ニーチェは『ツァラトゥストラはかく語りき』のなかで、喝破していました。
弟子たちよ、わたしはこれから独りとなって行く。君たちも今は去るがよい、しかもおのおのが独りとなって。そのことをわたしは望むのだ。
まことに、わたしは君たちに勧める。わたしを離れて去れ。そしてツァラトゥストラを拒め。
いっそうよいことは、ツァラトゥストラを恥じることだ。かれは君たちを欺いたかもしれぬ。
認識の徒は、おのれの敵を愛することができるばかりか、おのれの友を憎むことができなくてはならぬ。
いつまでも弟子でいるのは、師に報いる道ではない。なぜ君たちはわたしの花冠をむしり取ろうとしないのか。
君たちはわたしを敬う。しかし、君たちの尊敬がくつがえる日が来ないとはかぎらないのだ。そのとき倒れるわたしの像の下敷きとならないよう気をつけよ。
君たちは言うのか、ツァラトゥストラを信ずると。しかしツァラトゥストラそのものになんの意味があるか。
君たちはわたしの信徒だ。だがおよそ信徒というものになんの意味があるか。
君たちはまだ君たち自身をさがし求めなかった。探し求めぬうちにわたしを見いだした。
信徒はいつもそうなのだ。だから信ずるということはつまらないことだ。
いまわたしは君たちに命令する、わたしを捨て、君たち自身を見いだすことを。
そして君たちのすべてがわたしを否定することができたとき、わたしは君たちのもとに帰ってこよう。
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