裁判例を概観すると、基本的には、試作品の製造販売のみでは、「事業の準備」の要件の充足は肯定できず、製品製造のための原材料の購入、設備の完成、金型の発注等の生産体制の構築を通じて、相応の資本が投下されている場合に、「事業の準備」の要件の充足が認められるといえるように思われる。相応の資本が投下されている場合には、先使用権を認めることが公平といえるから、かかる傾向は、先使用権の趣旨にも合致するといえる。
もっとも、受注生産を基本とする業態の場合には、生産体制の構築までは必要ではなく、受注があれば即時に生産体制を構築できる状態であれば、先使用権が認められる。受注生産を基本とする業態の場合には、生産体制の構築があれば、そもそも、「事業の開始」が肯定できる場合が多いと思われることに加え、生産体制の構築前に相応の資本が投下されていることが多いことが、かかる結論の正当性を支えているのであろう。
また、先使用権の成立を否定する裁判例の中には、「事業内容が確定していない」という理由により先使用権の成立を否定するものがあるが、正当であり、先使用権の成否を検討する際には、「事業内容の確定の有無」を検討する必要があることに留意すべきである。
6-3 「事業の実施」または「事業の準備」の立証について
一般に,発明の実施事業またはその準備に至るには,①先使用発明に至る研究開発行為,②先使用発明の完成(又は発明者からの知得),③先使用発明の実施である事業の準備,④先使用発明の実施である事業の開始という経緯をたどると考えられる。そして,先使用権が認められるためには,先願の特許出願時に,上記の③あるいは④の段階にあったことを立証することが必要となる。
先使用権の立証のため,公証制度を利用して,技術や製品の内容が含まれた書面,写真,ビデオテープ,DVDなどを袋綴じにして確定日付を得ることを行っている企業もある。また,電子データについて,民間タイムスタンプサービスを利用して電子データに時刻情報を付与することを行っている企業もあるとのことである(特許庁編・前掲先使用権制度の円滑な活用に向けて64頁以下。なお,先使用権の具体的な立証方法等については,同書34頁以下に詳細に検討されている。)。
上記のように,研究開発から,事業の準備,事業の開始に至る一連の経緯の中で日常的にどのような内容の資料をどのようなタイミングで残すのかを検討することが理想的であるが,重要な技術であれば格別,一般的に上記のような手段を行うには負担が重すぎるともいえる。先使用権の立証のためには,発明の完成から事業の実施に至る過程を時系列に沿って示すことができるようにしておくことが望ましく,そのためには,重要と思われる書類には必ず日付を付けておくようにしておくことが有益であろう。
7 先使用権の範囲
7-1
前記の先使用権の要件が認められた場合には,「その実施又は準備をしている発明及び事業の目的の範囲内において」,「その特許出願に係る特許権について通常実施権を有する。」とされている。
7-2
「発明の範囲内」の意義について,ウォーキングビーム事件判決は,発明思想説を採ることを明らかにした。すなわち,同判決は,「『実施又は準備をしている発明の範囲』とは,特許発明の特許出願の際(優先権主張日)に先使用権者が現に日本国内において実施又は準備をしていた実施形式に限定されるものではなく,その実施形式に具現されている技術的思想すなわち発明の範囲をいうものであり,したがって,先使用権の効力は,特許出願の際(優先権主張日)に先使用権者が現に実施又は準備をしていた実施形式だけでなく,これに具現された発明と同一性を失わない範囲内において変更した実施形式にも及ぶものと解するのが相当である。けだし,先使用権制度の趣旨が,主として特許権者と先使用権者との公平を図ることにあることに照らせば,特許出願の際(優先権主張日)に先使用権者が現に実施又は準備をしていた実施形式以外に変更することを一切認めないのは,先使用権者にとって酷であって,相当ではなく,先使用権者が自己のものとして支配していた発明の範囲において先使用権を認めることが,同条の文理にもそうからである。」と判示した。
さらに,本判決は,「その実施形式に具現された発明が特許発明の一部にしか相当しないときは,先使用権の効力は当該特許発明の当該一部にしか及ばないのはもちろんであるが,右発明の範囲が特許発明の範囲と一致するときは,先使用権の効力は当該特許発明の全範囲に及ぶものというべきである」と判示した。そして,先使用実施形式およびそれに具現化された発明を詳細に認定し,これが特許発明の範囲と一致する場合にあたるとして,先使用権の効力は当該特許発明の全範囲に及ぶものし,先使用権が成立すると判断した。
この点,上記判示からすれば,「発明…の範囲内」の判断の手順としては,①先使用実施形式の認定,②先使用実施形式に具現された発明の認定,③上記②の発明と同一性を失わない範囲内に被告製品の実施形式が含まれるかの認定,という手順になるように思われる。もっとも,同判決は,①および②を詳細に認定したものの,先使用実施形式に具現された発明が特許発明の範囲と一致するとして,上記③の認定,すなわち先使用製品(に具現された発明)と被告製品の実施形式の比較を行わずに先使用権の成立を認めている。この点には批判もあるが、本事件の事案は,特許発明の構成がきわめて単純で,技術的思想とはいっても,明細書の発明の詳細な説明及び図面に示された唯一の実施例の構成をそのまま特許請求の範囲としたものといっても過言ではないものであり,これに対し,先使用製品に係る発明も,実施例に近い形で表現された特許発明と同じレベル程度にまでは抽象的な技術的思想として把握することができたという特別の事情があったため,③は自明であるから,かかる省略も許されるものと解される。
(b) もっとも,その後の下級審の裁判例は,必ずしも上記①ないし③のような手順を採っていない。下級審裁判例の多くは,先使用製品の実施形式と被告製品の実施形式とを比較して,両者が同一の技術的思想に基づくものであるかどうかを判断し,同一の技術的思想に基づくものであるときに先使用権が被告製品に及ぶと判断している。
8 先使用権の主張権者
先使用権者が,先使用発明の実施品を第三者に譲渡し,第三者がその実施品を使用等する場合には,第三者は,その実施品の使用等について,特許権者に対し,特許権を侵害するものではないことを主張することができる。
その理論構成として,特許権の消尽の問題として理解する見解があり、半導体製造装置事件判決(東京地判平成19・7・26)は,「先使用権者が製造販売した製品を使用する行為が特許権侵害行為に当たらないことは明らかであるから,被告の上記行為が本件特許権を侵害するものではないことも明らかである。」と述べており,特許権は消尽したと考えているように思われる。
これに対し,裁判例の中には,以下のとおり,先使用の抗弁の援用という理論構成をとっているものもある。例えば、移載装置事件判決(名古屋地判平成17・4・28)は,先使用権を有している製造業者が,先使用権の範囲内の製品を製造して販売業者に販売し,当該販売業者が同製品を販売(転売)する場合において,「当該販売業者は製造業者の有する先使用権を援用することができる」としつつ,「先使用権者たる製造業者の利益保護のためには,販売業者による同製品の販売行為が特許権の侵害にならないという効果を与えれば足りるのであって,製造業者が先使用権を有しているという一事をもって,販売業者にも製造業者と同一の先使用権を認めるのは,販売業者に過大な権利を与えるものとして,これまた,先使用権制度の趣旨に反することが明らかである」として,製品の販売についての非侵害を主張できるにとどまり,自らかかる製品の製造ないし製造の発注を行うことまでは正当化されない,と判示した。
理論的には,消尽論の場合はその後に関与した者の扱いが一律になるのに対して,先使用権の援用という構成の場合は,個別に援用の可否を決めうることになるが,実質的な結論の違いはほとんどない。
8 先使用権の移転
8-1 先使用権の移転の可否
特許法79条の先使用権は通常実施権として規定されているから,条文上,先使用権は,実施の事業とともにする場合,特許権者(専用実施権についての通常実施権にあっては,特許権者及び専用実施権者)の承諾を得た場合及び相続その他の一般承継の場合に限り,移転することができる(特94条1項)。
この点、先使用権が実施の事業とともに被告へ移転されたことを認定した裁判例は複数あり[1]、例えば、薄形玉貸機事件(名古屋地判平成3・7・31)は,「会社が破産したからといって,当然に従前実施していた事業がなくなるものではないし,また,破産会社が破産宣告により先使用権の対象となる発明を実施する事業を中止したからといって,当然に先使用権を放棄したものということはできないので,破産管財人において破産会社が従前に実施していた事業とともに先使用による通常実施権を譲渡することは可能」であると判示し,特許法94条1項の要件を満たすとして,先使用権による通常実施権の移転を認めた。
8-2主観的要件
特許権者から侵害訴訟を提起されるまでは自己が先使用権を有していることを意識しない場合も少なくないと思われる。そのような場合であっても,実施の事業が移転した場合には,反対の特約等が認められない限り,先使用に関する通常実施権も事業の譲渡に伴って移転すると考えるのが,事業譲渡の当事者の合理的意思に合致する場合が多いと解される。
裁判例も,実施の事業が移転した場合に,先使用権の移転に関する当事者の合意に言及せずに,先使用にかかる通常実施権の移転を認めている[2]。
8-3 対抗要件
先使用権の成立については,登録がなくても,その特許権若しくは専用実施権又はその特許権についての専用実施権をその後に取得した者に対抗することができるとされている(特99条2項・1項)。
また,通常実施権の移転,変更,消滅若しくは処分の制限又は通常実施権を目的とする質権の設定,移転,変更,消滅若しくは処分の制限は,登録しなければ,第三者に対抗することができないとされているが(同条3項),同条は,許諾による通常実施権のみを対象とするものであり,法定実施権である先使用権には適用されないと解する。
この点、製袋機事件判決は,先使用権が実施の事業と共に被告へ移転されたことを認定するとともに「先使用権が実施の事業と共に移転された場合には,その登録がなくとも第三者に対抗することができるものと解する」と判示している。
8-4 「先使用権者たり得べき地位」の移転
特許権成立前において,事業とともに,「先使用権者たり得べき地位」というものを譲渡し得るかが問題となる。この点,構築用コンクリートブロックの意匠事件判決(控訴審:札幌高判昭和42・12・26)は,意匠登録出願されることを知らないで,意匠登録出願の日以前から他人を介してその意匠の創作者から知得し,意匠の実施をしていた者は先使用権を取得し得べき地位にあったとしており,この者から事業設備を譲り受けた者に先使用権を認めた。本判決は,「元来先使用による実施権は,意匠登録があつたときに当該意匠の実施である事業をしている者またはその事業の準備をしている者に与えられる権利であって,意匠登録があるまでは,右事業をなしまたは準備をしている者は単に将来実施権者たり得べき地位を有するに過ぎないものではあるけれども,このような地位も法律上保護の対象となるものであり、その意匠実施の事業とともにするときは意匠法第34条第1項の趣旨に則りこれを他に譲渡し得るものと解するを相当とする」と判示しており、「先使用権者たり得べき地位」の譲渡可能性を肯定している。「先使用権者たり得べき地位」は、一定の要件を具備することにより尖使用権を取得できる地位であり、それは法的地位というべきであるから、構築用コンクリートブロックの意匠事件判決の見解を支持すべきである。
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