以前、近所のSのおばちゃんが夫に選挙を頼むのを絶対にやめないという話を書いた。
もともとは私がSを退会して間もなくに、私が辞めた理由をよく知っているのに関わらず、スーパーで選挙を頼んできた人だった。
今だったら心に余裕もあって笑ってかわせることだけど、当時はカチンときて、本人に大根を持ったまま固まらせるほど強い口調で断った。
それでも気が治まらず、帰ってすぐに地区婦、支部婦にもメールした。
口頭でなくメールだったので一呼吸おいて、なるべく相手に不快な思いをさせないように言葉を選んだつもりだった。
「気持ちはよくわかります。どんなに本気なのかも悪気がないのもわかります。事情も知っています。
でも私は人にそんなことを頼むのが嫌でやめたんです。
お願いですから今後一切このようなことをやめて頂けませんか」と。
最後には「大変でしょうが身体に気をつけて頑張ってください」と書いておいた。
二人からはすぐ返信がきて、謝罪と気遣いへのお礼がきた。
「わかりました。××さんにはよく言っておきました」
二人とものメールにそう書いてあった。
だがおばちゃんは響かず、届かず、おばちゃんは私がダメならと今度は夫に頼むことにした。
「一方的に顔を知っているだけという間柄」だけで、仕事帰りの夫に声をかけてパンフレットをにぎらせて、今議員が家に来ているからと袖を引っ張って、自宅に連れ込もうとした。
パンフを持ち帰った夫から話をきいて、私はもう一回本人に直接言おうと思った。
直接言ってもメールでも、人づてでもダメなら、リンリンと電話をかけようかと発信しかけたら、夫が近所だから面倒くさいことはやめた方がいいと言った。
私はスッキリしなかったが、そこは譲ってガマンした。
それをいいことに、おばちゃんはそれから道で夫を見るたびに嬉しそうに話しかけてくるようになった。
「これから仕事?早いのねえ」など。
そして選挙になると「お願いね」と頼んでくる。
(そのための声かけである)
私に道で会っても全く悪びれない。
別に命に係わることでなし、こういうことはもう諦めた。
こうと思っている人に何を言っても無駄なのである。
それは「誰それは」じゃなくて私だってそうだと思う。
こうだと思う人は「誰であれ」「何であれ」言い合っても無駄と思う。
もともとは私がSを退会して間もなくに、私が辞めた理由をよく知っているのに関わらず、スーパーで選挙を頼んできた人だった。
今だったら心に余裕もあって笑ってかわせることだけど、当時はカチンときて、本人に大根を持ったまま固まらせるほど強い口調で断った。
それでも気が治まらず、帰ってすぐに地区婦、支部婦にもメールした。
口頭でなくメールだったので一呼吸おいて、なるべく相手に不快な思いをさせないように言葉を選んだつもりだった。
「気持ちはよくわかります。どんなに本気なのかも悪気がないのもわかります。事情も知っています。
でも私は人にそんなことを頼むのが嫌でやめたんです。
お願いですから今後一切このようなことをやめて頂けませんか」と。
最後には「大変でしょうが身体に気をつけて頑張ってください」と書いておいた。
二人からはすぐ返信がきて、謝罪と気遣いへのお礼がきた。
「わかりました。××さんにはよく言っておきました」
二人とものメールにそう書いてあった。
だがおばちゃんは響かず、届かず、おばちゃんは私がダメならと今度は夫に頼むことにした。
「一方的に顔を知っているだけという間柄」だけで、仕事帰りの夫に声をかけてパンフレットをにぎらせて、今議員が家に来ているからと袖を引っ張って、自宅に連れ込もうとした。
パンフを持ち帰った夫から話をきいて、私はもう一回本人に直接言おうと思った。
直接言ってもメールでも、人づてでもダメなら、リンリンと電話をかけようかと発信しかけたら、夫が近所だから面倒くさいことはやめた方がいいと言った。
私はスッキリしなかったが、そこは譲ってガマンした。
それをいいことに、おばちゃんはそれから道で夫を見るたびに嬉しそうに話しかけてくるようになった。
「これから仕事?早いのねえ」など。
そして選挙になると「お願いね」と頼んでくる。
(そのための声かけである)
私に道で会っても全く悪びれない。
別に命に係わることでなし、こういうことはもう諦めた。
こうと思っている人に何を言っても無駄なのである。
それは「誰それは」じゃなくて私だってそうだと思う。
こうだと思う人は「誰であれ」「何であれ」言い合っても無駄と思う。
蒸し返すわけではないが、私は先日対話ブログにコメントした際
「あなたはブログを拾い読みしている程度と言っていた。よく読んでいないブログにコメントする時点でアラシだ」
と言われた。
私は「ブログ全体は拾い読みだけれど、コメントを書いた内容については当然だがきちんと読んでいで書いている」
と返したが、この単純な文章は通じなかった。
「問題の核心は、対話ブログにとって、人の生き死にに関するコメントが必要か必要でないか。この一点です」
と言われたので
「Sの人が他人の生死を侮辱している実態を書くのは必要でしょう。それがダメと言ったのではなく、アンチまでが同じことをする必要はないと言ったまで。
それとこれを一緒にしていませんか?」
と書いた。
でもやはり伝わらなかった。
「海はコメント者の意図を捻じ曲げて個人批判を展開した。謝罪しなくていいのか?」
とも書かれた。
それで
「私は意図は捻じ曲げていない。意図の善意や正義感は理解している。それはわかった上でのコメントです。捻じ曲げたって一体どこを捻じ曲げたのですか?」と返した。
でもおそらく理解されなかったと思う。
「それもこれも一切がマウントをとっていい気になりたい攻撃でしかない」の決めつけから1ミリも動かなかった。
聞く耳がないのである。
マインドコントロールなどではなくて、聞く耳がなければ、どんな簡単な日本語も伝わらない。
聞く耳がない。
知ったことではない。
私はこう思う、しか言いいたくない人には何を言っても無理である。
自分のことで頭がいっぱいの人は誰でもそうである。
こんなことは例にいとまがない。
以前、座談会上に自宅お貸ししていた方の話を伺うと
何度言っても、大声で題目を上げたり歌を歌ったり、DVDのボリュームを上げたり、信心とは全く無関係の、つまりMCと言い訳できないマナーの問題である家の前でタバコを吸ったり、長話をしたり、車のエンジン音を吹かして響かせたりも、
「それはやめてくださいね」という簡単な日本語もわからない。
それは何人でも、何度言っても、である。
繰り返すが、これはもちろん私にもいえる。
聞く耳がなければ私も同じことをする。
マインドコントロールなんていう怪しげな、ふつうとは無縁のカルト語ではなくて、
それはどこにでも、誰にでもある、要はそういうことではないかと思う。