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OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

硫黄島島民の集い 模型の元山部落 「うちはどこ?」

2008年09月18日 | 硫黄島・小笠原村
最初に硫黄島に行ったのが、1994年ぐらいでした。母の兄二人、母、妹の、
疎開前に島に生まれて子供時代を過ごした4人が一緒でした。

その時にも、「このあたりだったと思う。」「もっと、こっちだったような、、」と、戦前のご近所在住だった方たちとも一緒に、うろうろと、「我が家(祖父宅、母たちの生家)」を探しました。
その時には、伯父たちは、森のあたりを探していました。

その後、今年で、4回目の訪問でしたが、昨年と今年の訪問で
訪問回数が多く詳しい皆さんから、
「元山の中心、栄えていた場所は、今の空港の中」と、
教えてもらいました。

今年の「島民の集い」の会場に作って置いていただいた模型も、
昔の様子を知る人などのお話などから、手書きされた地図なども
参考にして作って下さっていると思うのですが、
かなり細かく当時の道が
再現されている精緻なものでした。

「うちはどこだったのだろう?」を
最初の訪問以来、硫黄島の現地付近(硫黄ヶ丘入り口付近)に
行っては、繰り返してきました。

祖父の名前の 幟 を用意して下さっていたのは、
会場に着いてすぐに私が、
学校、役場などの位置関係から、
「この辺りだ。」と思う場所に立てました。

「集い」で、楽しい宴会が親交している途中にも、
模型に何人かで集まっては、
「もっとこっち。いやあっち。」と盛り上がりました。
まるで、最初に伯父、叔母、母たちと
現地を訪問して、戦前とは変わってしまった場所で
探しまわった時のことを思い出しました。

村役場、学校、などの主要な場所は、最初から
模型に表示を立てて下さっていました。


会の途中で、模型の場所で、
戦前の硫黄島に一軒あった旅館の太平館のご主人
(正確には、年齢から、旅館だった太平館「ご主人」であったはずが
ありません。おじい様か、お父様が「ご主人」だった「旅館のご子息」)
が、「警察の場所は、学校と村役場との位置関係からは、もっと、
右だった。」と教えて下さったので、私が、表示場所を
変えてしまいました。

そして、「太平館ご子息」に、「我が家」の場所を質問して
教えていただいた結果で、会場に最初に着いた時に
私が立てた場所より、左に、祖父の名の 幟 を
変えて、私の「元山の「我が家の場所特定」」を
完成させたのが、この写真です。

結果、かなり舟見岩に近くなりました。
現地で、昨年と今年、
「空港になっていると教えてもらってもどうも、諦められない。
ぎりぎり、滑走路から外れた現在の森のこの辺りだったのではない
だろうか。」と、
思いながら、歩き回りました。 

皆さんが教えて下さったとおり「今の空港」で
滑走路にかかってしまっていたとしても、
旅館太平館のあった場所よりは北側で、村役場に近い場所で
あったのは確かなようです。
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