EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

伊予松山城本丸の白梅開花

2013年01月26日 | 伊予松山歴史散策
本日1月26日松山城観光ガイド当番日で登城した。
本丸に白梅が開花していた。本丸に7本ほどの紅梅と1本白梅がある。
本丸本壇の改札担当の女子職員に白梅の開花を聞くと6日前から咲き出したとの事でした。本丸は標高132mあり下界とは温度差があるので開花も少し遅くなる。状態は2分咲き。
今日案内した方々は、兵庫県、千葉県、香川県、地元松山の方々でした。白梅の写真を楽しげに撮っていた。

画像は、伊予松山城本丸の白梅。


今日の松山は、冷え込みの厳しい一日で、天守最上階は長居が出来ない寒さであった。真冬空は鉛色の雲が立ち込めていたが午後3時頃からは画像のような天候になった。


本壇改札口手前にある白梅でやっと開花が始まったところである。今年は厳寒で開花が遅れている。紅梅はまだ一輪も咲いていない。
以下の画像は本丸にある白梅の開花状態。白梅は一本のみ。


後ろの建物は、松山城本壇の大天守と小天守。








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新伊予松山紀行 伊豫13佛霊場めぐり 発願寺 明星院

2013年01月25日 | 伊予松山歴史散策
四国88ヶ所霊場の内、愛媛県には第40番札所、観自在寺から第65番札所、三角寺までの26ヶ寺の霊場がある。
松山市近郊には、伊予13佛霊場があり伊予の人はもとより県外からもお参りに来られる。
私は26年前に四国88ヶ所霊場巡拝は終えたが、伊予13佛霊場(88ヶ所と重複霊場以外)巡拝は行っていない。この度、自転車で(電動アシスト自転車)で巡拝する事にした。

庶民から生まれた、13佛とは、不動・釈迦・文殊・普賢・地蔵・弥勒・薬師・観音・勢至・阿弥陀・阿閦・大日・虚空蔵の諸尊で十方三世の諸佛のなかでも、身近で馴染みの深い佛・菩薩・明王である。
伊予13佛霊場は、昭和56年に創設された霊場で、13の佛菩薩を本尊とする13の寺と発願の寺と結願の寺合わせて15の寺で構成されている。その内四国88ヶ所の札所が4ヶ所(八坂寺、西林寺、浄土寺、太山寺)ある。

今日1月25日、松山は寒い一日であったが、日差しがあったのでカメラ持参で参拝に出かけた。午後から5ヶ寺を巡拝、距離は25km自転車で走った。

画像は、伊予13佛霊場、発願寺「高棚山・明星院」


発願寺、明星院は、松山市平井町460番地1にあり、ご本尊は、11面子安観世音
救世観音。110段の石段を登り本堂に参拝。


自転車を駐車場に置き、お参り。


急な石段を登ると本堂がある。右に、百観音堂がる。


明星院の本堂。


本堂右手に、「伊豫13佛霊場発願寺 明星院」の札が掲示されていた。


本堂横には、記念碑が沢山建てられていた。


手前から見た、明星院の全景。


地元の人か??参拝に来ていた。


石段の中ほどに納経所がある


境内から見た風景、逆光だから海が見えないが、純光(午前中)であれば伊予灘が見えるそうだ。これから砥部町の山並み山麓まで行く。


伊豫13佛霊場めぐりに使う電動自転車。これは楽でエコである。
フル充電すると60km走行できる。但し平坦で。車輪は27インチ
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秋山兄弟生誕地 開館8周年

2013年01月20日 | 伊予松山歴史散策
昨日1月19日、秋山兄弟生誕地開館8周年を迎えた。

秋山兄弟生誕地生家は、全国の秋山兄弟生家復興にご理解のある皆様約1万人を超える方々から醵金を頂き此れを基金として平成15年12月9日から整備開始し、平成17年1月18日完成・翌19日から一般公開した。
昨日19日が開館8周年を迎えた。
平成17年1月18日復興整備事業が完成し、この日NHK朝のニュース「おはよう日本」で完成した生家をライブで放映し、事業の完成が全国に紹介された。
なお、生家の概要は下記の通りである。

1、所在地  松山市歩行町二丁目3番地6
       財団法人 常盤同郷会「管理運営母体」
2、敷地面積 829,74平方メートル(250,99坪)
3、生家   
       木造瓦葺平屋建 95,65平方メートル(28,93坪)
4、道場
        木造瓦葺平屋建 183,13平方メートル(55,39坪)

秋山の祖は、1635年(寛永12年)第3代将軍徳川家光は、伊勢国桑名藩主松平定行を伊予松山藩主として15万石で転封の命を下した。(松平定行は、徳川家康の異父同母の弟の子供)この時、今治藩士であった秋山は、伊予松山藩士として来て、現在の生誕地に居住したのは、藩政末期の天保年間(約176年前)といわれている。

好古が北予中学校長時代に住んでいたのは、誕生当時の家に(4部屋と土間・台所の質素な家)若干手を加えただけのものだといわれています。当時の設計図は無く、秋山家の子孫の方から伝聞、特に好古が住んでいた当時しばしば訪問していた親戚の石井悦子さん(群馬県在住)や好古四女・米田治子さん(故人)から聞き取り調査及び当時の写真を参考にして建設した。建物の位置は、銅像建設の為当時より北側によせてる。

内部の調度品の内「甲冑」は、石井悦子さんが入り口の部屋に「鎧があって恐かった」との証言に基づき設置した。
生家復興建築については、現行建築基準法に基づき厳しい制約のなか、出来る限り忠実に元に近い形と(秋山家親族の証言を参考に)して復興した。

画像は、平成17年1月19日秋山兄弟生誕地一般公開から8年の沿革。


平成17年1月18日完成した秋山兄弟生誕地。


題字は、秋山宗家第10代秋山哲兒氏の揮毫・・生誕地正面入口に掲示。


秋山兄弟生誕地前のバス停も完備。


秋山好古騎馬像の復元も完成。・・地元町内会長さんの奥様がお花を準備していただき開館当時から現在まで欠かさず新しいお花が飾られている。


秋山眞之の胸像も設置完了。


平成17年1月19日から一般公開の掲示。


平成17年7月31日来館2万人達成記念日を迎えた。・・果たして2万人目の方はどちらから来られる方か関係者と、報道機関待ち詫びた。


平成17年7月31日午前10時48分2万人目の来館者が来られた。早速テープカットをして入って頂いた。2万人目の方は、名古屋市西区から家族で来られた平井さんでした。


開館2万人目の方に平松昇常盤同郷会理事長から、感謝状と認定書の授与が行われた。


秋山兄弟生誕地研究員からお祝いの花束贈呈。


秋山兄弟生誕地の役員と記念写真。


その後NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」放映で竹下恵子さんが来館、秋山兄弟生誕地関係者と記念撮影。・・平成20年2月12日寒い日であった。


次にお越しになったのは、秋山眞之を演じられる「本木雅弘さん」、本木さんは、言葉遣いの丁寧な、物腰の低い、礼儀正しいお人でした。・・勉強に来ましたと言われてお越しになりました。・・平成19年10月11日でした。


そして、次にお越しになられたのは、平成20年8月30日、廣瀬武夫を演じられる「藤本さん」で藤本さんは、元オリンピック水泳個人メドレー日本代表選手で、礼儀正しい方でした。秋山兄弟生誕地研究員と記念にとお願いして撮りました。
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新伊予松山紀行 どんど焼き

2013年01月18日 | 伊予松山歴史散策
各家庭が正月を迎える年の神様を祀るために、玄関に注連飾りかかげる。注連飾りには子孫繁栄を願う「橙」と誠実、清潔白を象徴する「裏白の葉」等をつけて飾る神祭具の一つ。最近の注連飾りは、華やかないろんな形のものがある。・・プラスチック類で綺麗な飾り付けがしてある。しかしこの類の装飾がどいんど焼きには障害になる。

神社では、注連飾りを神社に持ってくる時には、「橙」、「プラスチック」「ビニール」は取り除いて下さい。とお願いしているが、守らない人がいる。神社宮司さんは沢山の注連飾りを点検してお払いの儀式をしてどんど焼きをする。
さてどんど焼きとは
どんど(とんど・とんと)も言う、正月15日に行う火祭り行事。正月の松飾・注連縄・古札を持ち寄って神官がお払いを行った後に焼き払う。その火で餅を焼いて食べ健康と幸福をお祈りする。地方により異なるが、焼き払って出来た灰を額につけると風邪を引かないとの事だ。

資料をみると
1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼く。その火で焼いた餅(三色団子の場合もある)を食べる、また、注連飾りなどの灰を持ち帰り自宅の周囲にまくとその年の病を除くと言われている。また、書き初めを焼いた時に炎が高く上がると字が上達すると言われている。道祖神の祭りとされる地域が多い。
民俗学的な見地からは、門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされる。お盆にも火を燃やす習俗があるが、こちらは先祖の霊を迎えたり、その後送り出す民間習俗が仏教と混合したものと考えられている。

呼び方は、とんど、どんど、どんど焼き、とんど(歳徳)焼き、どんと焼きとも言われるが、歳徳神を祭る慣わしが主体であった地域ではそう呼ばれ、出雲方面の風習が発祥であろうと考えられている。とんどを爆竹と当てて記述する文献もある。これは燃やす際に青竹が爆ぜることからつけられた当て字であろう。・・とある。
最近は、日常の家庭ごみと一緒に処理することが多いようだが、新年、正月の神様(年神様)をお迎えする聖なる神具注連縄であるから・・・。やはり神社に持って行きどんど焼きの焼いて貰うのが一番いい方法だ。
画像は、松山市内の八社八幡神社の一つ、第3番社の日尾八幡神社と、第5番社雄郡神社で行われたどんど焼き。




どんど焼きの前に宮司さんがお払いの儀式を行う。


そして祝詞を捧げ。


点火してどんど焼きが始まる。


注連飾りと一緒に古札も一緒に焼き払う。


松山地方全てではないが、どんど焼きで出来た灰を持ち帰り屋敷内にまくと厄払いが出来るといわれる。






1月15日、雄郡神社で行われたどんど焼きであるが、私が行って時は既にお払いの儀式は終わっていて、宮司さんは、私服に着替えて、「橙」、「プラスチック」「ビニール」を取り除いていた。・・ご苦労様です。


いよいよ点火、点火をする方角があるらしく、今年は南西の方角が吉とかで、この方角から点火をされた。






神社では、この様なお願いの掲示板を出しているが、中には守ってもらえない御仁がいる。
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新伊予松山紀行 松山八社八幡 8番社 阿沼美神社

2013年01月17日 | 伊予松山歴史散策
阿沼美神社は、松山八社八幡第8番目の神社で、旧社格は式内者、県社である。
祭神は、大山積命、高龗神、雷神である。
「予陽郡郷俚諺集」によると、松前城主加藤嘉明が勝山(今の松山城)に築城を計画し、普請奉行の足立重信、山下八兵衛が調査に来たとき、山頂に社があり、近くで薪を拾っていた老人に、この宮は何の神かと尋ねると、老人は、勝山八幡と言おうとして、勝たず八幡の宮と答えた。

不吉ではあるが、敵が城に向かって勝たずならば吉相、それに、往古よりこの山に鎮座している御神であり勿体ないとして、北の麓に遷して奉ったという。

また、西の尾根にも社があり、老夫に尋ねると、越智郡の三島より勧請した三島明神であるという。これは吉祥であるとして、西の山の下味酒村へ遷座して祀った。のちに味酒大明神と呼ばれ、味酒神社と改称された。現在の阿沼美神社である。

嘉明の後を受けた第2代松山城主蒲生忠知は、勝山八幡神社を三宝寺とともに今市町に移したという。そして、明治8年(1875)勝山八幡神社は、味酒神社(阿沼美神社)の末社として境内に移ったといわれている。現在境内に勝山八幡神社の社がある。

また、10月に行われる松山秋祭りには、境内で八角、四角の神輿が壮烈な鉢合わせが行われる。その昔、八角は町方衆が担ぎ、八角は村方衆が担いだといわれている。

松山市内の秋祭りの時期(多くの神社が10月7日に神幸祭がある)には、三橋美智也の神輿音頭が各所で流されており、歌詞に四角、八角の鉢合わせが歌われている。

昭和43年10月7日、宮司さんの許可を得て、拝殿の屋根に上げて頂き四角、八角神輿の鉢合わせを撮ったが探してもフイルムが出てこない。


神社の所在は、松山味酒三丁目1番1に位置する。
画像は、神社入口にある神社注連石で正面には何も揮毫がない。


この神社の注連石は内側に揮毫がある。珍しい注連石である。明治16年とある。


注連石を潜ると、社号碑があり「式内阿沼美神社」と揮毫されている。


画像は、境内で八社八幡に中では一番広い社である。


そして拝殿で参拝、市内の企業社員が初詣に来ていた。


画像左に見える小さな社、右側が、勝山八幡神社の社である。


八社八幡に中で唯一の稲荷大明神がある。


境内に、松尾芭蕉の句碑が建立されている。
「さまざまの事 思い出す 桜かな」
この句は、元禄元年(1688)芭蕉が、奥の細道の旅に出る一年前、故郷の伊賀の国に帰省した時に詠んだ句である。時に芭蕉45歳。
現代語訳すれば、「探丸子の君が上野の下屋敷で花見の宴を開かれたのに招かれて行けば、そこは昔の宴もさながらにて」というほどの意味になる。
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