阿川さんは「弔問外交ということだけを重視して、一般国民としては国葬になる人は国を代表して素晴らしい功績を残したっていう、曇りもないような感覚がある。亡くなられ方が本当に悲劇的だったけど、まだ疑問符がいくつか残っているんじゃないの?っていう人を一党だけで決めるのは…」と国会での議論がないまま決まったことへの疑問点を指摘した。
やはり手順を踏む事も必要だが、亡くなった人の事を悪く言うのも何か違うでしょう。
だがしかし、書こうと思ったのは下記の方です。
タレントの大竹まことも「ルールブックがないまま、どうしたら国葬になるのか!ってルールができないまま、コスパの問題で語ったけど、それだけで済まないと俺は思う」と主張。「国葬って1回廃止になっている。日本国憲法との整合性がまだちゃんと取れていないからと」と力を込めた。
情けないかな、正論を吐かれて論破よりも国としての公平性や普遍性が保たれるのか疑問です。
公平性が難しいのはそれまでの自民党、内閣府合同葬で済ませた人との釣り合いが取れないのかと思います。
普遍性で言えば憲法との整合性で中止していたのを国葬復活に見合う人が当分出ないだろうと言う中での既成事実を作ろうとした感じも否めません。
こんな表現は失礼ですが、行政の管理監督でさえ期待を控えないといけないようだと国難の時の式典なんて捌けないのでしょうね。
コロナ禍が世界一で、かつ医療逼迫とかでニュースになりました。
そんな政府が式典を執り行うとしてもその定義すら明確にしておかないのですから。
俗にゴールを移動させてしまうと言う表現ではないのでしょうけど、ルールがハッキリしないスポーツなんてないのです。
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