けふばかり人も年よれ初時雨 芭蕉
句郎 この句には「元禄壬申冬十月三日、許六亭興行」と前詞がある。
華女 芭蕉は十干十二支で年号を書いていたのね。
句郎 元禄壬申とは、元禄5年、西暦でいうと1692年になる。
華女 元号と年号とは、同じようでいて、違っているようにも感じるわね。
句郎 元号の「元」は、ことの始まりを言うようだ。また、「号」は、名前という意味だ。つまり、ある期間のはじまりの名前ということになる。極端な話をすると、元年の名前を「元号」、そこから何年経ったかという期間を表すものが「年号」かな。
華女 江戸時代の農民や町人たちは天皇の存在をほとんど知らなかったのでしょ。それにもかかわらず、武士も農民も町人も天皇が決めた元号を使用していたのね。
句郎 江戸時代は徳川幕府の絶対的な支配体制の社会であったが、天皇制は存続していた。天皇には権力はなかったが権威を持っていた。
華女 江戸時代は天皇と徳川将軍という二つの中心をもつ世界であったということなのね。
句郎 旧暦の10月はすでに冬であった。許六亭で俳諧興行が行われたときの発句がこの句のようだ。
華女 元禄5年というと芭蕉は何歳だったのかしら。
句郎 芭蕉は1644年の生まれだから、49歳になっていた。
華女 元禄時代にあってはもう老人ね。「人も年よれ」と言う言葉が何を意味しているのか分かりずらいように思うわ。
句郎 年を重ねることを「年寄る」と言い、年取った人を「年寄」と言う。年というものは寄り添ってくるもののようだ。
華女 年取るじゃ、毎年、年を取られれば若くなっていくのよね。
句郎 年は寄ってくる。だから経験が積み重なってくる。経験によって分かってくることがある。寄る年波にはかてないと昔から言われてきた。年取るという言葉は新しい言葉のようだ。
華女 「けふばかり人は年よれ」とは、年が寄る思いをしてみようじゃないかということなのね。
句郎 元禄時代に生きた人々にとって年寄は尊敬されていた。年寄というだけで皆から敬われたそのような時代だった。今日ばかりは年寄になった気分を味わってみようじゃないかと芭蕉は詠んでいる。
華女 年寄になってこそ初時雨の情緒が分かると言うものじゃないかということね。
句郎 枯淡の味わいかな。初時雨の枯淡の味わいのようなものは若者にはわからないだろう。
華女 うすら寒い初時雨れの寂しさというものは年寄になって初めて分かるものだということね。
句郎 正座をして背筋を伸ばし、静かに庭に降る時雨をそこはかとなく眺めている。この眺めの情緒は年寄のものだということかな。
華女 時雨を眺める年寄の心境のようなものを詠んだ句が「けふばかり人は年よれ初時雨」なのね。
句郎 芭蕉は時雨の持つ本意を突き止めた俳人であった。有名な「初時雨猿も小蓑を欲しげなり」という句から『猿蓑』というアンソロジーが生れた。
華女 芭蕉忌のことを時雨忌というのよね。
句郎 芭蕉はたくさんの弟子に囲まれていたが芭蕉は生涯孤独な俳諧師だった。芭蕉の人生は時雨のようなものであった。自分でもそのように感じていたし、周りにいた人々もそのように考えていたのではと思う。
華女 芭蕉にはそのほかにどのような時雨を詠んだ句があるのかしら。
句郎 「いづく時雨傘を手に提げて帰る僧」という芭蕉30代の頃の句がある。芭蕉の名句の一つのようだ。「馬方は知らじ時雨の大井川」。俳句とは、こういうものを言うのかと思わせる句かな。「しぐるるや田の新株の黒むほど」。晩秋から初冬にかけての農村の風景がリオルに表現されている。「新藁の出初めて早き時雨哉」。駆け足で寒くなっていく季節の移り変わりが表現されている。「作りなす庭をいさむる時雨かな」。作り上げた庭に時雨が来ると庭が庭になったと実感させられると芭蕉は詠んでいる。時雨はものに魂を入れる。「人々をしぐれよ宿は寒くとも」。時雨れる部屋の中の寒さは我々に俳諧の魂を入れてくれると。芭蕉は時雨の眺めが好きだった。
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