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OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

厚生館に展示の「戦前硫黄島地図と現況重ね」の全体

2008年09月20日 | 硫黄島・小笠原村
硫黄島の模型、の全体を撮影してきた写真です。

昨年の6月に訪問した時点では、
擂鉢山山頂に展示してくれていました。完成間近という
段階だったのだと思います。
その後に、いろいろと、付け加えて、
完成したものが、今、厚生館に展示されている
この模型です。
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硫黄島島民の集い 硫黄島模型 「うちはどこ?」の続き(2)現在の地図

2008年09月20日 | 硫黄島・小笠原村
硫黄ヶ丘周辺で、墓参訪島の1日目の、式典終了後は、それぞれが「出身集落を訪ねる」帰りの時間 です。

元山は、見る場所が少なく、自分の家の会った場所が現在の空港ということで、
昨年は、滑走路横の道を徒歩で天山慰霊碑まで行きました。父島の職員の方を含めて3人でした。

今年は、7人で、上った船見岩からレモングラス自生している方の下りたり
硫黄ヶ丘周辺を時間をかけて散策しました。それでも時間がかかりますので、
南北道路まで戻った箇所で、巡回して下さっているバスを、職員の方がトランシーバで呼んでくれたのを待って、宿泊場所である祈念館に戻りました。

この地図は、Google Earthをダウンロード
http://earth.google.com/intl/ja/tour/thanks-win-updater.html
して、
硫黄島を中心に拡大していき、目印を追加したものです。

「その地点から南側、滑走路の方向を見て、どのあたりだったのだろう?」
と思う時に、

「皆さんの話や、見せてもらった昔の地図だと、元山と南とは
そんなに近くはなく、くっついていたというような距離ではない。」
「この位置から、自衛隊の建物群が見える。厚生館の位置も分かる。
あの厚生館のある場所は、戦前の南に住んでいた人の家だった場所。
南の当時の古い地図は見せてもらった。」
「ここから滑走路越しに見ると、現在の厚生館、昔の南は、目と鼻の先に
見える。すぐ目の前が南  元山の人家があった場所が滑走路の中
 という 話だと、矛盾するのではないか? もっと、南まで離れて
いないといけないはず。 ということは  元山市街地が
現在の滑走路ではなく、もっと北、滑走路から外れた森の方出ないと、話が合わないのでは 」 と思いました。

以前、いただいた、小笠原村発行のパンフレットにも、現在の地図が掲載されています。
そして、Google Earthの地図を見て、あらためて、気が付いたのは、
あの地点から平らな滑走路越しに、南の自衛隊施設群を見ると、
すぐ目の前にあるように見えますが、上空から見ると、相当な距離、
やっぱり、1キロ近くは離れていることが、分かってしまいました。

聞いていた話の、元山と南の距離の話と一致してしまいます。
やっぱり、皆さんというとおり、
そして、模型「戦前硫黄島地図と現況重ね」が示しているとおり、
太平館や元山の商店・家は、やっぱり、今の滑走路の中  
ということのようです。

自分の祖父母が商店を営んでいて、母たちが生まれ育った家

戦前在住だった方は自分が住んでいた家

への、それがあった場所への こだわり、執着は、
帰って住むことが少なくめったに行くことができない島だけに
大きくなります。
家があった島に帰ってきていて、家があった近くにいているのですが、
家のあった場所は正確な位置は分からず、そこは、入ることができない、
自衛隊機や米軍機訓練離発着がある空港らしい。

他の出身の方は、 およその場所は特定できても家があった場所までは
探せない方、家のあった場所が現在の自衛隊の建物になっている方など
さまざまですが、「入ることができない場所」ではありません。

戦前の中心で最大人口だった元山からの硫黄島訪問への参加者は
昨年は、たった二人でした。今年は、6人と、それでも戦前の人口から
すると訪問する人の数が少ないです。

「ひょっとすると森の中なら、礎石のような、家の痕跡は探せるかもしれない」
という、薄い期待も持ちながら、
「あのあたりが、魚屋やっていて母が生まれた家ということらしい。」と
滑走路を眺めます。
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硫黄島島民の集い 「うちはどこ?」の続き 硫黄島の模型の元山部落

2008年09月20日 | 硫黄島・小笠原村
この写真は、今年の6月に、厚生館に
設置してあるのを撮影した硫黄島にある模型
「硫黄島戦前地図と現況重ね」の元山の辺りです。

昨年の6月の訪問の時には、擂鉢山山頂に置いて下さっていた段階で撮った写真
を紹介いたしました。

この模型の方には、主な建物も再現してくれていて、
学校、村役場、旅館の太平館 などが、あります。

白い滑走路は現在のもので、南北に平行にある(左右に伸びている)内の
南側の滑走路の白い場所にある建物が太平館です。

太平館から斜め左上に向かっている道沿いに「魚屋さん」と、呼ばれていた店舗でもあった祖父宅があったそうです。

太平館から北に向かって工場、村役場、大正小学校と、
建物が並んでいます。 村役場と小学校は現在の滑走路にかかっていない
北側にあります。

村役場を左側、小学校を右側にして、南北にこの模型にはない、
現在の道路が通っています。その南北の道から、左に入る道が
滑走路と平行に北側に出ていて、その道の突き当たりが、
硫黄ヶ丘の入り口部分になっています。

村役場や小学校よりは、祖父の店・家は南西にあったようです。
やはり、この模型でも、小学校がギリギリで滑走路にかかっていないので、
それより南だった場所は、「現在は滑走路になってしまっている」場所
ということになります。

現在の南北の道は滑走路にぶつかると右側に折れて滑走路に沿って、空港を
半周しています。

昨年の6月には、その道を歩いて東に向かってからから、空港の東端で
北側に向かって曲がり、天山慰霊碑まで、徒歩で行きました。

南北の道が滑走路にぶつかり右に折れる地点に、立て看板がありました。
「滑走路に物を投げないように」と、書いてありました。

「こんな場所に、来る人は、限られているだろうから、
ものを投げる人もいないだろうから、誰向けの注意なのだろうか?」と
不思議でした。

空港と周辺との間には、
立て看板のところを、そのまま、まっすぐ進めば
滑走路で、塀や有刺鉄線などへ出てている物はありません。

そこから滑走路とその向こう側の厚生館などの現在の自衛隊の
建物群を見ながら、
「どのあたりが、家だったのだろうか?」と、
この地点に来ると、「今の滑走路の中なのか、
このあたりの、ギリギリで滑走路にかかっていない北側の森の中
かもしれない。」と思ってしまいます。
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