鴨着く島

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越前の大王(記紀点描㉞)

2021-12-11 22:40:00 | 記紀点描
【九州以外からは初めての大和王権】

武烈天皇で断絶した「河内王朝」と言われる仁徳王朝の系譜。

それを補ったのが、越前福井の大王だった「オホドノミコト」こと継体天皇であった。

オホドを古事記では「袁本杼」、書紀では「男大迹」と書くが、どちらにしても一般的には読み難い。そこに若干の編集者による創作があったように感じるのだが、そのことは置いておく。

さて継体天皇は父が彦主人王(ひこぬしのみこ)、母は振媛(ふるひめ)で、彦主人王は応神天皇の5世孫であり、母は垂仁天皇の7世孫だという。

父方の応神天皇のほうは応神天皇の皇子「わかぬけふたまた皇子」から始まる系譜であることが書かれているのだが、母方の振媛のほうは系譜が不明である。書紀の記述では越前三国の出身である。

ところが彦主人王が若くして亡くなったので、振媛は我が子を連れて越前に帰って育てたという。

そして越前の大王となり、九頭竜川他の河川が集まって沼地のようになっていた地域から、排水事業を起こして今日の越前平野を造成した。

足羽山の麓に建てられた「継体天皇像」をインターネットで見ることができるが、その姿はオオクニヌシを彷彿とさせる。オオクニヌシは「大名持(オオナモチ)」であり、大きな土地を持っっているという意味で、広大な平野を生み出したオホド王(継体天皇)にふさわしい。

天皇の候補としてオホド王が挙げられ、当時の大和王権の大連・大伴金村が尽力してようやく後継者として受け入れたのだが、大和にはなかなか入れなかった。おそらく大和地方の豪族たちが難色を示していたからだろう。

天皇位を継いでから、最初の宮殿「河内楠葉宮」で5年、次に「山城筒城宮」で7年、そして「山背弟国宮」に8年を過ごし、合計20年の後にようやく大和入りし、「磐余玉穂宮」を築いた。この時、西暦526年であった。

私見では、よそから大和に入って王朝を築いたのは、西暦170年頃の南九州からの橿原王朝、270年頃の北部九州からの崇神王朝に次いで3例目である。

【筑紫君磐井の叛乱】

継体天皇が大和の磐余玉穂宮に入った翌年の527年、九州で反乱が起こった。

「筑紫君磐井(いわい)」が新羅征討のために九州に遠征して来た近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)率いる軍に抵抗したのである。

この反乱の陰に磐井と新羅との共謀があったと書紀は記述するが、百済の領土要求(4県割譲)にすんなりと応じてしまった継体王権に対する反感が根底にあり、筑紫君の持つ半島の利権が損なわれるとの危惧が新羅との接近を生んだと思われる。

近江毛野臣が引き連れて来た6万という新羅征討軍と対峙し、さらに大和から遣わされた物部麁鹿火(もののべのあらかび)将軍と戦った磐井は敗れるのだが、書紀と筑後風土記ではその最期に大きな違いがある。

書紀では翌528年に、<11月、大将軍・物部麁鹿火、みずから賊帥・磐井と筑紫の御井郡にて交戦す。(中略)ついに磐井を斬りて、果たして彊場を定む。12月、筑紫君葛子、父の罪によりて誅せられむことを恐れ、糟屋屯倉を献り、死罪を贖うことを求む。>

とあり、磐井は官軍と戦って死んだことになっている。

ところが筑後風土記逸文では、<(官軍の)勢い勝つまじきを知りて、ひとり豊前国の上膳の県に逃れて、南の山の峻しき峰の曲に見失せき。>

とあり、豊前方面の山中に逃れてしまったというのである。

戦死したのか、戦死はせず落ち延びたのかの両論併記だが、息子・葛子の「糟屋屯倉献上」まで書いてあることから、書紀の戦死説を採りたい。

【磐井は岩戸山古墳には眠っていない】

ところで、筑後風土記は磐井が山中に姿をくらましたことで官軍側が怒り狂い、磐井が生前に築いていた岩戸山古墳の周囲に立てられていた石人・石馬を打ち壊したと書いており、その描写はまさに今日の岩戸山古墳の様相を示している。この風土記の記述によって「岩戸山古墳は磐井の墓」という俗説が生まれたのであった。

しかし果たして岩戸山古墳に磐井が埋葬されているのだろうか?

まず筑後風土記説は矛盾を抱えている。岩戸山古墳はたしかに磐井が生前に築いたのだが、官軍と戦う前に絶対の不利を悟って山中に逃げたと言っているのだから、磐井の遺体も当然行方不明であり、岩戸山古墳に埋葬されることは有り得ないのである。

次に書紀の説では、磐井を筑後御井郡(小郡市)の戦いで斬殺しており、その遺体を生前に築いた墓があるからそこに埋葬しようなどということは一切考えられない。反逆者の遺体はバラバラにされて無造作にそこかしこに埋められるのが一般である。

また筑後風土記の記す「官軍が磐井を取り逃がしたので腹立ちまぎれに生前墓の周りの石人・石馬を打ち壊した」くらいでは済まず、墓そのものを破壊したであろう。

墓は今に見るように立派な姿を留めているのである。(※全長150mの前方後円墳は、6世紀前半の当時、九州では最大、全国的に見ても最高ランクに入る規模である。)

【岩戸山古墳は卑弥呼の墓】

私のように邪馬台国八女説を採る場合、ネックというか弱点というか、一つだけ不問に付してしまったのが卑弥呼の墓である。

倭人伝には、西暦247年に魏王朝の「証書と黄幡(コウドウ)」すなわち皇帝から賜与された黄幡(戦旗)を持参した張政が邪馬台国の高官である「難升米」(なしおみ)に告諭(命令を下す)したあと、卑弥呼は命を絶つのだが、遺体は「径百余歩」の円墳状の墓を築いて葬った――とある。

この記述に従えば、邪馬台国内部に卑弥呼の円墳が無ければならないのだが、それを「これだ」と比定できなかったのが弱点であった。

ところが反逆者・磐井が築いた生前墓が主がいないままなぜ今日まで1500年近くもそのままの姿を留めているのかを考え、実際に訪ねて行った時、後円部に「伊勢神社旧跡」という表示を見て、あっと思ったのである。

伊勢神社と言えば御祭神はアマテラスオオミカミである。すると後円部には天照大神に比肩できるような人物が眠っているのではないか、大巫女である卑弥呼ならそれにふさわしいのではないか、と思い至ったのである。

しかしそう考えると、岩戸山古墳が磐井によって築かれたのは6世紀の前半で卑弥呼の死は247年であるから、築造年代が全く合わない。

そこで次のように考えた。

磐井は実は後円部(円墳)に卑弥呼が埋葬されているのは知っており、自分は前方部を繋ぎ足し、そこに自分の遺体を葬って欲しかったのではないかと。卑弥呼は天照大神そのものではないが、大神を祀れる霊能卯力を持っており、自分は地方豪族として前方部に埋葬されることによって少しでも大神に近づきたいと。

もともと前方後円墳の原型は円墳に祭りのためのテラスをつけ足したものであり、後世になってそのテラスが著しく巨大化した。築造の順番もまず後円部を造り、そこに前方部を接ぎ足すのが原則であった。磐井は前方部をタイムラグを無視して卑弥呼の眠る円墳に付け足したに違いない。

また直径だが、倭人伝の記す「径百余歩」は大陸では足を右に出し次に左を出すワンサイクルを「一歩」といい、150センチほどを一歩とするのだが、倭人が造った墓である以上、倭人の一歩すなわち右だけの一歩の単位で「百余歩」としたものだろう。およそ75mだが、現有の岩戸山古墳の後円部の直径は60m余りである。

若干少なめだが、1500年を経ているうちに雨風による浸食があったことは否めず、その点を勘案すれば卑弥呼の「径百余歩」の円墳と見て差し支えないと思う。









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