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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「大赦」と年次移動

2020年03月29日 | 古代史
先日投稿した以下の記事について若干誤解がありましたのでその部分を訂正します。

『続日本紀』の「慶雲元年」の項に「大赦」記事があります。

「慶雲元年…
五月甲午。備前國獻神馬。西樓上慶雲見。詔。大赦天下。改元爲慶雲元年。高年老疾並加賑恤。『又免壬寅年以往大税。』及出神馬郡當年調。又親王諸王百官使部已上。賜祿有差。獻神馬國司。守正五位下猪名眞人石前進位一階。初見慶雲人式部少丞從七位上小野朝臣馬養三階。並賜絁十疋。絲廿絇。布卅端。鍬卌口。…」

 「慶雲」に改元する際にあわせて「大赦」したということですが、その一環として「大税」について(貸し付けた税の元本について)免除するということが書かれていますが、その「年次」の表記が「大宝二年」ではなく「壬寅年」と「干支」で書かれています。
 このような場合年次の表記には「年号」を使用するということが「大宝令」で決められていたにもかかわらず、この「詔」では「干支」表記されており、これは貸し付けた「大税」の記録が「干支」で表記されていたことの表れとしか考えられません。「聖武」の「白鳳朱雀」の「詔」と同様「記録」に基づいて「詔」を出していると考えられ、そもそもの「記録」が「干支」で表記されていたと見られるわけです。
 しかし木簡などでは明らかに「大宝元年」以降は「年号」により年次表記されており、「干支」表記は「大宝元年」の前年以前に限られています。それと明らかに矛盾する「詔」となっているわけですが、これをどう理解するのが正しいでしょうか。「岩波」の『新日本古典文学大系』の注では「令前の遺制か」としていますが、いかにも解釈に困っている風情が感じられます。
 「大赦」によって「赦免」したり「田租」を免除するなどの恩寵が下される例はほかにもありますが、その該当する瑞祥などを献上した地域に対するものであったり、田祖を免除する場合も「その年」のこととされているなどの運用がほとんどであり、このように遡って適用する例がほかにありません。その意味でこの「大赦」記事は特殊です。
 この例は「大赦」記事と並べて表記されていますが、「大赦」記事そのものについて調べてみると、「朱鳥元年」に出された「大赦」以前は「但し書き」がついていません。単に「大赦」とされています。それが「持統三年」以降「但し書き」がつき始め(「唯常赦所不兔不在赦例。」と付加される例が二回続いた後「但盜賊不在赦例」と特に「盗賊」を指名して「例外」とする例が二回続き、その後今度は「但十惡盜賊不在赦例」と「十悪」が付加されることとなります。その後今度は「但盜人者不在赦限」とまた「十悪」が外された形となり、さらに「唯盜人不在赦限」と微妙に表現が変わります)、その後もう一度「大赦天下」と但し書きがない例に戻ります。これは「大宝二年」「三年」「四年」と計四回続いた後、「宜大赦天下。与民更新。死罪已下。罪無輕重。咸赦除之。」と全く新しい形に変わります。それ以降は「元正紀」の最後「養老改元」の際の「大赦」に「但し書き」がつかないのを除き全て「但し書き」付きとなります。
 この「大赦記事」においても「赦免」の対象には「但し書き」がついていません。この推移と「干支」を紀年に使用していることを考え合わせると、この「慶雲元年」の「但し書き」がつかないタイプの「大赦」記事は実際にはこの年次ではなく、もっと以前の時代の記事が移動されていると考えることができるかもしれません。つまり「壬寅年」とは「七〇二年」ではなく「六四二年」ではなかったかということとなります。そう考えて『書紀』を見てみると、「大化二年」の「東国国司詔」とセットで出された「大赦」記事が注目されます。

「…又於農月不合使民。縁造新宮。固不獲已。深感二途『大赦天下』自今以後。國司。郡司。勉之勗之。勿爲放逸。宜遣使者諸國流人及獄中囚一皆放捨。別鹽屋■魚。此云擧能之盧。神社福草。朝倉君。椀子連。三河大伴直。蘆尾直。四人並闕名。此六人奉順天皇。朕深讃美厥心。『宜罷官司處々屯田及吉備嶋皇祖母處々貸稻』。以其屯田班賜群臣及伴造等。又於脱籍寺入田與山。…」

 ここでも「大赦」が行われていますが「但し書き」がなく「諸國流人及獄中囚一皆放捨」と「獄中」の囚人全員の解放を指示しています。それと同時にこの記事では「吉備嶋皇祖母處々貸稻」がやり玉に挙げられており、これを「罷(やめる)」とされていますから、当然彼女の貸し付けた「貸稲」については「無効」となったと思われ、「元本」を「免ずる」としたと見るのが相当でしょう。(最も「元本」が免じられて「利子」だけが有効とも考えにくいものですが)
その表現は「免『壬寅年』以往大税」と書かれた『続日本紀』記事とよく重なるものです。
 (以下が訂正部分です)
 「慶雲元年」の「大赦」記事で「貸し付けた」年とされる「壬寅年」は、年次移動の結果「皇極元年」となり、「皇極紀」以前に施行されていたルールを遡って否定していることとなります。これは「持統朝」を否定した「大宝令」施行細則と同様の意味があるものと思われ、前王権を否定することで自王権の正当性を主張すると共に、損益を被った勢力の代弁者として行動していることが特徴的です。
 そもそも「皇極」と「吉備嶋皇祖母」の関係(母子)を考えると、彼女の治世期間で「貸稲」が廃止されなかったはずはないと思えますが、実際には面前の前天皇を直接否定することは困難であったのかもしれません。
 いずれにしてもここでも「遡って」否定しているということとなるわけであり、それは「持統朝」を否定する「文武朝」と相似の関係になっていることが重要でしょう。それは「孝徳朝」が「革命王権」であるという事実を強く示唆するものと言えます。

 既に指摘していますが各種の徴証から「文武」と「孝徳」は同一人物と推定しており(https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/e256f073008c0cfa8271f5e40324a492 )、その一環として双方ともに「革命王権」であるというのも首肯できるものです。

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「元明」即位と「庚午年籍」

2020年03月24日 | 古代史
 先日の記事で「庚午年籍」が「大宰府」にはなかったたため捜索した結果発見(入手)されたとしましたが、後の「養老令」(戸令)によれば本来戸籍は「三通」作り、一通は国元に置くものの、残り二通は太政官つまり朝廷に提出するとされています。

(戸令 造戸籍条)「…凡戸籍六年一造。起十一月上旬。依式勘造。里別為巻。惣写三通。其縫皆注其国其郡其里其年籍。五月卅日内訖。二通申送太政官。一通留国〈其雑戸籍。則更写一通。各送本司〉。」

 上の規定はそれ以前の「庚午年籍」でも同様の取り扱いであったことが推定され、「庚午年籍」においても「国府」だけにあったはずがなく、さらに「筑紫諸国」の「庚午年籍」についてのみ言及があるところを見ると欠落していたのは「筑紫諸国」の分だけであったものと思われ、「筑紫」にだけあって「聖武」の朝廷に残っていない理由は一見不明です。
この欠落が「難波朝廷」の焼亡と関係していると見ることもできるかもしれませんが(「朝廷」に提出されていた分が焼失したという可能性)、「筑紫」の分だけが焼けたとも思われず、別の理由を考える必要があるでしょう。
 可能性としてはそもそも「筑紫諸国」の分は朝廷には提出されていないということもあり得ます。「庚午年籍」は「国」ごとに造られたと思われ、「筑前」「筑後」など「筑紫諸国」の場合も同様各々の国ごとに造られ、各国府にその原本を保管すると共に「大宰府」にそれらの諸国から提出された写しがあったと見られます。
 ところで、西海道諸国は「租税」など全般に共通する取り扱いとして「朝廷」に直接ではなく「大宰府」に提出するという流れがありましたが、これはそれ以前の統治形態を遺存していると思われ、「庚午年籍」についても同様であったという可能性があります。そう考えると「庚午年籍」造籍時点の「朝廷」は「筑紫」にあったとするのが最も妥当するのではないでしょうか。この場合「大宰府」には「倭国」内諸国の「庚午年籍」が集められていたこととなります。
 通常「庚午年籍」は「天智」の業績として語られますが、実際にはまだ「九州倭国王権」が広範囲に統治権を行使していた時期と思われ、「庚午年籍」の写しは全て「九州倭国王権」つまり「大宰府」に提出され集積されていたと見るべきでしょう。
 またここでは「筑紫諸国」の「庚午年籍」だけを捜索しているようですから、他の国の分については「大宰府」にあったものと見られ、「筑紫諸国」の分だけが何らかの理由により亡失していたものと思われるわけです。それは前述したように「新日本王権」への統治権委譲とそれに伴う「首都」の移動の際に発生した事象と思われ、反対勢力により「大宰府」から外部へ持ち出されたものと思われるわけです。
 ところで、これが「大宰府」から持ち出されたのはいつの時点かというのも興味あるところです。「新日本王権」へ禅譲される以前なのか、以後なのかということを考えると可能性が高いのは前回述べた「持統」の詔を否定する「大宝令」の施行細則を決めた「元明」時点でのことではなかったでしょうか。
 「元明」はその即位の「詔」で「山沢に亡命」しているものに降伏を呼びかけています。

「…亡命山澤。挾藏軍器。百日不首。復罪如初。…」

 この呼びかけは、この時点ですでに反対者が多数発生していたことを示します。また「京師」「畿内」と共に特に「大宰所部諸国」に「調」の免除を行っています。

「…京師。畿内及大宰所部諸國今年調。天下諸國今年田租復賜久止詔天皇大命乎衆聞宣。…」

 この「大宰所部諸国」というのが「筑紫諸国」に相当するものと思われ、特に「京師」「畿内」と並び「筑紫」に「調」を免除する特典を与えているわけですが、「元明」は「藤原宮」を破壊し「持統」の「詔」を否定し遡って「無効」とするなど「持統王権」側から見ると受け入れられない行動をとっていました。彼等が「大宰府」に収蔵されていた「庚午年籍」を(「軍器」などと共に)持ち去ったと見るのは不自然ではありません。そんな彼等に対する「懐柔策」として上記大赦等が行われたものと見られ、「新日本王権」としてはその対処に苦労していたことと思われるわけです。
 「新日本王権」に対して異議を持つ者たちは「山沢」に亡命したというわけですが、その際「筑紫諸国」以外の「庚午年籍」には手をつけなかったらしいことが上記推論からうかがえますが、それは「筑紫諸国」以外の国府保管分までは押さえられなかったからと思われ、彼等は「大宰府」にあった元々の「筑紫王権」の直轄領域だけの分の写しと各国府にあった「原本」についても持ち去ったと見るのが相当でしょう。
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「延喜式」と「持統王権」

2020年03月21日 | 古代史
 以前「新日本王権」は禅譲された王権である「持統朝」について「否定的」な立場にいると見ました。一つには「平城京」への遷都が「難波京」からとする史料があり、「藤原京」が無視されていること、その「藤原京」は「平城京」を作る際に解体され跡形もなくなってしまったことや、「文武」の即位日について『書紀』と『続日本紀』で使用する暦の違いから「干支」が異なっているにもかかわらず、それを隠そうともしていないことなどがあり、それらは「新日本王権」の「持統王権」に対する立場の表明と思われ、「新日本王権」は「持統」の王権から「禅譲」はされたものの「継承」はしていないことを意味すると推察したものであり「持統王権」を「新日本王権」にはつながらない「他の王権」とする立場ではなかったかと推察したものです。(『書紀』が『持統紀』までなのも同様の理由からと思われます)。
 その考えを補強すると思われるのが以下に見える「延喜式」の記述です。
 「延喜式」は「養老律令」の施行に関する細則といわれますが、日の出日の入り時刻の解析などからも判明しているように(https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/91d19f8dd29e78a309f1619c3e524bf0 )「延喜式」成立当時の細則というより古くから続く「儀礼」や「宮廷慣習」のようなものの集大成という意味もあるとされます。その中に以下のような「養老律令」以前の「律」に関する情報が含まれています。

「巻二十九 刑部省二十七 凡父母縁貧窮売兒為賤、其事在己丑年以前、任依元契、若売在庚寅年以後及因負債被強充賤并余親相売者皆改為良、不須論罪、其大宝二年制律以後依法科断…」

 この意味は「己丑年以前」に行われた「父母」による「子」を売って「賤」の身分にする行為についてはその善悪も含め問わないが、その翌年の「庚寅年」以降の同様の行為については「罪」には問わないものの「賤」とされた「子」は「良」へ戻すとされ、さらに「大宝二年以降」については「新律」により全面的に禁止とするというものです。
 この「刑部省」の取り扱いは「養老律令」についてというよりは明らかに「大宝律令」についての施行細則とでもいうべきものであるのは明白ですが、それに対して注意されるのが「持統五年」に出された以下の「詔」です。

「(六九一年)五年…三月壬申朔…癸巳。詔曰。若有百姓弟爲兄見賣者。從良。若子爲父母見賣者。從賎。若准貸倍沒賎者從良。其子雖配。所生亦皆從良。」

 この「詔」では兄が弟を売るのは「良」とするが父母が子を売るのは「賤」とするとしています。これは明らかに上の「細則」とは異なるものであり、「細則」がこの「詔」をいわば「否定」しているのが注目されます。
 この「細則」では「己丑」以前については問題にしていないわけですが、本来「新法」ができた場合それ以前の行為については問わないのが普通です。その時点で有効であった法に随っているのですから当然といえば当然ですから、その意味では「己丑年以前」について「元の契約のままでよい」としているのは不審はありませんが、「庚寅年以降」については「措置」を「無効」としているのは不審といえるでしょう。
 ここでは旧法を遡って否定しているわけですが、このような事態は新法の成立者が「革命」によって権力を握った場合に見られる現象と言えます。
 「革命」は旧権力者を否定することで成立しているわけですから当然旧法により裁かれた人々に対しても救済が行われます。
 「大宝律令」を制定した王権は「庚寅」年の「詔」による規定を「前王朝のなしたこと」として、それを継受することを避けたものであり、「遡及」して「無効」としたのです。
 ところでこのような「細則」が「大宝律」制定以降時間が経ってから施行されたとは考えられません。当然「大宝律」施行にほど近い時期が想定されるでしょう。さらに「持統」の「詔」を否定しているということから当の「持統」存命中にそのような「細則」が決められ「施行」することが可能だっただろうかと考えると、時期として「持統」の死去した後のことではなかったかと考えられることとなります。
 「持統」はその「大宝律」が頒布された直後の「大宝二年十二月」に死去しており、それ以降の早い段階で「細則」が定められたものと推量されますが、最も考えられるのは「元明」即位の「和銅元年」以降ではなかったでしょうか。
 「文武」在位時点ではまだ「藤原京」について造作が停止されていませんからその意味では「持統」の意志がまだ有効であったと思われますが、「文武」が死去した後すぐに「平城京」への遷都が計画されたようですから、この時点で「持統王権」に対する「否定」が始まったものと思われ、「刑部省」の細則もこれ以降施行されるようになったと推測できるでしょう。
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内田樹氏の『サル化する世界』と紀元前八世紀

2020年03月11日 | 古代史
内田樹氏の『サル化する世界』という書籍について、その概要について本人が語っているのをネットで見ることができますが(文春オンライン)、その内容にとても興味を引かれました。氏はそこで、「時間意識」の形成が行われ、「ある程度長い時間を俯瞰する視座」というものを人類が取得、形成可能となり、一神教が成立し始めるのが「春秋戦国時代」であり、「紀元前1000年から500年くらいのこと」とされていて、それが「人類史的な特異点(シンギュラリティ)」形成の時期とされています。その時代以降「刹那的」な生活様式が否定あるいは衰退し、ある程度ロングスパンで生活や人生を考える立場が肯定されるようになったと見られるわけです。
この論を見て「紀元前八世紀」の全地球的大規模気候変動が、人類の意識の変化に直結していることが改めて感じられることとなりました。
たとえば列島では上記の時点で「縄文」から「弥生」へと時代が変わるわけですが、それは単に「稲作」が始まったというより、「農業」への生活様式への変化であり、それまでの「狩猟」をメインとする生活から「稲作」をはじめとする「農業」へと生活が変革されたこととなります。
そのことは列島においても「時間感覚」が劇的に変化したことを示し、一年という時間経過についていっそうの精緻さ、正確さが必要となったことを示すものです。
 実際には縄文も末期になると「栽培」という手法が用いられるようになっていましたが、それは生活の主な依存形態が狩猟ではなくなったという意味を持っていたわけではなく、あくまでも弥生という時代に入り「農業」が生活として確立することで生活全体が変革されていったものです。
 農業は種をまく時期や肥料を施す時期などをかなり正確に決める必要があり、「暦」が必須です。たぶん「狩猟」においても季節変化に応じての野山から採集できる動植物類などは異なっていたものであり、それなりに一年という時間経過を認識していたと思われますが、農業を主体として生きるならばいつ何をやるかをしっかり決める必要があるでしょう。それが内田氏が言う「ある程度長い時間を俯瞰する視座」に通じるものではないかと考えられるものです。そして、それは「暦」が担うべきことと考えられるわけであり、そうであれば弥生時代に「暦」がなかったはずがないこととなります。
 古代ローマでもバビロニアでもこの時期に「暦」が正確性を急激に増すものであり、「太陰暦」と「太陽暦」の融合が図られるようになります。たとえば現在二月が二十八日という日数になっているのは当初作られた際の太陽暦(一年の長さ)との「日数あわせ」のためであったことが知られていますが、これが決められたのが「紀元前八世紀」であり、ローマ第二代王「ヌマ・ポンピウス」の時であったとされています。彼は同時に「ロビガリア」という農業祭祀を始めたことでも知られ、これは豊穣を祈るとともに日照りの害などを避けるために始められたと考えられています。
このように「暦」が「農業」とそれに伴う「祭祀」とともに完成されたこと、その時点の「暦」が「農事暦」としての性格が前面に出てきたことは、その時点でローマにおいて農業の重要性が高まったことを示すとともに「暦」に対してより正確性が要求されることとなったことを示しますが、それはローマ以外の地域においてもほぼ同様であったのではないかと考えるべきでしょう。
 すでに『魏志倭人伝』(に引用された『魏略』)に「春耕秋収を記して年紀とする」という文章があることについて検討し、それが「俗」つまり一般民衆の慣習として「貸稲」の利息対象期間を意味するものとして存在していたとみたわけですが、紀元前八世紀に農業が主たる生活の糧となって以来このようなシステムは不可欠であったと思われ、その時点で「暦」は「春から秋までの日数」を数えて暦としていたと見られます。
 具体的には不明ではあるものの、基本「太陽暦」であったはずであり、現在も「二百十日」「二百二十日」「八十八夜」などの呼称があり、これは「立春」から数えたものですが、これによく似たものではなかったでしょうか。すなわちどこか「基点」を決め、そこからの「日数を数える」ということで各種のタイミングを見ていたと思われます。それが「ローマ」「ギリシア」「エジプト」「バビロニア」などの諸国と同様「シリウス」を見て決めたのかは定かではありませんが、可能性はなくはないと思われますが、中国では上にみる「春秋戦国時代」以降「一年」を意識するようになった結果「二十四節気」が考え出されており、これは一年を24のポイントに分けて考えるもので、上記の「立春」もその一つです。このことは少なくとも中国では「シリウス」が暦の起点とはなっていないらしいことが推測できます。中国と交流があり、弥生時代の始まりにもそれが関係しているとすれば列島においても当時から「立春」が起点であったのかもしれません。
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「聖武」の「詔報」と「庚午年籍」

2020年03月11日 | 古代史
 「聖武」への治部省からの奏上に「官籍」という語が出てきます。この「官籍」は王権側で作成保有している「戸籍」を指すと思われますが、これに対する「聖武」の詔報の中では「白鳳以来」「朱雀以前」という表現がされています。このこととの関連で考えるとここでいう「官籍」は六七〇年成立とされる「庚午年籍」そのものであるという可能性が高いと思料します。「白鳳」が天智即位との関連のものと見れば「六六二年」であり、また「朱雀」は「六八四年」と考えられていますから、この両方に関わる戸籍といえば「庚午年籍」ではないでしょうか。これであれば「白鳳以来」も「朱雀以前」もともに該当します。
 「庚午年籍」は「律令」で「永久保存」とされ、「氏姓の根本」とされていますから、ここに「ない」とするといくら「綱帳」にあっても判断できないということではなかったでしょうか。さらにいえばここに出てくる「僧尼」たちは「京及び諸国」とは書かれていますが実態としてはその多くが「九州地方」の者たちではなかったかと思われます。なぜならこの「詔報」時点ではまだ「筑紫諸国」の「庚午年籍」が入手できていなかったものであり、この時点(七二四年)では「官籍」にないのも当然と言えるからです。
 『続日本紀』によれば「筑紫諸国の庚午年籍」を入手したのはこの三年後であり、このように入手を急いだ理由もこの「僧尼」の公験に関係しているという可能性もあるでしょう。これがないかぎり「僧尼」が申し立てれば「公験」を発給せざるを得なくなるわけであり、そのため欠けている「庚午年籍」を急ぎ入手する必要があったと思われるものです。これが「大宰府」にあるものなら何も時間をかける必要はなかったでしょうから「三年」という時間は「探索」にかかった時間と思われます。
 「筑紫諸国」の「庚午年籍」はその他の「庚午年籍」が各国府にあるのと同様「大宰府」にあったはずですが、それが何らかの理由により亡失していたということと思われ、それは「隋」において「秘府」(皇帝直属のアーカイブ)から「隋末」の混乱の際に相当量の史料が流失したのと同様の混乱を推定させます。
 そのような混乱としては「新日本王権」への統治権委譲とそれに伴う「首都」の移動の際に発生したと見るのが相当でしょう。この事態の推移に納得がいかない勢力により「大宰府」から外部へ持ち出さされたものと思われ、そうであれば「首都」から遠ざかる方向、地域へと持ち出されたものと思われ、考えられるのは「薩摩」ではなかったでしょうか。その探索に「三年」を要したということと思われます。
 そもそも「僧尼」に対する「公験」の授与が七二〇年の正月から始められており、これ以前には行われていなかったことが明白ですが、同じ年の二月に「隼人」の「反乱」が始まっており、この両者に関係があることが察せられます。

四年(七二〇年)春正月甲寅朔。…丁巳。始授僧尼公驗。
二月…壬子。大宰府奏言。隼人反殺大隅國守陽侯史麻呂。
三月丙辰。以中納言正四位下大伴宿祢旅人。爲征隼人持節大將軍。授刀助從五位下笠朝臣御室。民部少輔從五位下巨勢朝臣眞人爲副將軍。

 新日本王権が「公験」授与の権利を得、その権利行使に必要な「官籍」つまり「筑紫諸国」の「庚午年籍」を手に入れようとしたことが反乱の発端かもしれません。
 「新日本王権」はこの「庚午年籍」が大宰府にないことは当然すでに把握していたはずであり、すでに「探索」していたものと思われ、それを「(大隅及び薩摩)隼人」が保持しているのを承知していたのかもしれません。それを「大隅国守」が入手しようとして彼等の抵抗にあったということではなかったでしょうか。
 この反乱は「七二三年」には収束し、その時点で新日本王権の統治下に入った僧尼がかなりいたものと思われますが、彼等の戸籍の入手はこの段階ではまだできていなかったものであり、それについての処置に困っていたところ、翌年に禅譲を控えていたため新天皇即位の後奏上し「詔報」を得ることとしていたものではなかったでしょうか。
 このような経緯の後「筑紫諸国」の「庚午年籍」の探索が続けられ七二七年になって「やっと」入手できたということと思われ、この時点以降「公験」授与が「九州地方」の僧尼に対しても「官籍」と「綱帳」の双方を勘案して行うことが可能となったものと思われるのです。

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