坐禅は本来「何のため?」と問うものではなくひたすら座るのが理想。
隕石家族ってドラマで半年後に隕石の衝突によって滅びるはずの人類が最期だからと好き放題してたけど、隕石の軌道がそれて人類が助かることになってしまい日常が戻ってしまった人々が大慌てをするというパロディがあった。まぁ、昨今のコロナ騒ぎも人類がペストやコレラを乗り越えたように最終的な勝利を信じてるから自粛したり諸々の我慢ができるんであって、確実に人類を滅ぼすウイルスだったら自粛なんてあほらしくてやってられないですよね。みんなで仲良く罹患して共に人類の滅亡を拝むまで死ぬまでにしておきたいことを残される人の心配をせずに行うことになりますね。
この中で会社の金を使い込んだり、一世一代の不倫をした連中たちが禅寺に駆け込んで煩悩を告白して警策でバシバシ叩いてもらうというシーンがあった。そんな坐禅の入り口もあるが邪念を振り払うことに執着していて本来は何かに追われるような気分で目指すところにはあと人曲がり、二曲がりひつようかなぁ・・・
お香を焚き、薄暗い壁に向かって結跏趺坐できないから半跏趺坐でひたすら座る。雑念は抑え込まずだからと言って飲まれず。
自然体でこうせねばという思いから解放されたとき、私たちは坐禅の新しい境地にたどり着けそうだ。
やがてはこうしなければという思いから解放されて、何もなく只只管坐禅を行う。精神が集中しているのは自分の呼吸に対してのみ
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