珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

聞く耳がない

2019-05-22 | S教団関係
以前、近所のSのおばちゃんが夫に選挙を頼むのを絶対にやめないという話を書いた。
もともとは私がSを退会して間もなくに、私が辞めた理由をよく知っているのに関わらず、スーパーで選挙を頼んできた人だった。
今だったら心に余裕もあって笑ってかわせることだけど、当時はカチンときて、本人に大根を持ったまま固まらせるほど強い口調で断った。

それでも気が治まらず、帰ってすぐに地区婦、支部婦にもメールした。
口頭でなくメールだったので一呼吸おいて、なるべく相手に不快な思いをさせないように言葉を選んだつもりだった。
「気持ちはよくわかります。どんなに本気なのかも悪気がないのもわかります。事情も知っています。
でも私は人にそんなことを頼むのが嫌でやめたんです。
お願いですから今後一切このようなことをやめて頂けませんか」と。
最後には「大変でしょうが身体に気をつけて頑張ってください」と書いておいた。

二人からはすぐ返信がきて、謝罪と気遣いへのお礼がきた。
「わかりました。××さんにはよく言っておきました」
二人とものメールにそう書いてあった。

だがおばちゃんは響かず、届かず、おばちゃんは私がダメならと今度は夫に頼むことにした。
「一方的に顔を知っているだけという間柄」だけで、仕事帰りの夫に声をかけてパンフレットをにぎらせて、今議員が家に来ているからと袖を引っ張って、自宅に連れ込もうとした。

パンフを持ち帰った夫から話をきいて、私はもう一回本人に直接言おうと思った。
直接言ってもメールでも、人づてでもダメなら、リンリンと電話をかけようかと発信しかけたら、夫が近所だから面倒くさいことはやめた方がいいと言った。

私はスッキリしなかったが、そこは譲ってガマンした。
それをいいことに、おばちゃんはそれから道で夫を見るたびに嬉しそうに話しかけてくるようになった。
「これから仕事?早いのねえ」など。
そして選挙になると「お願いね」と頼んでくる。
(そのための声かけである)
私に道で会っても全く悪びれない。

別に命に係わることでなし、こういうことはもう諦めた。
こうと思っている人に何を言っても無駄なのである。
それは「誰それは」じゃなくて私だってそうだと思う。

こうだと思う人は「誰であれ」「何であれ」言い合っても無駄と思う。

蒸し返すわけではないが、私は先日対話ブログにコメントした際
「あなたはブログを拾い読みしている程度と言っていた。よく読んでいないブログにコメントする時点でアラシだ」
と言われた。
私は「ブログ全体は拾い読みだけれど、コメントを書いた内容については当然だがきちんと読んでいで書いている
と返したが、この単純な文章は通じなかった。

「問題の核心は、対話ブログにとって、人の生き死にに関するコメントが必要か必要でないか。この一点です」
と言われたので
 「Sの人が他人の生死を侮辱している実態を書くのは必要でしょう。それがダメと言ったのではなく、アンチまでが同じことをする必要はないと言ったまで。
 それとこれを一緒にしていませんか?

と書いた。
でもやはり伝わらなかった。

「海はコメント者の意図を捻じ曲げて個人批判を展開した。謝罪しなくていいのか?」
とも書かれた。
それで
 「私は意図は捻じ曲げていない。意図の善意や正義感は理解している。それはわかった上でのコメントです。捻じ曲げたって一体どこを捻じ曲げたのですか?」と返した。
でもおそらく理解されなかったと思う。

「それもこれも一切がマウントをとっていい気になりたい攻撃でしかない」の決めつけから1ミリも動かなかった。

聞く耳がないのである。
マインドコントロールなどではなくて、聞く耳がなければ、どんな簡単な日本語も伝わらない。

聞く耳がない。
知ったことではない。
私はこう思う、しか言いいたくない人には何を言っても無理である。
自分のことで頭がいっぱいの人は誰でもそうである。

こんなことは例にいとまがない。
以前、座談会上に自宅お貸ししていた方の話を伺うと
何度言っても、大声で題目を上げたり歌を歌ったり、DVDのボリュームを上げたり、信心とは全く無関係の、つまりMCと言い訳できないマナーの問題である家の前でタバコを吸ったり、長話をしたり、車のエンジン音を吹かして響かせたりも、
「それはやめてくださいね」という簡単な日本語もわからない。
 それは何人でも、何度言っても、である。


繰り返すが、これはもちろん私にもいえる。
聞く耳がなければ私も同じことをする。

マインドコントロールなんていう怪しげな、ふつうとは無縁のカルト語ではなくて、
それはどこにでも、誰にでもある、要はそういうことではないかと思う。
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反省しろって?

2019-05-22 | S教団関係
Sをやめた人は、職員の実態を知ってああそんな団体だったのかと驚いたり、こんなことはもう嫌だなと思ってからやめている。
肯定するならやめていない。

「今までの人生は何だったんだろう?」と後悔する人もいる。
「無駄なことしたなあ」と言う人もいる。
中には自分を責めすぎて精神を病んだり、怒りが治まらない人もいるが、そんなことに支配されてもしょうがない。
まあそれも経験だったなあと思う。

するとそれが面白くない人がいるようである。

悪意がなかった人は反省ができないんだな。

悪意って?
悪意をもって信仰している人などいるだろうか?
そんなの持っていたら頭おかしいのではないだろうか?

反省って誰に?
自分を省みて、そんなものならもう必要ないと思ったからやめたんだけど?
勧誘した人に?
そんなの誰でも話してるのでは?

私の場合は一人に、そういうわけであなたもやめた方がいいと言えるだけのことは頑張ってみたが
「私が自分でやりたくてやっていることなのに、なぜ人の人生にまで口を出すの?自分がやめたのは勝手だけど、その考えを人に押し付けないで」
と言われた。
それはそうだなあと思った。
そんなふうに誰でも個人と話をしているのでは?

そういう人は更にここまで言う。
元活動家はそれぐらいのことをやったんだ、という戒めは必要
活動してしまった自分を自己正当化するのはほどほどにしとかないといけない
アンチのアンチとして暴走する人は自分のやった創価の活動を心から反省をしていない
他人を巻き込んで迷惑をかけるということの罪を反省していない何よりの証拠
すべては悪意がないからという逃げ方を繰り返して反省しない 


ここまで言う人って、いったいどんな立場の人なんだろうと思う。
自身が活動家だったのだろうか?
自分が苦しんだのだから、人もそんなふうにネットでうなだれてることを書かなければ忌々しくて仕方ないのだろうか?
アピールすれば満足なんだろうか。
皆が自分と一緒と同じにさせたくて、同じに見えないのが我慢ならないのだろうか?

或は「それぐらいのことを」誰かにやられたのだろうか?
じゃあその人に言えばいいのに、言えないのだろうか?
「他人を巻き込んで迷惑をかけるということの罪」とまで言うほどのことをされた上、その人から逆ギレでもされたのだろうか?

私も他人と意見はたがうことはあれ、ただ意見違うだけの相手に「反省しろ」まで思ったことはない。
異論を言っても「私はそうは思わない」と言われれば、そうなんだなと思うだけ。

会ったこともない人に、反省しろ、自分の思う通りに悔い改めろ。私がわるうございましたと言え。
こういう正義感って何だろう?
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アクセスって

2019-05-22 | 日記
先日久しぶりに対話ブログにコメントしたら、たったそれだけで「このコメント者って誰?」と思われたのか、異常なアクセスが押し寄せた。
そんなにセンセーショナルなことを書いたつもりもないのに、予想外の反響に驚いてしまった。

ブロガーによっては何かっていうと「祝!!××アクセス!!皆さまありがとうございます!!」と書く人がいるし、中には「批判も含めて読んでくださり、ありがとうございます」なんていう人もいるので、
アクセスが増える=ブロガーは嬉しいというイメージがあるんだろうか。
「アクセス狙いでしょ」なんて嫉妬をこめたような言い方をされることもある。

こういう人はブログを書いた経験があるんだろうか?

正直に言うと、興味をもって静かに読んでくださる読者なら有難いけど、好奇な眼やからかうためのアクセスが押し寄せるのは、うっとうしいというか怖い気持ちになる。(S界隈絡みは特に)
絵文字で表すと( ̄[] ̄;)!!って感じ?
好きで読んで頂いている読者以外に読まれて何が嬉しいの?
でもそういうわけにいかないから、こんなこともあるんだなあと数字が落ち着くのをやり過ごすしかない。

「ふん、アクセス狙いのくせして」とわざわざイヤミを書くほどアクセスが上がってほしくない人がいるなら、そう思うなら読まなければ上がらないよと言いたい。

中には悪口を言われようがそれも含めて話題になって、数字がほしい人もいるらしいけど、そんな人はそんな人。
人によると思う。
リンクを貼ったりランキングに登録したり人気ブログに宣伝したり、数字のためにあの手この手で頑張る人もいるし、それでお金を稼いでいる人もいる。

私はどれもしたことがない。

以上、アクセスについて思うことである。
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