋ぐところが「天八達之衢」であり、その「通路」となっているのが「星」であり、またその集まりである「星団」であるとされています。
 その様なものが実際に「オリオン」と「ヒアデス」の至近になければなりませんが、それは同じ「牡牛座」に存在する「プレアデス星団」であるとされます。
 この「プレアデス星団」は「すばる」と呼称され、その「語義」としては「集まっている」或いは「統率する」という意味であるとされていますが、各地域では「むつらぼし」を始め多くの呼び名がありますが、それは六個しか見えないという意味ではありません。「普通」の視力でも少なくとも「六個」程度の星が集まっているように見えるというだけであり、目が良ければ数十の星が見えるとされます。(私の場合は近視と乱視があるため裸眼では「雲の切れ端」のようにしか見えませんが、眼鏡をかけると確かに五-六個の星に分離して見えます。)このようなものを「天八達之衢」と呼んだと考えるのはあり得る話です。
 「西欧」では「ギリシャ神話」に基づき「セブンシスターズ」と呼び習わされていますが、名前がついているのは「九つ」あります。それは「両親」+「七人姉妹」の構成となっているためで、星図で確認すると、この九個のうちで一番暗い星は「アステローペ」の5.77等の様です。
 このように基本的には、天空の状態や本人の視力などにより左右されるものの、特に明るい六個以外はその神話の構成上「九」になったり、あるいは「八」という数字に意味を持たせて「八衢」としていたというようなことかもしれません。

 更に「瓊瓊杵尊」は「天鈿女」に案内されて天降ってくるわけであり、それに立ちふさがるように「猿田彦」がいるとされていますから、「瓊瓊杵」は「猿田彦」から見て「天鈿女」の背後(向こう側)にいると考えられます。星座で言うと「牡牛座」から見て「オリオン座」の向こう側とすると、該当するのは「おおいぬ座」のα星「シリウス」ではないでしょうか。
 「全天第一」の「輝星」であるシリウスはギリシャ語で「光り輝く」という意味であり、また「中国」では「天狼星」という名がつけられていますが、周囲を圧するように青白く輝くその姿は神々しいほどであり、「火(ほ)」の「瓊瓊杵尊」という名にふさわしく明るく輝く星です。
 「おおいぬ座」の「おおいぬ」は「オリオン」が引き連れていたお供の犬(「猟犬」)であるとされていますから、「オリオン座」のすぐ背後に位置しており、位置関係的にも不自然はありません。このような特徴ある星が「瓊瓊杵尊」として「神格化」されていたとしても全く不思議はないと考えられます。
 ただしこの考えには一つ問題がありました。それは「火(ほ)」という表現が基本的に「赤」を意味するものだからです。それに対しシリウスの色は「白」あるいは「青白」であり、整合していないように見えるのです。

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「倭国」と「俀国」

2015年05月24日 | 古代史

 『隋書』の成立過程には疑問があるということをすでに述べました。そこで問題となったのは「大業年間」の「皇帝」の言動を記した「起居注」が「初唐」段階で「宮中」の「書庫」になかったことです。
 そのような中で「高祖」そして「太宗」と二代にわたり『隋書』編纂命令が出ていたわけであり、この指示は当然のこととして「絶対」であり、必ず完成させ上程する必要があったものです。このような状況の中では利用できるものは全て利用するという姿勢であったことと推察されますが、その段階で最も利用されたであろう史料が「王劭」が私的にまとめていた「開皇」「仁寿」両年間の「文帝」に関する「史料」です。

(「隋書/宋天聖二年隋書刊本原跋」 より)
「隋書自開皇、仁壽時,王劭為書八十卷,以類相從,定為篇目。至於編年紀傳,並闕其體。…」

 つまり彼の撰した「隋書」は「開皇」「仁寿」年間に限定されたものであったものの、利用できる史料の中ではトップクラスに正確性が高かったものと思われ、これを相当程度取り込んで『隋書』は書かれたものと推定されるわけです。
 このことは「王劭」が書いていたという「開皇」「仁寿」年間についての「隋史」がこの「日出処の天子」と書かれた国書持参記事に利用された可能性が考えられるものですが、それを傍証するのが「帝紀」には「倭」とありながら「列伝」の方では「俀」国伝になっているという違いです。この差は明らかに「原資料」の素性(出所や性格)の違いに起因するものであり、「倭国」に関する資料に複数の出典が想定されることを意味するものです。
 これに関しては「倭」と「俀」が別の国を指すという「古田氏」を初めとする「多元史観論者」の主張がありますが、『隋書』に記事の転用・移動があるとする立場からは即座には同意しかねます。もしそうなら「帝紀」と「列伝」というそれぞれに「倭」と「俀」の双方について偏って存在することの意味を説明する必要があるでしょう。(ただしそれは(「倭」と「俀」は単純に互換の語であるとする旧来の立場についても同様にいえることですが)
 「古田氏」はこれについてその書「失われた九州王朝」において「列伝」と「帝紀」の記事の時間差に注目し、その二つが接近していることからこれらを同一の国と見る事はできないとされました。つまり「帝紀」によれば「大業四年三月」に倭国からの「朝貢記事」があるのに対して「列伝」(俀国伝)ではその前年に遣隋使が送られており、それに応えて「裴世清」が派遣されたのがその翌年のこととなるとされますから、非常に短期間(数ヶ月か)のうちに別に「使者」を派遣したこととなり、そのような想定は無理があるとされるわけです。
 しかしこれは「帝紀」と「列伝」の年次が実際に接近していたという想定の下の判断であり、すでに述べたように「列伝」記事(少なくとも「俀国伝」記事)は実際にはもっと遡上した時期のものであり、「帝紀」の記事とは年次がかなり離れているとみた場合それらは「矛盾」ともいえなくなるわけであり、その意味で「倭」と「俀」が同一の国ではないと考える必要もなくなるわけです。
 そう考えると「俀」と「倭」は同じ国を指すという可能性が高くなるわけですが、その場合「王劭」が書いていた「隋史」が「列伝」の資料として参考にされたと見ると、彼はわざわざ「歴史的」な地域名である「倭」を敢えて「俀」に変えて「隋史」を書いていたこととなります。その意図はどこにあったのでしょうか。それは彼が熱烈な「文帝」の崇拝者であったらしいことが関係していると思われます。
 彼は「文帝」が即位した後「文帝」を「聖皇帝」であると賞賛し、各地で見られた現象を全て「文帝」に関わる「瑞祥」であるというように幾度も「上表」したものです。さらに「舍利感應記」を書き、その中では「文帝」を「仏教」を再興した聖天子であるとするなど賞賛の言辞で埋め尽くされています。
 その彼にとって見ると「文帝」に対して「身の程知らず」の言辞を弄し、その結果「宣諭」されることに至った「倭国」を、「漢」や「魏晋」から正統な王朝と認められていた伝統と名誉のある「倭国」と同一の扱いをすることはできないと考えたとしておかしくはなく、「俀国」という一見互換性のある語を使用しつつもそこに「弱い」という意を含んだものをあたかも「レッテル」の如くに貼り付ける行為に及んだものと考えることができるでしょう(元々「倭」にも「従順」という意があったものであり、また「弱い」という意味もその中に含んでいたものと思われますが、それをことさらに強調するための選字と思われます)。
 しかし「帝紀」(得に「煬帝紀」)はその元となった情報がすでに公になっていた情報の方が多かったと思われるため「王劭」の関与したものに多くは依存していないという可能性があり、そのため「大義名分」を「王劭」ほど重視しなかったということが考えられ、通常通り「倭」という表記で資料が書かれていたものと推量されます。このような事情により「不統一」な状況が発生したものと推量されるわけです。

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「東都」と「東京」

2015年05月24日 | 古代史

 「遣隋使」の真の派遣時期について、以前考察しました。その中では『隋書』の編纂過程に疑問があり、『隋書』(特に「大業年間」記事)について、「開皇」「仁寿」年間の記事を転用しているという可能性を指摘しました。それを示唆する「論理」を「伊吉博徳書」の中に見いだしたのでご紹介します。

 『書紀』の「斉明紀」に「伊吉博徳」という人物の「遣唐使」として派遣された際の「日記風」の記録が引用されています。そこに「東京」という表現が出てきます。

「(斉明)五年(六五九年)…秋七月丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以十四日寅時。二船相從放出大海。十五日日入之時。石布連船横遭逆風。漂到南海之嶋。々名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻。坂合部連稻積等五人。盜乘嶋人之船。逃到括州。々縣官人送到洛陽之京。十六日夜半之時。吉祥連船行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物留着彼處。潤十月一日。行到越州之底。十月十五日乘騨入京。廿九日。馳到『東京』。天子在『東京』。…」(斉明紀)

 この「東京」とは「洛陽」を指す表現ですが、この表現は「後漢」が「洛陽」を都として以来連綿として続いていたものです。しかし「隋代」に「煬帝」によって「東都」と改称されました。

「(大業)五年春正月丙子,改東京為東都。…」(『隋書』/帝紀第三/煬帝 楊廣 上)

 これによれば「洛陽」は「煬帝」によって「東都」と改称されたものであり、それは「大業五年」のことであったこととなります。更にこの「東都」はその後も継続して使用され、「唐代」(七四二年)に「玄宗皇帝」によって「東京」と旧名に戻されるまで一三〇年余りに亘って使用されていました。

「(天寶元年)二月…丙申,合祭天地于南郊。制天下囚徒,罪無輕重並釋放。流人移近處,左降官依資敍用,身死貶處者量加追贈。枉法贓十五疋當絞,今加至二十疋。莊子號為南華真人,文子號為通玄真人,列子號為沖虛真人,庚桑子號為洞虛真人。其四子所著書改為真經。崇玄學置博士、助教各一員,學生一百人。桃林縣改為靈寶縣。改侍中為左相,中書令為右相,左右丞相依舊為僕射,又黃門侍郎為門下侍郎。東都為『東京』,北都為北京,天下諸州改為郡,刺史改為太守。…」「『舊唐書』/本紀第九/玄宗 李隆基 下」

 このような中で「高宗」の代の「唐」に派遣された「伊吉博徳」は「洛陽」に対して「東京」という呼称を使用しているのです。つまり「伊吉博徳」の常識として「洛陽」は「東京」であったものであり、「東都」という名称に対する認識がなかったこととなります。
 彼の「中国」に対する知識と教養はそれまでの「隋」「唐」との交流の中で形成されたと見るべきですから、「煬帝」が「東都」と改称した「大業五年」以降の「洛陽」に対する知識が彼にはなかったこととなってしまいます。しかし『隋書』では「大業六年」に「倭国」からの使者が朝貢に訪れたことが書かれています。

「(大業五年)十一月丙子,車駕幸東都。」
「六年春正月癸亥朔,旦,有盜數十人,皆素冠練衣,焚香持華,自稱彌勒佛,入自建國門。監門者皆稽首。既而奪衞士仗,將為亂。齊王暕遇而斬之。於是都下大索,與相連坐者千餘家。丁丑,角抵大戲於端門街,天下奇伎異藝畢集,終月而罷。帝數微服往觀之。 己丑,倭國遣使貢方物。
」(いずれも『隋書』/帝紀第三/煬帝 楊廣 上)

 このように「大業六年正月」に「倭国」から使者が訪れたように書かれていますが、この記事の流れからはこの時「煬帝」は確かに「東都」にいたものであり、「倭国」からの使者も「東都」であるところの「洛陽」を訪れたものと推察できます。そうであるならその後の「遣唐使」である「伊吉博徳」が「東都」といわず「東京」と称していることは矛盾といえるでしょう。

 『書紀』の信憑性とは別の次元のこととして「伊吉博徳書」は考える必要があり、この「伊吉博徳書」は伝聞ではなく彼自身が見聞した実体験に基づいている点などを考えると信憑性としては高いものと推量されますから、ここで「東京」と書かれている意味はかなり重大であると思われます。そのことからの帰結として、「遣隋使」及び「遣唐使」はまだ「東京」と称していた時代以外には「洛陽」を訪れていないという可能性が考えられることとなるでしょう。
 確かに「遣唐使」はこの「伊吉博徳」達の場合を除き基本的には「長安」を目的地としていたと見られ、「洛陽」には行っていないと見られます。しかし上に見るように「遣隋使」は「東都」と改称して以降の「洛陽」を訪れているようですから、ここで「洛陽」が「東京」から「東都」と改称されたという情報を入手できた可能性が高いと思われます。そう考えると、「伊吉博徳書」と矛盾することとなるわけですが、当然それはどちらか(「伊吉博徳書」と『隋書』のいずれか)に問題があることを示唆するものであり、上に縷々述べた推論から行くとそれは『隋書』側であるという可能性が高いことを示します。
 つまり「大業六年」の「倭国記事」は信頼できないこととなるわけです。その意味ではこれを含め「帝紀」における「倭国」記事も「俀国伝」同様「年次移動」されているという可能性があることとなります。
 「俀国伝」については「応劭」によって書かれた「隋史」がそこに大きく反映していると考えたわけですが、「帝紀」についても「大業年間」の記録はやはり不審があるわけであり、特に外国関係資料について情報が少なかった可能性が高いと推量します。その意味では「大業三年」のこととして書かれている「遣隋使」記事についてもその真偽(特に年次)については疑うべきものがあると思われるわけです。

 そもそも「倭国」からの使者は「北朝」のである「長安」には行ったことがなく、過去に経験があるのはずっと以前の「魏晋朝」時代の「卑弥呼」や「壹與」の頃に「洛陽」を訪れたものでした。後代の「五世紀」の「倭の五王」は「南朝」の「建康」へ行ったものであり、「洛陽」についての知識は「漢魏晋」以降新たに形成されることがなかったと思われるわけです。
 「遣隋使」も「呉唐の路」と称する「南朝」へ行くルートをさらに北方へ延伸したものを行路としていた模様であり、その行く先としては「洛陽」でしかなかったはずです。つまり「隋」に訪れた「倭国」からの使者は「洛陽」に(当然のように)赴いたものであり、その時点で「洛陽」は「東京」と称されていたものですから、それを「知識」として「遣隋使」は帰国したものと思われ、それを教養として共有していた「伊吉博徳」は「洛陽」を指して「東京」と称したと見られるわけです。
 ただし、「洛陽」がまだ「東京」と呼称されていた時点で「遣隋使」は「文帝」に対面したと推定されるわけですが、『隋書』によれば「文帝」は自ら築造を命じた「大興城」に多く滞在しており、「洛陽」にはあまり行っていないように見えます。その意味ではどの時点で「遣隋使」と会見を行ったかは現時点では不明です。推定では「洛陽」に来た「遣隋使」は「文帝」が「大興城」にいると聞いてそちらへ移動してその後「文帝」と接見できたという経緯があったものと思われるわけですが、少なくともこの時点で「洛陽」がまだ「東京」という呼称のままであったことを知識として習得して帰国したとみられるわけです。そしてそれが「伊吉博徳」の教養として身についていたと推定できることとなるでしょう。

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「此後遂絶」以降(三)

2015年05月22日 | 古代史

 『新唐書』の「蝦夷」記事については、「天智」の時代というこの『新唐書』の記事を『書紀』とそのまま直結して考え「六六八年」の「遣唐使」記事がこの時の「蝦夷」同伴記事であるという考え方もあるようですが、この「高句麗」が「唐」により討伐されたことを祝するという趣旨の「遣唐使」であることを考えると、この時「蝦夷」を同伴する意味が良く理解できません。
 「蝦夷」の同伴についてはその意味が、「日本国天皇」が夷蛮の地域から朝貢を受ける程高貴で且つ強い権力を持ち広い範囲を統治できる存在であることを強調するイメージ戦略という見方が多くあるようですが、この「六六八年」という時期は、その直前ともいえる時期に「唐・新羅」の連合軍に敗れたばかりであり、「倭国」としてはその軍事的能力など「国力」の実態を既に「唐」に知られてしまっているといえるものですから、そのような中で「蝦夷」を引率して引見したとしても、「虚勢」としか見られないと思われます。つまりそれは非常に考えにくいものといえるものです。
 そうであれば「新唐書」に書かれた記事は「高宗」の時代より後ではなく、もっと前であったという可能性も考えるべきこととなり、「太宗」の時代のことであったということもあり得ると思われることとなります。その意味で『仏祖統紀』の記事に正当性があるということもできそうです。
 また「六五九年」の遣唐使が一旦「長安」に向かったのも「前回」の「冬至之會」が「長安」で行われたからということが理由としてあったという可能性もあるでしょう。単に「首都」に向かったというよりは前回の経験を踏まえて「長安」に目的地を定めたものではないでしょうか。しかし「顕慶二年」には「洛陽宮」そのものが「東都」とされ、格段に扱いが高くなったものであり、しきりに「高宗」と「武后」は「洛陽」へ行幸するようになります。さらに「顕慶三年」には「禮制」が改定され、推測によればその中で「冬至」の「祭天」は「東都」である「洛陽」の南郊で行うこととなったものと見られます。(ただし「顕慶礼」はその後逸失しているため不明です。)

「(顕慶)三年春正月戊子,太尉趙國公無忌等脩新禮成,凡一百三十卷,二百五十九篇,詔頒於天下。」(『旧唐書』帝紀/高宗(上)より)

 これは「洛陽」の郊外で「祭天」を行っていた「周」の時代に戻る意義があったと見られ、「武后」がその後「唐」を改め「周」と国名を変更する素地ともなったと見られます。

「…若夫情尚分流,隄防之仁是棄;澆訛異術,洙泗之風斯泯。是以漢文罷再朞之喪,中興為一郊之祭,隨時之義,不其然歟!而西京元鼎之辰,中興永平之日,疏璧流而延冠帶,啟儒門而引諸生,兩京之盛,於斯為美。及山魚登俎,澤豕睽經,禮樂恆委,浮華相尚,而郊禋之制,綱紀或存。魏氏光宅,憲章斯美。王肅、高堂隆之徒,博通前載,三千條之禮,十七篇之學,各以舊文損當世,豈所謂致君於堯舜之道焉。世屬雕牆,時逢秕政,周因之典,務多違俗,而遺編殘冊猶有可觀者也。景初元年,營洛陽南委粟山以為圓丘,祀之日以始祖帝舜配,房俎生魚,陶樽玄酒,非搢紳為之綱紀,其孰能與於此者哉!」(『晉書』卷十九/志第九/禮上)

 ここでは「魏晋朝」において「堯舜」の禮制に戻り、「洛陽」の南郊の「粟山」を「圓丘」として「日」を祀るとされ、「冬至」などの儀式がここで行われたことを示しています。これを視野に入れて「顕慶礼」では「洛陽」で「冬至之會」を行うこととなったものではないでしょうか。
 このような事情により「高宗」は「閏十月」の末には「洛陽」に移動していたものであり、それを知った「伊吉博徳等」は慌てて「長安」から「洛陽」へ馬に乗って急行してやっと間に合ったというわけです。(「伊吉博徳書」には「…馳到東京。天子在東京。」と書かれています。)
 このように「六五九年」の遣唐使の十九年前に「蝦夷」を伴った「遣唐使」があったと推定するものです。
 
 このように「十九年」を隔てて「遣唐使」が赴いたというわけですが、それはそもそも「太宗」から「遠距離」であるため「毎年朝貢」の必要がないとされたという記事が関係しているでしょう。

「貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢。」(旧唐書/倭国伝)

 さらに後の時代に日本からの留学僧「円載」からの質問への回答として天台山国清寺の僧侶「維躅」が作成した『唐決集』(開成五年(八四〇年))の中には「日本」からの朝貢は「約二十年に一度」とされていたことが書かれています。

「「六月一日天台山僧維蠲謹献書於/郎中使君〈閣下〉維蠲言去歳不稔人無聊生皇帝謹擇賢救疾朝端選於衆得郎中以恤之伏惟/郎中天仁神智澤潤台野新張千里之俦再活百靈/之命風雨應祈稼穡鮮茂几在品物罔不恱服南嶽高僧思大師生日本為王天台教法大行彼国是以/内外経籍一法於唐『約二十年一来朝貢』貞元中僧/㝡澄来會僧道邃為講義陸使君給判印帰国…」(唐決集)

 通常はこの「二十年に一度」という頻度については「八世紀」に入って以降派遣された遣唐使について適用されるものと考えられているようですが、私見ではこの「約二十年に一度」というのが「太宗」からの「勅」の中にあったものであり、少なくとも「朔旦冬至」の際に行われる「冬至之會」への参加だけはするようにと言う趣旨ではなかったかと考えられます。
(ただし、上のように推定した場合「永徽の始め以降咸享元年」までのどこかの年次をその「蝦夷」来唐の時期とする「新唐書」の記事配列に反することとなりますが、「新唐書」の編纂にあたって参考とした資料にあった「高宗」時代の遣唐使と混乱したという可能性はあると思われ、つまり一般に想定しているものと逆の混乱があったと見ることも可能と思われます。)

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