醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより 135号  聖海

2015-03-29 14:29:04 | 随筆・小説

   芭蕉、座右の銘
      ものいへば唇寒し秋の風   作句年不明(元禄4年?)

 調子に乗って軽口を叩いてしまった。見回すと沈黙が広がっている。空いた口が塞がらない自分に気付く。心の中に秋風が吹いていく。若いころ、こんな経験を何回したことだろう。黙っていようと思っても口がすべってしまう。あぁー芭蕉もそうだったんだ。身分制社会に生きる芭蕉にとって口は災いの元だったに違いない。見ない。聞かない。言わない。これが安全、安心に生きる術だったのだ。今もきっとそうなのだろう。テレビで辛口の時事評論するコメンテイターS氏が話していた。人の名誉を傷つけたと数千万円の慰謝料を求める裁判を起こされたと。
 芭蕉はこの句に前文を載せている。
「ものいはでただ花をみる友もがな」といふは、何がし鶴亀が句なり。わが草庵の坐右にかきつけけることをおもひいでて、
 黙って花を共に愛でる友がほしい。これをわが草庵の座右の銘とする。芭蕉庵を訪ねては発言の多い来客がいたのだろう。それらの来客に口がすべって痛い思いをしたことが芭蕉にはあったのだろう。出自が農民であった芭蕉には気を付けなければならないことが多かった。別の懐紙には次のような前文がある。
   座右之銘
 人の短をいふ事なかれ
 己の長をとく事なかれ
 延宝6年(1678)、35歳になった芭蕉は万句興行をし、俳諧の宗匠として立机した。俳諧宗匠として生活していくためにはお弟子さんを多数獲得しなければならなかった。芭蕉を慕って集まってきた人々の欠点を指摘するようなことをしては人は来なくなってしまう。自分が詠んだ句の自慢をすれば、飽きられてしまう。「ものいへば唇寒し秋の風」とは俳諧師匠の経営理念だったのだろう。口数少なく、弟子の存在そのものを受け入れる。弟子が詠んだ句を添削することはあっても、弟子自身が納得できるような手を加えることがあってもその存在を否定するような添削はしなかったのだろう。しかし、添削で生活する俳諧師匠の在り方は俳諧芸者に過ぎないと思い始めた芭蕉は深川芭蕉庵に隠棲した。
 商売人としての俳諧師匠の生活を止めた芭蕉の心の世界を表現して句が「ものいへば唇寒し秋の風」だった。「友なきを友とし、貧(まずしさ)を富りとして」と『閉関之説』で芭蕉が書いているように深川芭蕉庵での貧しい、友なき生活の中で芭蕉の文学世界が開花する。そのころの芭蕉の心の世界を表現した句が次のようなものであ。
  侘びてすめ月侘齋がなら茶歌
   茅舎ノ感
  芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
   深川冬夜ノ感
  櫓の声波ヲうつて腸(はらわた)氷ル夜やなみだ
 乏しい食事と寒さ、数少ない友。この生活を味わい尽くした結果が旅に生き、旅に死ぬ覚悟を決めた人生だった。きっと口数の少ない静かな生活の中で芭蕉の文学世界は展開していった。



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