前回「年号」が仏教と不可分であり、俗世界の支配者は「紀年」に仏教と関係が深い「年号」を使用するという「概念」がなかったものとみたものです。その意味で「大宝」が「建元」とされているのは(もちろん「倭国年号」が前王朝に関わるものという点は動かないものの)、「年号」が統治の実務に利用されるようになり、名実ともに「絶対権力」の象徴となったことを自覚した故の「宣言」であるとみるべきではないでしょうか。
つまりそれまでは「年号」は統治の実際とはほぼ関係がなかったものであり、あくまでも仏教に関連するものについてのみ表記に使用されていたものが、この「大宝」で明確に仏教と切り離されたものとみられるのです。ただし、それ以前にも「萌芽」といえるものはありました。それは「白雉」改元です。
「倭国年号」資料を見ると「僧要」以前は仏教臭が強いものの、「命長」「常色」というやや仏教に関連しているといえなくもない年号の後「白雉」からはすっぱりと仏教とは縁がなくなっています。(これは「利歌彌多仏利」の死去と関係があると思われます)
「白雉」は明らかに「瑞兆」に基づく「改元」であり、これ以降仏教とは違う次元で「年号」が選定されているように見えます。そこには「漢代」の故事などが引用されるなどしていますが、内容としては全く仏教には関係がありません。
「白鳳」はその出典などが不明ですが、少なくとも仏教と深く関係しているとはいえないと考えられますし、「朱雀」および「朱鳥」についても同様にいずれも典拠は古典にあるものと思われ、これも仏教とは距離があるようです。
これらの「改元」の経過を見ると「七世紀半ば」に「年号」と仏教との間でいわば「分離・離脱」が行われたように見え、ここに時代の「画期」があるように思えます。
『書紀』に見える「改新の詔」の内容は中央集権的権力の完成を意味するものであり、その流れの中に「年号」を「仏教」から分離して考える立場が発生したように思えます。
以前検討しましたが「白村江の戦い」とそれ以前の「百済を済う役」に際して編成された軍の構成には後の「軍防令」のような「決まり」があるように思えます。これは「軍」に限るものではなくそれは「律令」の一部であったとみるべきことを示します。それを示すように『公卿補任』には「難波朝」において「官僚制」らしきものがあったことが推察される記事があります。
大宝元年条 大納言 正三位 石上朝臣麿 三月廿一日任。元中納言。同日叙正三位。/雄略天皇朝大連物部目之後。難波朝衛部大華上物部宇麿之子。
大宝二年条 参議 従四位上 高向朝臣麿 同日〈五月十七日〉任。/難波朝刑部卿大花上国忍之子。
これをみると「難波朝」には「衛部」「刑部」があり、そのことからこの時点で「官僚制」が確立していることが推測できます。官僚組織と律令制は不可分ともいえるものであり、七世紀半ばにそのような組織があるとすれば「律令」があって当然といえます。
ただし「律令」はあり、また「年号」は「仏教」と分離していたものの、当時の王権には「統治」行為の中に「年号」を落とし込むと云うところに思いが致していなかったと云うことではなかったでしょうか。
木簡等「公文」に「年号」が見られず、また「戸籍」の名称として「庚午」という干支で年を表す方式を採用していることからも、それは伺えるわけであり、これを一歩進めて「年号」の使用を「律令」の中に明示するという方法論で明確化したのが「新日本王権」であったと考えるものです。