古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

通りすがりの素人様の問題提起に対して(二)

2018年11月30日 | 古代史

通りすがりの素人様

コメントありがとうございます。

頂いたコメントの中で「唐」からの「新羅」と「倭」の年号強制に対する違いについて書かれていますが、ずっと以前「賀正礼」について書いた中で( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/748756ce83f5c448b28b91146d530f90  )「新羅」は「唐」に軍事援助を要請する代わりに「唐」の制度等を受容せざるを得なかったものであり、「倭国」はそれらを自主的、選択的に受容したと見ました。そのような中に「暦」「年号」があったと見るべきではないかと考えます。

 「倭国」の場合は「南朝」より配下の将軍として称号を得ていますが、「絶域」の域外諸国として「柵封」に準ずる立場であったと思われ、純然たる「柵封国」とは(「唐」における「新羅」と「倭」の違いのように)異なり、「暦」「年号」の受容は「倭国側」の任意の範囲であったものと思われ、結果的に最新技術としての「暦」だけを受容することとなったと見ています。
 また既に触れたように「宗主国」のものではなく「独自年号」の先行使用例として「高句麗」がありました。
 「高句麗」は「北朝」からも「南朝」からも「柵封」されており、しかも「北朝」からの「柵封」が遅れています。逆に言うと彼らにとって重要なものは「北朝」との関係であったと思われます。その証拠に「柵封」を受けるのとほぼ同時期に「南進政策」を展開するようになりますが、それは「北朝」との国境に対する警戒レベルの低下があったと見られます。現に「百済」侵攻後「百済」から訴えを聞いたにも関わらず「北朝」(北魏)はその後も全くこの紛争に関与することなく結果的に「高句麗」の侵攻にお墨付きを与えた形となっています。
 このような流れの中においても「高句麗」は「北魏」の年号を使用せず「独自年号」を使用していました。そのことはこの当時「宗主国」から「年号」の使用強制がなかったことを窺わせます。陸続きで国境を接している「北魏」と「高句麗」の間においてさえそうなのですから、はるか海を隔てている「南朝」(劉宋)と「倭」の間にそのような関係があったとは考えなくて良いのではないかと見たわけです。
 「北魏」や「劉宋」などにおいてもそうですが「改元」は「王(皇帝)」の代替わりや遷都、瑞祥などにその契機があり、そうであればそれらは個々の国々においても同様の事情が存在したわけであり、「改元」するタイミングについて「宗主国」と違って当然と言うこととなります。そのため「基本」としては「年号」は受容すべき制度としてなじまないものではなかったでしょうか。
 「年号」や「暦」などの使用がその王権の絶対性、超越性の確立や確保に有効に機能したことは疑い得ず、その意味からも「倭国」における使用や改元等は「倭国」の事情にもとづく方が有効と思われます。「新王」即位と同時に「改元」するなどにより「新王」への交代が明確になるわけであり、そのことは「新王」支配に有効であったものと思われる訳です。

コメント

通りすがりの素人様の問題提起に対して

2018年11月30日 | 古代史

通りすがりの素人様

コメントへの返答ありがとうございます。
ご指摘の「倭国王」の「改元」能力の有無の問題や、「物部」の「年号発布の可能性」については、かなり重要な指摘を含んでいるものであり、コメント欄に書くにはボリュームがありすぎるので、記事としました。

 ご指摘の点については確かに起こりえた内容と思います。それに関連して以前考察したものを再度読み直し、また考察してみました。それは「倭国への仏教伝来」というタイトルで書いたものです。( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/e5a7414b9f47386371cc3b28eb43e993 から続く一連のもの)
 その中で『二中歴』についてそこに書かれた「干支」は(少なくともその一部、特に前半部部分)は通常理解されているものに対して六十年遡上した年次が真のものではないかと推測しました。そしてそのような「潤色」が行われた原因の一つとして「磐井の乱」の影響を指摘したものです。(以下当時の記事から)

「…以上いくつか例を挙げて考察しましたが、これらから考えて『二中歴』(少なくとも一部)には「年次移動」の可能性が考えられますが、それは『書紀』の年次移動との関連が考えられ、その「原因」となるものについて考えると、「新日本国王朝」への列島代表権力の交替のいきさつが関係していると思われます。
 「新日本国王権」への権力移動の実体は未だ明らかとなっていませんが、逆にそのことから「新日本国王権」はそのような事情を隠蔽しようとしたと見られることとなります。つまり詳細を明らかにしたくなかった事情があったわけであり、そのため「新日本国王権」は「難波朝」の「倭国王」により編纂された『日本紀』を「消し」、またそのため『二中歴』の「原資料」となったもの(これは『百済本紀』の史料ともなったもの)についても改定し「年次」を変更することとなったのではないでしょうか。

 また、それと併せて考えなければならないのが「五三一年」に起きた「磐井の乱」です。これにより「倭国王」は「筑紫」の地から追われ「肥後」に「蟄居」せざるを得なくなり、「権威」が著しく失墜することとなったと考えられます。これは「物部守屋」が滅ぼされる「五七八年」までの約「六十年間」続くものであり、この間の「年号」は制定されなかったか、記録されなかったものと推察されます。この「汚点」を消すためにも「干支一巡」(六十年)ずらした史料を作成したのではないでしょうか。
 この期間は「近畿」で「阿蘇」の「凝灰岩」を使用した「古墳」が作られなくなるなど、「倭国王」の権威が著しく損なわれた時期であり、「肥後」に押し込められていた「倭国王」にとって「改元」などの行為が可能であったか、かなり疑問でもあります。「葛子」以降の倭国王にとっては「雌伏」の時期であったと考えられます。
 このズレは『二中歴』(及び「現行日本書紀」と『続日本紀』及び『百済本紀』)の原資料となったものについて行われたものであり、先ず第一に「阿毎多利思北孤」の「倭国再統一」という中で「年号群」の「整理」が行われた後、「新日本国」王権により再度書き換えられるという事となったものと思料します。

 「阿毎多利思北孤」ないしはその後継王朝である「利歌彌多仏利」段階では、各種の制度導入と共に『万葉集』『風土記』などの収集と編纂が行なわれたものと見られますが、それらと同時期に「史書」の作成が行われたとして不思議ではないと思われます。それが「原・古事記」とでもいうべきものであったとみられるわけです。
 彼等は『書紀』で「天孫降臨神話」を重要な位置づけとしていることから考えても、そこに使用されている「天降る」という用語の用法から考えても、明らかに「革命王朝」ともいえるものですから、「神話」も含めた「帝王日継」などを「新たに作成」したと考えられます。しかし彼等が「革命王朝」という性格を持っていたとすると、「帝王日継」の中身としては相当「稀薄」なものであった可能性が高く、「倭国本流」の記録ないしは「近畿王権」の記録を借用したという可能性があるでしょう。
 また「物部」に支配されていた「六十年」は屈辱であり、これを「消去」しようとしたという想定も有り得るでしょう。そのような思想で「倭国」の史書が書かれたとすると、その年次や記事内容が『百済本紀』や『二中歴』に反映しているという可能性はかなり高くなると思われるものです。


(この項の作成日 2011/07/16、最終更新 2015/02/15)」

 以上、現在の視点で見ると論旨としてはすこぶる曖昧であり、また不完全と思います。しかし基本的な部分、つまり「年次移動」の可能性については依然として有効と考えているものの、「磐井の乱」時点から「守屋滅亡」時点までの年号群あるいは「細注」について、そのままの移動の可能性を考えているわけではありません。少なくとも「元岡古墳」出土の「四寅剣」の存在から「金光」元年が「五七〇年」であるという点は動かないと思われますから、移動があるとすると「最初」の「継体」から「「金光」以前のどこか」(多分「直前」)までのおよそ「六十年」分についてそっくり「六十年遡上」して考えるのが相当と思っています。つまり「五一七年」付近から「五七〇年付近まで」の六十年間弱が「空白」であったのではないかと思われ、「阿毎多利思北孤」によって「欺瞞」の史書が作成され、それにより正当化が行われ「年号」つまり「権力」の空白が隠蔽されることとなったと思われる訳です。それは「倭国王権」の弱体化あるいは中断によるものですが、その間に「物部」が年号を発布していたとしても不思議ではないと思われるものの、現時点でその可能性があるものが確認できないことから、彼らが「年号」を発布していたとまではいえないとも考えています。
 彼らに「革命王権」という意識があったとすると「受命改制」に則り「建元」つまり「年号」を新しく始める他制度等も新しく作り直すことや改暦など種々の事業を行ったはずですが、それらは全く確認できません。その意味で「物部」はあくまでも「武人」としての本領から「力」により倭王権やそれに同調する筑紫の勢力を押さえ込もうとしていたと見られ、制度など文化的な部分をその統治に組み込むことは考えていなかったものではなかったかと考えています。(つまり「制度」等はそのまま流用するというスタンスか)

 ところで、この「空白期間」つまり「年次移動」されたと見られる期間が「五三一年から五八七年」までではなく「二十年弱」遡上した「五一七年付近」から「五七〇年付近」であるのはなぜかと言うこととなりそうですが、それに関しては後の「遣隋使」記事に対して『書紀』が正規の年次から「ずれていた」件と関係があるという見方もできるのではないでしょうか。
 「遣隋使」の派遣年時は『書紀』に書かれた年次から「二十年ほど」遡上した「開皇年間」の半ば以前と推定しましたが、これは『隋書』に合わせるための「無理」であり、その「無理」がかなり以前の記事にまで影響したということも考えられ、そのため『書紀』(というより「原・書紀」か)とそれに影響されたと思われる史料に同様の年次移動が見られるのではないかと思われ、『二中歴』や「百済系資料」にも同様の年次移動があるのではないかと考えています。

コメント (1)

『隋書』に出てくる「倭語」について(最新版)

2018年11月29日 | 古代史

 『隋書俀国伝』には「倭国」の官職制度について説明した箇所があります。

「有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。」

 ここに書かれた「軍尼」「伊尼翼」という官職名唐について以前考察しましたが、新たな知見を得たので書き加えて再掲します。

 この時派遣された「遣隋使」の一行には当然ながら「通事」(通訳)がいたと思われますが、また彼らは「百済」を経由して「隋」へ訪れたものと思われます。「百済」は「隋」から「帯方郡公百済王」という称号を得ていました。「倭国」からの使者は当然(三国時代と同様)「帯方郡」を経由して「隋」の都へ訪れたものと思われるわけであり、この時点では「帯方郡」を統治するものとして「百済」が存在していたわけですから、「倭国」からの使者は「百済」にいわば引率されていたと思われる訳です。ただし「重訳」つまり「訳」を重ねて訪問したとは書かれていませんから、「倭国」からの使者は直接「隋」との間で会話を行うための自前の「通訳」をともなっていたこととなるでしょう。そう考えると、たとえば「軍尼」という語は「隋皇帝」(高祖文帝)の問いに「通訳」が答えたものを「文書」化したものが基本であると思われます。もちろんこの「通事」が「日本人」なのか「半島人」や「隋」などの大陸の人なのかは全く明らかではないわけですが、いずれにしてもこの「軍尼」という表記は「表音」を現わしているものであり、その「漢字」の発音は「漢音」として書かれたものと考えられます。(これが「表音表記」であるというのは、その直後に「猶中國牧宰」というような「説明」が付いていることでも知られます。「表意」であればその文字の中に「意味」が含まれているわけですから、「説明」書きは別に必要ないこととなりますから。)
 
 「隋」の発音はその後の「唐」の発音と同じであり「中国北方音」です。これを「漢音」と称するわけですが、これは現在の「日本漢音」とほぼ同じと考えられ、そうであれば「軍」の漢音は「クン」ないし「コン」、「尼」の漢音は「ジ」ですから、「クンジ」あるいは「コンジ」と発音するのが正しいと思われ、「クニ」とは結びつきません。もし「遣隋使」(通訳)が「クニ」と発音したのならば、「隋」の「官人」は「尼」という漢字は使用しないことでしょう。それは「隋」では「ニ」とは発音しない漢字だからです。(『隋書』の中では「尼」という漢字は本来の「出家した女性」という意義の他は異蛮における個人名などにしか使用されておらず、この『俀国伝』の使用例も後者に類するものであり、「表音」として考えるべきものと思われ、そこに「意味」は特にないと考えるべきでしょう。)
 これに関しては「伊豫軍印」について考察した際に触れた「軍郡」(軍郡事)という官職が任命されていたという記事が関連している可能性があるでしょう。

 「倭の五王」の上表によれば「南朝」の皇帝に遣使していた「倭国王」の配下には複数の「軍郡」(「軍郡事」)がいたわけであり、彼等は「南朝」から「印綬」を授けられたと考えられます。

「…讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正,詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。二十年,倭國王濟遣使奉獻,復以為安東將軍、倭國王。二十八年,加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍郡。」「宋書夷蛮伝」

 これら二十三人の軍郡は「除する」とされていますから、正式に任命されたこととなり、規定に則り「銅印環鈕」他を授けられたものと思われますが、この「軍郡事」を「倭国内」では「クンジ」あるいは「コンジ」と呼称(発音)していたという可能性もあるでしょう。

 同様に「伊尼翼」は「イジヨク」と発音するものと考えられ、これも「稲置」(イナギ)とは似ても似つかないものとなります。
 ちなみに「阿毎多利思北孤」については「国書」の「署名」と考えられ、これは「倭国側」からの表記ですから、「呉音」で発音するべきものと思料され、「アメ(マ)タリシホコ」となると思われます。ただし、「利歌彌多仏利」は「軍尼」「伊尼翼」と同様「倭国」からの使者が話した言葉の聞き書きであり、「漢音」で発音すべきものと考えられますが、発音としては「リカビタフツリ」と発音すべきこととなります。

 ところで「軍尼」や「伊尼翼」はいずれも「発音」を聞いて書き留めたものと思われますが、実際にはどのような「倭語」を聞いて書き留めたものでしょう。何か近い言葉が今も残っているという可能性も考えられ、それを考慮して発音の似た単語を思い浮かべると、「伊尼翼」(いじよく)については「うじやく」(氏役)という言葉が関係しているのではないでしょうか。「うじ」(氏)「やく」(役)つまり、「氏」のことに関する「責任者」という意味合いがあるかと思われます。
 「氏」はいわゆる「同族集団」を意味する言葉であり、基本的には居住する地域も同一である場合が多いようです。そのため、地域の責任者はすなわち「氏」の責任者であると言うこととなる場合が多かったと推察され、そのような人物が「里長」のような存在であったものとしても不思議ではありません。
 (但し、「翼」という漢字が使用されているのは「助ける」「補助する」という意味合いがこれにあるからではないかと考えられ、それは「隋」の「官僚」がその「伊尼翼」という職掌から考えて「最適」と思われる漢字を選んだ結果という可能性もあります)
 これについては「柿本人麻呂」の歌などに「宇治」の枕詞(序詞)として「もののふの八十」が選ばれていることにも現れているようにも思えます。

第三巻二六四番歌
柿本朝臣人麻呂従近江國上来時至宇治河邊作歌一首 
物乃部能  八十氏河乃  阿白木尓  不知代經浪乃  去邊白不母(もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも)

 「宇治」の表記が一般的になるのは後代であり(これは国名等の二字表記を標準としたことに関連する)、この「氏」は人麻呂の時代には普通に使用されていたようであり、(万葉仮名としては「宇遅」「兎道」などと表記)いずれにしても「音」は「うじ」であり、それに直結する「枕詞」(序詞)として「八十」が使用されています。
 「枕詞」(序詞)の起源としても「対象物」との関係性が必須であったことは確かであり、「八十」という数詞形容と「うじ」という単語の間に密接な関係や歴史が現れていると見るべきと思われ、「八十戸」が「氏」の集団であり、そののまとめ役が「氏役」であったという過去の事実がその文字修飾に現れているという推定はあながち的外れとはいえないと思われます。

 また「軍尼」は「クンジ」ないし「コンジ」と発音すると推定した訳ですが、『隋書』や後の『旧唐書』などを見ると、すでに見たように「尼」という文字が出家した女性のことを意味する使用法は「唐」国内でもその直轄領域に限られ、夷蛮の地域では地名や名前の「音」を表すものでしかないことがわかります。そして、その「音」は「ジ」と推定されます。
 さらに『万葉集』には「軍布」という表記があり、それが現在の「昆布」を指す言葉として使用されているようです。つまり「軍布」を「コンブ」と発音していることとなります。このことから「軍尼」は「コンジ」と発音するものと考えられますが、これは元の「倭語」がそもそも「倭語」ではなく「漢語」であり、「音」で発音されていたと見るべきことを示唆します。つまりその点から見ても「軍郡事」という官職がそれに該当する可能性があると思われるわけです。(「軍」は「漢音」「呉音」いずれも「こん」と発音します。)
 それは「埼玉」の「稲荷山古墳」から出土した「鉄剣」の「銘文」からの類推からもいえます。そこには「万葉仮名」による表記と「臣」という「漢語」表記が混在していました。
 
 この「臣」という表記が「訓」表記(例えば「於彌」など)ではないということから、この「臣」は「音」で発音していたのではないかと推測され、「シン」と呼称していた可能性があると思われます。それは「磐井」の墳墓に設営された「裁判の場」を表す形容に「漢語」が使用されていた『風土記』の記述を想起させるものです。そこには「臓物」「盗人」という法律用語が使用されていました。(これは古田氏も指摘したように各々「ゾウブツ」「トウジン」と発音していたものと思われます)
 同様に「中国」や半島からの輸入とでもいうべき「法律」用語や官職用語には「漢語」がそのまま使用されていたと見るべきでしょう。
 この「稲荷山古墳」から「磐井」の古墳と思われる「岩戸山古墳」に至る時期は、「五世紀末」から「六世紀前半」のことと考えられ、今問題としている時期は「六世紀末」以前のことですから、時期的には連続していると思われます。そこで「中国の制度」を導入したらしいと思われるわけですが、その時点で「漢語」をそのまま「役職名」として使用するようになっていたという可能性は高いと思われ、「軍郡事」を省略して「軍事」と称し、それを「コンジ」と発音していたものではなかったでしょうか。(省略したために「隋使」には「軍郡」のことと理解できず「軍尼」という「音表記」をしてしまったものと推定します。)


(この項の作成日 2011/08/24、最終更新 2018/11/24)左の日付で旧ホームページに掲載していた記事を現時点で再構成したものです。

コメント

「磐井の乱」と「神籠石」について

2018年11月17日 | 古代史

 すでに「神籠石(神護石)」遺跡について (https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/6b98ee46f828558af81960921e4d4c00)でも触れていますが、「神籠石遺蹟」と「物部」との関連について再度述べてみます。

 「磐井の乱」は『書紀』によれば「五三一年」に起きたとされていますが、この「磐井の乱」は「直接」的衝突としては「物部」とのものでした。『書紀』でも『古事記』でも「磐井」と直接対峙したのは「物部麁鹿火」(荒甲)であったとされています。この戦いで「磐井」が敗退したと言う事は、言い換えると「筑紫」が「物部」の手に落ちたことを示すものと言え、このことから「磐井の乱」と「筑紫」における「物部」の「消長」は深く関係していることとなるものと思われます。
 その「物部」は『書紀』によれば「五八七年」という年次に「蘇我」及び「聖徳太子」等の「王権主流派」との勢力争いの結果「当主」である「守屋」が滅ぼされ、大きく勢力を減退したとされます。
 こう考えると「六世紀前半」から「六世紀後半」という期間に直結する「考古学的資料」を初めとする各種資料の存在を証明することで「磐井の乱」そのものの存在も証明できるのではないかと推察されるわけです。
 そのようなものとして(1)阿蘇熔結凝灰岩(灰色岩)の「石棺材料」への使用が「六世紀前半」から「六世紀終末」まで、途切れる(見られなくなる)こと、(2)「蕨手文古墳」の発生とその終焉が「六世紀前半期」から「同終末期」までであることについて既にふれました。さらにそれに加えられるものとして(3)「神籠石」の分布と「物部」についての関係があると思われます。

 「神籠石」とは「北部九州」の他「山口県」などかなり広範囲に渡って築かれたもので、全国で「十箇所」ほど確認されているものですが、山の山頂から中腹付近にかなり大規模な「土塁」と「石積み」の遺構があるもので、いつ頃の年代のものか、誰か設置したのかなどで議論になっており、未だ結論が出ていません。ただし、この「神籠石」遺構の分布は明らかに「筑紫」が中心域となっており、外敵からの侵入に対し「筑紫」を防衛する体制を構築しているように見えます。それが正しいとすると「神籠石」が構築された時期としては「筑紫」に「王権」があり「倭国」の本拠があった時期を想定するべきですが、一概にそうとも言えないと思われるのが『書紀』における「神功皇后」の記事です。
 それによれば「神功皇后」の「北部九州」に対する「征討」の際に取られたルートは、「神護石」の分布域に沿っていることが分かります。例えば「田油津姫(たぶらつひめ)」は「女山(ぞやま)」に籠って、「神功皇后」を迎え撃っていますが、「女山」には「女山神籠石」遺跡があり、「田油津姫」が立て籠もったのはその「神護石」という「山城」であったのではないか、と推察されるわけです。
 「神功皇后」の実年代については諸説がありますが、少なくとも「六世紀以前」と考えられ、その時代に「神籠石」があり、それは「王権」の側が必要としたものと言うよりは、逆に「筑紫」の外に「王権」があり、彼らに対抗するものが「軍事的要塞」として利用していたという想定が可能ではないでしょうか。(「神功皇后」と「応神」達には九州の地との深い関係が看取されますから、彼らが「九州倭国王権」に連なる存在であるのは間違いないと思われます。)
 これらの時期と同様「筑紫」が「倭国王権」以外の勢力により「制圧」されたと想定したとき、このような「軍事的要塞」の必要性が最も高まった時期、つまり「筑紫」防衛の必要性の一番高かった時期というのは、実は「物部」が「筑紫」を奪い「制圧」していた時期ではなかったでしょうか。

 「物部」が「磐井の乱」以降、「倭国王権」から「筑紫」を(いわば)「奪った」と仮定すると、当然「倭国王権」の反撃及び奪回が想定されるわけですから、それに備え各所に「山城」を築き、武器や食料を蓄えていたという想定はそれほど不自然ではありません。つまり「神護石」遺跡のかなりのものが「物部」が築いた山城ではないかと考えられるものであり、これらは「六世紀」半ば付近にその「築造」が想定されるものです。
 少なくとも「大野城」などの「朝鮮式山城」よりも「神籠石」は「古式」であると言われ、「大野城」などが、その材料の年輪年代から「七世紀半ば」の築造であると考えられることを踏まえると、それよりかなり古い時期を想定すべきであるのは明確です。(ただし一部のものはかなり時代を遡上するものが含まれているのは確かであり、たとえばこの「女山神籠石」遺跡内からは弥生後期の銅鉾が発見されており、実年代としては「卑弥呼」の時代である可能性もあります)
 また、この「神籠石」遺跡が「物部」と関連があると考えられるのは、その「物部」の本拠地とも「象徴」とも考えられる「高良大社」のある「高良山」の「山腹」に、大規模な「神護石」が存在している事からも窺い知れるものです。この「神籠石」は「物部」の勢力範囲の中にあるわけですから、その由来も当然のこととして「物部」との関連以外考えにくいと思われます。(「神籠石」という名称も「高良山」に発するといわれます)そのことは他の「神籠石」についても「物部」との関連を疑うべきこととなりますが、そもそも「物部」は「戦闘集団」ですから、「防御」施設でありまた「戦闘」の際の基地ともなったと思われる「山城」としての「神籠石」の構築とそこに陣を敷いた戦闘に、彼らが「無縁」であったとは考えにくいものです。
 「物部」は古代より「筑紫」を防衛するための施設として残っていた「山城」を「再利用」あるいはそれに付加増設して、強固な「防衛ライン」を構築し、「倭国王権」の「筑紫」に対する「圧力」に対抗しようとしていた想定してそれほど無理はないと思われるものです。 
 また「磐井」の乱が「近畿王権」によるものであり、その「乱」後の「倭国王権」が「近畿王権」側からの「筑紫」への軍事的圧力に対する防衛と監視の役割を担ったというという考え方もあり得るかもしれませんが、そう考えるには「神籠石」の中にはそのレイアウト(「方向」)に説明の付かないものがあり、「筑紫」を「全方向」から守護していると考えられる事と矛盾してしまいます。明らかに周辺に「敵」を想定した防御施設(軍事施設)とみるのが相当ではないでしょうか。

 以上のことから、「神籠石」遺跡についてはそれらが「筑紫」を防衛するために「外向き」に作られた「外部防衛線」であると考えたとき、その目的としても、また時代としても、「占拠」していた「筑紫」を防衛するために「物部」が「倭国王権」の勢力を遮断するという目的で設けたものと推定して矛盾がないと考えます。
 また、「岩戸山古墳」以降のこの地域の古墳が矮小化すること、あるいは「葛子」の古墳と見られる「鶴見山古墳 」以降「石人」等の「石文化」的副葬物が消えることなどの表象からも、この時代以降の「筑紫」地域の「政治的状況」に大きな変化があったのは確実であり、これらのことは「磐井の乱」の「実在の証明」でもあり、また「倭国王」の「逼塞」の事実の証明でもあるとも思われるものです。

 その後「逼塞」していた「倭国王」がその期間「どこに」その「都」を置いていたのかについては「肥後」であったのではないかと『隋書』の行程記事などから窺えることをすでに述べました( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/0feee359f389173107af6f8307b488c8 )ので参照して頂ければと思います。

コメント (3)