続けて、硫黄島の釜場の写真です。鬱蒼としたがじゅまるの森の中にあります。野ざらしの鉄製の大きな鍋が並んでいるあとです。これまでに10回以上は行っている場所ですが、だんだんと大鍋が経年で崩れてしまっています。将来は、このように戦時の様子をしのぶこともできなくなる日も来るかもしれません。
硫黄島の釜場という場所です。大きな鉄製の鍋がかけられて並んでいた跡になっています。この場所は204設営隊という部隊が配置されていて兵士たちへの食べ物を煮炊きしていた場所だと言われています。私たちがこの場所に必ず行くのは、ここが戦前硫黄島に在住していて軍属として強制疎開せずに島に残されて犠牲になった80余名(82名から84名と言われています。旧島民の範囲をどう考えるかでこの差が出ます。)のうちの十数名は貨物廠という場所に配属されて最期を迎えたと言われていますが、残りの旧島民はこの部隊に配属されたと言われています。私の祖父の弟や二人の甥などの親戚たちがどこで死んだのかは詳しくは分かっていませんが、この釜場と関係があることは確かですので、みんなでここにお水やお線香をあげます。
硫黄ヶ丘から入ったところの森の中の写真です。この植物は、タニワタリという熱帯の植物です。生前に母が硫黄島に行った時に(母は生前には、航空機での日帰り墓参は、2回ほどで、船での宿泊での訪島は、私が最初に硫黄島に行った時に一緒に行った1回だけでした。)これを持ち帰ったのを実家に植えていたのが、最近、枯れてしまったとかで、昨年、船では初めて(航空機日帰りでは2回ほど行ったことがありました。)行った父(硫黄島生まれではなくて新潟県柏崎市出身)が、「硫黄島で探して見つけて持ち帰りたい。」と言っていたのが、このタニワタリでした。
タニワタリは、釜場という場所とか、硫黄島の多くの場所に生育していて簡単に見つけることができました。中にはとても持ち帰れないほどの大きさのものも多くありました。小さめのをいくつか持ってきて、実家や自宅で育てています。
タニワタリは、釜場という場所とか、硫黄島の多くの場所に生育していて簡単に見つけることができました。中にはとても持ち帰れないほどの大きさのものも多くありました。小さめのをいくつか持ってきて、実家や自宅で育てています。
昨年の6月に行った時の写真の紹介と続けております。「この辺りが戦前の小学校のグラウンドだった。」ということで、小笠原村役場の方と一緒に硫黄ヶ丘から入っていった森の中です。二人で、当時の名残を探してあるいていたところ、この岩を探すことができました。何か書いてあったりということは無かったので、何に使われていたのかは分かりませんでしたが、戦前からあったものに違いないと思います。
続けて、この写真も、硫黄島の硫黄ヶ丘から入った森の中のがじゅまるの木です。相当の年数が経っているように思える森なのですが、戦前は学校のグランドだったあたりと言われていますので、戦後に伸び始めたがじゅまるということになります。
硫黄島で戦前には、役場や学校などの主な施設があったのも商店街があった元山集落のあたりでした。この写真のあたりは、「このあたりが、当時の学校のグランドのあたりだと言われている。」と、何年も続けて一緒に硫黄島訪問に参加して下さっている小笠原村役場のセーボーレー孝さんが教えてくれて一緒に硫黄ヶ丘から入っていった森の中です。かなり大きながじゅまるの木も多くある森が続いて以前はグランドだったとは思えないような場所でした。