EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

日本100名城第81番伊予松山城 1

2014年02月23日 | 伊予松山歴史散策
日本100名城は、財団法人日本城郭協会が平成18年に定めた日本の名城100である。同協会が平成19年に迎える設立40周年の記念事業の一環として、平成17年に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募し、平成18年44月6日の「城の日」に認定した(発表は同年2月13日)。観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、復元の正確性などを基準にして、歴史や建築の専門家などが審査の上で都道府県1城は選ぶ事を下で選定したとされる。
平成19年6月2日からは、選定された全国の100城を巡る『「日本100名城」選定記念スタンプラリー』が開始され伊予松山城は第81番に指定選定された。
第81番伊予松山城は、現存12天守の一つで、標高132mの高い位置に本丸があり、本檀の天守は標高160mにある唯一の平山城。天守は日本三大連立天守・そして日本三大連立平山城として日本では最も新しい日本式城郭建築の天守の勇姿を持つ城で、城全体が国指定の史跡である。
日本100名城スタンプ設置場所は、松山城天守入口にある。

伊予松山城は5つの日本一がある・・・それは
第一番目に:藩政時代に創建された天守の内最後に建築された天守。
      今から160年前に建てられた現存する12天守の内一番新しい
第二番目に:築城に要した年月が26年を要した・・一番長い期間
第三番目に:本丸と二の丸の落差が90m・・・一番距離が長い
第四番目に:石垣が美しい・・特に本丸の石垣「屏風折れ」が美しい
第五番目に:藩政時代の城郭の中で三カ所しかない登り石垣が現存する、それも一番規模が大きい
特筆、「現存12天守」の中で、唯一、築城主として瓦には葵の御紋が付されている。


明治24年当時の本檀にある天守群、右から大天守、小天守、南隅櫓。


昭和8年7月9日放火により天守を以外の建造物は焼失した。


画像は、昭和43年5月焼失した建造物を復元し安政元年当時に復した松山城天守群。日本三大連立式天守。(伊予松山城・姫路城・和歌山城)日本三大平山城(伊予松山城・姫路城・津山城)
昭和8年放火により焼失した小天守以下櫓等々は、創建当時の設計図資料に基づき忠実に復元された。昭和10年5月13日、国宝に指定され、国宝指定作業における正確な図面や写真などが残されていたことから、昭和41年復元工事に着手、同43年5月末に竣工、本壇は本格的な木造による復元が行われ安政元年当時の天守群に復した。この復元部分は、焼失前は主として栂材であったが、今は檜材が用いられた。


伊予松山城鳥瞰図。図面の北登り石垣は、現在取り壊され一部しか現存しないが、南登り石垣が現存する。


松山城三の丸からの南面からの眺望。


伊予松山城三の丸からアップで撮った天守群。左から、南隅櫓、多聞櫓、小天守、後ろに大天守を望む。


日本最大を誇る登り石垣で、完全に築城当時のまま現存している。高さ5m、長さ233m。見学する石垣愛好者。


平成の大修理の時天守群の瓦を下ろした時の画像で、瓦に記されている徳川家の家紋「三つ葉葵」。地方の城に三つ葉葵の瓦が使われているのは伊予松山城のみである。これは第3代伊予松山藩主、松平定行が徳川家康の甥にあたり家康の指示によるものであった。維新以後は、本姓である、久松に改姓し家紋は梅鉢に還した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする