1972年(昭和47年)9月29日、この日中国に飛んだ田中角栄首相と大平正芳外相が中国の周恩来首相と「日中国交正常化」に関する共同声明に署名した。
これで日本と中国人民共和国との国交が正式に結ばれたのだが、一方で中華民国(台湾)は日本との国交を断絶した。すでに前年の1971年10月25日に国連の総会でアルバニアという国が提出した「中華人民共和国の国連加盟案」が賛成多数で成立し、それと同時に中華民国は国連から追放されるという苦汁をなめていた。
しかも中華人民共和国は、中華民国が成員であった国連安全保障理事会の常任理事国の地位まで獲得してしまったのだ。不可解千万の決定である。その理由は中共も中華民国同様、国連憲章53条国(敵国条項)である日本との戦いを経験したということだろう。(※ただし中共が1964年に原爆の開発に成功したことが常任理事国就任の大きな理由とも考えられる。)
1972年と言えばこの5月15日に沖縄がアメリカの施政権から解放され日本復帰を果たした年でもあった。この時の首相が故安倍晋三元首相の大叔父に当たる佐藤栄作であった。アメリカの属領化していた沖縄復帰は佐藤の大きな懸案で、それを成し遂げた佐藤はノーベル平和賞を受賞している。
安倍元首相の首相在任期間は2822日で戦後最長と言われるが、佐藤も長く、2798日であり、安倍氏より30日足らず短いだけである。岸田首相が故安倍氏を国葬にする理由の一つとして、首相在任期間の最長を挙げたが、それなら、さほど変わらない佐藤栄作も沖縄返還という大事業を成し遂げたのだから国葬にふさわしかったろうに。
国葬の是非を考えると「旧統一教会」の問題も含めて戦後の政治史にかかわって来るのだが、ここでは日中国交正常化の件に絞りたい。
佐藤首相は沖縄返還交渉をまとめ上げた1か月半後に退陣し、その後を継いだのが田中角栄であった。田中角栄は日中国交正常化に熱心で、組閣して2か月後には日中国交正常化をやってのけた。当時の中国では田中角栄はちょっとした英雄であった。
1978年の8月には正常化の確約とも言える「日中平和友好条約」の締結となった。時の首相は福田赳夫で、外相の園田直が北京に飛んで条約にサインをしている。
(※もっとも1971年に日本の国交正常化に先駆けてアメリカの国務長官キッシンジャーが極秘訪中し、当時の大統領ニクソンの訪中をお膳立てしたことは世界を驚かせており、翌年の2月には実際に現職のアメリカ大統領ニクソンが北京に行き、「平和五原則」の共同声明を発表した。)
平和友好条約締結後に日本を訪れた中国の首相鄧小平は新幹線に乗ったり、家電工場を視察したりして日本の目覚ましい発展を実体験したが、例の「白いネコでも黒いネコでもネズミを捕るのは良いネコだ」との言葉通り、人民公社の世界から経済発展への道を推し進める旗頭となった。
その後、中国は一党独裁のまま、民主主義のレールを敷かない全体主義的資本主義(専制資本主義)という珍しいというか、ある意味でずるがしこい人民解放軍による生産体系を打ちたて、この約半世紀を経て来た。
日本を含む先進各国の資本と技術を、時には剽窃しながら世界の工場と化し、今や日本をはるかにしのぐGDPを獲得するまでになった。あと20年したらアメリカの不動の地位を逆転する可能性さえ見えてきている。
アメリカは気が付けば自国の資本や生産技術が中国に転移され、アメリカらしい工場地帯のあった五大湖地方がすっかりさびれてしまったことに愕然とする羽目になった。トランプ前大統領がよく引き合いに出した「ラストベルト」である。
今年の10月に開かれる全人代では、習近平が異例の三選を果たすようだが、ウクライナ戦争に関してプーチン寄りの姿勢を明確に示すかどうかが注目される。
また台湾に関しては中国の主張する「台湾は我が国の領土だ」というのは歴史認識に反する。不可解なのはアメリカである。アメリカは1972年の中華人民共和国の国連加盟に反対せず、それまで安保理の常任理事国であった台湾(中華民国)が国連を脱退するのも止めず、今があるわけだが、相変わらず「中国は一つだ」と言っている。中華民国で一つなのか、中華人民共和国で一つなのか、曖昧にしている。
しかしバイデン大統領は「中国が台湾に軍事侵攻したら台湾を助ける」旨の発言をしている。ウクライナが欧米同盟のNATOに加盟していないのにアメリカは武器援助をしているが、そういった援助なのか、それとも軍艦を差し向けるのか。そうしたら日米同盟がある以上日本も米軍を助けなければならない。さあその時、中国はどう出て来るのだろうか?
これで日本と中国人民共和国との国交が正式に結ばれたのだが、一方で中華民国(台湾)は日本との国交を断絶した。すでに前年の1971年10月25日に国連の総会でアルバニアという国が提出した「中華人民共和国の国連加盟案」が賛成多数で成立し、それと同時に中華民国は国連から追放されるという苦汁をなめていた。
しかも中華人民共和国は、中華民国が成員であった国連安全保障理事会の常任理事国の地位まで獲得してしまったのだ。不可解千万の決定である。その理由は中共も中華民国同様、国連憲章53条国(敵国条項)である日本との戦いを経験したということだろう。(※ただし中共が1964年に原爆の開発に成功したことが常任理事国就任の大きな理由とも考えられる。)
1972年と言えばこの5月15日に沖縄がアメリカの施政権から解放され日本復帰を果たした年でもあった。この時の首相が故安倍晋三元首相の大叔父に当たる佐藤栄作であった。アメリカの属領化していた沖縄復帰は佐藤の大きな懸案で、それを成し遂げた佐藤はノーベル平和賞を受賞している。
安倍元首相の首相在任期間は2822日で戦後最長と言われるが、佐藤も長く、2798日であり、安倍氏より30日足らず短いだけである。岸田首相が故安倍氏を国葬にする理由の一つとして、首相在任期間の最長を挙げたが、それなら、さほど変わらない佐藤栄作も沖縄返還という大事業を成し遂げたのだから国葬にふさわしかったろうに。
国葬の是非を考えると「旧統一教会」の問題も含めて戦後の政治史にかかわって来るのだが、ここでは日中国交正常化の件に絞りたい。
佐藤首相は沖縄返還交渉をまとめ上げた1か月半後に退陣し、その後を継いだのが田中角栄であった。田中角栄は日中国交正常化に熱心で、組閣して2か月後には日中国交正常化をやってのけた。当時の中国では田中角栄はちょっとした英雄であった。
1978年の8月には正常化の確約とも言える「日中平和友好条約」の締結となった。時の首相は福田赳夫で、外相の園田直が北京に飛んで条約にサインをしている。
(※もっとも1971年に日本の国交正常化に先駆けてアメリカの国務長官キッシンジャーが極秘訪中し、当時の大統領ニクソンの訪中をお膳立てしたことは世界を驚かせており、翌年の2月には実際に現職のアメリカ大統領ニクソンが北京に行き、「平和五原則」の共同声明を発表した。)
平和友好条約締結後に日本を訪れた中国の首相鄧小平は新幹線に乗ったり、家電工場を視察したりして日本の目覚ましい発展を実体験したが、例の「白いネコでも黒いネコでもネズミを捕るのは良いネコだ」との言葉通り、人民公社の世界から経済発展への道を推し進める旗頭となった。
その後、中国は一党独裁のまま、民主主義のレールを敷かない全体主義的資本主義(専制資本主義)という珍しいというか、ある意味でずるがしこい人民解放軍による生産体系を打ちたて、この約半世紀を経て来た。
日本を含む先進各国の資本と技術を、時には剽窃しながら世界の工場と化し、今や日本をはるかにしのぐGDPを獲得するまでになった。あと20年したらアメリカの不動の地位を逆転する可能性さえ見えてきている。
アメリカは気が付けば自国の資本や生産技術が中国に転移され、アメリカらしい工場地帯のあった五大湖地方がすっかりさびれてしまったことに愕然とする羽目になった。トランプ前大統領がよく引き合いに出した「ラストベルト」である。
今年の10月に開かれる全人代では、習近平が異例の三選を果たすようだが、ウクライナ戦争に関してプーチン寄りの姿勢を明確に示すかどうかが注目される。
また台湾に関しては中国の主張する「台湾は我が国の領土だ」というのは歴史認識に反する。不可解なのはアメリカである。アメリカは1972年の中華人民共和国の国連加盟に反対せず、それまで安保理の常任理事国であった台湾(中華民国)が国連を脱退するのも止めず、今があるわけだが、相変わらず「中国は一つだ」と言っている。中華民国で一つなのか、中華人民共和国で一つなのか、曖昧にしている。
しかしバイデン大統領は「中国が台湾に軍事侵攻したら台湾を助ける」旨の発言をしている。ウクライナが欧米同盟のNATOに加盟していないのにアメリカは武器援助をしているが、そういった援助なのか、それとも軍艦を差し向けるのか。そうしたら日米同盟がある以上日本も米軍を助けなければならない。さあその時、中国はどう出て来るのだろうか?