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最初に硫黄島に行ったのが、1994年ぐらいでした。母の兄二人、母、妹の、
疎開前に島に生まれて子供時代を過ごした4人が一緒でした。
その時にも、「このあたりだったと思う。」「もっと、こっちだったような、、」と、戦前のご近所在住だった方たちとも一緒に、うろうろと、「我が家(祖父宅、母たちの生家)」を探しました。
その時には、伯父たちは、森のあたりを探していました。
その後、今年で、4回目の訪問でしたが、昨年と今年の訪問で
訪問回数が多く詳しい皆さんから、
「元山の中心、栄えていた場所は、今の空港の中」と、
教えてもらいました。
今年の「島民の集い」の会場に作って置いていただいた模型も、
昔の様子を知る人などのお話などから、手書きされた地図なども
参考にして作って下さっていると思うのですが、
かなり細かく当時の道が
再現されている精緻なものでした。
「うちはどこだったのだろう?」を
最初の訪問以来、硫黄島の現地付近(硫黄ヶ丘入り口付近)に
行っては、繰り返してきました。
祖父の名前の 幟 を用意して下さっていたのは、
会場に着いてすぐに私が、
学校、役場などの位置関係から、
「この辺りだ。」と思う場所に立てました。
「集い」で、楽しい宴会が親交している途中にも、
模型に何人かで集まっては、
「もっとこっち。いやあっち。」と盛り上がりました。
まるで、最初に伯父、叔母、母たちと
現地を訪問して、戦前とは変わってしまった場所で
探しまわった時のことを思い出しました。
村役場、学校、などの主要な場所は、最初から
模型に表示を立てて下さっていました。
会の途中で、模型の場所で、
戦前の硫黄島に一軒あった旅館の太平館のご主人
(正確には、年齢から、旅館だった太平館「ご主人」であったはずが
ありません。おじい様か、お父様が「ご主人」だった「旅館のご子息」)
が、「警察の場所は、学校と村役場との位置関係からは、もっと、
右だった。」と教えて下さったので、私が、表示場所を
変えてしまいました。
そして、「太平館ご子息」に、「我が家」の場所を質問して
教えていただいた結果で、会場に最初に着いた時に
私が立てた場所より、左に、祖父の名の 幟 を
変えて、私の「元山の「我が家の場所特定」」を
完成させたのが、この写真です。
結果、かなり舟見岩に近くなりました。
現地で、昨年と今年、
「空港になっていると教えてもらってもどうも、諦められない。
ぎりぎり、滑走路から外れた現在の森のこの辺りだったのではない
だろうか。」と、
思いながら、歩き回りました。
皆さんが教えて下さったとおり「今の空港」で
滑走路にかかってしまっていたとしても、
旅館太平館のあった場所よりは北側で、村役場に近い場所で
あったのは確かなようです。
疎開前に島に生まれて子供時代を過ごした4人が一緒でした。
その時にも、「このあたりだったと思う。」「もっと、こっちだったような、、」と、戦前のご近所在住だった方たちとも一緒に、うろうろと、「我が家(祖父宅、母たちの生家)」を探しました。
その時には、伯父たちは、森のあたりを探していました。
その後、今年で、4回目の訪問でしたが、昨年と今年の訪問で
訪問回数が多く詳しい皆さんから、
「元山の中心、栄えていた場所は、今の空港の中」と、
教えてもらいました。
今年の「島民の集い」の会場に作って置いていただいた模型も、
昔の様子を知る人などのお話などから、手書きされた地図なども
参考にして作って下さっていると思うのですが、
かなり細かく当時の道が
再現されている精緻なものでした。
「うちはどこだったのだろう?」を
最初の訪問以来、硫黄島の現地付近(硫黄ヶ丘入り口付近)に
行っては、繰り返してきました。
祖父の名前の 幟 を用意して下さっていたのは、
会場に着いてすぐに私が、
学校、役場などの位置関係から、
「この辺りだ。」と思う場所に立てました。
「集い」で、楽しい宴会が親交している途中にも、
模型に何人かで集まっては、
「もっとこっち。いやあっち。」と盛り上がりました。
まるで、最初に伯父、叔母、母たちと
現地を訪問して、戦前とは変わってしまった場所で
探しまわった時のことを思い出しました。
村役場、学校、などの主要な場所は、最初から
模型に表示を立てて下さっていました。
会の途中で、模型の場所で、
戦前の硫黄島に一軒あった旅館の太平館のご主人
(正確には、年齢から、旅館だった太平館「ご主人」であったはずが
ありません。おじい様か、お父様が「ご主人」だった「旅館のご子息」)
が、「警察の場所は、学校と村役場との位置関係からは、もっと、
右だった。」と教えて下さったので、私が、表示場所を
変えてしまいました。
そして、「太平館ご子息」に、「我が家」の場所を質問して
教えていただいた結果で、会場に最初に着いた時に
私が立てた場所より、左に、祖父の名の 幟 を
変えて、私の「元山の「我が家の場所特定」」を
完成させたのが、この写真です。
結果、かなり舟見岩に近くなりました。
現地で、昨年と今年、
「空港になっていると教えてもらってもどうも、諦められない。
ぎりぎり、滑走路から外れた現在の森のこの辺りだったのではない
だろうか。」と、
思いながら、歩き回りました。
皆さんが教えて下さったとおり「今の空港」で
滑走路にかかってしまっていたとしても、
旅館太平館のあった場所よりは北側で、村役場に近い場所で
あったのは確かなようです。