【「硫黄島のがじゅまるの木の根元の話」は、1996年の小笠原村主催の「硫黄島訪島事業(墓参)」開始より前に訪問した時のことを思い出して書いています。】
【長いこと投稿の時間を開けてしまい、すいませんでした。
昨年11月に硫黄島出身の母が永眠(享年71歳)しました。
親戚が葬儀で集まる機会が多かったです。島の出身者が減ってしまったことも、
残念です。】
(前回(4)からの続き)
がじゅまる 木の根元の空間になっている部分に落下してしまい、
やっとの思いで、地上にまで、這い上がってくることができましたが、
「どちらに向かえば、帰れるだろうか?」という方向は分からなくなって
しまっていました。
まわりに人はいません。
集合時間に間に合わないことが、確実になってきていて、
班長のの厳格な伯父(上の伯父)の顔が思い出されて、
「怒られるな。」と「あの伯父さんの顔をつぶすのは辛い。」と思うと、
気持ちは焦るばかりです。
その場に居続けて途方に暮れ続けているわけにはいきません。
どちら方向かには移動しないといけないと思っていました。
「落ち着くんだ!」と自分に言い聞かせる余裕はなかったと思います。
その時に、、、遠くから音が聞こえてきていることに気がつきました。
静かな森の中で、ある方向から、低い、唸るような音です。
かすかですが、確かに聞こえます。
じきに、「大型発電機の音だ!」と気がつきました。
森になる前の舗装されている道路に沿って、かなり大型の
コンテナを並べたような発電機(鹿島建設さんが設置のもの
だと後で知りました。)が置いてあったのを、確かに見ていたことを
思い出しました。
他の物音は何もしませんから、最初はかすかな音量の唸るような低音でしたが、
その音の方だけを目指して、(落下や、枝にひっかけて傷など作らないように)
向かえばいいだけです。
だんだんと、発電機の唸る音が大きくなり、5分もすると、
さまよっていた森から、太陽の光が眩しい明るく開けた場所に
出ることができました。
発電機と舗装道路は、もう目と鼻の先です。
舗装道路に出ると、緩い登り坂でしたが、全力疾走で
駆け上がり、集合場所の厚生館に戻りました。
集合時間を15分ぐらい送れて、班のメンバーの方にご迷惑を
おかけしてしまいました。
汗だく、土、泥まみれ、いくつかは小さい傷もありました。
このストーリーの
「私が班の他の人たちが集合しているところに走って着いた時」
現場にいた親戚が、それぞれ、どんな反応を見せたかについては、
その後、親戚で集まる時に話題になったことがありましたが、
(いたのは、上の伯父(故人)とおばさん、下の伯父(次男)、
母(故人、長女)、叔母(次女)の5人でした。)
いろいろと、その場に居合わせた5人それぞれに記憶に差が
あって、どれが本当だったのかあやふやになってしまっています。
その時に、私の母がどんな反応をしたのかは、あまり鮮明な記憶が
残っていません。「無事に戻ってきて良かったけれど、すごい汚い
格好ね。時間厳守のこういう団体行動でこれだけ遅刻したんだから、
覚悟はできていると思うが、伯父さん(母の兄)にたっぷり、怒られなさい。」
というような表情で、黙って見ていた、
というような覚えがうっすらとあります。
バツが悪そうに、庇っていいのか、どうしたものか、
そわそわしていたのは、森に入る前に
「あっちのグループに着いて行くと
詳しいから良いパパイヤが期待できるぞ。」と、けしかけた(?)
下の伯父でした。
その下の伯父さんとは、
会うたびに、この時の話を、何度もしました。
先日、会った時にも、その話になりました。
下の伯父の話は、
「何も、あの時に兄貴(上の伯父)は、いくら集団行動の
決められた時間に遅れたからって、自分の甥(私)が
無事に戻ってきたんだから、あんなに、怒鳴りつけて怒らなくても
いいだろうに。すごい怒り方だった。」というものです。
ところが、
その時に、長の上の伯父に怒られた場面の私の印象は、
かなり違っていて、
確かに「集団行動だ。遅れるのがどういうことか、分かっているのか。」
などと怒鳴られた覚えはありますが、
そんなに厳しく激しい怒られ方をした、という印象ではありません。
心なしか、安堵もあってか目が優しく、涼しそうに笑っていて、
「人前で班長という立場なので怒鳴らないといけないが、、」と
口に出しては言いませんでしたが、心の中で思っているかのような表情で、
「心配したぞ。無事に戻って本当に安心した。良かった。」
と行っている様だった、という印象です。
この話があったのは、
大勢で、小笠原丸で訪島をした、最初のころのことで、
まだ、今のような、毎年6月に定期的な墓参、訪島が始まる前のことでした。
現在の、
年二回は入間基地から日帰り、
年に一回は小笠原丸での墓参・訪島事業は
主催の東京都、小笠原村の方々、ご支援いただいている
関係者の自衛隊、鹿島建設の方々など、大勢が
安全を第一に万全の体制で実施して下さっています。
安全への配慮と対策は万全です。
火山活動がある島です。戦前の島出身の参加の人たちは皆さんが高齢です。
暑い島でもあります。
水分補給や看護、救護の方に同行いただいていたり、皆様方が
安全に十分に、ご配慮くださっているおかげで、
墓参、訪島事業が続けられているのは、本当に大事なことだと思います。
小笠原丸での訪島では、「海が荒れて、父島から硫黄島に
向かわず断念」や「硫黄島に着いたが上陸できたのは一日だけ」
ということも少なくなかったと、聞きました。
そういう回に参加なさった方々は、本当に残念な思いを
なさったと思います。
2006年の秋に、私も参加した、
入間基地から自衛隊輸送機で連れて行ったいただいた
時には、台風の直撃で1週間、延期されての実施でした。
天気にも、大きく左右されるのは、「安全最優先」ですので、
自然が相手では、仕方がないことだと思います。
「安全第一」で、関係の皆様方が開催して下さっていますので、
ここに(1)から(5)まで、書いてきたような一人で
森でさまようというようなことは、
今の墓参・訪島では、起こりません。
集団で車で移動しますので、全員の安全を確認しながらの
島での行動になります。
まだ、遺骨収集が入れていない壕など危険箇所は立ち入り禁止と
されています。
なかなか行ける島ではありませんし、
戦争の跡を、自分の目で見れる島です。
少しでも多くを、見たいと思ってしまいます。
整備していたいている壕も多くありますが、
入り口だけは入りやすい壕も、数メートルで真っ暗です。
(例外は、医務課壕、栗林中将がいた壕で、入り口に発電機があり、
中に照明ランプを引いてくれています。)
強い光を出す懐中電灯を持って入りますが、
すぐに急な下りになっていて、先に進めない壕や、
分岐があって、進めない壕などばかりです。
壕の中に関しては、
集団行動で安全を確認し合いながらの遺骨収集作業ではない、
墓参訪島での島内見学で見ることができる壕で
2,3メートルより先の中まで進んでいける壕は無い、
と言っていいと思います。
島唐辛子のことを書いた回に紹介しましたが、
私たち島民関係のグループは、平和祈念会館に一泊しました。
祈念会館で同じ部屋で、硫黄島生まれで遺骨収集作業にも
参加なさったことがある島に詳しい方が、
祈念館近くの島唐辛子の木に連れて行って下さった話を
前に書いた時に紹介いたしました。
その先輩の方が、
島唐辛子を取りに行った時に、
祈念館前の、まだ、高さ1メートルほどの木を指さして、
「あれは、この祈念館が出来た時に、持ってきて、
祈念館正面に植えたがじゅまるの木」と
教えてくれました。(今度、行く時には
忘れずに写真撮影してくるようにします。)
そのがじゅまるの木が
大きく育ちますように!
立派な一人前の木に育つ頃まで、
墓参・訪島には、出来る限り多く、参加したいと希望しています。
写真は天山記念碑のあたりの壕の入り口付近。
【長いこと投稿の時間を開けてしまい、すいませんでした。
昨年11月に硫黄島出身の母が永眠(享年71歳)しました。
親戚が葬儀で集まる機会が多かったです。島の出身者が減ってしまったことも、
残念です。】
(前回(4)からの続き)
がじゅまる 木の根元の空間になっている部分に落下してしまい、
やっとの思いで、地上にまで、這い上がってくることができましたが、
「どちらに向かえば、帰れるだろうか?」という方向は分からなくなって
しまっていました。
まわりに人はいません。
集合時間に間に合わないことが、確実になってきていて、
班長のの厳格な伯父(上の伯父)の顔が思い出されて、
「怒られるな。」と「あの伯父さんの顔をつぶすのは辛い。」と思うと、
気持ちは焦るばかりです。
その場に居続けて途方に暮れ続けているわけにはいきません。
どちら方向かには移動しないといけないと思っていました。
「落ち着くんだ!」と自分に言い聞かせる余裕はなかったと思います。
その時に、、、遠くから音が聞こえてきていることに気がつきました。
静かな森の中で、ある方向から、低い、唸るような音です。
かすかですが、確かに聞こえます。
じきに、「大型発電機の音だ!」と気がつきました。
森になる前の舗装されている道路に沿って、かなり大型の
コンテナを並べたような発電機(鹿島建設さんが設置のもの
だと後で知りました。)が置いてあったのを、確かに見ていたことを
思い出しました。
他の物音は何もしませんから、最初はかすかな音量の唸るような低音でしたが、
その音の方だけを目指して、(落下や、枝にひっかけて傷など作らないように)
向かえばいいだけです。
だんだんと、発電機の唸る音が大きくなり、5分もすると、
さまよっていた森から、太陽の光が眩しい明るく開けた場所に
出ることができました。
発電機と舗装道路は、もう目と鼻の先です。
舗装道路に出ると、緩い登り坂でしたが、全力疾走で
駆け上がり、集合場所の厚生館に戻りました。
集合時間を15分ぐらい送れて、班のメンバーの方にご迷惑を
おかけしてしまいました。
汗だく、土、泥まみれ、いくつかは小さい傷もありました。
このストーリーの
「私が班の他の人たちが集合しているところに走って着いた時」
現場にいた親戚が、それぞれ、どんな反応を見せたかについては、
その後、親戚で集まる時に話題になったことがありましたが、
(いたのは、上の伯父(故人)とおばさん、下の伯父(次男)、
母(故人、長女)、叔母(次女)の5人でした。)
いろいろと、その場に居合わせた5人それぞれに記憶に差が
あって、どれが本当だったのかあやふやになってしまっています。
その時に、私の母がどんな反応をしたのかは、あまり鮮明な記憶が
残っていません。「無事に戻ってきて良かったけれど、すごい汚い
格好ね。時間厳守のこういう団体行動でこれだけ遅刻したんだから、
覚悟はできていると思うが、伯父さん(母の兄)にたっぷり、怒られなさい。」
というような表情で、黙って見ていた、
というような覚えがうっすらとあります。
バツが悪そうに、庇っていいのか、どうしたものか、
そわそわしていたのは、森に入る前に
「あっちのグループに着いて行くと
詳しいから良いパパイヤが期待できるぞ。」と、けしかけた(?)
下の伯父でした。
その下の伯父さんとは、
会うたびに、この時の話を、何度もしました。
先日、会った時にも、その話になりました。
下の伯父の話は、
「何も、あの時に兄貴(上の伯父)は、いくら集団行動の
決められた時間に遅れたからって、自分の甥(私)が
無事に戻ってきたんだから、あんなに、怒鳴りつけて怒らなくても
いいだろうに。すごい怒り方だった。」というものです。
ところが、
その時に、長の上の伯父に怒られた場面の私の印象は、
かなり違っていて、
確かに「集団行動だ。遅れるのがどういうことか、分かっているのか。」
などと怒鳴られた覚えはありますが、
そんなに厳しく激しい怒られ方をした、という印象ではありません。
心なしか、安堵もあってか目が優しく、涼しそうに笑っていて、
「人前で班長という立場なので怒鳴らないといけないが、、」と
口に出しては言いませんでしたが、心の中で思っているかのような表情で、
「心配したぞ。無事に戻って本当に安心した。良かった。」
と行っている様だった、という印象です。
この話があったのは、
大勢で、小笠原丸で訪島をした、最初のころのことで、
まだ、今のような、毎年6月に定期的な墓参、訪島が始まる前のことでした。
現在の、
年二回は入間基地から日帰り、
年に一回は小笠原丸での墓参・訪島事業は
主催の東京都、小笠原村の方々、ご支援いただいている
関係者の自衛隊、鹿島建設の方々など、大勢が
安全を第一に万全の体制で実施して下さっています。
安全への配慮と対策は万全です。
火山活動がある島です。戦前の島出身の参加の人たちは皆さんが高齢です。
暑い島でもあります。
水分補給や看護、救護の方に同行いただいていたり、皆様方が
安全に十分に、ご配慮くださっているおかげで、
墓参、訪島事業が続けられているのは、本当に大事なことだと思います。
小笠原丸での訪島では、「海が荒れて、父島から硫黄島に
向かわず断念」や「硫黄島に着いたが上陸できたのは一日だけ」
ということも少なくなかったと、聞きました。
そういう回に参加なさった方々は、本当に残念な思いを
なさったと思います。
2006年の秋に、私も参加した、
入間基地から自衛隊輸送機で連れて行ったいただいた
時には、台風の直撃で1週間、延期されての実施でした。
天気にも、大きく左右されるのは、「安全最優先」ですので、
自然が相手では、仕方がないことだと思います。
「安全第一」で、関係の皆様方が開催して下さっていますので、
ここに(1)から(5)まで、書いてきたような一人で
森でさまようというようなことは、
今の墓参・訪島では、起こりません。
集団で車で移動しますので、全員の安全を確認しながらの
島での行動になります。
まだ、遺骨収集が入れていない壕など危険箇所は立ち入り禁止と
されています。
なかなか行ける島ではありませんし、
戦争の跡を、自分の目で見れる島です。
少しでも多くを、見たいと思ってしまいます。
整備していたいている壕も多くありますが、
入り口だけは入りやすい壕も、数メートルで真っ暗です。
(例外は、医務課壕、栗林中将がいた壕で、入り口に発電機があり、
中に照明ランプを引いてくれています。)
強い光を出す懐中電灯を持って入りますが、
すぐに急な下りになっていて、先に進めない壕や、
分岐があって、進めない壕などばかりです。
壕の中に関しては、
集団行動で安全を確認し合いながらの遺骨収集作業ではない、
墓参訪島での島内見学で見ることができる壕で
2,3メートルより先の中まで進んでいける壕は無い、
と言っていいと思います。
島唐辛子のことを書いた回に紹介しましたが、
私たち島民関係のグループは、平和祈念会館に一泊しました。
祈念会館で同じ部屋で、硫黄島生まれで遺骨収集作業にも
参加なさったことがある島に詳しい方が、
祈念館近くの島唐辛子の木に連れて行って下さった話を
前に書いた時に紹介いたしました。
その先輩の方が、
島唐辛子を取りに行った時に、
祈念館前の、まだ、高さ1メートルほどの木を指さして、
「あれは、この祈念館が出来た時に、持ってきて、
祈念館正面に植えたがじゅまるの木」と
教えてくれました。(今度、行く時には
忘れずに写真撮影してくるようにします。)
そのがじゅまるの木が
大きく育ちますように!
立派な一人前の木に育つ頃まで、
墓参・訪島には、出来る限り多く、参加したいと希望しています。
写真は天山記念碑のあたりの壕の入り口付近。