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戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

硫黄島 鎮魂の丘の歌碑  釈迢空(折口信夫)の歌

2009年10月06日 | 硫黄島・小笠原村
鎮魂の丘には、ハイビスカスなど花が多く、きれいに咲いている場所です。「鎮魂」の碑に向かって水が流れていますが、時によっては、雨が降らずに水不足の時には、碑に引かれている水量が少なく、その場合には、花々も元気がなく見える時もあります。

この鎮魂の丘に咲くブーゲンビリアを背景に歌碑があります。硫黄島に行くと必ず寄る場所ですので、歌碑があることは知っていましたが、歌の内容は、これまでに知りませんでした。今回の9月(今年二度目、入間基地から輸送機で日帰り慰霊墓参訪島)の硫黄島で、ガイドをして下さった自衛隊員の方が、説明をして下さって、歌の中身を知りました。
「著名な歌人が縁の人の犠牲を嘆き偲んだ歌である。」ことを、説明を聞いて教えてもらい帰ってきましたが、「釈」という字から始まる歌人であることは覚えて帰って来ましたが、詳しくは分からずに戻ってから調べました。

碑文の歌は読みやすい字で書かれています。(バロン西の碑のくずし字の方が読みにくいです。日本史専攻なのに くずし字 読むのが苦手というのはとても恥ずかしいです。)


硫気噴く島

たたかひに 
果てにしひとを 
かへせとぞ
我は呼ばむとす   
大海にむきて

という歌です。

作は、釈迢空。これまた不勉強で恥ずかしい限りなのですが、釈迢空 は、有名な
民俗学者 折口信夫氏 のことだと調べた分かりました。

(「sawaimatumi381's blog」と、Wikipediaを参照させていただき、調べて分かりました。)
折口信夫の名前はよく知られています。柳田國男に師事して民俗学を体系だてた人物だということはしっていました。 その折口が、歌人として、
釈迢空 であり、正岡子規につながるアララギに参加後に、アララギ退会して反アララギ派を退会した歌人であったということは、全くしりませんでした。

硫黄島の歌碑の前で、歌の内容について解説をしてもらったのを聞いた時にも、折口信夫のことだとは思いませんでした。

折口(歌人、釈迢空のことですが、以下、人口に膾炙している方の、「折口」と記します。)の養子 藤井春洋の硫黄島での死 を嘆いた 歌だそうです。硫黄島激戦で養子が激戦になったことは、折口の民俗学にも、好くならからぬ影響があったようです。(門外漢がすいませんが、皇国史観の当時の日本での、民俗学という分野の研究をしていたのですから、身内の死の衝撃で、物の見方は、変わっただろうと推測します。)


歌碑の歌そのものは、実にシンプルで、わかりやすく、 ぶつけようのない悔しさと悲しみの叫びの歌だと思います。

小笠原丸での慰霊帰島の最後に、島を一周してからの献花の時の、私どもの想いとも通じるところが多いと感じました。「いったい、なぜ、この島で、あの激戦の末に、かけがえのない命が、帰らぬものとなってしまったのか。」というやり場のない怒りと悲しみの気持です。


これまで硫黄島について写真を載せたり、あれこれ書いたりしてきて、この歌碑と作者、歌のことを知らずにいたことや、
加えて、硫黄島の花々の名前を知らずに写真に撮ってきてもなかなか、名前が分からないので紹介できなかったり、不勉強で恥ずかしいと思いました。

これからは中断していました、6月に訪問した父島の様子、亜熱帯植物センターについてなど紹介もしようと思っています。花の名前については、詳しい方のアドバイスをいただきながら直したりしようと思っております。
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