「私の八月十五日」 2 戦後七十年の肉声です。
8月9日午後7時半からのNHKBSの番組「八月十五日の私」で放映され、日野原重明さん、松本零士さん、山田洋次さんなどが語っていらっしゃいましたが、そのもとになった絵本です。
八月十五日を13歳以上でむかえた人びと
そのなかのひとり、高倉健さんの「日本が戦争に負けたらしいばい!」、絵はちばてつやさん
八月十五日を6~12歳でむかえた人びと
そのなかのふたり、松本零士さんの「蒼い空の記憶」と高野栄二さんの「記憶」
八月十五日を5歳以下でむかえた人びと
そのなかのひとり、水野英子さんの「水」、「ご飯」、「陽ざし」
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実は、1940年7月生まれの私も5歳になったばかりで、1945年8月15日をむかえました。
玉音放送の当日の記憶は全くありませんが、のちに、母が「電気の覆いがなくなって明るい部屋がうれしかった」と言った言葉をはっきりと覚えています。
戦時中のことは、家の前に焼夷弾が落ちて目の前が火の海になったこと、焼夷弾のなかを逃げ回ったことが、大人になってからも夢の中に何度も出てきました。
当時、住んでいたところは、神戸市のすぐ近くの西宮市です。
父は療養所に入っていて、母は3人の子どもを連れて逃げなければなりませんでした。
亡くなった当時3歳の妹をおんぶして、生後4か月の弟を抱っこすると、私と手をつなげなくなります。
そこで母が考えたのは母の腰と私の腰を腰紐でつなぐことでした。
夢の中に何度も出てきた記憶、それはこういう状態で火のなかを逃げ惑ったことです。
夙川(しゅくがわ)沿いに走って逃げるのですが、火に追われて熱いので、みんな川に逃げ込みます。
母も川に逃げようと言います。
でも、泳げない私は水が怖くて、「いや」と拒みました。
それで、母もやむなく川に逃げるのはやめました。
その時川に逃げて、橋の下にいた人たちは、アメリカ軍の低空射撃でほとんどの人が亡くなりました。
戦争は善良な人格も悪人に変えます。
飛行機を操縦する人の顔がはっきり見えるくらいの低空飛行で狙い撃ちをしていたそうです。
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怖くて川に飛び込めなくて「いや」と泣いた記憶が鮮明な夢のほかに、もうひとつ見続けた夢があります。
それは、松並木のなかを遠ざかっていく母の後ろ姿です。
その母の後ろ姿を小さな私は家の格子戸につかまって、だまってじっと見つめていることしかできません。
母に聞くのがなんとなくはばかられ、でも、あまりにも繰り返し見る夢なので、結婚してしばらくして母に聞いてみました。
これも実景でした。
戦後、食料品などが配給になって、それをもらうのには長い時間並ばなければならず、やっともらえると、重い荷物を持って帰らなければなりません。
子ども連れでは到底無理だったので、やむなく家に鍵をかけて出かけていたとのことでした。
言い聞かされていたのでしょう、決して泣いてはいませんでした、かなりの長い時間をただただ悲しく寂しくて無言で立っていました。
松並木は香枦園の浜に続く松並木、格子戸は昔の家には窓につけられていました。
手元にある「私の八月十五日」は2ですが、1の「昭和二十年の絵手紙」、3の「戦後70年を過ぎても」も出版されています。