まずテレビは、その前にラジオが確立した「国民」としての公共性を、さらに高度化し最終的に完成するメディアでした。対外的には、ラジオがその前に示した外交的武器としての可能性を、さらに高度化し最終的に完成するメディアでした。
そもそもラジオ放送そのものは、1920年代にアメリカで、無数のアマチュア無線ラジオのブームをへて開始されたものですが、こうしてそれまでの双方向的なアマチュア無線ラジオから一方向的なマス・メディアとしての放送ラジオが成立すると、ナチス・ドイツはラジオのもつ「国民」形成のメディアとしての政治的可能性を見逃さず、他のどの国よりもラジオのその特性を前面に押し出し、最大限に膨張させ、最大限に利用したのでした。現にラジオ放送はナチの台頭と切っても切り離せません。
ラジオを一般大衆に最も大がかりに普及させたのはナチス・ドイツであり、1933年8月には「国民受信機301」という超安価なラジオを開発し、また受信料を無料化して、誰もがラジオを入手できるようにしました。ラジオがブルジョアと労働者、男性と女性、大人と若者といったさまざまの既成の境界を融解し、1つの国民に統合する圧倒的な力能をもつことを見抜いていたからです。「1つの民族! 1つの国家! 1つの放送!」というナチ放送のスローガンによく示されるように、あるいはファシズムを一語で特徴づける「強制的同一化」と訳されるGleichschaultungが、ラジオの「周波数を合わせる(同調する)」にあたるgleichschaltenの名詞形であるように(佐藤卓巳『現代メディア史』p.163)、ラジオはどの集団に属する大衆もこぞって<動員>し、その差を解消して一元化し、「国民」へと統合する強力な政治宣伝の手段として期待されたのです。逆にいえば、大衆はラジオを通して、私的空間にいながらにして、どんな属性の者も等しく<参加>し、一個の政治的な主体となって「国民」へと生成するまさに民主主義的な過程そのものの手段として、それを迎え入れたのです。集権的な<動員>と民主的な<参加>を溶融させるラジオの魔力。
ナチス・ドイツは同時に、このラジオの特性を、他民族支配への政治宣伝にも転用しようとします。1933年4月より、国境周辺地域のドイツ系住民を対象に短波や中波のラジオ放送「世界放送」を行ない、これが現実政治においてもザール地方回復、オーストリア併合、ズデーテン割譲等の外交的勝利をもたらす成果をあげました。反ナチス側は当然、これに対抗する「自由ヨーロッパ・ラジオ」等のラジオ放送を立ち上げ、電波戦がくり広げられることになります。
ラジオが確立したこの「国民」としての公共性を、最終的に完成したのがテレビでしたが、テレビもまた、一般向け定時放送を世界に先がけて開始したのは、1935年3月、ナチス・ドイツであり(週3晩、90分番組)、翌年のベルリン・オリンピックの中継放送では一躍注目を浴びることになります。イギリスのBBC放送開始の1年前、アメリカのNBCの定期実験放送開始の4年前のことでした。しかしまだ画質も悪く、ラジオのように受像機の普及にまで至るのも難しく、市内の各所に「テレビホール」を設営して主に娯楽番組を見せるにとどまり、終戦までの間にラジオのように政治宣伝の直接の手段として駆使するには至りませんでした。ただし「最良のプロパガンダは間接的に機能する」と考える宣伝相ゲッベルスの基本スタンスからすれば、それもあながち唾棄すべきものではなかったはずです。
とはいえ、ナチス・ドイツが充分に展開できなかった内外の統合手段としてのテレビを、戦後世界でリードし、グローバルなヘゲモニーを確立していくのはアメリカです。国内の統合だけでなく、とりわけ「共産主義」との「心理戦」の武器として、環太平洋の同盟諸国を中心に普及が進められました。アメリカにとって、テレビは、ラジオが第2次大戦下においてナチス・ドイツの戦争宣伝と対抗するためのプロパガンダ手段であったのと同様に、戦後、版図を拡大した共産主義の脅威に対抗するための新たなプロパガンダ手段として位置づけられるものだったのです。
アメリカはまず、大戦中の1942年、自由主義陣営の大義と立場を宣伝するための海外向けラジオ放送「ヴォイス・オブ・アメリカ」を創設し、主にヨーロッパでナチス・ドイツに対抗する「心理戦」の武器としました(「自由ヨーロッパ・ラジオ」)。戦後は、今度は共産主義との「心理戦」の必要からそれを継続します。やがてソ連による電波妨害等で”電波の冷戦”に突入すると(1947年に創設されたCIAの初期の仕事は、ソヴィエト周辺地域にこの電波がきちんと届いているかの調査でした)、アメリカはずっと妨害の難しいテレビ放送の開発に力を注ぎ、これを用いて共産主義に対する防壁とする「ヴィジョン・オブ・アメリカ」構想が、1950年、上院議員カール・ムントにより打ち出されます。その敷設地域として、とくに共産圏の外縁で脅威に曝されているとされた日本・トルコ・インドネシア・フィリピン等が想定され、日本なら全土に設置しても予算的には爆撃機B36たった2機分で済むという、非常に安上がりな防共策としても推奨されました。
ムントは上院で高らかに宣言しています:「この視覚爆弾は、原子爆弾の破壊的効果にならぶほどの大きな影響力で、建設的な福利への連鎖反応を引き起こすことができると予言いたします」と(佐藤卓巳『現代メディア史』p.199 )。
このテレビ放送網(“冷戦のテレビネットワーク”)構想に日本側から呼応したのが、前々回見たテレビブーム~原子力ブームの仕掛人、読売新聞の柴田秀利であり正力松太郎でありました。そうしてここから「日本テレビ」が、アメリカの対日「心理戦」の切札となるメディアとして開設されることになります。この開設には、アメリカ側からも、CIA・国防総省・「心理戦局」等が大いに手を貸しています。正力は「ポダム」、柴田は「ポハルト」、日本テレビは「ポハイク」という、CIAでの暗号名もありました。日本テレビが放送免許を取得したのは、NHKより3ヵ月半早い1952年7月31日。本放送開始はNHKより約半年遅い53年8月28日。だがすでに51年8月6日には、このテレビ事業への尽力の功が認められて、正力は目論見どおり、悲願の公職追放解除を手にしています。正力は個人的な野心でアメリカを利用したわけですが、アメリカは世界戦略のために正力にずっと大きな利用価値をおいていたでしょう。正力側の思惑をかなえる形でアメリカ側の思惑も着実にかなえられてゆくこの奇妙な同床異夢のなかで、日本テレビは対日「心理戦」のホープとして、地歩を固めてゆくのです。
放映された番組からみると、前々回ふれた野球やプロレス、ゴルフのスポーツ中継で大衆のナショナリスティックな復讐心を満たす一方、『パパは何でも知っている』等のホームドラマ、『ディズニーランド』等のアニメ映画などアメリカ製娯楽番組で、登場人物のアメリカ人への感情移入やアメリカ式ライフスタイルへの憧憬を喚起し、庶民の親米感情を高めるのに大いに貢献することにもなりました。お茶の間は今や、愛国心と親米感情とをともに醸成する格好の「心理戦」のフロントとなったわけです。
そして一見意外なことに、こうしたテレビの布置は、技術的にも人脈的にも、そのまま原子力「平和利用」へとつながっていくものでした。このつながりを辿ってみると、もともとあの「ヴィジョン・オブ・アメリカ」構想をカール・ムントとともに進めていた弁護士のH・ホールシューセン、電波技師の最高権威でユニテル社長のW・ホールステッド、ユニテル副社長のW・ダ(ス)チンスキーの3人が、日本テレビの開設にも深く関わり、この3人との出会いが柴田に後の広大なアメリカン・コネクションへの足がかりを与え、数年後の原子力外交・原子力ブーム演出に大いに力を発揮することになるのです(『巨怪伝』p.442)。やがて正力の発案として伝説化する”街頭テレビ”にしても、元はといえば、鬼才ホールステッドがムントの構想の下ですでに提唱していたものでした(もっともこれも、すでにナチス・ドイツが戦前に行なっていた「テレビホール」の焼直しにもみえますが)。
さて、この3人のうちホールシューセンは、自身も原子力平和利用に関心をもっていただけでなく、アメリカ原子力委員長のL・ストローズと知り合いで、このストローズは早く1949年から上院原子力合同委員会で原子力平和利用を促進する政策を提起し、アイゼンハワー大統領の"Atoms for Peace"演説(後述します)の雛型を4年前のこの時点から読み上げていた人物です(有馬哲夫『原発・正力・CIA』pp.33,37)。のみならずストローズは、その演説のなされた1953年に、アイゼンハワーに広島への(!)原発建設案を提案したこともあります。当時アメリカの政権内では、この案はしばしば提案されていたようですが、アイゼンハワーはアメリカの罪悪感ばかりを示すことになるとの理由で、この案を却下します(朝日新聞2011年8月6日付)。それでも55年1月27日には下院に、民主党のイエーツにより、「平和目的のための」原子力発電所を広島に建設する法案が提出されるほどでしたが、ここでも背後に、ジェネラル・ダイナミックス社の会長兼社長のジョン・ホプキンスの姿が垣間見えるのが目を引きます(中国新聞1955年1月29日)。
またホールステッドは、自身も当時アメリカの電波技師の最高権威であっただけでなく、軍事企業・原子力企業ジェネラル・ダイナミックス社の副社長ヴァーノン・ウェルシュと大学時代からの親友で、ウェルシュはホールステッドをとおして柴田に紹介され、原子炉売込みの顧客として正力に接近を図るのです(同pp.34,49,55)。柴田はウェルシュから、「テレビのエレクトロニクス技術をマスターした暁には、原子力技術の6~70%をマスターしたこととなり、原子力の平和利用に入る十分な素地が出来上がる」との説明を受けて、「身震いせんばかりの喜びを覚えた」ことを書き記しています(『戦後マスコミ回遊記』p.260)。
また、1954年5月に正力~柴田の招きで来日し、日本中を原子力ブームの渦に巻き込んだアメリカ「原子力平和利用使節団」が実現できたのも、柴田の要請に対しホールステッドを介してウェルシュの尽力があったからでした。その団長を務めたジェネラル・ダイナミックス社の会長兼社長のジョン・ホプキンスが、ゴルフ世界選手権大会「カナダ・カップ」の創始者でもあり、またウォルト・ディズニーに海軍ととともにプロパガンダ映画『わが友原子力』を製作させたスポンサーでもあったことは、前々回に見たとおりです。
<つづく>
そもそもラジオ放送そのものは、1920年代にアメリカで、無数のアマチュア無線ラジオのブームをへて開始されたものですが、こうしてそれまでの双方向的なアマチュア無線ラジオから一方向的なマス・メディアとしての放送ラジオが成立すると、ナチス・ドイツはラジオのもつ「国民」形成のメディアとしての政治的可能性を見逃さず、他のどの国よりもラジオのその特性を前面に押し出し、最大限に膨張させ、最大限に利用したのでした。現にラジオ放送はナチの台頭と切っても切り離せません。
ラジオを一般大衆に最も大がかりに普及させたのはナチス・ドイツであり、1933年8月には「国民受信機301」という超安価なラジオを開発し、また受信料を無料化して、誰もがラジオを入手できるようにしました。ラジオがブルジョアと労働者、男性と女性、大人と若者といったさまざまの既成の境界を融解し、1つの国民に統合する圧倒的な力能をもつことを見抜いていたからです。「1つの民族! 1つの国家! 1つの放送!」というナチ放送のスローガンによく示されるように、あるいはファシズムを一語で特徴づける「強制的同一化」と訳されるGleichschaultungが、ラジオの「周波数を合わせる(同調する)」にあたるgleichschaltenの名詞形であるように(佐藤卓巳『現代メディア史』p.163)、ラジオはどの集団に属する大衆もこぞって<動員>し、その差を解消して一元化し、「国民」へと統合する強力な政治宣伝の手段として期待されたのです。逆にいえば、大衆はラジオを通して、私的空間にいながらにして、どんな属性の者も等しく<参加>し、一個の政治的な主体となって「国民」へと生成するまさに民主主義的な過程そのものの手段として、それを迎え入れたのです。集権的な<動員>と民主的な<参加>を溶融させるラジオの魔力。
ナチス・ドイツは同時に、このラジオの特性を、他民族支配への政治宣伝にも転用しようとします。1933年4月より、国境周辺地域のドイツ系住民を対象に短波や中波のラジオ放送「世界放送」を行ない、これが現実政治においてもザール地方回復、オーストリア併合、ズデーテン割譲等の外交的勝利をもたらす成果をあげました。反ナチス側は当然、これに対抗する「自由ヨーロッパ・ラジオ」等のラジオ放送を立ち上げ、電波戦がくり広げられることになります。
ラジオが確立したこの「国民」としての公共性を、最終的に完成したのがテレビでしたが、テレビもまた、一般向け定時放送を世界に先がけて開始したのは、1935年3月、ナチス・ドイツであり(週3晩、90分番組)、翌年のベルリン・オリンピックの中継放送では一躍注目を浴びることになります。イギリスのBBC放送開始の1年前、アメリカのNBCの定期実験放送開始の4年前のことでした。しかしまだ画質も悪く、ラジオのように受像機の普及にまで至るのも難しく、市内の各所に「テレビホール」を設営して主に娯楽番組を見せるにとどまり、終戦までの間にラジオのように政治宣伝の直接の手段として駆使するには至りませんでした。ただし「最良のプロパガンダは間接的に機能する」と考える宣伝相ゲッベルスの基本スタンスからすれば、それもあながち唾棄すべきものではなかったはずです。
とはいえ、ナチス・ドイツが充分に展開できなかった内外の統合手段としてのテレビを、戦後世界でリードし、グローバルなヘゲモニーを確立していくのはアメリカです。国内の統合だけでなく、とりわけ「共産主義」との「心理戦」の武器として、環太平洋の同盟諸国を中心に普及が進められました。アメリカにとって、テレビは、ラジオが第2次大戦下においてナチス・ドイツの戦争宣伝と対抗するためのプロパガンダ手段であったのと同様に、戦後、版図を拡大した共産主義の脅威に対抗するための新たなプロパガンダ手段として位置づけられるものだったのです。
アメリカはまず、大戦中の1942年、自由主義陣営の大義と立場を宣伝するための海外向けラジオ放送「ヴォイス・オブ・アメリカ」を創設し、主にヨーロッパでナチス・ドイツに対抗する「心理戦」の武器としました(「自由ヨーロッパ・ラジオ」)。戦後は、今度は共産主義との「心理戦」の必要からそれを継続します。やがてソ連による電波妨害等で”電波の冷戦”に突入すると(1947年に創設されたCIAの初期の仕事は、ソヴィエト周辺地域にこの電波がきちんと届いているかの調査でした)、アメリカはずっと妨害の難しいテレビ放送の開発に力を注ぎ、これを用いて共産主義に対する防壁とする「ヴィジョン・オブ・アメリカ」構想が、1950年、上院議員カール・ムントにより打ち出されます。その敷設地域として、とくに共産圏の外縁で脅威に曝されているとされた日本・トルコ・インドネシア・フィリピン等が想定され、日本なら全土に設置しても予算的には爆撃機B36たった2機分で済むという、非常に安上がりな防共策としても推奨されました。
ムントは上院で高らかに宣言しています:「この視覚爆弾は、原子爆弾の破壊的効果にならぶほどの大きな影響力で、建設的な福利への連鎖反応を引き起こすことができると予言いたします」と(佐藤卓巳『現代メディア史』p.199 )。
このテレビ放送網(“冷戦のテレビネットワーク”)構想に日本側から呼応したのが、前々回見たテレビブーム~原子力ブームの仕掛人、読売新聞の柴田秀利であり正力松太郎でありました。そうしてここから「日本テレビ」が、アメリカの対日「心理戦」の切札となるメディアとして開設されることになります。この開設には、アメリカ側からも、CIA・国防総省・「心理戦局」等が大いに手を貸しています。正力は「ポダム」、柴田は「ポハルト」、日本テレビは「ポハイク」という、CIAでの暗号名もありました。日本テレビが放送免許を取得したのは、NHKより3ヵ月半早い1952年7月31日。本放送開始はNHKより約半年遅い53年8月28日。だがすでに51年8月6日には、このテレビ事業への尽力の功が認められて、正力は目論見どおり、悲願の公職追放解除を手にしています。正力は個人的な野心でアメリカを利用したわけですが、アメリカは世界戦略のために正力にずっと大きな利用価値をおいていたでしょう。正力側の思惑をかなえる形でアメリカ側の思惑も着実にかなえられてゆくこの奇妙な同床異夢のなかで、日本テレビは対日「心理戦」のホープとして、地歩を固めてゆくのです。
放映された番組からみると、前々回ふれた野球やプロレス、ゴルフのスポーツ中継で大衆のナショナリスティックな復讐心を満たす一方、『パパは何でも知っている』等のホームドラマ、『ディズニーランド』等のアニメ映画などアメリカ製娯楽番組で、登場人物のアメリカ人への感情移入やアメリカ式ライフスタイルへの憧憬を喚起し、庶民の親米感情を高めるのに大いに貢献することにもなりました。お茶の間は今や、愛国心と親米感情とをともに醸成する格好の「心理戦」のフロントとなったわけです。
そして一見意外なことに、こうしたテレビの布置は、技術的にも人脈的にも、そのまま原子力「平和利用」へとつながっていくものでした。このつながりを辿ってみると、もともとあの「ヴィジョン・オブ・アメリカ」構想をカール・ムントとともに進めていた弁護士のH・ホールシューセン、電波技師の最高権威でユニテル社長のW・ホールステッド、ユニテル副社長のW・ダ(ス)チンスキーの3人が、日本テレビの開設にも深く関わり、この3人との出会いが柴田に後の広大なアメリカン・コネクションへの足がかりを与え、数年後の原子力外交・原子力ブーム演出に大いに力を発揮することになるのです(『巨怪伝』p.442)。やがて正力の発案として伝説化する”街頭テレビ”にしても、元はといえば、鬼才ホールステッドがムントの構想の下ですでに提唱していたものでした(もっともこれも、すでにナチス・ドイツが戦前に行なっていた「テレビホール」の焼直しにもみえますが)。
さて、この3人のうちホールシューセンは、自身も原子力平和利用に関心をもっていただけでなく、アメリカ原子力委員長のL・ストローズと知り合いで、このストローズは早く1949年から上院原子力合同委員会で原子力平和利用を促進する政策を提起し、アイゼンハワー大統領の"Atoms for Peace"演説(後述します)の雛型を4年前のこの時点から読み上げていた人物です(有馬哲夫『原発・正力・CIA』pp.33,37)。のみならずストローズは、その演説のなされた1953年に、アイゼンハワーに広島への(!)原発建設案を提案したこともあります。当時アメリカの政権内では、この案はしばしば提案されていたようですが、アイゼンハワーはアメリカの罪悪感ばかりを示すことになるとの理由で、この案を却下します(朝日新聞2011年8月6日付)。それでも55年1月27日には下院に、民主党のイエーツにより、「平和目的のための」原子力発電所を広島に建設する法案が提出されるほどでしたが、ここでも背後に、ジェネラル・ダイナミックス社の会長兼社長のジョン・ホプキンスの姿が垣間見えるのが目を引きます(中国新聞1955年1月29日)。
またホールステッドは、自身も当時アメリカの電波技師の最高権威であっただけでなく、軍事企業・原子力企業ジェネラル・ダイナミックス社の副社長ヴァーノン・ウェルシュと大学時代からの親友で、ウェルシュはホールステッドをとおして柴田に紹介され、原子炉売込みの顧客として正力に接近を図るのです(同pp.34,49,55)。柴田はウェルシュから、「テレビのエレクトロニクス技術をマスターした暁には、原子力技術の6~70%をマスターしたこととなり、原子力の平和利用に入る十分な素地が出来上がる」との説明を受けて、「身震いせんばかりの喜びを覚えた」ことを書き記しています(『戦後マスコミ回遊記』p.260)。
また、1954年5月に正力~柴田の招きで来日し、日本中を原子力ブームの渦に巻き込んだアメリカ「原子力平和利用使節団」が実現できたのも、柴田の要請に対しホールステッドを介してウェルシュの尽力があったからでした。その団長を務めたジェネラル・ダイナミックス社の会長兼社長のジョン・ホプキンスが、ゴルフ世界選手権大会「カナダ・カップ」の創始者でもあり、またウォルト・ディズニーに海軍ととともにプロパガンダ映画『わが友原子力』を製作させたスポンサーでもあったことは、前々回に見たとおりです。
<つづく>
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