魂のロードマップはあなたの中にあります

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「私」を明け渡すと「私」が戻ってくる

2021年01月12日 | 目覚め
今までいた世界がクルンとひっくり返った。
何かが入れ替わったというか、逆転したような…そんな感覚。

長い間、幽閉されていた場所から解放されたような感じもする。
昨年もらった「正気に戻ったね」というメッセージは、このことだったんだ。

語彙力に乏しい私があれこれ言葉を紡いでも、
言いたいことのほんのわずかしか表現できないけれど。
記しておきたいという想いが、こうやってパソコンに向かわせている。


以前は、「自分」の中に「流れ」のようなものを感じていた。
でもこの時点では、「自分」と「流れ」には僅かであっても分離感があった。

今は「流れ」そのものが「自分」という感覚になった。
(だから世界がクルンとひっくり返ったように感じられた)
こうやって言葉にすると大差がないように見えるけど、ものすごい違いがある。


いつ頃からかハッキリとは覚えていないけど、昨年の夏後半ぐらいから。
朝起きた瞬間から、まだ何も始まっていないのに「幸せだなぁ」と感じられる。
そして、夜眠る間際にも「なんて幸せなんだろう」と感じられる。


生活が激変したとかそんなことはない。
表面上は何も変わらない。
「幸せだ」と感じる何か対象があるわけじゃない。
ただただ幸せだと感じる。


それまでは。
何かが手に入ったからとか、何かが達成できたからとか、
何かをしてもらったからとか。
出来事に反応する形で「幸せ」だと感じていた。
(それもありだと思っている)


だから…ただ幸せだと感じている状態に「あれ?」。
無理に感じようとしていたわけでもなかったし、
もちろん「フリ」をしていたわけでもなかった。
どこで何をしていても感じることに安らぎを覚えながら、
変化していく過程で起こることなのかしらと思っていた。


でも、その状態が一過性のものではなく継続していること。
そして、そうなる前の状態には戻れないこと。
さらに、ここ数日の覚書に記したような体験が重なり、
ようやく「始まる」という静かな喜びが溢れてきている。


これがゴールではないということ。
通過点に過ぎずこれからが「始まり」。

正気に戻ったうえで。
つまり、本質に目覚めたうえで。
この人生を生きるのが魂の「醍醐味」になっていくんだなぁと思う。
きっと、どんな体験も味わい深くなっていく。



覚書②~「無心」は「無敵」

2021年01月11日 | 目覚め
昨日の記事に続く覚書。

昨晩お風呂に入りながら。
覚書①を書いている最中に流れてきた「無心」という言葉に関連して、
思い出していたことがあった。


繰り返し繰り返し、浮かんできたのが幼少期の頃のこと。

裏のお寺さんで一心不乱で泥まんじゅうをつくっていた「私」の姿。
サラサラとした砂に水を加えることによって、だんだん形が出来上がっていく。

長時間しゃがんで手も泥だらけだったと思うけど、
何がそこまで「私」を夢中にさせたのかは覚えていない。

あの時も、そこに個としての「あゆみ」はいなかったなぁ。
同じお寺さんで、自分と樹や風との境目がなくなって、
時間にとけていった体験は過去にも書いたけどそれとは少し違う感覚。

外側に向かって拡がったのではなくて、内側から中へ拡がっていったのかな。
でも今は、外側も内側もないという感覚がしっくりくる。

別の言い方をすると…。
2つあった扉のうち、1つだけが開いていたんだけど。
ようやくもう1つの扉も開いて循環してまわり始めた感じ。
まわり始めたら、「外」も「内」もなくなった。


子供の頃の外側との境界線がなくなる体験の延長線上にチャネリングがある。
私にとっては呼吸するのと同じくらい自然なこと。

そして、昨年の12月頃から、
内側から湧いてくる何かに押されるように行動していた私がいたんだけど。
まさに、子供の頃…「無心」に泥まんじゅうを作っていた時と同じような感覚が毎日起こっていた。


言葉で説明するのが本当に難しいけど。

自分の肉体はもちろん見えている。
でも「無心」になっている時…。
「あゆみ」は限りなく透き通っている感覚。

外側へと感じていた拡がりも、内側へと感じていた拡がりも、
境界線がなくて「ここ」が中心で「ゼロ」。


全くもってなにを言っているのかわからないと思うけど。
「ここ」にいるってスゴイことだわ~!!と風呂場でひとり静かに感動。


さらに。

「無心は無敵だよ」

とメッセージをもらった。


言葉の意味を理解するより前にストンと腑に落ちた。

過去の私であれば「無敵」と言うと、
敵をバッサバッサとなぎ倒していくゴリゴリの強者のイメージがあったけれど…そうじゃない。


「・・・そうだよ」

「無敵って読んで字のごとく。そもそも敵なんて最初からいないんだよ」

「誰とも争う必要はないんだよ。自分に対してもね」


なんか、もう嬉しくってたまらない。


1月16日開講 意識拡大リトリート第5期のご案内

2021年01月11日 | お知らせ☆告知
これまで、コラボパートナーの岡田歩さんと開催してきた意識拡大ワークショップ。

1月16日。
さらにバージョンアップして「意識拡大リトリート」として第5期を開催させていただきます。


ワークショップから、リトリートへと名称を変更したのには理由があります。

リトリートは「本来の自分に戻るための時間」ともいわれています。

0期から始まったワークショップですが、期を重ねるごとに開催する私達自身も変容を重ね、
当初の目的をはるかに越えて中身もどんどんと成長していきました。

その過程で、月に一度のこの時間をみんなで集い共振共鳴することによって、
自分の本質とアクセスしやすくなり、アクセスしやすくなることによって、
様々な側面で「本当の自分」との邂逅が始まり、
自然と本来の自分に戻っていくことが出来る…それを体験し続けています。

つまり、頑張らなくても、ノウハウに頼らなくても、
自然と目覚めにむかっていける時間なのでリトリートにしたわけなのです。


今までご参加くださった方々からも、必ずと言っていいほどご感想としていただく…
私と歩さんの個性の違いの面白さ、役割の違いなどがあります。

限りない自己としての目覚め。
方向性は同じでもアプローチの仕方がまるっきり違うところが、私自身も面白いと実感します。

日々、メッセージを受け取りながら生きることの面白さ、奥深さを感じ、
それをご縁のある方々と分かち合えるのは本当に幸せだと思います♡

新しい年の始まりに、ぜひご一緒させていただけることを楽しみにお待ちしています!!

詳細&申込→


覚書①~やりたいことしかできなくなる

2021年01月10日 | 目覚め
やりたいことをやろう!


ではなく。


やりたいことしか出来なくなっている。


いや、それもちょっと違う…。


〇〇をやりたい…と言うよりも。
この肉体を通して現れる「何か」を表現しているだけ。

でも「私」が表現しているのではなくて…。
(この場合の私は、個だと思っているあゆみ)
「私」を超えた「何か」が「私」というツールを使っている。
そんな感覚。
(個の肉体を蔑ろにするということではないよ)


「何か」が「私」を使って表現することが「自然」な感覚。
それが何だか…楽しい。


何がどう楽しいのかと聞かれても理由がない。
純粋に楽しい。
〇〇だから、という〇〇に該当するものがない。
楽しいと言っても、刺激や興奮とは違う。
過去に体験して「楽しい」と感じていたこととも全く違う…。


「無心」でやっている。


そう流れてきた。
確かにあれこれ余計なものが介在していない状態かも。
個である「あゆみ」の存在さえも透明になっている感じ。


制限って何だろう。
ブレーキって何だろう。

「私」が、制限出来ると思い込んでいただけ。
「私」が、ブレーキをかけられると思い込んでいただけ。


「私」がどんどん小さく薄くなって「何か」が大きく濃くなってきている。
いや、それもちょっと違うかな。

「私」が透明になっていくと、元々そこにあった「何か」が自然とあらわれる。
あらわれた「何か」が「私」を動かす。
これが「本質」なのであれば…そうかもしれない。


言葉にすると、ホント…何言っているのかがわからないと思うけど。
実際に私の身の上に起こっている出来事を文字にすると、こんな感じ。
覚書として…。



愛は恐れをとかす

2021年01月09日 | 目覚め
私自身も含めて。
人って不確かなもの(こと)や人に対して、
本能的に不安を覚えるものなのかもしれない…。
 
 
人間関係の関わりを通して見ていくと、
私って〇〇な人、あの人って(きっと)〇〇な人。
イメージを固定化することによって安心感を得ている。
 
 
しかも往々にして。
自分に対しては、何かにつけてセルフイメージを低くしがちな傾向が強いように感じる。
 
 
矛盾をはらんでいるようだけど、
「自信の無さ」と「安心感」が奇妙に同居?しているような状態。
 
 
でも、そもそも…その〇〇って何をもって決めつけたの?
親に言われたから?
誰かに言われたから?
自分でもそうだと思うから?
 
 
でも、それって本当???
 
 
しかも、その〇〇を別の角度から見てみると。
「願望」と「恐れ」が同居している。
 
 
なぜ「安心感」の中で「願望」を持てないんだろう…。
どうして、そんなややこしいことをしてしまうんだろう…。
そう思うけど、それこそ人の数だけ理由がある。
 
 
私自身の経験を振り返ると。
ひとつ言えるのは、
肉体を着た自分が存在している「この世界」に対する前提だと思う。
 
 
「この世界は怖い」から「この世界は安心だ」と前提が変わり、
それに伴い「全ては常に動いて変化している」ということに対する恐れが薄らいだ。
 
 
意識が拡大すればするほど、わからないことのほうが遥かに多く、
知っていることなんてほんの僅か…ということに気づく。
 
 
だからこそ「好奇心」が生まれ、それが生きる原動力になっていく。
それまでとは全く違う次元から「この世界」を見ていることに自分でも驚く。
 
 
では、いつから前提が変わったのだろう。
何がきっかけになったんだろう。
 
 
「愛が恐れをとかしたんだよ」とメッセージが来た。
 
 
・・・ああ、そうだ。
 
 
私を信頼して下さる方達の「愛」。
支えてくれた仲間達の「愛」。
見守ってくれた家族の「愛」。
肉体を脱いだ方々の「愛」。
大きな拡がりの中で感じる「愛」。
 
 
力強くて、優しくて、あたたかい…沢山の愛に触れて包まれて。
ああ、大丈夫なんだ…って。
もう安心していいんだ…って。
 
 
愛が恐れをとかしてくれたんだ。

みんな、ありがとう。
本当に、ありがとう。