珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

「何か」に

2019-08-20 | S教団関係
以前にも書いたが、私はS時代に祈ったことは、「何か」に通じていたと思っている。
曼荼羅ではない「何か」にである。

同じように寄付をしたことも、作用するとしたら、曼荼羅の功徳などではない「何か」にではないかなあと思っている。
私は寄付(財務)を、貢いだともカモられたとも思っていない。
私は寄付がしたくてしたのである。
その時は寄付できたことが、とてもうれしかったのである。

嫌ならしない。

もう一回言う。
嫌ならしないわ。

私は寄付をしたかったからした。
本心で与えたかったからした。
女子部時代のことだけど、その時は心からうれしかった。

(ちなみにそんな人は「すってんてん」になるまでしないんじゃないだろうか?
金額ではなく、寄付を自分に支障が出るまでやる人がいたら、精神も物事のバランスもおかしいと思う。
自分のアンバランスさを他責にするとしたら、それはちょっと違うと思う)

それはアンチになっても否定しないことである。

「与える人には与わる」という言葉があるそうだけど、
シンパの人が、或いはシンパ時代「寄付したら護られた」と本心で言っていた人は、曼荼羅の功徳ではない「何か」の作用ではないかなあ?

アンチになって
「あんなインチキに功徳なんてあるかい。戻ってくるなんて大嘘もいいとこ。ドブに捨てただけ。あー損した。もったいない。金返せ」と
いつまでも恨みがましく思っている人は知らんけど。
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