鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

中華民族の偉大な復興?

2022-10-29 21:22:07 | 災害

一週間前に終わった第20回中国共産党大会では習近平主席が、主席のポストは2期10年までという規約を改正し、無期限も可能という新しい規約の下、ついに3期目に入ることになった。

今後5年間は習近平主席の意のままに中国がその進路を辿ることになる。

党大会の最終日だったか、習近平主席の左隣に座っていた胡錦涛前主席が異例の途中退席したが、これに対して様々な憶測が飛び交った。

体調不良説が多かったのだが、胡錦涛前主席は同じ共産主義青年同盟出身で胡錦涛氏の後継である李克強副主席が当然常任委員に残るだろうと思っていたのだが、いつの間にか外されていたことを当日になって知らされたようで、習近平にまんまと裏切られたことに腹を立てて退席したというのが本当らしい。

その習近平は副首相以下、自分の息のかかった連中を常任委員に抜擢し、今後最低でも5年間は中国の最高指導者として君臨することになる。

習近平の演説の中はでよく使われる「中華民族の復興」だが、今度の演説の中でも「中華民族の偉大な復興」を謳い上げていた。

「中華民族」というのを「中国人民」というのであれば、多くの普通の国で言われる「我が国、我が国民」と同じ響きを持つのだが、「中華民族」とわれると、極めてナショナリズムの強い言葉になる。

この「中華民族」だが、習近平は「漢民族」とは言わない。

中国では「漢族」と短い言葉だが、漢族というと「漢王朝に起源を持つ民族」となり、漢時代(紀元前206年~紀元後220年)よりはるかに古い殷・周・春秋戦国時代の大陸に勃興した多くの国については考慮しないことになる。

そこで習近平としては、中国大陸に起源を持つすべての民族(人民)をひっくるめたいのだろう。それは精神論としては理解できるが、実は歴史的に見て「中華民族」というような概念の民族は存在しないのだ。

中国大陸には殷周時代以降、多数の国々が興廃を繰り返したが、それを統一したのが漢王朝の前代の秦王朝であった。版図は北は万里の長城から南は揚子江までで、その領域を「郡県制度」によってまとめ上げた。

次の漢王朝もそれを踏襲し、さらに南へ西へ統治領域を広げた。この時代に「漢字」「科挙」など支配層による国家体制が整えられた。史書として司馬遷の「史記」が書かれたのもこの時代である。

この中央集権に支えられた隆盛の時代を「中華」といい、その時代の国民からは「中華民族」と呼んでいいように思われるが、しかし漢時代以降は「三国(魏・呉・蜀)時代」に分裂し、その後も「五胡十六国時代」と細分化され、隋の時代(581~618年)にようやく統一国家が現れ、その後は唐(618~907年)に引き継がれた。

ところが隋の煬帝にしろ唐の高祖・李淵にしろ漢民族ではなく「鮮卑」系の皇帝だったのである。

またその後に大陸を支配した遼・金・元も漢族ではなかった。特に元(1206~1370年)は中国大陸のみならず、遥か西域まで版図を広げている。また、遼(916~1125年)の始祖・揶律阿保機(ヤリツアボキ)の妻は繍氏の出身で、繍氏は例のウイグル族である。

明は漢族だが、次の清王朝(1616~1912年)はヌルハチを始祖とする満州族による国家であった。

要するに隋唐の時代以降、1912年の辛亥革命による清王朝崩壊に至るまでの約1300年のうち、漢族による支配は明王朝のわずか277年しかないのだ。

習近平の「中華民族の偉大な復興」とは漢民族の復興なのか明王朝の復興なのか、曖昧である。

ましてその復興の中に台湾を含めるのは言いがかりである。台湾はかつて(1895~1945年)日本の領域にあったことがあるが、それ以前、清王朝による直接の支配はなかった(むしろオランダの支配下にあったことがある)。

日本は西洋による植民地支配から守るべく、台湾に朝鮮併合後の施策に先んじて台湾住民に教育を施し、産業を発展させている。

ただ終戦後に日本人が引き揚げたのち、大陸の蒋介石(中華民国)政権が毛沢東の共産軍により追い詰められ、ついに大陸から台湾に亡命政権を樹立したのだが、台湾人と蒋介石政権の間ではかなりのいざこざが発生した。

独裁的な蒋介石政権は2代目の蒋経国まで軍事的な独裁が続いたが、その後は民主主義が普及し、政権は国民選挙によって誕生するようになった。これはまさに台湾国民の「復興」であり、大陸中国の共産党独裁政権による統一(併合)など有り得ない話である。

かくて習近平の「中華民族の偉大な復興」とはまやかしであり、スローガンにも値しない。それよりどうして「中国人民の偉大な発展」というスローガンにしないのだろうか? それほど「中国人民」を隷属下に置きたいのだろうか?

天高くイモ肥ゆる秋

2022-10-26 14:40:53 | おおすみの風景

鹿児島でイモと言えばカライモ(サツマイモ)である。当地では琉球から伝来して来たので「カライモ」という。

漢字で書けば「唐芋」だが、唐の時代に大陸から伝来したというわけではない。伝来したのは、徳川政権が生まれてから島津氏が琉球に侵攻して支配下に置いた1609(慶長14)年以降のことで、琉球ですでに栽培されていたサツマイモの苗をひそかに鹿児島に持ち帰り、栽培を始めたのであった。

ただサツマイモの伝来と普及には諸説があり、一般には琉球侵攻(琉球征伐とも言う)後に、指宿市山川の漁師(船子)であった前田利右エ門が琉球からひそかに苗を持ち帰り、近隣に普及させていたのを藩庁が取り上げた――というものである。

これに対して6年前だったか、鹿屋市高須の郷士・右田利右エ門こそがサツマイモ普及の貢献者であったという説を大隅史談会会誌に投稿した人があった。右田利右エ門の子孫だという人である。

この人によれば、家系図の江戸時代の慶長の頃にいた先祖の「右田利右エ門」が藩庁の命令で琉球に渡っており、彼こそがひそかに琉球から苗を持ち帰り、大隅の地に植えたのが始まりだろうという。

たしかに一介の漁師(船子)だったという前田利右エ門に「前田」という姓があるのはおかしいうえ、利右エ門という名も漁師にはふさわしくない名である。そう考えると高須の郷士であった右田利右エ門なら説明が付く。

しかし郷士(武士)の立場で苗を持ち帰ったのなら、藩の古文書などに記載されていてもいいのだが、それは見当たらないという。そこはちと首を傾げる所だが、「ひそかに持ち帰った」というのが真実であれば、サツマイモの苗は琉球王からは、実は門外不出とされおり、そのため苗の持ち帰りについては公表しなかったのだろう。

琉球王から「苗を持ち帰ってよし」という許可を得ていたのであれば、わざわざ「ひそかに持ち帰った」などと書く必要はなく、藩の文書に堂々と「琉球王からイモの苗を授けられた」などと書かれているはずである。

そのあたりも是とし、私は山川(徳光)の前田利右エ門ではなく、高須の郷士・右田利右エ門だという説を推したい。

さて、島津氏の下でこのイモが藩内で普及し出し、さらに江戸に屋敷を構えた島津氏が参勤交代で江戸に上った際にイモと苗を持参し、幕閣に紹介したのだろうか、幕吏・青木昆陽は享保20年(1735年)に『甘藷考』を著してサツマイモの貢献を記すまでになった。サツマイモが琉球から鹿児島にもたらされてからちょうど100年後のことである。

以後、救荒作物として、またもちろん常用の食物としてサツマイモは関東以西に普及していく。薩摩藩ではカライモと呼ばれていたのだが、全国に普及すると薩摩藩由来ということでサツマイモという名称になった。


近隣の畑では天高き秋晴れの下、イモの収穫が急ピッチで進んでいる。
2台の軽トラックの間に、丸々と肥えたイモを詰め込んだ大きな袋がいくつもあり、人々がその袋の前で何か作業をしていた。(後ろに聳えているのは高隈連山=最高峰1270m)

収穫の喜びで作業者たちの顔も晴れ晴れ、と言いたいところだが、2年前から急速に入り込んで来た「基腐れ病」が農家を悩ませている。

この病気は「基ぐされ病菌」(学名は何とか言ったが忘失)により、主にイモツルの側からイモが腐っていく病気なのだが、沖縄由来だそうである。

もともとサツマイモの由来地は沖縄なので、なんだか因縁めいている。ただ、沖縄はもちろん日本だから厳しい「検疫体制」はないのだが、しかしこう大事になってくると、イモの移動が制限されるようになるかもしれない、新型コロナ対策のように・・・。

毎朝、ウメの散歩に出て畑地帯を回ってくるのだが、基腐れ病の出た畑では今年は植え付けを見合わせたところが多く、雑草の生えるに任せた畑もちらほら見える。雑草の中ではセイタカアワダチソウがやけに目に付くようになった。(※最近、鼻炎症状とのどの痛みが出ているが、そのせいだろうか?)


へルソン州の危機

2022-10-25 21:15:46 | 災害
ロシアはウクライナ南部のへルソン州の戦局を不利とみて、親ロシア系住民をドニエプル川の東岸に移動させる作戦に出た。

作戦というと聞こえは良いが、何のことはない、ウクライナ軍の攻勢に耐え切れなくなり、軍民を親ロシア系住民の多いへルソン州東部に「疎開」させているのだ。

このこと自体、当然と言えば当然だが、しかし今朝の新聞によると、ロシアの国防長官が西側のイギリス、フランス、トルコ及びアメリカのそれぞれの国防長官と相次いで電話会談を行ったという。その内容とは、ロシアによると、ウクライナが「汚い爆弾」を使う恐れがあるというものだ。

(※「汚い爆弾」とは、放射性物質を撒き散らす爆弾で、核兵器とは全く違い核爆発による殺傷を狙ったものではなく、むしろ「生物兵器」に近い。

3年前の12月に発生した中国武漢由来の新型コロナウイルス禍も一時は、「すわ、生物兵器か」などと考える向きもあり、その真偽は今もって定かではないが、生物兵器は致死性の高い菌や毒物をミサイルの弾頭に充填して繁華な地域に落として被害を広げる兵器である。)

ロシアのショイグ国防長官のその話をまともに信用する英米仏の国防長官はいなかった。かえってロシアの「偽旗作戦」だろうと考えている。

つまり例の「やられたらやり返す」の論法で、向こう(ウクライナ)が先にロシアに対して「汚い爆弾」を使用した以上、ロシア側も同様の措置をとるぞ、こちらにもやり返す権利はあるんだぞ!――ということが伏線にあるわけである。

アメリカの「戦争研究所」というシンクタンクは、ロシアが「汚い爆弾」なり「核兵器」なりを使う可能性は低い、と見ているようだ。

しかしプーチンが一方的な住民選挙でへルソン州のロシア併合を宣言した以上、国土の安全を脅かす相手に対してはいかなる兵器の使用も辞さないことは確実である。

一足飛びに核兵器を使うことはないにしても、「汚い爆弾」のへルソン州西部(ドニエプル川西岸)への使用は現実味を帯びて来た。くわばら、くわばら!


縄文の森開園20周年記念フォーラム

2022-10-23 03:42:07 | おおすみの風景
旧国分市(現在は霧島市)にある上野原縄文の森は、縄文時代早期の複合的な遺跡である「上野原遺跡」を総合的に現地展示する施設で、今年は開園20年になったということで、それを記念するフォーラムが22日(土)に開催された。

場所は霧島市内にある国分シビックセンターで、私は午前中の研究者の発表にだけ参加した。


午前中にあったのは新東晃一氏による遺跡の総体的な解説で、氏は県の文化財課から派遣され、上野原遺跡の発見当初から発掘にかかわって来た人である。肩書にあるようについ最近まで「南九州縄文研究会」の会長をされていた。現在75歳とのことである。
 自己紹介の中で、『どるめん』という考古学雑誌の昭和53年(1978)に発表した<火山灰と考古学>というテーマで書いたという。その雑誌の目次をスライドに映し出していたが、<火山灰考古学>の提唱として最初の画期的なものだった。

上野原遺跡の最初の発見は、この上野原台地に「テクノパーク」という工業団地が建設されることになり、その事前調査によって遺構・遺物が発掘されたことであった。平成4年(1992)のことである。

この時に発掘された「縄文の壺」は弥生時代の物と勘違いされるほどの優品で、「鬼界カルデラ大噴火(7300年前)」由来のアカホヤ火山灰の下から見つかっており、年代観に誤りがないことが確定している。この縄文の壺を含む出土品は平成10年(1998)に国の重要文化財に指定された。

また1995年から調査が開始された第4工区からは早期前葉の住居跡52軒や連結土坹(燻製用コンロ穴)、その他生活の痕跡が多数見つかり、「縄文時代の開始期を知る遺跡」として国の史跡にしていされた。

これら二つの画期(重文指定・国の史跡指定)をすべて経験したのが、発掘責任者としての新東氏であり、言わば上野原遺跡発掘の生き証人である。

氏の話はスライドを使って坦々と進められたが、「勘違い」という話に特に興味をそそられた。

その勘違いというのは、上で触れた「縄文時代の壺なのに弥生時代の物とした勘違い」と同様出土土器に関するものだ。

かつては早期の土器とされていたのが「押形文土器(尖底)」「轟式土器」「曽畑式土器」であった。そしてそれより後に「手向山式土器」があり、さらにその後に「吉田式土器」が編年されていたのだが、上野原遺跡の発掘によって7300年前のアカホヤ堆積層の下から「吉田式土器」のような底が平らで胴体が筒状になった土器が普遍的に見つかり、「円筒形平底」の土器こそ南九州では最初期の土器であったことが判明したのであった。

「押形文土器」はそのまま早期(草創期)に位置づけられるが、轟式や曽畑式は前期に編年が下がり、吉田式系統とは編年が全く逆転することになった。「火山灰考古学」による大成果であったと言ってよい。

南九州の早期(草創期)縄文時代において深く関係するのが薩摩火山灰とアカホヤ火山灰である。

薩摩火山灰(桜島P14という)はこれまで11500年前とされ、早期の始まりの時期に当てられていたが、これが今は12800年前とされ、もう一つのアカホヤ火山灰も6400年前とされていたのが7300年前と確定された。したがって上野原遺跡出土の遺構・遺物はそれぞれ約1000年古くさかのぼることになった。(※縄文早期の年代は12800年前から7300年前ということになる。なお、種子島中種子町のの三角山遺跡ではさらに古い草創期のサラダボール型丸底の土器が多数発見されている。)

早期の最も早い土器である「吉田式土器」などは12000年前の物であり、今のところ世界最古の「円筒形平底土器」であり、1992年に発見され重要文化財に指定された優美な「双子の縄文早期の壺」は8500年前に繰り上がった。こちらも世界最古の完形の壺だろう。土器などの遺物もだが、住居址や連穴土坹など生活した遺構まで総合的に残っているのは世界遺産級だ。

講演が終わって質問時間があったので「上野原遺跡を代表する南九州の早期縄文遺跡群を世界文化遺産に登録できないか」との質問を投げかけた。

新東氏は、テクノパーク(工業団地)として活用するはずだった上野原に遺跡が発見された際に、鹿児島県知事が「ツルの一声」で遺跡の保存指定に動いてくれたので今日があるが、世界遺産への登録もそういった力が必要だ。ただ、早期の遺跡は九州一円にあり、鹿児島県だけでというわけではないので――という。

やはり広域な行政の積極的かつ連携した取り組みが必要のようだ。それには市民の後押しが大きいだろう。是非とも今後に期待したい。

朝令暮改?

2022-10-20 18:18:06 | 日本の時事風景
岸田首相は一昨日、旧統一神霊教会をめぐる国会における質疑の中で、宗教法人がその解散を命じられるのは、「当該法人が違法行為をし、かつ法人の幹部が何らかの刑事罰に服したような場合に限って解散を裁判所が命じることができる」という答弁をしていた。

ところが昨日は、「刑法上の違法行為だけではなく、民法における違法行為をした場合でも解散命令が出される可能性もある」と一歩踏み込んだ答弁に変わった。まさに「朝令暮改」である。

野党議員の質問の中で、「解散命令が法人幹部の刑事上の違反行為を要件とすると、証拠集めや裁判において裁判所が命令を出すまでに時間がかかり過ぎる」という指摘を受けて、民法上の違法行為も解散要件に値すると答弁したのだ。

安倍元首相を殺害した奈良県の山上容疑者の場合で言えば、旧統一教会の信者となった母親の教会への多額の献金によって家庭が崩壊するような事態に陥ったような時、母親の「子供の保護遺棄責任」という民法上の罪に問えるわけである。

そして、そのような事例が沢山出てきた場合、旧統一教会に「改善命令」を出し、それに従わない場合、裁判所が解散命令を出せることになる。

今日は旧統一教会の「改革本部長」という肩書の勅使河原氏が会見を開いていたが、その中で、高知県在住の64歳の男性の30年前に入信した元妻のビデオを流し、元妻は元夫との結婚生活では喧嘩が絶えなかったので入信した旨を語っていた(語らされていた?)。

教会に献金するため田んぼを売り払ったことに触れ、「田んぼには悪霊が付いているから売った」という意味不明の理由がを語っていたが、それこそが旧統一教会の思う壺で、献金させるために「先祖に悪魔が付いている。除霊をするから金を出せ」というわけだ。

献金を促す常套手段と言っていいが、日本の女性は、かのヒミコを例に挙げるまでもなく、霊媒的な体質を持つ者が多く、それを知ってか知らずか、旧統一神霊教会はその手口で多くの日本人女性を騙して来た。

いったい、朝鮮という国は、北でもかつて「北朝鮮は地上の天国だ」という触れ込みで日本にいた多くの半島出身者の帰還を促したのだが、その中には日本の女性と結婚した多くの半島出身者がいた。結果として配偶者の日本女性の多くが北朝鮮に渡っている。

旧統一教会の教祖の文鮮明はそれに倣ったわけではないのだろうが、集団結婚という形で日本人女性を韓国人と結婚させ、結果として7000人くらいの日本人女性が韓国に渡っているという。その7000人のうちには今度事件を起こした山上容疑者の母や、勅使河原改革本部長のビデオに登場した高知在住の男性の元妻なども入っているのかもしれない。

朝鮮はアダム(男)の国で日本はエバ(女)の国だというのが文鮮明の教義であり、それは統一教会内部の観点では何の問題もない考えなのだろうが、社会的な常識から外れていることおびただしい。

文鮮明がこのような不自然極まりない行為を是としたのには「朝鮮半島の現在も続く分断の張本人は、半島を植民地化した日本の悪行がそもそもの原因だ」とする観念があったものと思われる。

それを逆手にとって日本に「女と金」を貢がせて仇を取ろうというのだろう。その手口が「今うまくいかないのは先祖に悪魔が付いているからだ」「田んぼに悪霊が取り付いている」などと信じ込ませて献金させて韓国の教団本部に送り、また集団結婚と称して日本の女を韓国人と結婚させて韓国に送っているのが現状だ。

日本も見くびられたものである。「霊的に云々」というのは宗教法人だからそう言うのだろうが、宗教性を抜きにしてみたら、結局のところ日本への「恨(ハン=うらみ)」と「怨念」でしかない。

日本が朝鮮併合時代(1910年~1945年)にしたことの最も大きなものは「朝鮮人への一般教育」だった。それまで(1910年まで)の日本では、すでに「男女にかかわらず初等教育は義務」だったのだが、朝鮮の状況は全くそうではなかった。そこへ1910年に日韓併合になると、同様の初等教育が始まったのだ。

その結果、1920年生まれの文鮮明も10歳くらいから初等教育を受けることができ、さらに望めばそれ以上の教育が受けられた。

おそらく文鮮明は優秀だったのだろう、さらに上級の旧制中学などを経て、聖書が読めるようにまでなった。文鮮明がキリスト教に入信できたのも日韓併合があったからと言える。

そのことに関して、先の女性大統領・パククネ(朴槿惠)の妹が語っていたことは真実だろう。曰く「日本の統治が無かったら今の韓国はなかったのよ」。

彼女がでたらめを言っているとは思われない。李氏朝鮮下で長らく組織されてきた「両班制度」では、国民は両班(貴族)と一般庶民に分断され、庶民が出世して枢要を担うことは全くあり得なかった。なぜなら文盲だったからである。

その一方で1920年生まれの文鮮明は、ちょうど日本による初等教育の開始に間に合ったのだ。日本の併合なくしては中等教育以上を受けた文鮮明の「世界基督教統一神霊協会」もなかったに違いない。

1920年生まれと言えば、私の妻の父(義父)と同じ生まれで、義父は旧制鹿屋中学を出た1937年頃、朝鮮の大邱(テグ)師範学校に入学し、卒業後は地元の小学校に教員として赴任している。生徒のほとんどは朝鮮人子弟だったが、義父は朝鮮語は話せなかったので、当然、教育は日本語で行われた。

(※大邱(テグ)師範学校は昭和4年の創立。京城(ソウル)帝国大学はすでに5年前の1924年には設置されていた。日本がいかに教育に力を入れたかが分かる。決して欧米流の「現地人愚民化タイプの植民地政策」ではなかったのだ。)

1941年、日本は英米を敵にまわして太平洋戦争に突入し、完敗を喫したのだが、そのために日本人が半島から引き揚げ、それによって弱体化した半島にコミンテルン(世界共産主義連合)の回し者と言うべき金日成率いる共産軍が侵入し、その結果が「朝鮮動乱」(1950年~1953年)となった。

この時の戦死者はいかばかりであったろうか。目を覆うほどの戦争被害が発生したうえ、北と南に分断されてしまったのである。

日本が太平洋戦争に負けて引き上げなければ、こんな朝鮮動乱など起きなかったのに――という感情が湧き上がり、それが「恨」(怨念)となって文鮮明を突き動かし、キリスト教の教義をないまぜにして日本への贖罪を求める活動に邁進した。その結果が日本女性をたぶらかす「集団結婚」であり「悪魔祓いという名目の多額の献金」だった。

もうこんな怨念から始まった宗教からは目覚めなければなるまい。