明日は明日の風が吹く

明日の事を今日悩んだって何にも解決しない
まぁ何とかなるさ!

2022-12-24 14:52:12 | 歴史

Loreto Aramendi plays Rachmaninoff: Prelude in C-sharp minor

 

ラフマニノフのこの曲をよくよく聞いてみるきっかけってのがノートルダムの聖歌集のCDなんで、この曲はパイプオルガンのイメージが強いんですけど、もともとピアノ曲なんですね。

 

ノートルダムのパイプオルガンが大小2つあることは火災があったときのニュースで初めて知ったわけですけど、あの火災の映像も燃え盛っている聖堂をなかなか鎮火できないところは人類の文明と英知が自然の法則の前にいかに無力であるかも思い知らされたものでした。

 

今迄見てきた鐘楼で一番印象的だったのは浦上天主堂の旧聖堂の鐘楼ですね。溝みたいな小さな川のへりに何者かが掴んで投げたように横たわってました。これを見たときが薄暗い夕暮れ時だったのでなおさら暗さを引き立てているようでした。

午前中に爆心地公園に行ったときは何事もなかったかのように青空が澄み渡ってましたが、爆心地の石柱がこの上空500mで確かに原子爆弾がさく裂したことの記憶を刻み付けています。近くの資料館にも立ち寄ったのですが、被爆直後の浦上天主堂の惨状の実物大模型からガラスケースに入った小さな原爆ドームの模型まで展示物は見ていて決して気持ちのいいものではありませんが、人類の負の歴史を記憶に刻んでおくことはすべての人々が必要とすることじゃないかと思うわけです。その中で目に付いたのが原子爆弾の実物大模型、まぁ巨大な爆弾ですがその中心部のわずかコンビニのおむすび3個分程度の部分がPu239が詰まってて浦上を壊滅させた部分なわけです。模型で目を引いたのは爆弾表面にできるだけ均等に散らされた点火プラグのところから遅い火薬、そして中心部を覆うように早い火薬が詰め込まれてほぼ同時に均一にPu239に圧力がかかるように緻密な設計がなされているのが見て取れます。点火プラグにしてもほぼ同時に点火する必要があるわけで、スイッチが入ってからプラグに届くまでの制御信号の伝搬速度も踏まえて合わせておく必要があったでしょう。電気系ではLC=εμなんて公式が出てきて、送電線でしたらインダクタンスを磁界から計算するのが面倒なときに誘電体が一様だと仮定して静電容量を求めたら容易に計算が出来るツール程度の認識しかないわけですが、信号線を解析するときには信号の伝搬速度そのものに直結する数式だという訳です。となると信号線の絶縁物もプラグの点火のタイミングに大きくかかわっているわけですから相当高度な設計を要したことは想像に難くありません。こうした技術を爆縮と呼ぶらしいです。少なくとも端っこのプラグを一つでも点火出来れば核爆発を起こす砲身式とは比べ物にならない高度な技術を要することは昔修学旅行の折広島の平和記念館で見たそれと比較したときに容易に想像がつきます。じゃあ砲身式の爆弾を量産すればいいかというとPu239にはどうしても同位体Pu240が混じって均等に圧縮しなければ臨界に達するまでに破壊されてしまうようです。かといってU235は自然界のウラン鉱石では全体のわずか0.7%程度、軽水炉ですら5%程度に濃縮する必要があり核兵器には90%以上の濃縮を要する、ってことはU235を使った核兵器の量産は不向きだってことです。対してウラン鉱石の大半を占めるU238は中性子を吸収するとβ崩壊を2回繰り返すので原子番号が2上がって質量数が1増えてPu239になる。要は量産向きだったってことです。

この模型を見て思ったのは、アメリカがWWⅡ末期にしたかったのは冷戦を見据えて爆縮技術を完成させていることを実戦で示したかったんだということです。こっちがアメリカにとっては本命だったんだ・・・・・よくも原爆投下が結果的には多くの命を救っただなんてぬけぬけと言えたものです。まぁ、アメリカ人にはアメリカ人の正義があるわけで、彼らがその言葉を信じようが日本人とは永遠に分かり合えないことなんだなぁと思うことですが、日本人で「原爆投下は結果的に多くの命を救った」としたり顔で抜かす輩は一人の日本人としてどうしても許せるものではない。

 

懸命の消火活動にもかかわらずなかなか鎮火せずにノートルダムが焼け落ちたときと違って浦上天主堂の鐘楼はあの日の11:02一瞬で引きちぎられてこの場所に落ちたのでしょう。

外海の海は「人間がこんなに哀しいのに主よあまりに海が碧いのです」という遠藤周作の名言通り碧かったんですが、私が訪れた日の浦上は人間が本当に哀しいのに空はあまりにも碧かった・・・。夕焼けの空はあまりにも鮮やかだった・・・

 

って、今日はクリスマスイブ。

引っ張り出してきたノートルダムの聖歌集CDを聞きながらクリスマスチキンと葡萄酒に舌鼓を打ちながら過ごすことにしましょう。

 

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小浜湾の奥で

2022-10-15 22:58:07 | 歴史

小浜湾の奥でなんてタイトルだったらいつもならサヨリやアオリイカの釣りの楽しい話を書くはずである。

が、今回は重々しいことを書こう。

 

地村保志さんが拉致事件発覚から20年目を迎えるにあたってメッセージを発したというニュースを目にした。

 

私にとって地村さんの拉致事件は非常にインパクトのあるものだった。越前海岸や新潟の外海に面した海岸線で起こった出来事ではない。湾内の奥深いところで同朋が攫われたというショッキングな事件であった。

今では柵がしてあって小浜新港でのサヨリ釣りもしてないけど、以前はサヨリ釣りの定番の場所だった。サヨリの群れが現れる突堤の対岸の山上に地村さんが拉致された小浜公園展望台はある。

小浜新港で釣りをすると何がいいってすぐ近くに濱の湯があってリフレッシュしてから帰路に就く。入浴が終わると大抵夜になっていて、最上階から小浜湾の入り口を眺めることが出来る。赤礁と蘇洞門の間は狭くなっていて両側に山が迫り間の隙間から漁火が見える。

そんな狭い小浜湾の入り口から北朝鮮の工作員は湾の奥深くまで入り込み同胞を拐していったのだ。

越前海岸に乗り捨てられたゴムボートは珍しくなく、警察が情報提供を拉致事件が発覚する前から呼びかけていた。然るにまさか入り口が極度に狭く、内側に大きく広がって海岸線に都市や集落が点在する小浜湾の中に入り込んでいたとは・・・

少なくとも拉致事件が発覚する前からそんなこんなで噂のレベルで北朝鮮の工作員が我が国を伺っていることは知っていたが、公安警察が秘密裡に捕縛、処分して核施設の黄色いドラム缶がいつの間にか1本増えているなぁwぐらいの対処はしてくれていると甘い幻想を抱いていた。実際は裸城同然でやられっぱなしだったとはね。。。

これが舞鶴湾になるとこの手の話を聞かない。かつての軍港に自衛隊の基地があり、海上保安庁も居を構えている。北朝鮮の小型の貿易船は良く出入りするがそこから日本人が攫われる話は聞いたことがない。こうした街のアホの一つ覚えのように「基地のない平和な街を」なんて呆けた内容の看板を出している市民団体があったりするが、基地が存在することで同朋が守られているという現実を前に説得力のない看板なんですなぁ・・・

本来、同胞が一人でも拐されたなら、軍隊を送り込んで奪回すべき案件なのだ。数人の拉致被害者のために平和を脅かすなんて!などといっている連中は国家の主権を守るということがどういうことなのかまるで解ってないと言っていい。一国の独立と主権を軍事力抜きに守り抜けるはずがなく、かつその軍事力は必要に応じて行使できるようにしておく必要がある。

 

 

 

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「良い人もいる」は通用しない

2022-10-02 23:42:12 | 歴史

さて、爆問太田氏が統一教会について「良い人も信者にいる」と述べたようですが、集団犯罪ってのは個人レベルではいい人や魅力的な人物が多い。

 

古くはナチスのメンバーを見ていると人物的には好感を持てたり魅力を感じさせる人物がかなりいる。オウムだって個々人で見れば実直で使命感にあふれるまじめな人々という印象を抱く。だからといってこうした犯罪を起こした集団に対して個々人の責任を減ずる理由になどなるはずがない。

 

こうした組織犯罪は悪徳を好み我儘な人よりも、正義感の強い人の方が方向性を間違えることで組織犯罪に加担してしまうということから目をそらすわけにはいかない。

 

 

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なぜ関係を切れないか

2022-08-20 18:11:47 | 歴史

安倍元総理の暗殺から政界と統一教会の関係が連日叩かれるようになりましたね。暗殺し統一教会とのつながりからくる殺意と自供することで、ボディーブローが徐々に効いていくように報道は卑劣なテロへの怒りから保守系政治家のカルト宗教とのどす黒い関係の暴露へとシフトしていった。そういう意味ではある意味、山上容疑者の願望通りの展開になったといえるんじゃないかと思います。ただし、ニュースへのコメントを見ると、このことをもって山上容疑者を英雄視する連中も現れているわけですが、いかなる事情があっても首相経験者が演説を通して国民に語り掛けようとする矢先に凶器をもって生命を奪うという卑劣なテロ行為は正当化されるものではありませんし、酌むべき事情があるかどうかはともかくテロリストを英雄視する主張の放置は民主主義の崩壊につながる愚行です。

 

さてさて、一連の報道で保守系政治家が統一教会との関係が報道されたときに距離を置くだのと煮え切らない発言をしていることに批判が集まりましたが、そのような発言になる理由っていたって簡単ですよね。もし、自分が統一教会の幹部で懇意にしてきた政治家から騒ぎを受けて今後関係を断って霊感商法などの詐欺行為には毅然と対応するなんて言われたらどう言いますか?

普通に考えて「いいですよ。では私たちもあなたとの蜜月の日々をメディアですべて話させてもらいますよ」って答えますよね。特に岸信夫氏なんて岸信介元首相から3代にわたるずぶずぶの関係を洗いざらい吐かれた日には政治生命が持つかどうかも怪しくなってきます。そりゃ煮え切らない発言でお茶を濁すしかないでしょう。多くの保守系政治家はこうして「進むも地獄、退くも地獄」という状況に追い込まれて、当然世論ってものがありますから間違っても統一教会を庇うわけにもいかない、かといっても連中から洗いざらいカミングアウトされてもやばいから決別も出来ない状態になっているわけです。まぁ、こんな連中から「国家観」「愛国心」なんて語られてもあほらしさしか感じられませんねw

 

もちろん保守系政治家も私たちの国を守りたいという崇高な理念を出発点に政治活動を始められたんだと思います。安倍元首相の拉致被害者を救出したいという思いは本物だったのでしょう。さらに彼の祖父、岸信介の時代は共産主義の脅威は今以上でした。今だったら多くの国民は共産主義はまがい物で抑圧と恐怖しかもたらさないものと知っているわけですが60年代ってのは社会主義への幻想ってものが戦後の左傾化とともに多くの人を虜にしていた。そんな中で反共を掲げる団体と距離を縮める流れ自体は自然に存在するものでした。もちろん統一教会は直接宗教団体として保守系政治家に近寄ったわけではなく、「国際勝共連合」という団体を使って関係を築いていったわけです。反共活動を行い票のとりまとめや選挙活動の助力を行ってくれる団体ってなれば保守系政治家にとって心強い存在だったと言えます。もちろん反共主義が悪いわけではないですね。現に私自身も反共主義者です。そうやって目先の反共に釣られる形で民草を蝕むカルト教団との距離を近づけ、必然的に詐欺教団と懇意にしているという弱みを握られることになるわけです。

社会主義体制の崩壊を待つまでもなくハンガリー動乱やプラハの春などの出来事を通じて民衆の社会主義への幻滅があらわになってもそれは変わらなかった。桜田淳子の合同結婚式騒動などで叩かれるわけですが権力とつながる彼らが追い込まれるわけでもなく、やがて地下鉄サリン事件などを通じてカルトへの関心はオウムに移っていくわけです。実際野党が追及していますがこの問題に関してやましくないのは共産党と社民党ぐらいなわけです。ではこの2つの政党が真っ当であるかといえば暴力革命を明確に否定せず公安監視団体の共産党と北朝鮮による同朋の拉致に対して国民が真実を知ることのないように世論を誤誘導して外患誘致の役割を果たした社会党の後身の社民党に信頼を寄せられるはずがない。拐された同朋の奪還に関心を寄せないならば日本人であることを辞めた方がいい。

とはいっても保守系のジャーナリストもどきから「火のないところに発煙筒を投げ込まれた」といわんばかりの論調を投げかけられても説得力はあろうはずもない。これが皮肉にも共産党に一定の存在価値を与えているわけです。

 

ところで杉田水脈さんが政務官になられたそうですが、案の定統一教会と関係があったみたいですね。この人の何に嫌悪感を抱くかといえば主張そのものではないわけです。本音を言えば性的マイノリティが抑圧される体制というのはナチスの再来を思わせぞっとするわけですが、かといって自然に悖る関係を公認しろといわれると反対意見を唱えられない言論のタブーも恐ろしいものがあります。確かにLGBTに生産性はないのです。「女性は平気でうそをつく」については皮肉にも杉田水脈さん自身の言動によって証明されることになったわけです。

そうです。杉田水脈さんに嫌悪感を抱く理由ってのは威勢よく言いたいことを言い放った後の姿勢が逃げ回る卑怯者そのものだからです。とはいっても人間誰でもそうした卑怯な心理があるわけで、当然私も例外ではありません。この人を見ると直視したくない自分の醜い部分を鏡に映されているような気持になる。それこそが私が杉田水脈さんに抱く嫌悪感の正体なのでしょう。

 

 

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発想が十字軍

2022-01-28 20:44:56 | 歴史
太地町のイルカ漁批判の記事なんですが、とりあえず殺生が残虐だからケシカラーン!ってな調子の短絡的な視点です。もともとジビエなども狩猟を通じて野生動物の増えすぎを抑え、食肉をいただくことで地元の人の貴重な栄養源となる、そうすることで山林に暮らす人々が乱開発することなく野生動物よ人類の共存を実現してきたわけです。

パッと見た眼の残酷さに囚われる人ってのはかつてのビザンツ帝国の禍ともいえる十字軍の人々の発想に似ています。ビザンツ皇帝アレクシオス1世は長らく悩まされてきたセルジューク朝を退かせるために西欧に援軍を求めた。彼にとっては局地戦で援軍を得て脅威を振り払って西欧にはそれなりの見返りを与える程度の考えであったのであろう。しかし求めに応じてやってきたのは「聖地奪回」を実現しようというビザンツ帝国にとっては不要不急以外の何物でもない独りよがりな志を抱く十字軍であった。彼らは傍若無人な正義感を振りかざし虐殺・破壊・略奪を繰り返した。十字軍のコンスタンティノープル占領の発端は皮肉にもムスリム居住区に十字軍が行った乱暴狼藉に憤った市民たちの十字軍への攻撃を契機としている。この出来事は後に首都奪回に成功したビザンツ帝国最後の王朝パライオロゴス朝の多難な時期の皇帝マヌエル2世が西欧に支援を求めようとしたときに「枢機卿の三角帽を拝まされるならスルタンのターバンのほうがまし」という市民の反応につながってくる。

話は戻るがイルカ漁や捕鯨に反対する人々の考え方は独りよがりな十字軍に本当に通じてると思うんですよね。
もし狩猟・捕鯨・食肉の類を全面的に禁じたいのであれば大自然の宿命である
「ある命は他の命を奪うことで生きながらえ、そのことを通じて全体のバランスを保っている」
という事実の前に、この呪縛を解く答えを示すべきであろう。植物だって生きている、ビーガンが不殺生を守っていると信じるなら間抜けとしか言いようがない。
もし彼らが明確にこの宿命に対する解決策を提示できるなら私は喜んで一切の釣り・肉食の類をやめることにする。
しかし、この大自然の呪縛を彼らが解けないことは経験的にわかっている。
だから私は肉を食べることと釣りをやめることはない。

さぁ、明日はスーパーでクジラベーコンを買ってきてカルボナーラを作るとしよう。馬肉のベーコンでも美味しかったのでクジラベーコンもカルボナーラにはよく合うであろう。

って、こんな書かなくてもいいビーガンに向かって挑発的な文言を書いてしまうのは私も彼らや十字軍の人々と同じく未熟な思考の持ち主だからなんでしょうw


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学問と勉強とは?

2022-01-10 14:05:49 | 歴史
歴史的偉人が現代人を論破するアニメ【第19弾】


学問とは学ぶことと問うこと、問いかけて学ぶことや、学びを通じて生じた疑問を問いかけ続ける姿勢を指す。根源にあるのは好奇心。

一方で勉強とは勉めて強めていくこと、強く勉めることを指す。原動力は努力。

つまり学問=勉強ではないんですね。

アテネの学堂やヨーロッパの大学の起源は学問を学ぼうとする人たちがその道を知る人に教えを乞うことであった。一方で義務教育は世の中を渡っていくにあたって必要と思しき教養や常識を勉強させることを目的に作られた。

学問を行うには疑問を突き詰めて解明していくには様々な知識を習得していくことや自ら立証するための努力は欠かせない。つまりは論理学的に言えば勉強というのは学問の一手法ではあるが時として学問と相反することも起こりうるということ。ちなみに論理学を小学生のうちから体験的に学ばせたいなら宿題を忘れるがままに学校に行かせてみればいい。おそらく教師は宿題をしてこなかった理由をしつこく問い詰めるであろうし子供はそれに対抗する言い訳を必死で考える。これは体験的に論理学の一分野である詭弁術を学ぶことになる。
私もよく宿題をしてこなくて絞られて必死で言い訳を考えたものでした。これが自分の中で一定の論理的思考の形成に役立ったとは思っています。つまり宿題を忘れた経験は無駄ではなかったw
論理的に考えるってのは電気関係の仕事に就くと、何か思い通りに設備が稼働していないときの原因追及には欠かせません。制御盤の中を見ればリレーやマグネットスイッチがガチャガチャとクツワムシの如く音を立てています。さらにはPLCのランプがついたり消えたりしています。これはある条件がAND・OR・NOTの組み合わせで次の条件を送るために動作しているわけです。ですからどのリレーまでどのロジックまでが動いて次に行くときに糞詰まり状態になっているかを調べて故障個所を特定しているわけですね。

学校は勉強はさせるけど学問に対してはむしろ破壊的な役割を果たすものです。子供が好奇心を抱いたときに「そんなことをする暇が合ったら勉強しなさい」という説教は学問への破壊行動そのものでしょうw。かといってきれいごとばかり述べて勉強させなくても将来困ることになるでしょう。

ちなみにデカルトは覆されないことを数学に見出したようですね。一方で同じモラリストでもパスカルは信仰によりどころを求めデカルトをかなり嫌っていたようです。どちらも自然科学には多くの功績を残していて、直線に直行するxyz座標系をデカルト座標と呼びますし、圧力の単位はPaと書いてパスカルと呼びます。よく天気予報にヘクトパスカルなんて聞きますが、1パスカルというのは1へーべーの面積を1ニュートンの力で押しているって意味です。じゃあ1ニュートンの力とは何か気になればさらに調べていくというのが学問のあるべき姿勢です。ヴォルテールはパスカルを「崇高な人間嫌い」と呼んだみたいですし、一方でルソーはモラリストについて人間不平等起源説で人間を語るときに「デルフォイ神殿に刻まれた言葉は多くのモラリストたちの分厚い書物より価値がある」と述べているわけです。なお、デルフォイ神殿ではご神託を受けるときに「汝自身を知れ」「多くを望みすぎるな」「出来ない約束はするな」と柱に刻まれた言葉を読んでから神殿に入ったみたいです。私もマークシートテストではズイブンご神託のお世話になりましたがこれも自分自身をわきまえず多くを望みすぎてできないことを出来るかの如くふるまってきたことの証左でしょうか・・・




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笑止千万

2022-01-05 23:44:43 | 歴史
エマ・ワトソンさんがパレスチナをサポートする投稿でイスラエルの高官どもから一方的に反ユダヤ主義者のレッテルを貼られているみたいですね。

https://www.huffingtonpost.jp/entry/emma-watson-pro-palestinian-post_jp_61d4e050e4b0bb04a63e2b2e

私は少なくともイスラエルの狗っコロとして立場もわきまえず、なりふり構わぬイスラエル擁護と五輪に関してユダヤ人の癪に障りそうなことをした人物をサイモンウィーゼンタールセンターにチクったアホ全開の元衆議院議員よりは遥かに共感を覚えますね。落選ざまぁw 辻元清美とコイツの落選は本当に喜ばしいww

気が付けばちょっと生意気気なガキなハーマイオニーを演じていた彼女も気が付けば典型的な英国美女に育ったものである。
もっとも英国人らしい端正な顔立ちといえばマルフォイパパが一番でしたね。

彼女は何も反ユダヤを煽ったわけではない。パレスチナ人に共感を示しただけだし、そもそもホロコーストだってもともとはフランスのルール地方への一方的な占領でドイツ人が苦しんでいるときにユダヤ人は投機でぼろ儲けしていたことへの反感も原因の一つと思うがこうしてことを指摘すれば「反ユダヤ主義者」「歴史修正主義」のレッテルを貼られるのであろう。

魔法が使えるならサイモンウィーゼンタールセンターと寛容の博物館の記憶をこの地上から永遠に消し去りたいと思うのは私だけでしょうか?


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なぜ歴史の授業は糞なのか

2022-01-04 06:55:54 | 歴史
遅ればせながら あけましておめでとうございます。
昨年 このようなブログに訪れていただいた方々には感謝に堪えません。
今年もあまり大した内容をUPすることもないでしょうが、できれば読んでやっていただけますと幸いです。

さてさて、ドラマなんかでは歴史というものは実に面白く演出され、書籍などでも様々な見解を目にして色々考えさせられますが、学校に行ってた頃に受けた歴史の授業というのはどうにも面白みに欠けますね。

理由は案外簡単で授業をするからには諸説を考えさせるより定説を覚えさせ評価を行わざるを得なくなる。
大きな流れを知ることは歴史教育では重要であるが、歴史で興味を抱かせるのは出来事のクローズアップや人物伝ではある。ただし、このスタイルでは収拾がつかない授業になってしまう。
また、歴史で客観的に学力を評価しようとなると、どうしても年号暗記が中心になってしまう。歴史を学ぶ上で本来年号というのはある出来事や体制が別の出来事や体制につながる経過を見る線としてと、同時期に他の地域で何が起きているかを見る面として活用してこそ価値がる。年号と出来事を点でとらえて意味があるわけないし、ましてや暗記する必要など皆無に等しい。資料ですぐに答えが出せることを暗記させることに価値があるかは甚だ疑問に思う。

一方で戦前の歴史は出来事や人物伝をそこそこ学べるが、忠臣VS逆賊の構図で特定の方向からしか見なくなる。平清盛・足利尊氏は実に魅力的な人物ではあるが皇室への忠義を中心にした人物評価のフィルターを通るから実際より小さく醜く描き出されることになる。
また、日教組は自国の支配階級の否定に余念がなかったからこれもくだらない歴史観のお披露目になる。

こうして明治以降学校で行われた糞同然の歴史教育は戦後輪をかけて糞になったのである。

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日本史は室町時代こそ面白い

2021-08-08 21:05:41 | 歴史
い~ずみ先生の物理講座もついに電磁気に突入したようですね。ちなみに私は電気系出身であるにもかかわらず電磁気学がよくわかってませんw

【物理】電磁気【第1講】クーロンの法則


どーも先生は室町時代に苦手意識を持っておられるようですね。
元亀までたどり着いたってことは室町時代も終盤もう少し、次は天正ですから織豊政権になってきます。

観応の擾乱、応永の平和、永享の乱
応仁、文明と秩序が崩れ天文で西洋との付き合いが始まり乱世の終息へと働く流れ。
大宝律令の頃から続いた皇室と公家の既得権益が覆され、庶民だって泣き寝入りなんてしてられない、実力ある人が上へあがっていける。
そんな躍動感こそが日本史で特に室町時代が放つ魅力ですね。

等持院の霊光殿で歴代足利将軍の木像を拝み歴史に思いをはせ、方丈で抹茶と茶菓子をいただきながら庭園を眺めるひと時は至福そのものですね。ただ、木造の門を自動車でくぐって駐車場に行くので、車幅が広い車はちょっと苦戦するでしょうね。

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この人も気の毒ではある

2021-08-01 21:01:44 | 歴史
さてさて小泉進次郎さんって大臣として無能だというのは言うまでもないでしょう。

ですが、昔行われた官打ちってのは妬みややっかみから出世している人を引きずり下ろすのではなく、落としたい人をやたら出世させて下積み不足でポストの変化についていけずボロを出したときに一気に叩くっていう公家社会らしい陰湿なやり口なんですね。

この人もどっかでしごかれた経験もなく祭り上げられて梯子を外されたって感じで気の毒ではあるんですね。

親父は目立ったけどなんだかんだ首相になるまで権力抗争や色々な経験をしてるけど、温室で大臣にまで一気に上げられたってのは単なる人気取りの末路か現代版官打ちか・・・・
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