恥ずかしいことかも知れないが、私は「せわしい」と「せわしない」のふたつの語がほぼ同じ意味だと知ったのはそれほど昔ではない。どちらも「忙しい」というような意味だ。どうして片方の語に「…ない」という打ち消しを意味する語があっても意味が同じなのか解せないと思っていたが、広辞苑とかいろいろな辞書を調べて、なんとなく分かった(ような気がしている)。 . . . 本文を読む
教育一筋、その心
星槎高校の一翼でありながら、事実上は札幌自由が丘学園の高等部の役割を果たすこと6年、2007年から、構造改革特区制度を活用し、和寒町との連携による通信制高校として独立する取り組みを行うようになった。私の出身地が和寒町であること、閉校した三和小学校が新築まもない校舎であってこの有効活用の道を町の人たちがさぐっていたこと、など好条件がかさなっていたことだ。 . . . 本文を読む
フリースクールに託した夢
1993年10月1日、私が責任者となった「フリースクール札幌自由が丘学園」を北21条のアカシアビルで開くことができた。集まった子どもたちはこの時は6名。しかし数か月で生徒数は20名前後にまで増えた。スタッフも、常勤者として今は亡き柴田宏樹さん(元小学校の先生)の二人。ボランティアスタッフが北大の院生など2名がかかわってくれた。その後、田村慈さんや杉野建史さんが加わってくれた。自由が丘運動の基本形が定まった。 . . . 本文を読む
新しい学校を!
1980年代、遠藤豊さんという著名な教育者が中心となって「管理教育ではなく自由な教育を推進する学校を」という意図をもって埼玉県飯能市に「自由の森学園」を創設した。私は、北大時代からお世話になっていた鈴木秀一教授と語り合い、いずれは北の地に「自由と共同の学校をつくろう」という目標をもつ研究会「新しい教育・学校をめざす研究会(新教研)」を結成した。1986年4月4日、北大の鈴木研究室でこれを確認した。この時の確認は私と鈴木教授と当時札幌北斗高校の同僚若山征志氏の3人だった。忘れることのできない日である。 . . . 本文を読む
母の病、妻との出会いなど
母は札幌移住後2年ほどしたら、精神的に変調を来した。公営住宅の隣近所に行って嘆くなど平常ではあり得ない行動をとるようになった。最初厚別の「ひばりが丘病院」に入院。その後、札幌南区の「平松病院」、そして80年代後半からは北区の「荒木病院」で過ごすことになる。 . . . 本文を読む
教師、第一歩
札幌北斗高校で30年間。この間、9回の卒業生を担任した。毎年、クラスを担任した。校務分掌で希望してもほとんどかなえられなかった。多分、組合で役員をやっていて、校長だった藤田喜一氏と常時団交などで丁々発止とやっていたからではないか。少々ケムタがられていたのは、と覚えている。その組合活動がこの高校教諭時代の特筆できることだった。勤務した年が例の「60年安保」の年。何度街頭デモに出たことか。しかしこの安保闘争のおかげで私の現社会に対する視点が確立したといっていいかも知れない。大学時代も、学生自治会の委員長などをやっていたから、組合活動はいわばその延長線上だったと言っていいかも知れないが。 . . . 本文を読む
わが家の自立
(1956年)4月札幌へ。和寒駅に国鉄職員だった敏光叔父がにっこりしていた。札幌での宿舎は「恵迪寮」。札幌駅から北18条の寮までリアカーで荷物を運んだ。
高校時代の先輩が後輩の私たちを札幌の喫茶店に案内してくれた。「美松」という店。私は生まれて初めてコーヒーを飲んだ。苦くて砂糖を入れなければ飲めない。この砂糖入れコーヒーはその後60数年今に続いている。 . . . 本文を読む
大学への夢
高校時代の思い出は高2の時生徒会の議長をしたことぐらいか。部活は社会研究部に入っていたかも知れない。しかし「通学」で忙しかった。毎日の通学、窓から蒸気機関車の煙が入ってきた。 . . . 本文を読む
「文芸和寒」といういわば和寒町の同人雑誌に載せた文書ですが、転載してみます。このブログのスペースを埋めるためという消極的な理由が主ですが。
教育ひとすじ半世紀 ~ わが80年の人生のスケッチ ~ 亀貝一義
いつどうなるか、いつわが一生を終えることになるか、そういう心境になった2017年12月末。わが80年の人生を振り返ってみたいと思い綴ってみた。恥ずかしながら、の気持ちをもちながら公開。 . . . 本文を読む
以前にも記したことがあるが、この「自分探し」という語について私自身はどうも落ち着かない感がしている。意味はおおよそ分かっているのだが、例えば高校「倫理」の最初のテーマが「青年期」関連のことが書かれているし、ここではまだ「自分探し」云々の語は見えないのだが、その意味が縷々説かれる。
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