6月16日(水)と17日(木)が、今年の硫黄島慰霊墓参の、硫黄島に上陸して滞在した二日間でしたが、16日(水)に小笠原丸を下船して艀で硫黄島の釜岩付近から島に上陸、バスで移動して最初にあったのが慰霊式典でした。
硫黄島島民平和祈念墓地公園という場所で、慰霊墓参への参加者全員列席で行われます。
写真は、式典が終わった後の、千羽鶴と皆で献花した花が供えられて台です。例年、この場面の写真を紹介しています。毎年、参加している皆と、千羽鶴を折って下さった皆さんの気持ちがこもっているのが、この台だと思います。
小笠原村の村長、村議会の副議長((議長の代読) 毎年参加してくださっている副議長とは今年も島での二日間にバスでも一緒で、いろいろと話をしました。)、硫黄島戦での犠牲者のご遺族の方々の硫黄島協会の代表の方、父島在住の旧島民の代表の弔意を述べるお言葉がありました。年少の兵たちが故郷の父母のことを思いながら無念の最後を遂げたことについての言葉の時には、出席者の中には涙を誘われる人たちもいました。
続いて、毎年中学二年生で硫黄島に訪島して慰霊式典に参加している父島と母島の中学生の代表の方の言葉ありました。毎年、「中学生の皆さんが、硫黄島について、よく勉強して来ていて、平和の尊さを、しっかりと述べてくれているな。」と感心させられます。今年の中学生代表の言葉も、本当にしっかりと事前学習をしてきてくれたことが分かる素晴らしい内容でした。
中学生代表の人の一人の言葉に、強い印象を受けました。
「硫黄島について勉強をインターネットで検索などでしてきたが、結果は、戦争に関する情報ばかりで戦前の生活についての情報は、ほとんどありませんでした。」という内容だったからです。真剣に勉強しよと情報を探してくれた結果、非常に良いポイントに気づいてくれたなと思います。
私がこのブログを始めた動機が、「今後も長く、硫黄島に人が住んでいたということが忘れられずに、帰りたくても帰ることが許されなかった故郷の島に戻って住みたいと長年願いながら夢を実現させることができなかった人たちがいたことが語り継がれるように。世代が変わっても、住民が平和に暮らしていた島のことが忘れられないように。島に戻りたいという願いを実現させようとする運動が続くように。」との思いでした。
このブログの開設から1000日あまり経過しましたが、「戦前に住民が生活していた島だったということを、多くの人に知ってもらいたい。」という願いを実現させるのには、あまり役立てていませんが、
「第二次大戦の日米の戦争での壮絶な激戦があって多すぎる犠牲者が出てしまった島であるという記録は多く残り、長く人々の記憶にも残り語り継がれるだろうが、平和で豊かな戦前の島民の生活があった島という点は、時間の経過とともに、風化して、人々の記憶から薄れていってしわないだろうか。」ということを強く心配しています。
「硫黄島の戦争についての記録は多いが、住民の生活についての記録はほとんどない。」という、まさしく、いつも私が感じていたことを、中学二年生の代表の方に、慰霊式典の場で
代弁してもらえました。
硫黄島島民平和祈念墓地公園という場所で、慰霊墓参への参加者全員列席で行われます。
写真は、式典が終わった後の、千羽鶴と皆で献花した花が供えられて台です。例年、この場面の写真を紹介しています。毎年、参加している皆と、千羽鶴を折って下さった皆さんの気持ちがこもっているのが、この台だと思います。
小笠原村の村長、村議会の副議長((議長の代読) 毎年参加してくださっている副議長とは今年も島での二日間にバスでも一緒で、いろいろと話をしました。)、硫黄島戦での犠牲者のご遺族の方々の硫黄島協会の代表の方、父島在住の旧島民の代表の弔意を述べるお言葉がありました。年少の兵たちが故郷の父母のことを思いながら無念の最後を遂げたことについての言葉の時には、出席者の中には涙を誘われる人たちもいました。
続いて、毎年中学二年生で硫黄島に訪島して慰霊式典に参加している父島と母島の中学生の代表の方の言葉ありました。毎年、「中学生の皆さんが、硫黄島について、よく勉強して来ていて、平和の尊さを、しっかりと述べてくれているな。」と感心させられます。今年の中学生代表の言葉も、本当にしっかりと事前学習をしてきてくれたことが分かる素晴らしい内容でした。
中学生代表の人の一人の言葉に、強い印象を受けました。
「硫黄島について勉強をインターネットで検索などでしてきたが、結果は、戦争に関する情報ばかりで戦前の生活についての情報は、ほとんどありませんでした。」という内容だったからです。真剣に勉強しよと情報を探してくれた結果、非常に良いポイントに気づいてくれたなと思います。
私がこのブログを始めた動機が、「今後も長く、硫黄島に人が住んでいたということが忘れられずに、帰りたくても帰ることが許されなかった故郷の島に戻って住みたいと長年願いながら夢を実現させることができなかった人たちがいたことが語り継がれるように。世代が変わっても、住民が平和に暮らしていた島のことが忘れられないように。島に戻りたいという願いを実現させようとする運動が続くように。」との思いでした。
このブログの開設から1000日あまり経過しましたが、「戦前に住民が生活していた島だったということを、多くの人に知ってもらいたい。」という願いを実現させるのには、あまり役立てていませんが、
「第二次大戦の日米の戦争での壮絶な激戦があって多すぎる犠牲者が出てしまった島であるという記録は多く残り、長く人々の記憶にも残り語り継がれるだろうが、平和で豊かな戦前の島民の生活があった島という点は、時間の経過とともに、風化して、人々の記憶から薄れていってしわないだろうか。」ということを強く心配しています。
「硫黄島の戦争についての記録は多いが、住民の生活についての記録はほとんどない。」という、まさしく、いつも私が感じていたことを、中学二年生の代表の方に、慰霊式典の場で
代弁してもらえました。