魂のロードマップはあなたの中にあります

本当は毎日生まれ変わっているのが私たち
いつだって限りない可能性の光が満ち溢れている

「愛」だけしかそこにはない

2022年09月27日 | 目覚め
Facebook、2022年4月28日にあげた記事。

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ねぇねぇ、私のこと愛してる?
うん、愛してるよ。

言っとくけど。
これは私とパートナーとの会話ではない。


少し前の記事にも書いたけど。 
今のパートナーとは「響き合う」という感覚が強い。

それを、あらゆるシーンで
少しずつグラデーションをつけながら感じさせてもらっている。


ただ、その感覚って。
男女の関わりにおいては、あまり味わったことのないものだから、
なかなか言葉で言い表しにくい。


何か話している時なども。
「2人」はいるんだけど。
お互いの中にある同じ何か…澄み渡る静けさにゆったり身をまかせているような感覚。


流れている川の岸辺に佇んでいる私と向こう岸にいる彼、ではあるんだけど。
川の流れそのものが、私であり彼でもあるという感覚。


そして、その時の2人の様子を思い返すと「紙芝居」を見ているようになるのも面白い。
舞台でも、映画でもなく、なぜか紙芝居。


川は流れているけど、私達は切り取られた映像(紙芝居)の中にしかいない。


すると冒頭の「愛している」という言葉になんともいえない違和感を覚える。
それは、自分が言い慣れてないから。
もしくは、聞き慣れてないから違和感を覚えるということではなく。

「愛している」の、
「している」をとった「愛」だけしかそこにはないように感じるから。

それでしかないから、行為ではなく…「愛だなぁ」という感じ。


もちろん大切な誰かに「愛している」と言葉に出して伝えることは素敵だと思う。
「深い愛で繋がりたい」という想いの先には、特定の誰か…もそうだけど。

「全ては愛でしかない世界」を味わいたいという、
尽きることのない想いがあるのかな😌



私達が本質から離れたことなんて一度もない

2022年09月27日 | 目覚め
Facebook、2022年4月27日にあげた記事。


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これまで、どれだけ多くの人と出逢ってきたんだろう。

それこそ、数え切れないほどの人達と接してきて、
今ほど自然体でいることはなかったかもしれない。

自然体という言葉は、「自由」という言葉に置き換えてもいいかもしれない。

自由って漠然としたものだったけれども。
「なる」ものではなくて、不自由にしている私に気づいていくことだったんだなぁと。

そして、自由という感覚が拡がって初めて「私」だと思い込んでいたものが、
いかに実体の無いものだったんだろうと。

「私」が進化していけば、スゴい存在になるのではなく。
(それじゃあ、私は頑張り続けなければいけなくなるし、それはとてもしんどい生き方になる)

「私」が薄まることで、もともとある本質(全体性)が自然と顕れてくる。
(でも、私を見ていかないことには薄まらないというところもある)


だからといって、「私」はなくならないし、これからもささやかな抵抗はすると思う。
でも抵抗する時間はとても短くなっていくし短くなった分だけラクになっていく。


これって(心が)裸の状態に似ている。
人前に素っ裸をさらせない。
こんな私なんて恥ずかしい。
こんな私は隠さなければいけない。

だから、何とかして体裁を整えて。
あれも着てこれも着て。
…どんどん着膨れして。


アダムとイブが楽園から追い出された話し(正確には覚えていないけど💦)が、
突然浮かんできたけど、このことを言っているのかしら。

羞恥心て「私」というものを意識し始めてから出てくると思うし、
罪悪感と隣合わせにも感じる。

そして、追放されたと思い込んでいるのは私達だけで、
楽園はここにあるのに気づかず彷徨う。


でも、着膨れしたものを剥ぎ取っていく度に呼吸がラクになり、
楽園(本質)から一度も追放されたことなんてなく、ずっといたことに気づく。

この感覚は、今までも何度か訪れているけど。
ぼんやりしていたものが、さらにはっきりしてきているように感じられる。



真の癒やしは、 自分を明け渡した時に「起こる」もの

2022年09月27日 | 目覚め
Facebook、2022年4月26日にあげた記事。


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癒やし、とか。
癒やす、とか。

この言葉って、人によって捉え方や解釈が全然違ってくると思うんだけれども。
「誰か」が「誰か」を癒やすなんて、本当は出来ない…とあらためて思う。


私自身、ヒーリングの仕事をさせていただいているから、
ヒーラーの存在や役割を否定しているわけじゃない。

その関わりの中で、癒やされるということが起きないと言っているわけでもない。


でも、真の癒やしって。
自分を明け渡した時に「起こる」ものだということが理屈抜きで入ってきた。

ヒーラーは、いわばそのきっかけ。
(と言っても決して軽んじているわけじゃない)


ここ数日、自分の中で何かが静かに抜け落ちていくような感覚がずっと続いている。

抜け落ちていくのは、いくつもの「私」という抜け殻。

そして昨晩、「私は癒やされていたんだ」という想いと言葉が初めて湧いてきた。


この数年間。
何度も何度も降参して。
何度も何度も明け渡して。
私を預けることによって…癒しは起こっていたんだなと。


変わることに気づいている、変わらないものが見せてくれる世界。 


目の前で起こる出来事に対して、それまでの慣れ親しんだ反応からではなく。
湧いてくるものを大切にしたい。

ありのまま、そのままに。

そうすると。
世界は、より鮮やかで美しくなっていくんだろうと思う。



「私」という愛しい主人公がいるストーリーと、 それに気づいている時間を超えた「自分」

2022年09月27日 | 目覚め
Facebook、2022年4月25日にあげた記事。


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この世界には、日々沢山の情報が溢れている。

目に入ってくるもの。
耳に入ってくるもの。

何かしら刺激を受けたり反応したりと、なかなか忙しい。

「私」が主人公のストーリーを体験する為の登場人物だったり場所が次々とあらわれる。


自分が選んでいるようで…そうではない。


先日もある出来事を通してそれを実感した。

「私」のストーリーのお膳立てが出来上がった。
そこに反応しかかったんだけれども…。

同時に、そのストーリーからスルッと抜け出ている自分もいた。


舞台で言うと役者の側ではなくそれを包括して観ている側。
でもどちらもいる。
決して、どちらかだけじゃない。


演じる側の「私」も、それを包括している観る側の「自分」も
どちらも同時に存在しているこの世界って、やっぱり奇跡としか言えない。


反応しかかって、違和感を覚えた。
なんだか…つまらないな、と。
テープの巻戻しみたいだな、と。
そんな感じだった。


つまらないと言っても、
そのストーリーがつまらないというのではなく
余計なものを持ち込みたくないという感覚。


純粋に味わいたい。

そこにいろんなものをぶら下げたくない。


今までも「私」が主人公のいくつかのストーリー(パターン)があった。
様々なタイトルがついたストーリーを、無我夢中で演じていたんだろうと思う。

でも、もっとリラックスして観たいなと思った。
言葉にすると…。

今笑った。

今泣いた。

今怒った。


理由はわからないけど、目の前に起こってくること、流れていくもの。

「私」という愛しい主人公がいるストーリーと、
それに気づいている時間を超えた「自分」。


愛でしかない私を、そうでない世界におくことによって、
様々な感情を生みだしていったことを思うと。
愛しさしか残らない。



題名のないAI絵画展

2022年09月27日 | 日記
Facebook、2022年4月24日にあげた記事。

人のご縁って本当に不思議。
ある方にお声がけいただいて見にいった絵画展。

貴重な経験をさせていただきました。

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その昔、絵が大好きで油絵クラブに所属していた小学生の頃。

真っ白なキャンバスにむかう時間が大好きだった。

独特な世界観を描いていたようで、
学校の講堂にむかう廊下…一番目立つ場所に自分の絵が飾られて。
ちょっぴり誇らしげな気持ちになっていたことが懐かしい。

このまま絵を勉強して、将来は美大に進んでみては?と顧問に言われて、
意気込んで両親に言ってみたところ…一蹴されてしまったな〜😅


前置きが長くなってしまったけど。

S様にお声がけいただき、
羽田イノベーションシティにて開催されている「題名のないAI絵画展」に本日伺った。


AIが絵を描く?
いったいどうやって?
そして、描かれた絵はどんなものなんだろう?


会場に着いて、まず目に飛び込んで来たのが白をベースにした絵画。

一見無機質な感じもするんだけど。
それとは真逆の生命力のようなものも感じられて不思議な世界。

一言では表現できない。

単に綺麗とか美しいとかではなく。

「あなたは誰?」と問いかけられているような…。

また、私が大好きな油絵のタッチで、力強い動きや奥行きが感じられた。
さらに、写真でいうところの背景のボカシのような描き方も入っていてより立体感があった。




面白いのが、
絵を観た方が自分でタイトルを考えて貼っていくという趣向になっていて、
私もステッカー片手に思い浮かぶ言葉を書いていった。



全ての絵を拝見させていただき、
最後に窪田氏の「絵画におけるコンセプト」を読んだ時、静けさが広がるようだった。


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私たちはどこから来たのか?
私たちは何者か?
私たちはどこへ行くのか?


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そんな言葉で始まり…。


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マルチバースの時代、私たちはどんな風に生きてもよい。
そして、どの生き方も美しい。
辛いことがあったときは、宇宙に投げよう。
一筋の光が無数の放射状の線になって降り注ぐ。


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という言葉で結ばれている。
そして再び、始まりの言葉である。


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私たちはどこから来たのか?
私たちは何者か?
私たちはどこへ行くのか?
「          」


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空白の「」のみが置かれて終わっている。

この「」を見た時、流れてきた言葉。

私たちは、ここから来て。
そして、ここに帰る。
私たちは、最初からここにしかいない。
始まりも。
終わりもない。
ここ。


本日は、直接 窪田 望氏からも貴重なお話しを伺うことが出来ました。
お声がけいただきありがとうございました。