鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

日中国交正常化50周年

2022-09-29 21:50:49 | 日本の時事風景
1972年(昭和47年)9月29日、この日中国に飛んだ田中角栄首相と大平正芳外相が中国の周恩来首相と「日中国交正常化」に関する共同声明に署名した。

これで日本と中国人民共和国との国交が正式に結ばれたのだが、一方で中華民国(台湾)は日本との国交を断絶した。すでに前年の1971年10月25日に国連の総会でアルバニアという国が提出した「中華人民共和国の国連加盟案」が賛成多数で成立し、それと同時に中華民国は国連から追放されるという苦汁をなめていた。

しかも中華人民共和国は、中華民国が成員であった国連安全保障理事会の常任理事国の地位まで獲得してしまったのだ。不可解千万の決定である。その理由は中共も中華民国同様、国連憲章53条国(敵国条項)である日本との戦いを経験したということだろう。(※ただし中共が1964年に原爆の開発に成功したことが常任理事国就任の大きな理由とも考えられる。)

1972年と言えばこの5月15日に沖縄がアメリカの施政権から解放され日本復帰を果たした年でもあった。この時の首相が故安倍晋三元首相の大叔父に当たる佐藤栄作であった。アメリカの属領化していた沖縄復帰は佐藤の大きな懸案で、それを成し遂げた佐藤はノーベル平和賞を受賞している。

安倍元首相の首相在任期間は2822日で戦後最長と言われるが、佐藤も長く、2798日であり、安倍氏より30日足らず短いだけである。岸田首相が故安倍氏を国葬にする理由の一つとして、首相在任期間の最長を挙げたが、それなら、さほど変わらない佐藤栄作も沖縄返還という大事業を成し遂げたのだから国葬にふさわしかったろうに。

国葬の是非を考えると「旧統一教会」の問題も含めて戦後の政治史にかかわって来るのだが、ここでは日中国交正常化の件に絞りたい。

佐藤首相は沖縄返還交渉をまとめ上げた1か月半後に退陣し、その後を継いだのが田中角栄であった。田中角栄は日中国交正常化に熱心で、組閣して2か月後には日中国交正常化をやってのけた。当時の中国では田中角栄はちょっとした英雄であった。

1978年の8月には正常化の確約とも言える「日中平和友好条約」の締結となった。時の首相は福田赳夫で、外相の園田直が北京に飛んで条約にサインをしている。

(※もっとも1971年に日本の国交正常化に先駆けてアメリカの国務長官キッシンジャーが極秘訪中し、当時の大統領ニクソンの訪中をお膳立てしたことは世界を驚かせており、翌年の2月には実際に現職のアメリカ大統領ニクソンが北京に行き、「平和五原則」の共同声明を発表した。)

平和友好条約締結後に日本を訪れた中国の首相鄧小平は新幹線に乗ったり、家電工場を視察したりして日本の目覚ましい発展を実体験したが、例の「白いネコでも黒いネコでもネズミを捕るのは良いネコだ」との言葉通り、人民公社の世界から経済発展への道を推し進める旗頭となった。

その後、中国は一党独裁のまま、民主主義のレールを敷かない全体主義的資本主義(専制資本主義)という珍しいというか、ある意味でずるがしこい人民解放軍による生産体系を打ちたて、この約半世紀を経て来た。

日本を含む先進各国の資本と技術を、時には剽窃しながら世界の工場と化し、今や日本をはるかにしのぐGDPを獲得するまでになった。あと20年したらアメリカの不動の地位を逆転する可能性さえ見えてきている。

アメリカは気が付けば自国の資本や生産技術が中国に転移され、アメリカらしい工場地帯のあった五大湖地方がすっかりさびれてしまったことに愕然とする羽目になった。トランプ前大統領がよく引き合いに出した「ラストベルト」である。

今年の10月に開かれる全人代では、習近平が異例の三選を果たすようだが、ウクライナ戦争に関してプーチン寄りの姿勢を明確に示すかどうかが注目される。

また台湾に関しては中国の主張する「台湾は我が国の領土だ」というのは歴史認識に反する。不可解なのはアメリカである。アメリカは1972年の中華人民共和国の国連加盟に反対せず、それまで安保理の常任理事国であった台湾(中華民国)が国連を脱退するのも止めず、今があるわけだが、相変わらず「中国は一つだ」と言っている。中華民国で一つなのか、中華人民共和国で一つなのか、曖昧にしている。

しかしバイデン大統領は「中国が台湾に軍事侵攻したら台湾を助ける」旨の発言をしている。ウクライナが欧米同盟のNATOに加盟していないのにアメリカは武器援助をしているが、そういった援助なのか、それとも軍艦を差し向けるのか。そうしたら日米同盟がある以上日本も米軍を助けなければならない。さあその時、中国はどう出て来るのだろうか?


安倍氏の国葬儀

2022-09-27 21:03:01 | 日本の時事風景
今日の午後2時から安倍元首相の国葬儀が日本武道館で行われた。

公式の参列者は、内外合わせて4300人だったという。これは55年前に行われた吉田元首相の6000人を下回った。

九段坂下に設けられた一般市民の参列者のための「献花台」には、早い人で朝の4時頃から並んだ人たちの長蛇の列が続き、予定では10時からの献花が30分早められそうである。

午後2時からの国葬儀では、まず岸田首相に先導された安倍昭惠夫人の持つ遺骨が入場し、中央の祭壇に置かれてから始まった。

行政・立法・司法の各長からの弔辞と献花が始まり、現・元の国会議員及び各国の要人約700名の献花が続いた。

岸田首相が唐突に安倍氏の国葬儀を発表してからは、国内の世論が真っ二つに割れたが、結局「内閣府設置法」による閣議決定が最優先されて今日に至った。

ただ吉田元首相の1967年当時の国葬と違うのは、行政機関以外の弔意、すなわち国・県・市町村の各庁舎に半旗を掲げること以外には何ら国民個人の弔意は求められなかったことだ。

また、来日した各国の要人では、アメリカのハリス副大統領とインドのモディ首相は現職の大物だが、他の国々からはおおむね大統領や首相だった元職が多く、中心は各国の駐日大使たちであった。

岸田首相が国葬にした理由の一つとして安倍氏が世界のトップと親交を深めたのを引き継ぐための「弔問外交」に資するためだったのだが、アメリカのハリス副大統領とはかなり突っ込んだ意見の交換があったにせよ、その他の要人たちとはいわゆる「外交儀礼」の範囲を出なかったようだ。

それはそれでよいのだが、その程度の弔問外交なら何も国葬にせず「内閣と自民党による合同葬儀」レベルでも十分だったように思うのだ。

それに・・・、アメリカのトランプ元大統領への国葬への参列案内状は出したのだろうかと訝る。なぜなら安倍氏が交流した世界の要人の中でも突出して「仲良し」だったのがトランプ氏だったからだ。

トランプタワーへ駆けつけて大統領当選の祝意を世界で最初に伝えたのも安倍氏なら、トランプ氏のフロリダの私邸に招かれてゴルフに打ち興じたのも安倍氏だった。ゴルフ場でトランプ氏と一緒にゴルフカートにニコニコ顔で乗っている安倍氏の写真は、まだ記憶に残っている。

それからプーチンだ。安倍氏はロシアのプーチン大統領とも30回近い会談を重ねており、一時期は「北方領土4島のうち2島をとりあえず返してもらい、平和条約を結ぶ」という譲歩案がまとまるかに思われたのだが、狡猾なプーチンによって「2島を返して平和条約を結んだはいいが、アメリカの基地が2島に置かれては元も子もない」と蹴られている。そして、その後の進展は全くない。

北朝鮮にはまさか出してはいないだろう。何しろ正式な国交がないのだから。この北朝鮮によって仕組まれた日本人拉致の問題も安倍氏の得意とするところかと見え、本人も「私の政権の内に必ず解決します」と言っていたのだが、こちらも進展はない。

得意な外交力で「開かれたインド太平洋構想」を提唱し、アメリカ・オーストラリア・インドとの連携を模索し、「クワッド」(4国条約)締結に漕ぎつけたのは評価できるし、アメリカが提唱したTPP(環太平洋パートナーシップ)をアメリカが離脱したあとにうまくまとめたのも評価できる。

しかし森友学園問題や加計学園問題そして桜を見る会など問題が不透明なままであり、特に森友学園問題では「やましいことがあったのなら総理を辞めるどころか、国会議員も辞めますよ」と国民注視の中で大見得を切ったにもかかわらず、うやむやになり、文書の書き換え騒動でひとりの公務員の自殺者まで出している。

そのうえ7月8日の演説最中の暗殺事件から明らかになった旧世界基督教統一神霊教会(旧統一教会)と政治家の癒着問題解明は長引いているが、この統一協会の傘下の「勝共連合」が組織された1968年の頃に、安倍氏の祖父である岸信介が関係していたことが判明している。孫の安倍氏も旧統一教会のシンパだった可能性が高い。

この事件の当初、私は大和西大寺駅前での演説中に安倍氏を標的にした山上徹という容疑者は「八つ当たり的」に安倍氏を狙ったと思っていたのだが、実は祖父岸信介の時代からの所縁であったことに暗澹とした思いである。

こういったことどもを勘案すると、安倍氏の葬儀は国葬にはふさわしくなく、吉田氏以外の歴代の首相経験者がそうであったように「内閣と自民党との合同葬」レベルがふさわしかったと思う。

岸田首相が国葬を早い段階で決めたのは、安倍氏の死が非業の死(暗殺)によるものであったことと、これに対して各国から外交通で諸外国に知己の多かった安倍氏に対しての弔意が大量に寄せられたからだろう。気持ちは分からないでもないが、勇み足だったという他ない。

定住は九州から始まった!

2022-09-26 21:04:52 | 鹿児島古代史の謎
今年の何月の放送かは分からないのだが、NHKの『歴史探偵』という番組では「縄文時代の定住は1万年以上前から確認できる」という趣旨で放映していた。

それを今日、NHKオンデマンドで視聴したのだが、鹿児島県霧島市上野原遺跡の縄文時代早期の多様な出土品や定住跡については触れられずに終わっていた。

代わりに番組では同じ鹿児島県の種子島にある「三角山遺跡」を紹介していた。

三角山遺跡は上野原遺跡よりさらに古い13000年前の遺跡で、そこからは二基の定住跡が検出され、「隆帯文土器」という縄文時代草創期の指標土器が発掘された。

上野原遺跡が10500年前の定住跡を示しているのは前のブログで紹介したが、この三角山遺跡はそれより2500年も前のもので、そこに定住跡が検出されたのだから、定住はまず種子島で始まったことに異論はない。

ただし、二基の竪穴住居跡の大きさは直径が2mほどの円形で、上野原遺跡のが4mなのに比べると床面積では4分の1でしかない。しかも上野原遺跡では4m×4mの住居跡が全部で52基も発掘されているのだ。

もちろん定住の最初の姿は種子島の三角山遺跡の方にあるので、定住の始まりを告げるのは三角山遺跡だが、上野原遺跡の出土品の多種多様性は群を抜いている。しかし三角山より2500年も後なので、定住の最初期には該当しないと考えられ、取り上げることはなかったのだろう。

ところが南九州の縄文草創期から早期の文化が壊滅したのは、海底火山の噴火によるものだという説明がなされ、その噴火の様子を描いた絵(おそらく上野原縄文の森で放映されているミニシアターからの切り取り)が取り上げられていた。


「海底火山噴火」とタイトルにあるが、これは正式には「鬼界カルデラ噴火」で、薩摩半島から60キロほど南の海上にある薩摩硫黄島を外輪山とする有史以来最大という海中カルデラ噴火である。その瞬間を上野原の縄文早期人が呆然と眺めている映像がこれで、上野原人の定住地は火山灰や火山礫で完全に埋もれてしまった。7300年前のことである。
(※画像が上野原遺跡の定住地跡であることは、4m×4mの独特の竪穴式住居がいくつも立ち並んでいることで分かる。)

せっかくこの映像を紹介したのだから、上野原遺跡にも触れて良さそうなのだが、それはなかったのは返す返すも残念なことである。

思うに上野原遺跡の縄文早期10500年前の大集落はもとより、縄文早期出土土器の「円筒形・平底・薄手・貝殻文」というデザインが余りにも他の縄文土器とは似ても似つかない。また縄文早期の壺がツインで出土したりと、縄文早期時代の常識を覆すことばかりなので、考古学者の手に余るか手を焼くか、そんな塩梅なのだろう。(※オーパーツ的な扱いなのかもしれない。説明のしようがない遺物というわけだ。)

もっともこの放映の今回の眼目は、コクゾウムシであった。コクゾウムシが種子島出土の「隆帯文土器」の胎土に練り込まれていることが分かり、13000年の当時にコクゾウムシがいたというこれまた常識外れの発見があったという。

コクゾウムシは普通はコメを食べる害虫として、弥生時代にコメの生産が盛んになってからの出現と見做されていたから驚きであった。

だが1万年前の遺跡にみられるからと言って、当時コメが作られていたわけではなく、おそらくドングリのようなデンプンの多い堅果類を食害していたのだろうということであった。そのことは同時に人々の定住を示唆しており、九州の数々の遺跡で見られることから、定住は九州で始まったと考えられるという説である。

13000年前の三角山遺跡の土器にコクゾウムシの圧痕があったので、種子島ではその当時に既に人々は定住していたわけで、その点だけを考えれば上野原の定住集落跡についてはあえて言及しないでよいことになる。

何にしても、鬼界カルデラ噴出以前の南九州の先進性は他に類を見ないことは間違いない。

1万年前の定住跡(復元)

2022-09-25 22:59:39 | おおすみの風景
少し前になるが、鹿児島と宮崎で共通の縄文時代早期の遺跡群のうち霧島市(旧国分市)上の段にある「上野原遺跡」にかかわる年代観が1000年繰り上がったと発表された。

9月17日から11月23日まで「上野原縄文の森」の展示場で「開館20周年記念企画展・南の縄文文化」というタイトルで記念展が催されているので訪ねてみた。

これまでは南九州を広く覆う「鬼界カルデラ」の大噴火による堆積物(アカホヤ火山灰)は6400年前とされていたのだが、この噴出は7300年前に、また上野原遺跡で発掘された世界に類のないツインの「縄文の壺」は7500年前から8500年前に繰り上げられた。そして平底の貝殻文土器群は10500年前になった。

しかしこういった「遺物」は人の手で動かすことができるので、この世にも珍しい縄文の壺は実はもっと新しい作品で、誰かが縄文時代の地層に故意に埋めた可能性が排除できない。だが、「住居跡」という「遺構」は表土からはるかに深い地層に刻まれているので後世に故意に刻むことは不可能で、そのため住居跡は土器や壺を作った人々がその時代に住んでいた動かぬ証拠である。

上野原遺跡ではかつてはこれら住居跡が50軒ほども見つかっており、また「集石遺構」や「連穴土坑」などの調理施設も住居跡と同じ地層に発見されている。この地層年代は今から10500年前で、この時代の住居跡と人々の生活の痕跡は世界で最も古い。


(縄文の森発行のパンフレットから転写)
上野原遺跡の一角に復元された「竪穴式住居」。高さは4m位で、直径も4m。屋根と壁は萱類を乾燥させた材料で作られ、壁の厚さは40センチほどある。入口から入った内部の三和土(床)は入口より50センチほど低くなっている。言うならば「半地下式」である。このような住居が10500年前に同時に30軒は存在したらしい。当時でいえば大きな集落であった。

このレベルの住居跡を伴う遺跡は世界でも最古かつ最大級であり、同時に作成された薄手平底の土器群とともに世界文化遺産になっておかしくない。

10月22日(土)には、霧島市のシビックセンターで、かつて県の埋蔵文化財センター勤務中にこの上野原遺跡の発掘に直接かかわった人が講演するというので、参加の申し込みをしておいた。

講演者に上野原遺跡を中心とする鹿児島・宮崎における早期縄文時代遺跡群の世界文化遺産登録に関し、その可否を問うてみたいと思っている。


彼岸花(秋分の日)

2022-09-23 19:59:09 | おおすみの風景
今日は秋分の日。昼間と夜の長さがほぼ同じになる日で、この日を境に昼間の長さが短くなっていく。

秋分の日は「秋の彼岸の中日(ちゅうにち)」とも呼ばれ、9月20日から始まった秋の彼岸の中日(なかび)になる。

彼岸の時期に、時を違えず咲くのが「彼岸花」だ。

我が家の庭にも何本かの彼岸花があり、またクリーム色の彼岸花の一種「リコリス」も咲いた。

昔から彼岸花は救荒食物とされ、田んぼの畔に植えておいて、もし冷害などの災害で米が凶作になった時の代用食になったと聞く。(※同じ鹿児島の離島である奄美大島などでは、救荒食物はソテツの実だったという。)

地元放送局のテレビ番組を観ていたら、青森県鶴田町(つるたまち)で彼岸花の満開に近い様子が放映された。

何で北のはずれの鶴田町で彼岸花が?――と一瞬思ったのだが、テレビの解説によると鹿児島県の鶴田町(つるだちょう)とは姉妹町の提携を結んでおり、かつて交流の盛んだった時に、鹿児島の鶴田町から青森の鶴田町に彼岸花の球根が多数送られたらしいのだ。(※鹿児島県鶴田町は近隣の宮之城町・薩摩町と合併して薩摩郡「さつま町」になり、今は地区名として残るばかりである。)

その縁で青森県の鶴田町では、とある公園に彼岸花の球根が植えられ、毎年この時期になると満開を迎えるそうである。

だが、そう聞いてすぐに疑問に思ったのが、彼岸花は鹿児島県では間違いなく秋の彼岸の時期に判を押したように満開になるが、気候の冷涼な青森県ではもっと遅れるのではないかと思ったのだ。


青森県鶴田町の彼岸花はいま満開である。(※テレビ画面からの映像なのでピントが合っていない!)

一方で、我が家の属する鹿屋市大姶良地区で密生して咲いていたのは次の様子だ。


田んぼの畔に植えられた彼岸花。ここ大姶良地区でもいま彼岸花は満開だ。

年間平均気温では鹿屋市の大姶良地区より本州最北の青森県鶴田町の方がおそらく10度近くは低いと思われるのに、彼岸花は当地と彼の地の区別なく一斉に満開になっている。不思議と言えば不思議、不可解と言えば不可解なこの現象をどう見たらよいのか。

もともと彼岸花は当地では「秋の彼岸になったら必ず咲く花」として重宝(?)がられている。秋彼岸のシーズンを教えてくれる花だからである。

青森県の鶴田町でも同じ現象がみられるのならば、近い将来、全国的に彼岸花が文字通り秋の彼岸のシンボルフラワーとなるのではないだろうか。