原子力規制委員会で問われるのは安全の定義でしょう。
何処までの安全なら安全なのか、逆に言うと原子力規制委員会は原子力を運転出来ないなら要らないのです。
だって、なんのために居るのかと言えば原子力業界の暴走を抑える為で安全だけなら停止、解体で良いのですよね。
悪口のように聞こえると思いますが、現実の方がおかしな事になっていただけです。
つまり、原子力規制委員会が決めた方法で運転するのが当初の再スタートだったのに途中経過で未だに原発停止したままなのは逆にその存在意義が無いに近いのです。
原子力規制委員会の言う事も理解しないでやれ活断層が講釈する裁判官のような存在が結果的にこの国のエネルギー行政をおかしくして中国からの産業侵攻や環境破壊を受け入れる連中レベルな訳です。
一つの事で頭いっぱいで、他の問題まで考えられないようなマスコミも含めて総合的判断や自己の安全責任を持たないと取る手段さえも無くなります。
俗に女の腐ったのと言うような悪い表現がありますが、それに近いような人を妬む割に自分では責任を持たないし、リスクのある選択肢の何がリスクなのかを考えないのですよね。
原発のリスクは停電による冷却不能や制御出来なくてベントが出来ずに爆発したのですから。
今頃こんな事を言っても無意味ですが、当時の原子力安全委員会のトップが判断を間違えたのが政治からすると大きいのでした。
既に10年の歳月が過ぎても経済からすると慎重過ぎる事でしょう。
経済の方は冷え込んでしまうくらいにエネルギー問題が重荷です。