4月14日から16日未明の大地震を中心とする熊本~大分の大震災には、3・11とはまたちがった意味で、大きな衝撃を受けずにはいられない。本震・余震の区別もつけ難いほどに、震度5~6クラスの大きな揺れが1日に8回・9回と起こるような状況は、どんな大震災でも、そうそうあることではないと思う。現地の方々にとって、どれほど恐ろしく不安なことだろう。とても生きた心地がしないのではないだろうか。本当に心が痛む。
と同時に、今回の震災は、断層の連鎖反応で震源地自体が空間的に移動していくという点でも、衝撃的だ。
断層の連鎖をたどって、中国・四国や近畿、東南海を経て関東、三陸…と、どこで大地震が起こってもおかしくはないという脅威。でもそれは何も、不安に駆られた集団ヒステリー反応でもなければ、不安を煽るマスコミの誇張報道でもない。むしろ過去の日本列島の震災の歴史は、我々の鈍らな想像力をあざ笑うかのように、凄まじい事実の数々をまざまざと突きつけている。手元の『理科年表』によって、その一端を記してみよう。我々の認識のほうが、あまりに甘すぎることを思い知らされる。
例えば、戦国末の1596年9月4日(慶長元年閏7月12日)、大分では10日ほどの前震多発の後にM7.0の「慶長豊後地震」が起こり、高崎山などが崩れたうえ、大津波が来襲して別府湾岸の家屋がほとんど流出する大被害が発生している。
ところが何と、その翌日に、中央構造線上を一気にワープして、京都を中心とする近畿一帯で、M7.5の「慶長伏見地震」が連鎖発生しているのだ。寺社・民家の倒潰多く、死傷者も多数に上り、余震が翌年4月まで続いたと伝えられる。
そして9年後の1605年2月3日(慶長9年12月16日)には、ついに東海・南海・西海諸道の広範囲にわたるM7.9の「慶長の大震災」が勃発するに至っている。2つの大地震がほぼ同時に重なって生じたという説と、東海沖に1つの超大地震が起こったという説とがあるようだが、これはまさに南海トラフが動いたのではなかったか。被害は大規模に各地に広がり、犬吠埼から九州にまでわたる広範な地域が、壊滅的に津波の暴威にのみこまれてしまった。
さらにはその6年後の1611年(慶長16年)、9月27日(旧8月21日)に会津でM6.9の地震、続いて12月2日(旧10月28日)に三陸沿岸と北海道東岸でM8.1の「慶長三陸大地震」。後者は震害そのものこそ軽かったものの、大規模な津波で家屋流出や溺死が多発している(昭和8年の三陸地震津波とよく似ているというが、それはそのまま3・11の大震災にも通ずるだろう)。
こうして、ほぼ15年かけて、日本列島を西から東まで、地震と津波が総なめしているのである。
だがこれで事は終わりではなかった。これからわずか8年の休息をおいて、1619年5月1日(元和5年3月17日)、今度は再び九州・肥後の八代でM6.0の地震が発生する。麦島城はじめ家屋が多数倒潰し、死傷者無数、たちまちにして城下町が荒陵と化したという。
そして6年後の1625年7月21日(寛永2年6月17日)には、熊本でM5~6の大地震。熊本城が、この時は(今回とちがって)天守はもちろん瓦や建具までことごとく落ち崩れ、さらに地震後の火災で火薬庫が爆発して瓦が5里6里四方まで吹き飛んだという。
すると今度は江戸で、3年後の1628年8月10日(寛永5年7月11日)にM6.0、1630年8月2日(寛永7年6月24日)に約M6.25の地震をへて、1633年3月1日(寛永10年1月21日)にはついにM7.0の「小田原地震」が勃発するのである。箱根では山が崩れ、熱海には津波も襲来したという。
1611年(慶長16年)の「慶長三陸大地震」を起点に考えるならば、三陸の大地震→次いで大分・熊本で大地震→次いで関東で大地震、と、今の我々の状況に警告を発して余りある現実が、すでに500年前に存在していたのだ! いま我々は、3・11の東日本大震災からちょうど5年後、まさに熊本~大分の大震災に遭遇している。では次は!?
少なくとも関東で数年以内に大地震が起こっても、もはや想定外!とは全く言えないことだけは確かだろう。
だから気をつけましょう! と言うのは簡単だ。では一体何をすることが気をつけることなのだろうか?
生き残ること。もちろん一番大事だ。心のケアを充実させること。もちろんとても大事だ。建物や家具を補強すること、非常食糧その他を備蓄すること、非常連絡方法を確認しておくこと……etc.etc. どれもどれも大事だ。でもそれら一切がすべてクリアしたら、そしたら充分に気をつけたことになるのだろうか? 地震に気をつけるとはどういうことなのか? 地震のことを気にせずにいられるくらい、万端の備えを整えることなのか? 気をつけるとは、気にせずにすむようになることなのか? この地球で、この地球を生きるとは、地球のことを忘れていられることなのか? 地震こそがそれ自体1つの問いである。それを我々は、どう問いとして受けとめてゆくのか。。。
と同時に、今回の震災は、断層の連鎖反応で震源地自体が空間的に移動していくという点でも、衝撃的だ。
断層の連鎖をたどって、中国・四国や近畿、東南海を経て関東、三陸…と、どこで大地震が起こってもおかしくはないという脅威。でもそれは何も、不安に駆られた集団ヒステリー反応でもなければ、不安を煽るマスコミの誇張報道でもない。むしろ過去の日本列島の震災の歴史は、我々の鈍らな想像力をあざ笑うかのように、凄まじい事実の数々をまざまざと突きつけている。手元の『理科年表』によって、その一端を記してみよう。我々の認識のほうが、あまりに甘すぎることを思い知らされる。
例えば、戦国末の1596年9月4日(慶長元年閏7月12日)、大分では10日ほどの前震多発の後にM7.0の「慶長豊後地震」が起こり、高崎山などが崩れたうえ、大津波が来襲して別府湾岸の家屋がほとんど流出する大被害が発生している。
ところが何と、その翌日に、中央構造線上を一気にワープして、京都を中心とする近畿一帯で、M7.5の「慶長伏見地震」が連鎖発生しているのだ。寺社・民家の倒潰多く、死傷者も多数に上り、余震が翌年4月まで続いたと伝えられる。
そして9年後の1605年2月3日(慶長9年12月16日)には、ついに東海・南海・西海諸道の広範囲にわたるM7.9の「慶長の大震災」が勃発するに至っている。2つの大地震がほぼ同時に重なって生じたという説と、東海沖に1つの超大地震が起こったという説とがあるようだが、これはまさに南海トラフが動いたのではなかったか。被害は大規模に各地に広がり、犬吠埼から九州にまでわたる広範な地域が、壊滅的に津波の暴威にのみこまれてしまった。
さらにはその6年後の1611年(慶長16年)、9月27日(旧8月21日)に会津でM6.9の地震、続いて12月2日(旧10月28日)に三陸沿岸と北海道東岸でM8.1の「慶長三陸大地震」。後者は震害そのものこそ軽かったものの、大規模な津波で家屋流出や溺死が多発している(昭和8年の三陸地震津波とよく似ているというが、それはそのまま3・11の大震災にも通ずるだろう)。
こうして、ほぼ15年かけて、日本列島を西から東まで、地震と津波が総なめしているのである。
だがこれで事は終わりではなかった。これからわずか8年の休息をおいて、1619年5月1日(元和5年3月17日)、今度は再び九州・肥後の八代でM6.0の地震が発生する。麦島城はじめ家屋が多数倒潰し、死傷者無数、たちまちにして城下町が荒陵と化したという。
そして6年後の1625年7月21日(寛永2年6月17日)には、熊本でM5~6の大地震。熊本城が、この時は(今回とちがって)天守はもちろん瓦や建具までことごとく落ち崩れ、さらに地震後の火災で火薬庫が爆発して瓦が5里6里四方まで吹き飛んだという。
すると今度は江戸で、3年後の1628年8月10日(寛永5年7月11日)にM6.0、1630年8月2日(寛永7年6月24日)に約M6.25の地震をへて、1633年3月1日(寛永10年1月21日)にはついにM7.0の「小田原地震」が勃発するのである。箱根では山が崩れ、熱海には津波も襲来したという。
1611年(慶長16年)の「慶長三陸大地震」を起点に考えるならば、三陸の大地震→次いで大分・熊本で大地震→次いで関東で大地震、と、今の我々の状況に警告を発して余りある現実が、すでに500年前に存在していたのだ! いま我々は、3・11の東日本大震災からちょうど5年後、まさに熊本~大分の大震災に遭遇している。では次は!?
少なくとも関東で数年以内に大地震が起こっても、もはや想定外!とは全く言えないことだけは確かだろう。
だから気をつけましょう! と言うのは簡単だ。では一体何をすることが気をつけることなのだろうか?
生き残ること。もちろん一番大事だ。心のケアを充実させること。もちろんとても大事だ。建物や家具を補強すること、非常食糧その他を備蓄すること、非常連絡方法を確認しておくこと……etc.etc. どれもどれも大事だ。でもそれら一切がすべてクリアしたら、そしたら充分に気をつけたことになるのだろうか? 地震に気をつけるとはどういうことなのか? 地震のことを気にせずにいられるくらい、万端の備えを整えることなのか? 気をつけるとは、気にせずにすむようになることなのか? この地球で、この地球を生きるとは、地球のことを忘れていられることなのか? 地震こそがそれ自体1つの問いである。それを我々は、どう問いとして受けとめてゆくのか。。。
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