今日の午後、広島県福山市のCaF'e de LaLaで「笑顔広がれ ビッグスマイルコンサート」がひらかれます。
お友だちのみかさんが活動していらっしゃる企画で、演奏者の一人としても参加されます。
みかさんたちは、ビッグスマイルというひまわりを種から蒔いて育て、会場の周りをひまわりでいっぱいにして、コンサートをひらきます。
そこに被災地から8人の方がお見えになるそうです。
みんなで合唱する「笑顔広がれプロジェクト」のテーマソング「ひまわりおやくそく」の歌詞です。
みかさんが10年以上前に手作りしたテディベアたちがひまわりのお洋服を着てスタンバイしています。
50部プレゼントした被災地の子どもたちに配る絵はがきの半分を被災地からいらした方たちへのお土産に、半分をチャリティで売って全額カンパされるそうです。
繋がりの輪が広がってうれしいです。
今日の写真は、みかさんが先日Facebookにアップされたものを使わせていただいています。
私信でいただいたみかさんからのメッセージも、すこし長いのですが、以下に転載させていただきます。
宮城からいらっしゃる高橋さんの記事を転送しますね
生きる娘の分まで
テーマ:地震
新聞記事より
小さな体を抱き締めたかったが、職員に止められた。宮城県角田市の遺体安置所。
同県亘理町の高橋光晴さん(43)と妻のひろみさん(46)は一人娘のひな乃ちゃん(5)の遺体と向き合った。
「やっと会えたね」。震災から10日が過ぎた日、津波で行方不明になった娘とようやく再会した。
東日本大震災
生きる娘の分まで
宮城・亘理の夫婦 幼稚園バスに津波
結婚10年目にして授かった待望の女の子だった。
お絵描きが好きで、自宅のあちこちに明るい色の作品が張られている。おしゃれにも興味があり、お出掛けのときは前日から服を選んでいた。「本当に楽しい5年間でした」と光晴さんは、ひな乃ちゃんとの日々を振り返る。
3月11日、強い揺れが収まった後、ひろみさんは百頭町から同県の山元町役場に向かった。
山元町内の海から約2㌔にある幼稚園に通うひな乃ちゃんが避難していると思っていた。だが山元町職員は「幼稚園のバスが津波に巻き込象れたらしい」。生存者の名簿に娘の名前はなかった。
同県多賀城市の避難所で光晴さんと合流し、幼稚園の先生に会いに行った。あの日、ひな乃ちゃんに何があったのか。知りたい一心だった。
先生に聞いた詣では、30人以上の園児は一時、バスの中に避難した。
そこを津波が襲った。水かさが増し、先生が手分けして子どもを車の屋根に上げたが、ひな乃ちゃんを含む園児8人と先生1人が間に合わなかった。水が引くと車内には、ひな乃ちゃんの白い靴が片方だけ落ちていた。
がれきが残る幼稚園を歩き続けた。
3月21日、知人の情報で訪れた角田市の安置所。遺留品のメモにひな乃ちゃんが着ていた衣服と一致するものがあった。「いないでほしい」「でも、このままではいけない」。複雑な思いを抱きながら遺体と面会した。間違いなかった。
遺体を自宅に引き取り、メークで顔をきれいにした。多くの人が別れを告げにきた。火葬を望んだが施設を使えず、23日午後、亘理町の寺で土葬した。「子どもがいなかった私たちに、神様が5年間だけプレゼントしてくれたのかな」。ひろみさんは声を詰まらせた。
「今後、ひな乃のような子どもが出てほしくない」。
津波や土砂崩れなど、地域が抱える危険を見直し、環境に即した防災、避難計画ができることを夫婦は望んでいる。
震災から1カ月が過ぎた。今でもたくさんの思い出がよみがえる。水族館で魚に夢中になったこと。自宅でドレスを着て「結婚式ごっこ」をしたこと…。
中でも、ひろみさんには忘れられない出来事がある。ことしの初詣。参拝後、ひな乃ちゃんに尋ねた。「何をお願いしたの?」 「お母さんが幸せになれますように」
夫婦の時間は止まったままだ。「めそめそしたお母さんをひな乃は嫌いだと思うから」。赤くなった目を手で押さえた。「娘の分までしっかり生きていく」
(共同=中川亘)
この高橋さんご夫妻が詩を書いて、園長先生が曲をつけたそうです
今回は、8人宮城からいらっしゃるそうで、園長先生の旦那さんも一緒にいらっしゃるとのこと。
笑顔ひろがれ合唱団として、この歌を歌われるそうです。
プロのコンサートでもないのに、わざわざ飛行機でいらっしゃるのですから、何が何でも笑顔で帰って頂きます(^^