【Eクマソの真相】
ⅰ.①ではA~Dまで日本書紀に登場するクマソ説話を抽出してみたが、景行天皇から神功皇后までの年代観はおおむね300年代の前期から後期初めの時代である。
Aは別として、B、C、Dはいずれもクマソは朝貢をしない叛逆者という書き方がなされ、それゆえ征伐の対象になるのだが、Bでは征伐にやって来た小碓命に自分の尊称である「タケル(建)」名を与えたり、Cでは仲哀天皇軍を敗り、天皇を戦死させるほどの強大な勢力を保持しているかの如く描かれ、決して通り一遍の反逆者という捉え方はされていない。
巷間のクマソ論の主流を占めるのは、ひとつは本居宣長流の「熊襲」という漢字を「熊」と「襲」に分け、熊を「獰猛な、暗愚な」とし、「熊襲は獰猛で暗愚な王化に浴さない南九州の襲の地域に住む種族」と考える説がある。
もう一つの考え方は熊襲を「熊」と「襲」に分け、これを古代からの地名である「熊本県球磨(くま=人吉)地方」と「鹿児島県襲(そ=霧島)地方」にまたがって盤踞する種族なるがゆえの「熊襲」名であるとするものである。
後者の地理的解釈をする場合でも、そこに住むクマソが、動物の「熊」の属性である「獰猛で恐ろしい」というタイプであるという認識では前者と変わりはない。熊はあくまでも「暗愚」という形容と切り離してはいないのである。
ⅱ.しかしそもそも「熊(ユウ)」という漢字は動物の熊にしか使われないものなのだろうか?
漢字の熊は「能」と「火」(列火)からなる合字で、漢語で解釈すると「火を能くする」ということである。
「火を能くする」とは言い換えれば「火をコントロールする」「火をうまく利用する」ということで、決して「獰猛」だったり、「暗愚」だったりという属性を表しておらず、むしろ佳字だということが分かる。
宋代に作られたという怪奇小説に『封神演義』がある。
この小説は殷王朝の最後の紂王が悪逆の限りを尽くしてついに周王朝の文王に取って代わられたという史実を基に書かれているが、文王の片腕となって勝利に導いた稀代の宰相「太公望」本名・呂尚が川で釣りばかりをしている時に、ある薪売りの武吉という少年に嘲笑われるのだが、この時のやり取りに「熊」が出てくる。
・・・(武吉が下手な釣りをしている太公望に尋ねる。)
――ご老人。おれが町に薪を売りに通ると、いつもここで釣りをしているが、名前は何というのだい?
「わしは姓を姜、名を尚、字を子牙、そして号を飛熊(ヒユウ)と申す」
・・・(それを聞いて武吉は腹を抱えて笑い出す。)
「武吉とやら、なぜ笑うのじゃ」
――高人、聖人、賢人、そのような方だけに<熊(ユウ)>という号が与えられる。釣り糸を垂れることしか知らないお前さんが<飛熊(ヒユウ)>などという号を名乗るのとは、まったく誰が笑わずにいられようか!
この下りから分かる「熊(ユウ)」という漢字の意味は、我々がクマと読むことで抱く「獰猛・暗愚」というイメージとは真逆だということである。
高潔な人物、聖人、賢人と言えば、人間として最も高貴な部類に属する人たちであり、そういう人たちなら「熊」を号に使えるというのであるから、「熊」は最上に近い佳字と言っていいだろう。
上で触れた漢字の成り立ち「熊=能+火」からもそれは言えるのではないだろうか。「火」は「日」であり、「霊(魂)」でもあることからすれば、我が身の「霊魂」を「うまくコントロールできる」人間こそが賢人であり、高潔な人物ということに他ならない。
また大陸の王朝の一つに「楚」がある。あの名宰相・屈原が出た国である。
この王朝の起源は周王朝とさして変わらない紀元前1000年代にあるが、初代を「熊繹(ユウヤク)」と言い、その後20代目の成王まで号に「熊」を付けている。
熊という字の意味が「獰猛や暗愚」であったら到底採用しない号名である。
ⅲ.以上から漢字の本場である中国の使用例から見て「熊」はけっして蔑称ではないという結論に達する。
したがって「熊襲」は「熊なる襲人」すなわち「熊という漢字の属性を持った襲の人々」という意味である。と言って熊襲がすべて「賢人」だったり「高潔な人物」であったりするわけではない。記紀の編纂者がいくらクマソを買い被ったとしても、そこまでヨイショはしないだろう。
それでは南九州人のクマソが「熊襲」な訳をどう解釈したらよいだろうか?
私は「熊」の語源通りの「うまく火をコントロールする」の方を採用する。
そこで刮目すべきは、①で論じた中の【A(国生み神話)】である。この神話では筑紫島(九州島)がイザナミによって生まれるのだが、4つある国の中で南九州の熊曽国の別名を「建日別」といった。
「建日別」(たけひわけ)とは「建日の地域」という意味である。「建」は「武」とも書くように「勢いのある、強盛な」の意味で、したがって「建日」とは「強盛な日」であるから、全体としては「強盛な日の地域」と解釈される。
この場合「日」は無論「陽」であり太陽の意味だから、たしかに南九州の属性である「強い日差し」に合致している。
しかし私はもう一つ別の「ひ」の存在を最大の属性と考える。それは「火」である。上述の「熊」の成り立ちに使われたあの「火」である。
南九州の「火」と言えば、「火山」に他ならない。日本列島は火山列島でもあるから全国は火山だらけなのであるが、ことのほか多いのが南九州なのである。
特に巨大なカルデラ火山が熊本の阿蘇から宮崎の加久藤、鹿児島の姶良・阿多・鬼界と県本土のど真ん中を4つも南北に貫くように存在する地域は他にはない(北海道にも巨大カルデラがいくつかあるが、記紀編纂当時には全く知られていなかった)。
このような土地柄の中で生き抜いてきた南九州人はある種の畏敬の念を以て見られていたのではないだろうか。そこで名付けられたのが「熊襲」で、「活火山の中を生き抜く南九州人」の面目躍如といった命名ではなかったかと考えるのである。
(※古事記で熊曽国の別名を「建日別」と言っているが、この「日」を「火」と捉え、「火山」と解釈すれば、結局のところ「熊」と同義と言って差し支えない。)
(クマソ② 終わり)
ⅰ.①ではA~Dまで日本書紀に登場するクマソ説話を抽出してみたが、景行天皇から神功皇后までの年代観はおおむね300年代の前期から後期初めの時代である。
Aは別として、B、C、Dはいずれもクマソは朝貢をしない叛逆者という書き方がなされ、それゆえ征伐の対象になるのだが、Bでは征伐にやって来た小碓命に自分の尊称である「タケル(建)」名を与えたり、Cでは仲哀天皇軍を敗り、天皇を戦死させるほどの強大な勢力を保持しているかの如く描かれ、決して通り一遍の反逆者という捉え方はされていない。
巷間のクマソ論の主流を占めるのは、ひとつは本居宣長流の「熊襲」という漢字を「熊」と「襲」に分け、熊を「獰猛な、暗愚な」とし、「熊襲は獰猛で暗愚な王化に浴さない南九州の襲の地域に住む種族」と考える説がある。
もう一つの考え方は熊襲を「熊」と「襲」に分け、これを古代からの地名である「熊本県球磨(くま=人吉)地方」と「鹿児島県襲(そ=霧島)地方」にまたがって盤踞する種族なるがゆえの「熊襲」名であるとするものである。
後者の地理的解釈をする場合でも、そこに住むクマソが、動物の「熊」の属性である「獰猛で恐ろしい」というタイプであるという認識では前者と変わりはない。熊はあくまでも「暗愚」という形容と切り離してはいないのである。
ⅱ.しかしそもそも「熊(ユウ)」という漢字は動物の熊にしか使われないものなのだろうか?
漢字の熊は「能」と「火」(列火)からなる合字で、漢語で解釈すると「火を能くする」ということである。
「火を能くする」とは言い換えれば「火をコントロールする」「火をうまく利用する」ということで、決して「獰猛」だったり、「暗愚」だったりという属性を表しておらず、むしろ佳字だということが分かる。
宋代に作られたという怪奇小説に『封神演義』がある。
この小説は殷王朝の最後の紂王が悪逆の限りを尽くしてついに周王朝の文王に取って代わられたという史実を基に書かれているが、文王の片腕となって勝利に導いた稀代の宰相「太公望」本名・呂尚が川で釣りばかりをしている時に、ある薪売りの武吉という少年に嘲笑われるのだが、この時のやり取りに「熊」が出てくる。
・・・(武吉が下手な釣りをしている太公望に尋ねる。)
――ご老人。おれが町に薪を売りに通ると、いつもここで釣りをしているが、名前は何というのだい?
「わしは姓を姜、名を尚、字を子牙、そして号を飛熊(ヒユウ)と申す」
・・・(それを聞いて武吉は腹を抱えて笑い出す。)
「武吉とやら、なぜ笑うのじゃ」
――高人、聖人、賢人、そのような方だけに<熊(ユウ)>という号が与えられる。釣り糸を垂れることしか知らないお前さんが<飛熊(ヒユウ)>などという号を名乗るのとは、まったく誰が笑わずにいられようか!
この下りから分かる「熊(ユウ)」という漢字の意味は、我々がクマと読むことで抱く「獰猛・暗愚」というイメージとは真逆だということである。
高潔な人物、聖人、賢人と言えば、人間として最も高貴な部類に属する人たちであり、そういう人たちなら「熊」を号に使えるというのであるから、「熊」は最上に近い佳字と言っていいだろう。
上で触れた漢字の成り立ち「熊=能+火」からもそれは言えるのではないだろうか。「火」は「日」であり、「霊(魂)」でもあることからすれば、我が身の「霊魂」を「うまくコントロールできる」人間こそが賢人であり、高潔な人物ということに他ならない。
また大陸の王朝の一つに「楚」がある。あの名宰相・屈原が出た国である。
この王朝の起源は周王朝とさして変わらない紀元前1000年代にあるが、初代を「熊繹(ユウヤク)」と言い、その後20代目の成王まで号に「熊」を付けている。
熊という字の意味が「獰猛や暗愚」であったら到底採用しない号名である。
ⅲ.以上から漢字の本場である中国の使用例から見て「熊」はけっして蔑称ではないという結論に達する。
したがって「熊襲」は「熊なる襲人」すなわち「熊という漢字の属性を持った襲の人々」という意味である。と言って熊襲がすべて「賢人」だったり「高潔な人物」であったりするわけではない。記紀の編纂者がいくらクマソを買い被ったとしても、そこまでヨイショはしないだろう。
それでは南九州人のクマソが「熊襲」な訳をどう解釈したらよいだろうか?
私は「熊」の語源通りの「うまく火をコントロールする」の方を採用する。
そこで刮目すべきは、①で論じた中の【A(国生み神話)】である。この神話では筑紫島(九州島)がイザナミによって生まれるのだが、4つある国の中で南九州の熊曽国の別名を「建日別」といった。
「建日別」(たけひわけ)とは「建日の地域」という意味である。「建」は「武」とも書くように「勢いのある、強盛な」の意味で、したがって「建日」とは「強盛な日」であるから、全体としては「強盛な日の地域」と解釈される。
この場合「日」は無論「陽」であり太陽の意味だから、たしかに南九州の属性である「強い日差し」に合致している。
しかし私はもう一つ別の「ひ」の存在を最大の属性と考える。それは「火」である。上述の「熊」の成り立ちに使われたあの「火」である。
南九州の「火」と言えば、「火山」に他ならない。日本列島は火山列島でもあるから全国は火山だらけなのであるが、ことのほか多いのが南九州なのである。
特に巨大なカルデラ火山が熊本の阿蘇から宮崎の加久藤、鹿児島の姶良・阿多・鬼界と県本土のど真ん中を4つも南北に貫くように存在する地域は他にはない(北海道にも巨大カルデラがいくつかあるが、記紀編纂当時には全く知られていなかった)。
このような土地柄の中で生き抜いてきた南九州人はある種の畏敬の念を以て見られていたのではないだろうか。そこで名付けられたのが「熊襲」で、「活火山の中を生き抜く南九州人」の面目躍如といった命名ではなかったかと考えるのである。
(※古事記で熊曽国の別名を「建日別」と言っているが、この「日」を「火」と捉え、「火山」と解釈すれば、結局のところ「熊」と同義と言って差し支えない。)
(クマソ② 終わり)