[レシピ] ブログ村キーワード
今日は4月15日。
ちょっと無理があるなぁ…とは思うのですが、
4(ゆ)1(い)5(ご)ん、
で、遺言の日なんだとか。
ま、語呂合わせの無理やりさはともかくとして…(^_^;)
せっかくなので、ちょっとそのあたりの思うところを話してみようかなと思います。
自分も正確には記憶していないくらいの小さなとき、
ごく幼かったころには、とにかく長生きしようと思っていたらしいです(笑)
ご長寿の方が自治体から表彰されたりしていますよね。
あれをもらうんだと言って
親としては喜ぶところ?
ま、長生きしようというのは、幸せの証であり、先にいかない、不孝をしない、という点でいえば、親孝行ではあります
少し物心ついてから。
なんとなくぼんやりと、早くに死ぬんじゃないか、
そう長生きはしたくないし…
かといって、自殺することは批難されるべきこと、
その方法は間違っている、その無意味さ、冒涜的行為という認識はある。。。
ま、それが揺らぐこともなかったといえばうそになるわけで、
おそろしいことにそんなことを考えたこともありますが…
ま、とにかく普段はその手段はタブー、生き抜かなくてはならない
その意識は前提にあるけれど、次の瞬間に終わりが来てもおかしくない、
そして実際にそれが現実になることも、そう遠くないうちにくるに違いない、
何の根拠もないんですけどね、
そう思っていました。
だから、あとに残るモノ、自分の意識外になった世界、
そういうことを考える時間も自然と多かったような気がします。
そして、自分というものがなくなった後の世界、そこで自分を思い起こさせるようなもの、
過去の自分のあとをとどめるようなもの、
それが物質としてその世界に残っていくこと、
自分の手を離れて生き続ける事に漠然とだけれど恐ろしさを感じていて。
なんとかそういうものを残さずに、ふっと消えたい、
カタチはこわい、
音や光のように残らない美しさで…
どう考えても無理な話なのに、そんなことを思っていました
ゆえに写真とか撮られるのは特に大嫌い、
自分がつくったもの、描いたもの、書いたものもあまり外には出さない、
終わりのニオイを感じたら、すべて燃やそう、
と。
今考えればそれも若いなぁと思うのですが、そんなふうに考えていました。
でも、先に書いたように、そんなこと現実には徹底できるはずがない。
そしてそれとは逆行する形で表現欲求もわいてくる、
こうして書いているような行為ももちろんそうですが、
なんというか、外へ外へのアピール、というほどではなくても、
それはむしろ内へ内へなのだけれど、
生みだすことは苦しみもあるのに、それ以上に生きがいで。
その矛盾…
でも、矛盾なんかじゃないんです。
残そうとしても、残すまいとしても、
そんなことは考えて操作できることじゃない、
ふっと消えるように美しく死ぬ、
それを美しいとするのなら、美しい人の死なんて存在しない、
それが人間。
生かされ、生き、つながる、
そこへ一個が逆らうことなど不可能、許されることじゃない。
それが泥臭くも美しくて、どこまでも人間で。
解きようのない奇跡、愛すべきもの…
つながりに気づいて、自分もつなぐ存在になること、
その大きな感謝と愛情と…
そんなものを感じて生きるべき、生きたい、
なんというか、そんなふうに変わってきて。
それを拒否しようとした、そこから離れた美しさを描いていたのはやっぱり幼かったなぁと。
もちろん、この今の考え方も5年10年、○十年、経ってみれば、青いなぁ、
になると思うのですが、
今は、こういう考えから、
残すということ、残すモノ、
それに恐れしか抱かない、消すことに躍起になるのは違うな、と。
思っているわけです。
でもそうなると、残されたもの、それで後のうける人たちが困らないようにはしなくてはいけない。
とかんがえると、遺言やその他、生前にきちんと意思を残しておくこと、表しておくことも本当に必要なことだな、と思うんです。
迷惑をかけずに、なんては無理、
迷惑かけ合って、関係しあって、
それでしか生きられないから、最後までそうだから、
なお、思いやりの意思も投げてから…
と。
なかなか縁起でもないと言われることも多い遺言だけれど、もっと身近なものになっていってほしい、
いつかはだれしもに訪れることなんだから、ベールに包むようにしてかわしてばかりで生きるのは違う、
向き合うことが特別視されない、自然にとらえられるべき、
そう私は思います。
自分も折に触れては考えたい、
残すと言えるだけのものなんて、まだまだなにもないけれど、
そう言えるような、自分がコレと打ち込めるもの、自分を探すと同じく、
そのあとへの想い、意思からも逃げないように…
生きたいなぁと。
遺言をキーワードに今の私の思うこと、でした。
今日のレシピです
・鶏ハラミの変わり揚げ 青菜のターメリック風味ソテー添え …①
・桜エビと揚げカシューナッツのアジアンサラダ …②
・ひじきの生クリーム入り洋風きんぴら …③
①の作り方
1 鶏ハラミ肉は塩こしょう、紹興酒をまぶしておく
2 小麦粉と水、パン粉をからませて、しっかりとつける
3 2を揚げる
4 一度取り出してしばらく置き、2度揚げしてカリッと仕上げる
5 金時草と菜の花をオリーブオイルで、ターメリック、カレーパウダーを加え、ソテーする
6 4と5を盛りあわせる
②の作り方
1 レタスは適宜ちぎって皿に盛る
2 岩塩とライムジュースをかける
3 カシューナッツを揚げる
4 3と桜海老、天かす、一味唐辛子をサラダの上からトッピングして出来上がり
③の作り方
1 ひじきはさっと洗っておく
2 小さく切ったズッキーニ、パプリカ、1のひじきをバターで炒める
3 めんつゆと塩こしょう、酒で調味し、炒め煮にする
4 生クリームを加えて軽く煮る
5 火をとめ、器に盛って出来上がり
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それでは
今日は4月15日。
ちょっと無理があるなぁ…とは思うのですが、
4(ゆ)1(い)5(ご)ん、
で、遺言の日なんだとか。
ま、語呂合わせの無理やりさはともかくとして…(^_^;)
せっかくなので、ちょっとそのあたりの思うところを話してみようかなと思います。
自分も正確には記憶していないくらいの小さなとき、
ごく幼かったころには、とにかく長生きしようと思っていたらしいです(笑)
ご長寿の方が自治体から表彰されたりしていますよね。
あれをもらうんだと言って
親としては喜ぶところ?
ま、長生きしようというのは、幸せの証であり、先にいかない、不孝をしない、という点でいえば、親孝行ではあります
少し物心ついてから。
なんとなくぼんやりと、早くに死ぬんじゃないか、
そう長生きはしたくないし…
かといって、自殺することは批難されるべきこと、
その方法は間違っている、その無意味さ、冒涜的行為という認識はある。。。
ま、それが揺らぐこともなかったといえばうそになるわけで、
おそろしいことにそんなことを考えたこともありますが…
ま、とにかく普段はその手段はタブー、生き抜かなくてはならない
その意識は前提にあるけれど、次の瞬間に終わりが来てもおかしくない、
そして実際にそれが現実になることも、そう遠くないうちにくるに違いない、
何の根拠もないんですけどね、
そう思っていました。
だから、あとに残るモノ、自分の意識外になった世界、
そういうことを考える時間も自然と多かったような気がします。
そして、自分というものがなくなった後の世界、そこで自分を思い起こさせるようなもの、
過去の自分のあとをとどめるようなもの、
それが物質としてその世界に残っていくこと、
自分の手を離れて生き続ける事に漠然とだけれど恐ろしさを感じていて。
なんとかそういうものを残さずに、ふっと消えたい、
カタチはこわい、
音や光のように残らない美しさで…
どう考えても無理な話なのに、そんなことを思っていました
ゆえに写真とか撮られるのは特に大嫌い、
自分がつくったもの、描いたもの、書いたものもあまり外には出さない、
終わりのニオイを感じたら、すべて燃やそう、
と。
今考えればそれも若いなぁと思うのですが、そんなふうに考えていました。
でも、先に書いたように、そんなこと現実には徹底できるはずがない。
そしてそれとは逆行する形で表現欲求もわいてくる、
こうして書いているような行為ももちろんそうですが、
なんというか、外へ外へのアピール、というほどではなくても、
それはむしろ内へ内へなのだけれど、
生みだすことは苦しみもあるのに、それ以上に生きがいで。
その矛盾…
でも、矛盾なんかじゃないんです。
残そうとしても、残すまいとしても、
そんなことは考えて操作できることじゃない、
ふっと消えるように美しく死ぬ、
それを美しいとするのなら、美しい人の死なんて存在しない、
それが人間。
生かされ、生き、つながる、
そこへ一個が逆らうことなど不可能、許されることじゃない。
それが泥臭くも美しくて、どこまでも人間で。
解きようのない奇跡、愛すべきもの…
つながりに気づいて、自分もつなぐ存在になること、
その大きな感謝と愛情と…
そんなものを感じて生きるべき、生きたい、
なんというか、そんなふうに変わってきて。
それを拒否しようとした、そこから離れた美しさを描いていたのはやっぱり幼かったなぁと。
もちろん、この今の考え方も5年10年、○十年、経ってみれば、青いなぁ、
になると思うのですが、
今は、こういう考えから、
残すということ、残すモノ、
それに恐れしか抱かない、消すことに躍起になるのは違うな、と。
思っているわけです。
でもそうなると、残されたもの、それで後のうける人たちが困らないようにはしなくてはいけない。
とかんがえると、遺言やその他、生前にきちんと意思を残しておくこと、表しておくことも本当に必要なことだな、と思うんです。
迷惑をかけずに、なんては無理、
迷惑かけ合って、関係しあって、
それでしか生きられないから、最後までそうだから、
なお、思いやりの意思も投げてから…
と。
なかなか縁起でもないと言われることも多い遺言だけれど、もっと身近なものになっていってほしい、
いつかはだれしもに訪れることなんだから、ベールに包むようにしてかわしてばかりで生きるのは違う、
向き合うことが特別視されない、自然にとらえられるべき、
そう私は思います。
自分も折に触れては考えたい、
残すと言えるだけのものなんて、まだまだなにもないけれど、
そう言えるような、自分がコレと打ち込めるもの、自分を探すと同じく、
そのあとへの想い、意思からも逃げないように…
生きたいなぁと。
遺言をキーワードに今の私の思うこと、でした。
今日のレシピです
・鶏ハラミの変わり揚げ 青菜のターメリック風味ソテー添え …①
・桜エビと揚げカシューナッツのアジアンサラダ …②
・ひじきの生クリーム入り洋風きんぴら …③
①の作り方
1 鶏ハラミ肉は塩こしょう、紹興酒をまぶしておく
2 小麦粉と水、パン粉をからませて、しっかりとつける
3 2を揚げる
4 一度取り出してしばらく置き、2度揚げしてカリッと仕上げる
5 金時草と菜の花をオリーブオイルで、ターメリック、カレーパウダーを加え、ソテーする
6 4と5を盛りあわせる
②の作り方
1 レタスは適宜ちぎって皿に盛る
2 岩塩とライムジュースをかける
3 カシューナッツを揚げる
4 3と桜海老、天かす、一味唐辛子をサラダの上からトッピングして出来上がり
③の作り方
1 ひじきはさっと洗っておく
2 小さく切ったズッキーニ、パプリカ、1のひじきをバターで炒める
3 めんつゆと塩こしょう、酒で調味し、炒め煮にする
4 生クリームを加えて軽く煮る
5 火をとめ、器に盛って出来上がり
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それでは