一週間前に終わった第20回中国共産党大会では習近平主席が、主席のポストは2期10年までという規約を改正し、無期限も可能という新しい規約の下、ついに3期目に入ることになった。
今後5年間は習近平主席の意のままに中国がその進路を辿ることになる。
党大会の最終日だったか、習近平主席の左隣に座っていた胡錦涛前主席が異例の途中退席したが、これに対して様々な憶測が飛び交った。
体調不良説が多かったのだが、胡錦涛前主席は同じ共産主義青年同盟出身で胡錦涛氏の後継である李克強副主席が当然常任委員に残るだろうと思っていたのだが、いつの間にか外されていたことを当日になって知らされたようで、習近平にまんまと裏切られたことに腹を立てて退席したというのが本当らしい。
その習近平は副首相以下、自分の息のかかった連中を常任委員に抜擢し、今後最低でも5年間は中国の最高指導者として君臨することになる。
習近平の演説の中はでよく使われる「中華民族の復興」だが、今度の演説の中でも「中華民族の偉大な復興」を謳い上げていた。
「中華民族」というのを「中国人民」というのであれば、多くの普通の国で言われる「我が国、我が国民」と同じ響きを持つのだが、「中華民族」とわれると、極めてナショナリズムの強い言葉になる。
この「中華民族」だが、習近平は「漢民族」とは言わない。
中国では「漢族」と短い言葉だが、漢族というと「漢王朝に起源を持つ民族」となり、漢時代(紀元前206年~紀元後220年)よりはるかに古い殷・周・春秋戦国時代の大陸に勃興した多くの国については考慮しないことになる。
そこで習近平としては、中国大陸に起源を持つすべての民族(人民)をひっくるめたいのだろう。それは精神論としては理解できるが、実は歴史的に見て「中華民族」というような概念の民族は存在しないのだ。
中国大陸には殷周時代以降、多数の国々が興廃を繰り返したが、それを統一したのが漢王朝の前代の秦王朝であった。版図は北は万里の長城から南は揚子江までで、その領域を「郡県制度」によってまとめ上げた。
次の漢王朝もそれを踏襲し、さらに南へ西へ統治領域を広げた。この時代に「漢字」「科挙」など支配層による国家体制が整えられた。史書として司馬遷の「史記」が書かれたのもこの時代である。
この中央集権に支えられた隆盛の時代を「中華」といい、その時代の国民からは「中華民族」と呼んでいいように思われるが、しかし漢時代以降は「三国(魏・呉・蜀)時代」に分裂し、その後も「五胡十六国時代」と細分化され、隋の時代(581~618年)にようやく統一国家が現れ、その後は唐(618~907年)に引き継がれた。
ところが隋の煬帝にしろ唐の高祖・李淵にしろ漢民族ではなく「鮮卑」系の皇帝だったのである。
またその後に大陸を支配した遼・金・元も漢族ではなかった。特に元(1206~1370年)は中国大陸のみならず、遥か西域まで版図を広げている。また、遼(916~1125年)の始祖・揶律阿保機(ヤリツアボキ)の妻は繍氏の出身で、繍氏は例のウイグル族である。
明は漢族だが、次の清王朝(1616~1912年)はヌルハチを始祖とする満州族による国家であった。
要するに隋唐の時代以降、1912年の辛亥革命による清王朝崩壊に至るまでの約1300年のうち、漢族による支配は明王朝のわずか277年しかないのだ。
習近平の「中華民族の偉大な復興」とは漢民族の復興なのか明王朝の復興なのか、曖昧である。
ましてその復興の中に台湾を含めるのは言いがかりである。台湾はかつて(1895~1945年)日本の領域にあったことがあるが、それ以前、清王朝による直接の支配はなかった(むしろオランダの支配下にあったことがある)。
日本は西洋による植民地支配から守るべく、台湾に朝鮮併合後の施策に先んじて台湾住民に教育を施し、産業を発展させている。
ただ終戦後に日本人が引き揚げたのち、大陸の蒋介石(中華民国)政権が毛沢東の共産軍により追い詰められ、ついに大陸から台湾に亡命政権を樹立したのだが、台湾人と蒋介石政権の間ではかなりのいざこざが発生した。
独裁的な蒋介石政権は2代目の蒋経国まで軍事的な独裁が続いたが、その後は民主主義が普及し、政権は国民選挙によって誕生するようになった。これはまさに台湾国民の「復興」であり、大陸中国の共産党独裁政権による統一(併合)など有り得ない話である。
かくて習近平の「中華民族の偉大な復興」とはまやかしであり、スローガンにも値しない。それよりどうして「中国人民の偉大な発展」というスローガンにしないのだろうか? それほど「中国人民」を隷属下に置きたいのだろうか?