EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

伊予松山城・重要文化財指定建造物散策 2

2014年02月27日 | 伊予松山歴史散策
前回は、本丸東広場と西広場に現存する重文建造物を辿ったが、これからは本壇に入る。本壇入口は、天守観覧切符売り場からが本壇で、最初に紫竹門東塀がある。これは前回画像に取り上げたのでここでは省略する。
本壇天守群は、初代藩主である加藤嘉明が築城した5層の偉観を誇った天守を第3代藩主、松平定行は、改築を幕府に願い出て、寛永16年(1639)7月13日許可を得て3年後の同19年(1672)3層の天守に改築完成した。改築その理由は、地点が山頂部にあり、かつ谷を埋め立てた所に当り、建造物の保存上の安全を期するためであったと考えられる。
落雷による天守群焼失
天明48年(1784)1月元旦真夜中に天守・大書院に落雷があり、そのため本丸を焼失、この時の藩主は、定国で、徳川御三卿の一つ、田安宗武の次男が養嗣子として伊予松山、松平第9代藩主として継承していた。定国は、落雷の事につき急使を江戸に送り、その旨幕府に報告、幕府から定国に対し参勤の時期を9月に延期するように伝えられた。そして6月29日に本丸城郭復興計画を幕府に請願しその許可を受けた。その後諸事情で天守復興はままならず、嘉永5年(1852)12月20日天守をはじめ本丸城郭全部が完成し翌々年の安政元年2月8日盛大に落成式が行われた。天明の落雷で焼失してから71年の歳月が経っていた。これから本壇に入るが、重文建造物は、この時に再建された建物であることを鑑み画像を見て下さい。
本壇には重文建造物が13棟現存し、現存12天守のうち一番多く存在する。

注1:松平定行は、徳川家康を生んである事情により徳川氏を去り、久松俊勝に再婚して、定勝が誕生した。定勝は家康の異父同母で、その子が定行である。祖母は、於大の方で、家康は祖父になる。家康の命により松平を名乗り三つ葉葵の紋を使うよう指示された。地方の城で唯一本壇天守群の瓦に三つ葉葵の紋が刻印されているのは松山城唯一つである。維新後旧姓・久松に還し家紋の梅鉢にした。・・久松家の祖先は菅原道真で家紋が梅鉢。

注2:松平定国は、第8代将軍徳川吉宗の次男、田安宗武の次男で、弟は、松平定信であって、陸奥白河藩主、後に江戸幕府老中となり寛政の大改革断行した政治家である。

注3:伊予松山藩には庭園が無い:伊予松山藩は初代、加藤嘉明(よしあき)が20万石、2代目、蒲生忠知(ただちか)24万石、3代目松平定行15万石で維新を迎える。3代目から親藩となる。15万石の城郭としては大き過ぎ城の管理に膨大な費用が掛かり庭園を造園する余裕がなかった。

先ずは一ノ門から


一ノ門、寄手側
本壇入口、本丸広場から本壇入口は、上り坂になっており、その路の左側は紫竹門東塀(現切符売り場)で右折すると正面は高さ5mの石垣上に筋鉄門東塀、右手には、一ノ門南櫓、左手には小天守があって堅固められている。
一ノ門は、高麗門で本壇入口最初の門である。主屋根は両妻をそれぞれ櫓下の石垣に託し、木割りも大きく豪放な構え、両開きの扉は上下とも格子となって見通しをよくしている。脇戸附高麗門、本瓦葺で、天守は安政元年の再建であるが、一ノ門は天守より早く嘉永年間の造り。


一ノ門、内側
門の形式は高麗形式で、文禄・慶長の役が行われた1592年から1598年の間に造られ始めた城門である。鏡柱と控柱を一つの大きな屋根に収める構造の薬医門を簡略化したもので、屋根を小ぶりにして守備側の死角を減らす工夫が施された。江戸時代以降には、城郭に限らず神社仏閣や町の出入り口を仕切る木戸門などとして多く築造された門の形式。


一ノ門南櫓
一ノ門南に接続し本丸広場から本壇に進入して来る敵に対し攻撃防御する櫓で突き上げ格子窓・狭間・石落しを備え他の武装建築同様に武器・弾薬・米塩の貯蔵を主たる目的としながら、本壇最後の防御手段としての合わせ持つ櫓として怠ることがなかったのである。・・これは、二ノ門南櫓・三ノ門南櫓とも同じ事が言える。造りは、1層櫓、本瓦葺、嘉永年間の造り。


一ノ門東塀
一ノ門東塀で、一ノ門南櫓と二ノ門南櫓を結ぶ続塀で本丸広場からの本壇に侵入する敵を攻撃するもの。
長さ10、14m、狭間10ヶ初、本瓦葺、嘉永年間の造り。


二ノ門、寄手側
二ノ門は、一ノ門内の枡形を過ぎて左折し、急な石段を上ると二ノ門がある。この門は城中に唯一つの薬医門形式の門である。
薬医門というのは、本柱が門の中心線から前方にずれていて本柱と控え柱を結ぶ梁の中間の上に束を乗せて切妻屋根を乗せた門。桃山時代にはじまり、元来は矢喰が語源、寺門に比較的多いと歴史事典にある。江戸時代になると武家や公家の屋敷に用いられ、また扉を無くして医者の門として用いられたのでこの名になった。・・とある。しかしその前の語源は、矢喰と呼ばれ、敵の矢を喰う門。脇戸附薬医門形式、本瓦葺、嘉永年間の造り。


二ノ門、内側
左が二ノ門東塀でその奥に二ノ門南櫓、右は三ノ門東塀である。


二ノ門東塀、寄手側
二ノ門東塀は城内で一番規模の小さな続塀で、二ノ門と二ノ門南櫓を繋ぐ続塀である。一ノ門枡形に進入した敵を狭間から攻撃する。長さ3、72m、狭間3ヶ初、本瓦葺、嘉永年間の造り。


二ノ門東塀、内側、この小さな建造物も重文である。


二ノ門南櫓
二ノ門南櫓は、二ノ門東塀に接続し本丸広場から本壇東にある艮門から進入して来る敵と、一ノ門内の枡形の敵を阻止する櫓で、狭間・石落しを備え、他の武装建築同様に武器・弾薬・米塩を貯蔵する一ノ門南櫓・三ノ門南櫓とも同じである。造りは、1層櫓、本瓦葺、嘉永年間の造り。左側に見える塀は一ノ門東塀である。


三ノ門、寄手側
三ノ門は、高麗形式の門で、屋根の一端は天守建物下部に接する。これを過ぎると正面に三ノ門南櫓があり、そこを右折すると天守南側石垣と筋鉄門東塀に仕切られた細長い進入路となり、その奥の本壇最後の守り筋鉄門に達する。
造りは、高麗形式、本瓦葺で、嘉永年間の造り。


三ノ門、内側で、左の石垣は天守台の切り込みはぎの石垣で、右は三ノ門東塀の一部である。


三ノ門東塀
三ノ門東塀で、左は三ノ門に繋がり、右は三ノ門南櫓と接続して途中で屈曲している。右側の塀(寄手)は、一ノ門枡形に進入した敵を狭間から攻撃し、奥の塀は、三ノ門と天神櫓前の枡形に侵入した敵を攻撃と防御をする。
長さ14、20m、狭間10ヶ初、本瓦葺、嘉永年間の造り。


三ノ門南櫓
三ノ門南櫓は、天守に至る曲折した進入路に沿って設けられ、一ノ門南櫓、二ノ門南櫓同様に突き上げ格子窓・狭間・石落しを備えていて、本壇最後の防御手段として備えてある。造りは、1層櫓、本瓦葺、嘉永年間の造り。
次回は、本壇最後の門、筋鉄門を通り、いよいよ日本三大連立式天守に
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする